織田信時の人生   作:秋月 了

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北辰の槍――信時、蝦夷地を平らげる

 

 天下は、徳川家康のもとへまとまった。

 

 家康は征夷大将軍に任じられ。

 

 江戸に幕府を開いた。

 

 戦国の世を終わらせた徳川は、東国を中心に新たな政を築き始めていた。

 

 一方。

 

 織田信時と、その家臣団は。

 

 遠く北の大地へ渡っていた。

 

 蝦夷地。

 

 冬には大地が雪に閉ざされ。

 

 海には冷たい風が吹き荒れる土地。

 

 だが信時は。

 

 この地を、戦によって奪おうとはしなかった。

 

---

 

 蝦夷地へ上陸した信時は。

 

 まず蠣崎氏と会談した。

 

 蠣崎氏は長く蝦夷地南部を治め。

 

 和人とアイヌの交易を取り仕切ってきた一族である。

 

蠣崎当主「織田中将様」

 

蠣崎当主「我らに、何をお求めでしょうか」

 

信時「蝦夷地を治めるための力を貸していただきたい」

 

蠣崎当主「我らを滅ぼすおつもりではないのですか」

 

信時「そのつもりなら」

 

信時「これほど時間をかけて話し合いには来ません」

 

 信時は、蝦夷地の地図を広げた。

 

信時「蠣崎家には、この地を知る者がいる」

 

信時「海を知り」

 

信時「冬を知り」

 

信時「アイヌの方々との関わりも知っている」

 

信時「その知識を失う方が、織田にとって損です」

 

蠣崎当主「では」

 

信時「織田の家臣となってください」

 

信時「今までの領地と役目は、可能な限り認めます」

 

信時「ただし」

 

信時「不当な交易と、力による略奪は禁じます」

 

 蠣崎当主は、長い沈黙の後に頭を下げた。

 

蠣崎当主「承知いたしました」

 

蠣崎当主「蠣崎家、織田家へお仕えいたします」

 

---

 

 信時は、蝦夷地南部の函館に新たな城を築かせた。

 

 名を。

 

 五稜郭城。

 

 五つの角を持つ星形の総構え。

 

 城壁は大筒や鉄砲による攻撃を想定し。

 

 死角が少なくなるよう、半兵衛と孫一が設計を重ねた。

 

幸村「大殿」

 

信時「どうした」

 

幸村「上から見ると、まるで星ですな」

 

半兵衛「敵がどこから来ても、隣の角から援護できる構えです」

 

孫一「大筒を置けば、海から来る船にも対応できる」

 

信時「だが、ここは戦のためだけの城ではない」

 

 信時は建築中の城下を見渡した。

 

信時「港を造る」

 

信時「市場も」

 

信時「診療所も」

 

信時「アイヌの者たちが、自由に出入りできる場所も必要だ」

 

時継「織田の者だけの城にはしないのですね」

 

信時「ああ」

 

信時「この地に住む者すべての拠点にする」

 

 五稜郭城を中心として。

 

 織田家は蝦夷地各地に使節を送った。

 

 彼らが携えていたのは。

 

 武器ではなく。

 

 米。

 

 塩。

 

 鉄器。

 

 薬。

 

 織物。

 

 そして、公正な交易を約束する書状だった。

 

---

 

 信時は、自らアイヌの集落を訪れた。

 

 アイヌの者たちが守ってきた言葉。

 

 祭祀。

 

 衣服。

 

 狩猟。

 

 川や山との関わり。

 

 信時は、それらを否定しなかった。

 

 むしろ。

 

 織田の者たちへ、尊重するよう厳しく命じた。

 

信時「聞け」

 

信時「この地には、この地の生き方がある」

 

信時「我らのやり方だけが正しいと思うな」

 

織田家臣「はっ」

 

信時「言葉を奪うな」

 

信時「祭りを禁じるな」

 

信時「名を捨てさせるな」

 

信時「助けることと、作り変えることを混同するな」

 

 その上で。

 

 織田家は生活を改善するための技術を提供した。

 

 寒さを防ぐ家屋。

 

 病を治療する診療所。

 

 鉄製の農具。

 

 保存食の作り方。

 

 冬でも物資を運べる道。

 

 不作に備える共同の蔵。

 

 玄作を中心とする医師たちは。

 

 アイヌの薬草の知識を学びながら、織田の医術を伝えた。

 

玄作「この草は、熱を下げるのですか」

 

アイヌの薬師「そうだ」

 

アイヌの薬師「山の神から授かった薬だ」

 

玄作「では、我らの薬と合わせて試しましょう」

 

 織田が一方的に教えるのではない。

 

 互いに教え合う。

 

 その姿勢が。

 

 アイヌの者たちの心を少しずつ動かしていった。

 

---

 

 やがて。

 

 一人の若い族長が、五稜郭城を訪れた。

 

 名を、シャムセイン。

 

 若くして一つの大きな集落を率いる青年だった。

 

シャムセイン「織田信時」

 

信時「信時で構いません」

 

シャムセイン「なら、信時」

 

シャムセイン「お前は、我らを和人に変えるつもりはないのか」

 

信時「ありません」

 

シャムセイン「なぜだ」

 

信時「あなたたちは、すでにこの地で生きている」

 

信時「無理に別の者へ変える必要はないでしょう」

 

シャムセイン「だが、お前は蝦夷地を支配する」

 

信時「はい」

 

信時「争いを止め」

 

信時「交易を整え」

 

信時「外敵から守るために」

 

信時「最後に責任を負う者は必要です」

 

シャムセイン「我らは従うだけか」

 

信時「いいえ」

 

信時「あなたに、織田家へ入っていただきたい」

 

 シャムセインは目を細めた。

 

シャムセイン「俺に何をさせる」

 

信時「我らの間違いを教えてください」

 

シャムセイン「間違いを」

 

信時「アイヌの文化と生き方を知らぬ者が」

 

信時「善意だけで踏みにじることもある」

 

信時「それを止めてほしい」

 

シャムセイン「お前に逆らってもよいのか」

 

信時「理由があるなら」

 

信時「俺が間違っていれば、遠慮なく言ってください」

 

 シャムセインは信時を見つめた。

 

 やがて、膝をつく。

 

シャムセイン「分かった」

 

シャムセイン「俺は織田に入る」

 

シャムセイン「だが、アイヌを捨てはしない」

 

信時「捨てる必要はありません」

 

シャムセイン「我らの言葉と文化を守る」

 

信時「それを、あなたの役目とします」

 

 こうしてシャムセインは。

 

 織田家臣となった。

 

 アイヌの族長たちとの交渉役。

 

 そして織田家へ、アイヌの文化と掟を伝える役目を与えられた。

 

---

 

 だが。

 

 蝦夷地の統治が進むにつれ。

 

 北方から、重大な知らせが届いた。

 

 現在の旭川にあたる地域。

 

 そのわずか一里ほど北まで。

 

 異国の軍勢が進出していた。

 

 ロシア。

 

 海の向こうから来た者たちは。

 

 砦を築き。

 

 毛皮や土地を求め。

 

 周辺に住むアイヌの者たちへ服従を迫っていた。

 

 北方の族長から。

 

 信時のもとへ救援を求める使者が訪れた。

 

北方の使者「織田の王よ」

 

信時「俺は王ではありません」

 

北方の使者「ならば、信時よ」

 

北方の使者「北の同胞を助けてほしい」

 

北方の使者「異国の者たちが」

 

北方の使者「我らの土地を奪い」

 

北方の使者「従わぬ者を捕らえている」

 

 信時は、シャムセインを見る。

 

シャムセイン「嘘ではない」

 

シャムセイン「北から逃げてきた者を、俺も見た」

 

シャムセイン「助けてくれ」

 

 信時はすぐに立ち上がった。

 

信時「江戸へ向かう」

 

時継「父上」

 

信時「内府殿に許可をいただく」

 

信時「これは領地を広げるための戦ではない」

 

信時「救援を求めた者を守るための戦だ」

 

---

 

 江戸城。

 

 信時は家康と面会した。

 

家康「ロシアが、すでに蝦夷地へ入っていると」

 

信時「はい」

 

家康「どれほどの軍勢じゃ」

 

信時「大軍ではありません」

 

信時「ですが放置すれば、さらに南へ進むでしょう」

 

家康「戦えば、異国との争いになる」

 

信時「承知しています」

 

家康「勝てるか」

 

信時「一月いただければ」

 

信時「蝦夷地から追い出します」

 

 家康は、思わず苦笑した。

 

家康「中将殿は、相変わらずじゃな」

 

信時「無謀でしょうか」

 

家康「いや」

 

家康「その言葉を疑えぬ自分が、恐ろしい」

 

 家康はしばらく考えた後。

 

 強く頷いた。

 

家康「許可する」

 

家康「蝦夷地を守れ」

 

家康「ただし、戦を長引かせるな」

 

信時「はっ」

 

家康「幕府からも船と兵糧を出そう」

 

信時「ありがとうございます」

 

家康「異国へ示せ」

 

家康「蝦夷地は、日の本の統治する地であると」

 

---

 

 信時はさらに上洛し。

 

 後陽成天皇へ拝謁した。

 

 信時は長年。

 

 朝廷へ莫大な献金を続けていた。

 

 その総額は。

 

 後世の価値へ換算すれば、数十兆円にも及ぶほどだった。

 

 だが後陽成天皇が信時を気に入った理由は。

 

 金だけではない。

 

 信時は天下が移り変わっても。

 

 朝廷を蔑ろにしなかった。

 

 信長の時代も。

 

 秀吉の時代も。

 

 そして徳川の時代となっても。

 

 朝廷を国の柱の一つとして尊重し続けた。

 

後陽成天皇「織田信時」

 

信時「はっ」

 

後陽成天皇「そなたが北の民を守るため」

 

後陽成天皇「異国の軍と戦うと聞いた」

 

信時「救いを求める者がおります」

 

信時「見捨てることはできません」

 

後陽成天皇「征夷大将軍とは別に」

 

後陽成天皇「北方を守る者が必要となろう」

 

 天皇は、傍らの公家へ合図した。

 

 運び込まれたのは。

 

 天皇家の紋と織田家の木瓜紋。

 

 二つが並んで描かれた新たな馬印だった。

 

後陽成天皇「本日より」

 

後陽成天皇「そなたを、蝦夷地鎮守府総督に任ずる」

 

信時「蝦夷地鎮守府総督」

 

後陽成天皇「北方の地と民を守り」

 

後陽成天皇「異国の侵入を防ぐ役目である」

 

 さらに。

 

 長い箱が信時の前へ置かれた。

 

 箱が開かれる。

 

 その中には。

 

 古びながらも、鋭い気配を失わぬ一本の槍が収められていた。

 

後陽成天皇「天授北辰・護国真槍」

 

 信時は、その名を心の中で繰り返した。

 

後陽成天皇「かつて坂上田村麻呂が」

 

後陽成天皇「征夷大将軍として東北へ向かった際に用いた槍と伝わる」

 

後陽成天皇「後に陰陽師・安倍晴明が」

 

後陽成天皇「妖や異人へ対抗するため、鍛え直した」

 

後陽成天皇「玉藻の前を討つ際にも用いられたという」

 

信時「玉藻の前」

 

後陽成天皇「その魂が」

 

後陽成天皇「今なお槍へ宿るとも伝わっておる」

 

 後陽成天皇は、わずかに笑った。

 

後陽成天皇「うまく使え」

 

後陽成天皇「期待している」

 

 信時は槍を両手で受け取った。

 

信時「この身と槍をもって」

 

信時「北方の民を守ることを、お誓い申し上げます」

 

---

 

 その夜。

 

 信時は奇妙な夢を見た。

 

 月明かりに照らされた、白い野原。

 

 その中央に。

 

 一人の女性が立っていた。

 

 長い金色の髪。

 

 頭には狐の耳。

 

 背には、幾本もの美しい尾が揺れている。

 

玉藻「やっと来ましたね」

 

信時「あなたが玉藻の前ですか」

 

玉藻「ええ」

 

玉藻「妾を縛った槍を手にした者が」

 

玉藻「どれほどの男かと思えば」

 

 玉藻は信時の周囲を歩く。

 

玉藻「欲がありませんね」

 

信時「そうでしょうか」

 

玉藻「天下を取れる力がありながら」

 

玉藻「北の果てへ逃げた」

 

信時「逃げたつもりはありません」

 

玉藻「では、なぜ天下を望まないのです」

 

信時「俺が天下を取れば」

 

信時「また争いが始まるからです」

 

玉藻「奇麗事を」

 

信時「奇麗事を現実にするために」

 

信時「長い間、戦ってきました」

 

 玉藻は微笑む。

 

玉藻「ならば試しましょう」

 

玉藻「そなたが本当に」

 

玉藻「人を守る器なのか」

 

 次の瞬間。

 

 夢の世界が炎に包まれた。

 

 信時の前に現れたのは。

 

 これまで失ってきた者たちだった。

 

 父。

 

 母。

 

 真柄。

 

 佐伯。

 

 信長。

 

 勝家。

 

 秀吉。

 

 彼らは信時へ問いかける。

 

信長「力があるなら、天下を奪え」

 

秀吉「家康から、すべてを取り戻せ」

 

勝家「織田の旧領を返させろ」

 

 だが信時は、首を横へ振った。

 

信時「それは皆の言葉ではない」

 

信時「俺の心に残る未練を」

 

信時「あなたが形にしているだけだ」

 

 玉藻の声が、空から響く。

 

玉藻「では、その未練を捨てられますか」

 

信時「捨てません」

 

玉藻「何ですって」

 

信時「未練も後悔も」

 

信時「俺が歩いてきた証です」

 

信時「背負ったまま前へ進みます」

 

 炎の中から。

 

 巨大な九尾の狐が現れた。

 

玉藻「ならば」

 

玉藻「妾を従えてみなさい!」

 

 信時は天授北辰・護国真槍を構えた。

 

 炎。

 

 雷。

 

 風。

 

 幾度も襲いかかる妖気を。

 

 信時は正面から受け止めた。

 

 長い戦いの末。

 

 信時の槍先が、九尾の額へ届く。

 

 だが信時は。

 

 槍を突き立てなかった。

 

玉藻「なぜ止めるのです」

 

信時「あなたは、俺を試しただけでしょう」

 

玉藻「妾は妖です」

 

信時「それでも」

 

信時「俺へ従う意思がある者を」

 

信時「殺す必要はありません」

 

 九尾の姿が消え。

 

 再び狐耳の女性が現れた。

 

 玉藻は呆れたように息を吐いた。

 

玉藻「まったく」

 

玉藻「甘くて、頑固で」

 

玉藻「腹立たしい殿方ですね」

 

信時「よく言われます」

 

 玉藻は、信時の前へ跪いた。

 

玉藻「試練は終わりです」

 

玉藻「妾、玉藻の前は」

 

玉藻「これより、そなたの槍と力となりましょう」

 

信時「配下になるということですか」

 

玉藻「不満ですか」

 

信時「扱いに困りそうだと思いまして」

 

玉藻「早くも無礼ですね」

 

 信時は小さく笑った。

 

信時「よろしくお願いします、玉藻殿」

 

玉藻「ええ」

 

玉藻「存分に使いなさい、我が主」

 

---

 

 翌朝。

 

 信時が目を覚ますと。

 

 天授北辰・護国真槍は、淡い光を放っていた。

 

 信時が柄を握った瞬間。

 

 槍へ炎が宿る。

 

 続いて。

 

 青白い雷が刃を走った。

 

幸村「大殿」

 

信時「幸村」

 

幸村「その槍の後ろに」

 

信時「後ろに?」

 

 幸村の目には。

 

 信時の背後へ寄り添う。

 

 狐の耳と尾を持つ女性の姿が見えていた。

 

玉藻「よい目をしていますね」

 

幸村「……今、何か申されましたか」

 

信時「俺には聞こえた」

 

幸村「では、本当に」

 

 信時は槍を見つめた。

 

信時「少々」

 

信時「厄介な方が増えたらしい」

 

玉藻「聞こえていますよ」

 

信時「分かっています」

 

 幸村は、信時が誰もいない空間と話す姿を見て。

 

 わずかに後ずさった。

 

幸村「大殿」

 

幸村「俺は何も見ていないことにしてもよろしいでしょうか」

 

信時「駄目だ」

 

幸村「やはりですか」

 

---

 

 織田軍は北進した。

 

 掲げるのは。

 

 天皇家の紋と織田木瓜が並ぶ馬印。

 

 蝦夷地鎮守府総督の旗。

 

 信時はアイヌの案内を受けながら。

 

 ロシア軍の砦を一つずつ攻めた。

 

 だが。

 

 無闇に殺すことはしなかった。

 

信時「降伏する者は生かせ!」

 

信時「武器を捨てた者へ攻撃するな!」

 

織田兵「はっ!」

 

 信時が槍を振るえば。

 

 炎が雪原を走った。

 

 敵の前を焼き。

 

 退路だけを塞ぐ。

 

 槍を天へ掲げれば。

 

 雷が落ち。

 

 ロシア軍の大砲と火薬庫だけを破壊した。

 

ロシア兵「悪魔だ!」

 

ロシア兵「東方の魔術師だ!」

 

 その背後に。

 

 幸村だけは見ていた。

 

 炎と雷を操り。

 

 楽しげに笑う玉藻の前を。

 

玉藻「ほら、右です」

 

信時「分かっています」

 

玉藻「少しは妾を頼りなさい」

 

信時「頼りすぎれば、俺の腕が鈍ります」

 

玉藻「本当に可愛げがありませんね」

 

 信時と織田軍は。

 

 わずか一月でロシア軍を北へ追い払った。

 

 捕らえられていたアイヌの者たちは解放され。

 

 奪われた土地も返された。

 

北方の族長「信時」

 

信時「はい」

 

北方の族長「我らを救ってくれた」

 

北方の族長「これより北の民も」

 

北方の族長「織田の支配を受け入れる」

 

信時「支配を受け入れるのではなく」

 

信時「ともに、この地を守ってください」

 

北方の族長「同じことではないのか」

 

シャムセイン「違う」

 

 シャムセインが答えた。

 

シャムセイン「この男は」

 

シャムセイン「我らを下に置きたいのではない」

 

シャムセイン「自分が一番重い責任を背負いたいだけだ」

 

信時「それは少し言い過ぎです」

 

シャムセイン「違うのか」

 

信時「……否定はしません」

 

 族長たちは笑い。

 

 次々と織田家への服属を申し出た。

 

---

 

 戦の後。

 

 信時はロシア側の統治者であるボリス・ゴドゥノフと会談した。

 

 信時は捕らえたロシア兵を返還し。

 

 さらに多額の金を支払った。

 

ボリス「我らを追い出した上で」

 

ボリス「捕虜と金を返すというのか」

 

信時「戦を続けるつもりはありません」

 

ボリス「ならば、なぜ攻めた」

 

信時「救援を求めた民がいたからです」

 

ボリス「蝦夷地を、ロシアへ渡すつもりは」

 

信時「ありません」

 

ボリス「即答か」

 

信時「蝦夷地は」

 

信時「そこに暮らす者と、織田がともに守る土地です」

 

 ボリスは信時を見つめた。

 

ボリス「奇妙な男だ」

 

信時「よく言われます」

 

ボリス「我らを敵としながら」

 

ボリス「交易を求めるのか」

 

信時「国境を定め」

 

信時「互いに越えないと約束できるなら」

 

信時「戦うより、物を売り買いする方がよい」

 

ボリス「よかろう」

 

ボリス「ロシアと織田は、国交を開く」

 

ボリス「ただし」

 

ボリス「この約束が長く続くとは限らぬ」

 

信時「承知しています」

 

 信時は。

 

 ロシア国内に、すでに不穏な空気があることを知っていた。

 

 王位を巡る争い。

 

 飢饉。

 

 諸侯の対立。

 

 遠からず。

 

 ロシアは大きな動乱へ入る。

 

 その時。

 

 今結んだ国交も、失われるかもしれない。

 

信時「一時しのぎでも構いません」

 

ボリス「何だと」

 

信時「一年戦を止められれば」

 

信時「一年分の命が救われます」

 

信時「十年続けば、十年分です」

 

ボリス「先のためではなく」

 

ボリス「今のために結ぶというのか」

 

信時「今を守れぬ者に」

 

信時「先を語る資格はありません」

 

 ボリスは、しばらく沈黙した後。

 

 右手を差し出した。

 

ボリス「織田信時」

 

ボリス「お前との約束は、守ろう」

 

 信時も右手を差し出す。

 

信時「ボリス殿」

 

信時「こちらもお約束します」

 

---

 

 蝦夷地へ渡ってから、わずか一年。

 

 南部の蠣崎氏を取り込み。

 

 各地のアイヌと同盟を結び。

 

 北方へ侵入していたロシア軍を追い出し。

 

 五稜郭城を中心とする統治の仕組みを完成させた。

 

 蝦夷地は。

 

 正式に織田家の領地となった。

 

 信時は約束どおり。

 

 北陸を中心とする旧織田領を、家康へ返還した。

 

 江戸城で報告を受けた家康は。

 

 しばらく言葉を失った。

 

家康「一年か」

 

信時「はい」

 

家康「一年で、蝦夷地をまとめたと」

 

信時「多くの方々に助けていただきました」

 

家康「中将殿」

 

家康「少しは、自分の功を誇ってもよいのではないか」

 

信時「俺一人では」

 

信時「凍えて死んでいたでしょう」

 

 家康は声を上げて笑った。

 

家康「違いない」

 

信時「これで」

 

信時「旧領はお返しいたします」

 

家康「本当に、よいのか」

 

信時「約束です」

 

信時「それに」

 

信時「俺たちには、もう新しい土地があります」

 

 信時は北を見た。

 

 そこには。

 

 五稜郭城があり。

 

 港があり。

 

 織田とアイヌが並んで暮らす町がある。

 

 まだ始まったばかりの国。

 

 戦によって奪ったのではなく。

 

 互いの文化を残しながら築く、新たな織田の地。

 

家康「中将殿」

 

家康「北を頼む」

 

信時「はっ」

 

信時「蝦夷地鎮守府総督として」

 

信時「必ず守ります」

 

 天皇家と織田家の紋が入った馬印が。

 

 北の風に翻る。

 

 その下で。

 

 天授北辰・護国真槍を携えた信時の背後には。

 

 狐の耳と尾を持つ女性が、静かに寄り添っていた。

 

玉藻「我が主」

 

信時「何ですか」

 

玉藻「ようやく、少し面白くなってきましたね」

 

信時「これ以上、面倒を増やさないでください」

 

玉藻「それは約束できません」

 

 信時は、深く息を吐いた。

 

 乱世は終わった。

 

 だが。

 

 織田信時の戦いは。

 

 人が穏やかに生きられる国を築くための戦いへと。

 

 その形を変えながら続いていくのだった。

 

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