豊臣秀吉が亡くなった後。
天下の政は、大きく揺れ始めた。
五大老と五奉行による政の形は残っていたが。
実際に大きな力を持つのは、徳川家康と織田左近衛権中将信時だった。
家康は東国を。
信時は北陸と織田家を。
それぞれ背負っている。
そして。
豊臣恩顧の将たちと、五奉行筆頭である石田三成の間には。
長く積もった不満が、火種のように残されていた。
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加藤清正。
福島正則。
黒田長政。
浅野幸長。
細川忠興。
加藤嘉明。
脇坂安治。
そして、織田時継。
八人は皆。
三成の細かな訴えや告げ口によって、幾度も立場を悪くしてきた者たちだった。
だが。
時継の怒りだけは、他の者とは比べものにならなかった。
かつて。
時継の母、市は、大坂城下の屋敷で人質同然の暮らしを強いられていた。
そこへ秀吉が訪れ。
市へ手を出そうとした。
市は迷わず秀吉を殴り飛ばし、屋敷から追い出した。
だが三成は。
秀吉が何をしたかを調べもせず。
市が秀吉を殴ったという一点だけを取り上げ。
市を裁き、斬首にしようとした。
結果として。
秀吉と信時によって、その裁きは取り消された。
市の命も守られた。
だが時継にとって。
母を殺されかけた記憶は、決して消えなかった。
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そしてある夜。
三成憎しの思いを抱えた八人が。
三成を襲うため動いた。
その報を聞いた三成は。
真っ先に織田屋敷へ逃げ込んだ。
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織田屋敷、座敷。
信時は静かに座っていた。
その前に、三成が平伏している。
三成「織田殿」
信時「何ですか、三成殿」
三成「助けていただきたい」
信時「理由は」
三成「加藤清正、福島正則、黒田長政らが」
三成「私を討とうとしております」
信時「そうでしょうね」
三成は、わずかに顔を上げた。
三成「……織田殿」
信時「彼らの恨みは、急に生まれたものではありません」
信時「三成殿が自ら積み上げたものです」
三成「それでも」
信時「それでも?」
三成「ここで私が死ねば」
三成「織田殿の立場も悪くなります」
三成「五大老の一人が、私怨で奉行を見殺しにしたとなれば」
三成「豊臣の政は割れます」
三成「天下も乱れます」
三成は、強い声で言った。
三成「ですから織田殿には」
三成「豊臣のために、私を匿っていただきたい」
信時は、しばらく黙っていた。
やがて。
ゆっくりと息を吐く。
信時「よく」
三成の肩がわずかに動く。
信時「よく俺のもとへ来られましたね」
三成「……」
信時「朝鮮で俺を罠にはめたこと」
信時「覚えていませんか」
三成「それは」
信時「市を殺そうとしたことは」
信時「覚えていますか」
三成「私は、秀吉様への暴行を」
信時「調べもせずに裁いた」
三成は、言葉を失った。
信時「市がなぜ秀吉殿を殴ったのか」
信時「なぜ一度でも確かめなかった」
信時「誰の証言を聞いた」
信時「何を見た」
三成「……」
信時「あなたは、人を帳面の上の数と同じように扱う」
信時「都合が悪ければ切り捨て」
信時「都合がよければ、正しさの名で踏みつける」
三成は、顔を伏せた。
信時は、視線を外した。
信時「それでも」
信時「ここであなたを殺させれば」
信時「また豊臣の政が割れる」
信時「秀吉殿が残したものを、血で汚すことになる」
三成は、息を止めた。
信時「隣の部屋にいなさい」
三成「織田殿」
信時「出てこないでください」
信時「今のあなたが言葉を出せば、余計に燃えます」
三成「……承知しました」
三成は、深く頭を下げた。
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ほどなくして。
織田屋敷の門を、荒々しい足音が踏み鳴らした。
座敷へ入ってきたのは、八人の武将だった。
清正「中将様!」
正則「三成を渡していただきたい!」
長政「今夜だけは、見逃せませぬ!」
時継もまた、最後に姿を現した。
その眼には、抑えきれぬ怒りがあった。
時継「父上」
信時「時継」
時継「三成は、この屋敷にいるのですか」
信時「いる」
八人の空気が、一気に張り詰めた。
正則「ならば引き渡してください、中将様」
清正「俺たちは、三成を野放しにするつもりはない」
長政「秀吉様がお隠れになった今」
長政「三成の好きにさせれば、豊臣は内から壊れます」
忠興「三成は、人の働きを軽く見すぎた」
嘉明「戦った者を、帳面の上で裁く」
安治「それで皆が黙ると思っている」
幸長「もはや、我慢の限界です」
時継は、一歩前へ出た。
時継「父上」
時継「母上を殺そうとした男です」
時継「秀吉様に何をされたかも調べず」
時継「ただ母上が殴ったというだけで」
時継「首を刎ねようとした」
時継「俺は、忘れていません」
信時は、息子を見た。
信時「俺も忘れていない」
時継「なら」
信時「だが、今ここで斬れば」
信時「お前たちの怒りは晴れても」
信時「豊臣は割れる」
時継「……」
信時「秀吉殿が死んで間もない」
信時「今、家康殿と俺が争いを抑えねば」
信時「天下はまた戦の時代へ戻る」
正則「中将様」
信時「正則殿」
正則「俺たちの言い分が、間違っているとは思いませんか」
信時「思いません」
八人が、わずかに目を見開いた。
信時「三成殿は、人との縁を軽く扱いすぎた」
信時「人を追い詰めることを、政だと思っている」
信時「あなたたちが怒るのは当然です」
清正「では」
信時「ですが、三成殿の扱いは」
信時「五大老で決めます」
長政「中将様」
信時「今は、武器を収めてください」
信時「ここで血を流せば」
信時「最後に笑うのは、豊臣を割りたい者たちです」
しばらく。
誰も言葉を出さなかった。
その時。
正則が、ふと信時の手を見た。
正則「中将様」
信時「何ですか」
正則「手が」
信時の右手から、血が落ちていた。
先ほどから握り締めていた拳。
爪が掌へ深く食い込み、血が滲んでいる。
信時は、自分でも気づいていなかったように手を見る。
時継「父上」
時継の声が、小さく震えた。
八人は理解した。
信時もまた、怒っている。
三成を許したわけではない。
母・市を失いかけたことも。
朝鮮で嵌められたことも。
すべてを覚えた上で。
豊臣を割らぬために、歯を食いしばっている。
清正「……分かりました」
正則「中将様が、そこまで言われるなら」
長政「今夜は退きます」
時継「父上」
信時「時継」
時継「俺も、引きます」
信時「ありがとう」
時継は、しばらく父の血に濡れた手を見ていた。
そして深く頭を下げる。
時継「ですが」
時継「三成を許すつもりはありません」
信時「それでいい」
時継「ただ」
時継「父上が守ろうとするものを、俺は壊しません」
八人は、ゆっくりと屋敷を去っていった。
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静かになった座敷へ。
三成が戻ってきた。
三成「織田殿」
信時「座りなさい」
三成「……はい」
信時「自分が何をしてきたか」
信時「よく考えなさい」
三成「私は、豊臣のために」
信時「またそれですか」
三成は、口を閉じた。
信時「豊臣のためと言えば」
信時「誰を傷つけてもいいわけではない」
信時「人との縁を軽く見る者は」
信時「いずれ誰にも手を伸ばしてもらえなくなる」
三成「……」
信時「あなたは今夜」
信時「俺の屋敷へ逃げ込んだ」
信時「それを忘れないでください」
三成「織田殿」
信時「下がりなさい」
三成「……承知しました」
三成は深く頭を下げ、隣室へ戻っていった。
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一人になった信時は。
血に濡れた自分の手を見た。
掌の傷は小さい。
だが。
胸の奥に残る疲れは、簡単には消えなかった。
信時は縁側へ出る。
夜空を見上げた。
信時「信長様も」
風が、庭の木々を揺らす。
信時「秀吉殿も」
信時「厄介なものを残していかれる」
返事はない。
ただ。
遠くで、夜番の足音が聞こえる。
信時は、ゆっくりと傷口を布で包んだ。
そして。
再び座敷へ戻った。
天下を守るため。
残された厄介な火種を。
今夜もまた、自分の手で抱えるために。