織田信時の人生   作:秋月 了

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黒田の恥――官兵衛、息子を叱る

 

 

 翌日。

 

 織田屋敷には、黒田官兵衛と、その妻・光が訪れていた。

 

 信時から呼び出しを受けたためである。

 

 応接の座敷へ通された官兵衛は、信時の前に座るなり、深く頭を下げた。

 

官兵衛「織田殿」

 

信時「官兵衛殿」

 

官兵衛「まずは、長政の件」

 

官兵衛「軍勢を伴い、この屋敷へ押しかけたこと」

 

官兵衛「親として、お詫び申し上げます」

 

光「私からも、お詫びいたします」

 

 光も、夫と並んで頭を下げた。

 

 信時は、二人を見て静かに答えた。

 

信時「長政殿たちの怒りは、分かります」

 

信時「行き過ぎではありましたが」

 

信時「それだけのことを、三成殿は積み重ねてきた」

 

官兵衛「そうですな」

 

信時「五大老で沙汰は決めました」

 

信時「長政殿には三日の謹慎」

 

信時「三成殿には佐和山での蟄居を命じています」

 

官兵衛「承知しております」

 

信時「それで」

 

 信時は、一度言葉を切った。

 

信時「今日、お二人を呼んだ理由ですが」

 

官兵衛「はい」

 

 信時は立ち上がり、座敷の横にある襖へ歩いた。

 

 襖の前で一度だけ振り返る。

 

信時「驚かないでください」

 

 そして襖を開けた。

 

 その向こう。

 

 布団の上に、一人の少年が座っていた。

 

 顔色はまだ白い。

 

 身体も細い。

 

 だが。

 

 間違いなく黒田官兵衛と光の子だった。

 

熊之助「……父上」

 

 官兵衛の呼吸が止まった。

 

光「……熊之助」

 

 光は、しばらく動けなかった。

 

 それから、堰を切ったように駆け寄る。

 

光「熊之助!」

 

熊之助「母上」

 

 光は息子を強く抱きしめた。

 

光「生きていたのね」

 

光「生きて……帰ってきてくれたのね」

 

熊之助「母上、ごめんなさい」

 

光「何も言わなくていい」

 

光「今は、何も言わなくていいから」

 

 熊之助の目から、涙が落ちた。

 

 官兵衛は、まだ座ったまま動けなかった。

 

 数年前。

 

 勝手に黒田家を飛び出し。

 

 朝鮮へ渡ろうとして。

 

 嵐で船が転覆した。

 

 共にいた者たちも含め、皆が死んだと思われていた息子が。

 

 今、目の前にいる。

 

官兵衛「……熊之助」

 

熊之助「父上」

 

官兵衛「本当に」

 

官兵衛「お前なのか」

 

熊之助「はい」

 

 その答えを聞いて。

 

 官兵衛は、ようやく立ち上がった。

 

 だが、すぐには近づけなかった。

 

 信時は二人の様子を見守った後、低い声で経緯を語り始めた。

 

信時「熊之助殿が助かったのは」

 

信時「共に船へ乗っていた、三人の子供たちのおかげです」

 

 光が、抱きしめる腕を少しだけ緩めた。

 

 熊之助は、顔を伏せる。

 

信時「船が転覆した後」

 

信時「熊之助殿は海へ投げ出された」

 

信時「三人は熊之助殿を見つけ」

 

信時「嵐の中で、近くを通った船まで泳いだそうです」

 

信時「熊之助殿を船員へ渡して」

 

信時「そこで力尽きた」

 

光「……そんな」

 

信時「熊之助殿は海水を多く飲み、ひどく衰弱していました」

 

信時「長く意識も戻らなかった」

 

信時「身元が確認できたのも、つい最近です」

 

 信時は、深く頭を下げた。

 

信時「お知らせが遅れたこと」

 

信時「申し訳ありません」

 

官兵衛「織田殿が謝ることではありません」

 

光「本当に」

 

光「生きていてくれただけで」

 

光「それだけで、十分です」

 

 だが熊之助は。

 

 母の腕の中で、声を殺して泣いていた。

 

 官兵衛は、その姿を長く見つめていた。

 

 やがて、静かに問う。

 

官兵衛「熊之助」

 

熊之助「はい」

 

官兵衛「なぜ、あんなことをした」

 

 熊之助は答えなかった。

 

 官兵衛の声は怒鳴ってはいない。

 

 だからこそ、逃げ場がなかった。

 

官兵衛「勝手に家を出た」

 

官兵衛「朝鮮へ渡ろうとした」

 

官兵衛「お前は、何をしたかった」

 

 熊之助は、ちらりと信時を見た。

 

 その視線に。

 

 信時はすぐ気づいた。

 

熊之助「……軍神様のように」

 

熊之助「信時様のようになりたかった」

 

 官兵衛の胸の奥で、怒りが湧き上がった。

 

 息子を失ったと思った年月。

 

 光が流してきた涙。

 

 そして。

 

 三人の子供が命を落としたという事実。

 

 官兵衛の手が、わずかに上がる。

 

 だが。

 

 その前に。

 

 信時の拳が、熊之助の頬を打った。

 

 熊之助は布団の上へ倒れ込む。

 

光「信時様!」

 

官兵衛「織田殿」

 

 信時は、怒鳴らなかった。

 

 だが、その声には戦場よりも重い怒りがあった。

 

信時「戦を知らん餓鬼が」

 

信時「軽々しく俺を語るな」

 

熊之助「……」

 

信時「軍神になりたいだと」

 

信時「格好いい戦が、どこにある」

 

信時「俺が見てきた戦には」

 

信時「飢えて死ぬ兵がいた」

 

信時「家へ帰れず、子供の名を呼んで死ぬ者がいた」

 

信時「勝っても、守れなかった者がいた」

 

 熊之助は、頬を押さえたまま動けなかった。

 

信時「お前は」

 

信時「自分の我儘で、三人の命を奪った」

 

熊之助「……っ」

 

信時「お前が殺したんだ」

 

信時「自分だけが何かになりたいと願って」

 

信時「お前を助けた子たちを、死なせた」

 

信時「そのことを」

 

信時「一生、忘れるな」

 

 熊之助の涙が、畳へ落ちる。

 

熊之助「……はい」

 

信時「憧れなどという軽い言葉で」

 

信時「戦を語るな」

 

信時「生き残ったなら」

 

信時「お前のために死んだ三人の分まで」

 

信時「生きて、償え」

 

熊之助「はい」

 

熊之助「俺は」

 

熊之助「忘れません」

 

熊之助「絶対に、忘れません」

 

 信時は、拳をゆっくりと下ろした。

 

 官兵衛は、その姿を見ていた。

 

 怒りは当然だった。

 

 むしろ。

 

 熊之助が憧れていた信時から言われたからこそ。

 

 その言葉は、自分や光が叱るより深く息子へ残るだろう。

 

 光もまた、涙を拭いながら頷いていた。

 

光「熊之助」

 

熊之助「母上」

 

光「あなたは、生きて帰ってきた」

 

光「だから、これから生きなさい」

 

光「亡くなった子たちを忘れずに」

 

光「人の命を軽く扱わない人になりなさい」

 

熊之助「……はい」

 

---

 

 しばらく後。

 

 官兵衛と光、熊之助は織田屋敷を後にした。

 

 屋敷の門を出たところで。

 

 官兵衛は足を止めた。

 

 熊之助は、父の背を見つめる。

 

官兵衛「熊之助」

 

熊之助「はい」

 

官兵衛「お前は」

 

 官兵衛の声は、低く静かだった。

 

官兵衛「黒田の恥だ」

 

 熊之助の身体が、震えた。

 

 光も、何も言わなかった。

 

 官兵衛は前を見たまま続ける。

 

官兵衛「黒田の名を背負う者が」

 

官兵衛「己の憧れと我儘で家を飛び出し」

 

官兵衛「他人の命を背負わせた」

 

官兵衛「それを恥と思えぬなら」

 

官兵衛「お前に黒田を名乗る資格はない」

 

熊之助「……はい」

 

官兵衛「だが」

 

 熊之助が、ゆっくり顔を上げる。

 

官兵衛「死ねとは言わん」

 

官兵衛「生きろ」

 

官兵衛「恥を背負って」

 

官兵衛「それでも黒田の者として、生きろ」

 

熊之助「はい」

 

熊之助「生きます」

 

熊之助「俺を助けて死んだ三人のためにも」

 

熊之助「父上と母上のためにも」

 

熊之助「生きて、償います」

 

 官兵衛は頷いた。

 

 だが。

 

 その胸の中では、遠い記憶が蘇っていた。

 

 幼馴染であり。

 

 初恋の相手でもあった少女を失った日。

 

 怒りのまま主家を巻き込もうとした、未熟な自分。

 

 そして戦場で窮地の味方を救い出し。

 

 主君に褒められたことで。

 

 知らぬ間に傲慢になっていた自分。

 

 そんな自分へ。

 

 父・職隆が告げた言葉。

 

職隆「お前は黒田の恥だ」

 

 その時は。

 

 ただ悔しかった。

 

 なぜ父が、自分をそこまで責めるのか分からなかった。

 

 だが今。

 

 自分が父となって。

 

 同じ言葉を息子へ向けた。

 

官兵衛「父上」

 

 官兵衛は、心の中で亡き父へ問いかける。

 

官兵衛「あなたも」

 

官兵衛「こんな気持ちだったのですか」

 

 返事はない。

 

 ただ。

 

 隣で光が、熊之助の手を握った。

 

 熊之助は俯きながらも。

 

 その手を、強く握り返した。

 

 官兵衛は再び歩き出す。

 

 黒田の恥と呼ばれた少年が。

 

 いつか黒田を支える者となるのか。

 

 それはまだ分からない。

 

 だが。

 

 少なくとも今日。

 

 熊之助は初めて。

 

 命の重さを知ったのだった。

 

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