織田信時の人生   作:秋月 了

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ありがとう――秀吉と信時、最後の夜

 

 

 朝鮮との戦を終えて、さらに数年。

 

 豊臣秀吉は病に侵され、以前のように自ら政を動かすことが難しくなっていた。

 

 政は、五大老と五奉行によって執り行われるようになった。

 

 五大老。

 

 織田信時。

 

 徳川家康。

 

 毛利輝元。

 

 上杉景勝。

 

 宇喜多秀家。

 

 その傍らで五奉行が実務を支え、豊臣の天下は辛うじて形を保っていた。

 

 だが。

 

 天下が落ち着くほど。

 

 信時の周りから、古き時代を知る者たちが消えていった。

 

 柴田勝家は、ついに老衰で世を去った。

 

 森良成も、病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

 

 さらに。

 

 本能寺の変以後、織田家の医療を支え続けてきた曲直瀬道三もまた、この世を去った。

 

 信時は、道三の葬儀の後。

 

 しばらく墓前から動けなかった。

 

信時「道三殿」

 

信時「俺たちは、また一人」

 

信時「あなたに生かされた者を失いました」

 

 だが、道三が残したものは消えなかった。

 

 玄作を中心とした弟子たちが。

 

 医術も。

 

 薬の作り方も。

 

 病を早く見つけるための仕組みも。

 

 織田の医療部門を支え続けていた。

 

玄作「道三様の教えは、残っております」

 

信時「頼みます」

 

玄作「はい」

 

信時「これからも」

 

信時「誰かが助かる道を、残してください」

 

---

 

 そんなある夜。

 

 信時は伏せっている秀吉を訪ねた。

 

 大坂城の奥。

 

 かつて天下人が諸大名を集め、大声で笑っていた部屋は。

 

 今は灯りを落とされ、静かだった。

 

 ねねが、秀吉の傍らにいた。

 

ねね「秀吉様」

 

秀吉「……新六殿は、来たか」

 

ねね「はい」

 

 信時が部屋へ入る。

 

 秀吉は、ねねに支えられながら夜具から身を起こした。

 

信時「無理をしないでください」

 

秀吉「無理ではない」

 

秀吉「新六殿と話すのに、寝たままでは格好がつかぬ」

 

信時「俺たちの間で、そんなものは必要ありません」

 

秀吉「必要だ」

 

 秀吉は、少しだけ笑った。

 

秀吉「お前には、いつでも格好をつけたくなる」

 

 ねねは、二人を見て微笑んだ。

 

ねね「お話しください」

 

ねね「私は外におります」

 

秀吉「いや」

 

秀吉「ねねも、そこにいろ」

 

ねね「はい」

 

 信時は秀吉の近くへ座った。

 

 しばらく、二人は何も話さなかった。

 

 やがて秀吉が、小さく笑う。

 

秀吉「覚えているか」

 

秀吉「墨俣の夜を」

 

信時「忘れるわけがありません」

 

秀吉「お前は、あの時から妙に真面目だった」

 

信時「秀吉殿が、妙に軽かったんです」

 

秀吉「俺は働いていたぞ」

 

信時「俺も働いていました」

 

秀吉「だが俺の方が、褒められた」

 

信時「そうですね」

 

秀吉「悔しかったか」

 

信時「少し」

 

 秀吉は、声を殺して笑った。

 

秀吉「正直でいい」

 

信時「秀吉殿こそ」

 

信時「信長様に褒められると、子供みたいに喜んでいた」

 

秀吉「誰だって嬉しい」

 

信時「俺もです」

 

 その言葉に。

 

 秀吉の笑みが、少しだけ消えた。

 

秀吉「新六殿は」

 

秀吉「最後まで信長様を追っていたな」

 

信時「はい」

 

秀吉「俺もだ」

 

 秀吉は、天井を見上げた。

 

秀吉「信長様は怖かった」

 

秀吉「怖かったが」

 

秀吉「俺たちを、前へ進ませてくれた」

 

信時「そうですね」

 

秀吉「織田の天下は終わった」

 

信時「はい」

 

秀吉「だが、信長様の作った道は終わらなかった」

 

秀吉「お前が北を守り」

 

秀吉「俺が天下をまとめ」

 

秀吉「家康殿たちが、その後を支える」

 

秀吉「皆、信長様の道の上を歩いた」

 

 信時は、静かに頷いた。

 

信時「秀吉殿」

 

秀吉「何だ」

 

信時「あなたが天下を取ってよかったと思っています」

 

 秀吉が、目を見開く。

 

信時「戦を終わらせることはできた」

 

信時「長崎も変わった」

 

信時「売られた民も、帰ってきた」

 

信時「朝鮮の戦も……最後は終わらせることができた」

 

秀吉「最後は、新六殿が終わらせた」

 

信時「秀吉殿が、俺を信じてくれたからです」

 

秀吉「俺は」

 

 秀吉は、わずかに息を詰まらせた。

 

 ねねが背を支える。

 

ねね「秀吉様、もう」

 

秀吉「いや」

 

秀吉「もう少しだけだ」

 

 秀吉は信時を見た。

 

秀吉「俺は何度も間違えた」

 

信時「誰でも間違えます」

 

秀吉「新六殿は、俺を止めた」

 

信時「止めきれなかったことも多いです」

 

秀吉「それでも」

 

秀吉「お前がいたから、俺は一人ではなかった」

 

 信時は、言葉を失った。

 

 秀吉の目は、もう若い頃のように鋭くはなかった。

 

 だが。

 

 その奥には。

 

 美濃を走り回った男がいた。

 

 墨俣で泥にまみれた男がいた。

 

 信長の前で叱られ。

 

 褒められ。

 

 天下を夢見た男がいた。

 

秀吉「新六殿」

 

信時「はい」

 

秀吉「ありがとう」

 

 それは。

 

 主君が家臣へ下す言葉ではなかった。

 

 天下人が大名へ与える言葉でもなかった。

 

 同じ主君に仕え。

 

 同じ時代を走り抜け。

 

 何度も敵となり、また友へ戻った。

 

 親友へ向けた言葉だった。

 

信時「……こちらこそ」

 

信時「ありがとうございます、秀吉殿」

 

 秀吉は、小さく頷いた。

 

 そして疲れたように目を閉じる。

 

ねね「秀吉様」

 

秀吉「ねね」

 

ねね「はい」

 

秀吉「俺は」

 

秀吉「悪くない人生だったな」

 

 ねねは、涙をこらえながら笑った。

 

ねね「はい」

 

ねね「あなたらしい、賑やかな人生でした」

 

---

 

 信時は、その夜。

 

 秀吉の部屋を後にした。

 

 廊下へ出た時。

 

 信時は一度だけ振り返った。

 

 障子の向こうには。

 

 ねねが秀吉の手を握る影が見えた。

 

 それから間もなく。

 

 豊臣秀吉は、ねねに見守られながら、この世を去った。

 

 最後に残した言葉は。

 

 たった一つだった。

 

秀吉「ありがとう」

 

 天下人の死を聞いた日。

 

 大坂城には、多くの者が集まった。

 

 家康。

 

 輝元。

 

 景勝。

 

 秀家。

 

 五奉行。

 

 織田家の重臣たち。

 

 皆が、それぞれの形で頭を下げた。

 

 信時だけは。

 

 しばらく空を見上げていた。

 

 信長。

 

 信忠。

 

 勝家。

 

 良成。

 

 道三。

 

 そして秀吉。

 

 多くの者が。

 

 もうあの空の向こうにいる。

 

信時「秀吉殿」

 

 信時は、静かに呟いた。

 

信時「向こうで」

 

信時「信長様に、叱られないようにしてください」

 

 少しだけ。

 

 信時は笑った。

 

信時「でも」

 

信時「きっと褒められます」

 

信時「あなたも、よくやったと」

 

 大坂の空には。

 

 秋の風が吹いていた。

 

 戦国を終わらせた男は去った。

 

 そして残された者たちは。

 

 次の時代を守るために。

 

 新たな歩みを始めようとしていた。

 

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