蝦夷地の統治体制が整ってから、十年。
慶長二十一年――一六一六年。
日の本では、再び大きな戦が起ころうとしていた。
大坂冬の陣。
徳川家康と豊臣秀頼。
かつて同じ天下の中にいた二つの家が。
ついに、正面から刃を交えたのである。
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家康から出陣要請を受けた織田家は。
蝦夷地から船団を出した。
五稜郭城を離れ。
津軽海峡を越え。
太平洋を南下して江戸へ向かう。
だが。
この時、織田軍を率いていたのは信時ではなかった。
織田家の次代を担う時継だった。
江戸で徳川本隊と合流した後。
家康は時継を自らの本陣へ呼んだ。
家康「時継殿」
時継「上様」
家康「中将殿は、どうされた」
時継は、一瞬だけ表情を曇らせた。
時継「父上は、現在病に伏しております」
家康「病に」
時継「玄作殿によれば」
時継「蝦夷地の統治体制を築いた頃の無理が」
時継「今になって身体へ出たのではないかと」
家康は、静かに息を吐いた。
無理もない。
信時は今年で六十六歳になる。
すでに隠居していても、何ら不思議ではない年齢だった。
それどころか。
同じ時代を歩いてきた者たちは。
次々と表舞台から退いている。
竹中半兵衛は最近、隠居して息子へ職を譲った。
前田利家。
森良成。
真田昌幸。
雑賀孫一。
彼らも四年前、ついに隠居していた。
だが。
信時だけは、今も前線に立ち続けていた。
指揮の冴えも。
戦場を見る目も。
若い頃とほとんど変わらない。
だからこそ。
時継たちも、これまでは好きにさせていた。
だが、心配でないはずがなかった。
家康「止めたのか」
時継「はい」
時継「今回は、子供たち全員で」
時継「父上を説得しました」
家康「素直に聞いたのか」
家康は、少し意外そうな顔をした。
時継「思っていたより、あっさりと」
家康「中将殿が」
時継「はい」
時継「父上は」
時継「今回の戦で豊臣が滅ぶことはないだろう、と」
家康は目を細めた。
家康「そう申したか」
時継「大坂城は堅い」
時継「城壁と堀が残っている限り」
時継「力攻めでは落とせないと」
家康「……相変わらず」
家康「戦場にいなくとも、戦が見えておる」
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織田軍は、徳川本隊とともに大坂へ向かった。
大坂城は。
信時の予想どおり、容易には落ちなかった。
高い城壁。
深い堀。
広大な総構え。
徳川軍がどれほど攻めても。
豊臣方は守りを崩さない。
徳川将「上様」
徳川将「このまま力攻めを続ければ」
徳川将「損害が大きくなります」
家康「分かっておる」
時継も、大坂城を見上げた。
時継「父上の言った通りだ」
義近「この城を正面から落とすのは難しい」
幸村「大殿は」
幸村「蝦夷地にいながら、ここまで見抜いていたのですな」
時継「あの人は」
時継「戦場の形が変わっても」
時継「戦の本質だけは見失わない」
家康は。
これ以上の攻城は無益と判断した。
徳川と豊臣は和睦する。
大坂城は守られ。
豊臣家は滅びなかった。
徳川軍は兵を引いた。
だが。
この和睦によって。
大坂城の堀は埋められ。
城壁の一部も失われることとなった。
城は残った。
しかし。
城を守ってきた牙は。
静かに抜かれていった。
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大坂冬の陣から、半年ほど。
家康は再び兵を挙げた。
大坂夏の陣。
蝦夷地から、再び織田軍の船団が南下する。
江戸で徳川本隊と合流した織田軍。
その先頭には。
今度こそ、信時の姿があった。
家康は、信時を見るなり眉をひそめた。
家康「中将殿」
信時「上様」
家康「病に伏していたのではないのか」
信時「もう動けます」
時継「父上」
信時「何だ」
時継「玄作殿は、まだ無理をしてはならないと」
信時「無理はしない」
義近「父上の無理をしないは」
義近「信用できません」
信時「今回は前へ出ない」
時継「本当ですか」
信時「後方で指揮を執る」
幸村「槍も振るわないと」
信時「必要がなければ」
時継「必要を自分で作らないでください」
家康は、そのやり取りを聞いて苦笑した。
家康「中将殿」
家康「子らを困らせるものではない」
信時「上様まで」
家康「皆が心配しておる」
家康「少しは自覚されよ」
信時は、しばらく黙った。
信時「……承知しました」
時継「本当に、あっさり引きますね」
信時「俺も少しは学ぶ」
義近「六十六年かかりましたか」
信時「お前たち」
久しぶりに。
家康は声を上げて笑った。
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だが。
戦が始まれば。
その結果は、誰の目にも明らかだった。
冬の陣で埋められた堀。
壊された防塁。
失われた総構え。
大坂城には。
もはや以前のような守りはなかった。
豊臣方へ集った者たちも。
かつて秀吉へ仕え。
その恩へ報いようとする武士。
己の名を上げようとする者。
金に目が眩んだ浪人。
それぞれの事情で集まった者たちにすぎない。
大きな軍勢ではあっても。
一つの国を守る軍として、まとまり切れてはいなかった。
信時は約束どおり。
前線には出なかった。
後方の高台から戦場全体を見渡し。
時継。
義近。
幸村。
そして織田の諸将へ命令を出した。
信時「左翼を前へ出しすぎるな」
伝令「はっ!」
信時「豊臣方の退路を完全に塞ぐな」
時継「父上」
信時「追い詰めすぎれば」
信時「死を覚悟した者は、最後まで戦う」
信時「逃げ道を残し」
信時「武器を捨てる理由を与えろ」
時継「承知しました」
信時「降伏した者には手を出すな」
幸村「はっ!」
それでも。
戦の流れは止まらない。
徳川軍が押し寄せ。
豊臣方の軍勢が崩れる。
炎が上がる。
煙が空を覆う。
やがて。
大坂城にも火の手が上がった。
信時は、遠くからその光景を見つめていた。
秀吉と語った夜。
秀吉が最後に残した言葉。
大坂城で馬印を預かった時の秀頼。
すべてが胸へ蘇る。
信時「秀吉殿」
信時は、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
信時「申し訳ありません」
豊臣を守ると誓った。
関ヶ原でも。
豊臣の名を掲げて戦った。
だが。
今。
その豊臣の城が燃えている。
信時「俺には」
信時「この家を残せませんでした」
玉藻「我が主」
信時の背後。
狐の耳と尾を持つ玉藻が、静かに立っていた。
玉藻「そなたが滅ぼしたのではありません」
信時「同じです」
玉藻「違います」
玉藻「そなたは最後まで」
玉藻「生きる道を残そうとしている」
信時は答えなかった。
ただ。
燃える大坂城を見つめ続けた。
やがて。
城は落ちた。
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大坂城の落城後。
多くの豊臣方の将兵が捕らえられた。
徳川方の中には。
彼らをすべて処刑すべきだという声もあった。
徳川将「豊臣へ与した者を残せば」
徳川将「再び乱の種となります」
信時「罪を調べてください」
徳川将「中将殿」
信時「豊臣へ与したというだけで」
信時「妻子まで殺す必要はありません」
徳川将「ですが」
信時「戦場で戦ったことと」
信時「過去にどのような罪を犯したかは別です」
信時「大きな罪のない者は」
信時「織田で預かります」
信時は。
豊臣方で生き残った者のうち。
虐殺や略奪など、大きな罪を犯していない者たちを。
妻子ごと蝦夷地へ受け入れると申し出た。
家康「中将殿」
信時「はい」
家康「また、敗者を拾うのか」
信時「働く場所はあります」
信時「蝦夷地には、まだ人手が必要です」
家康「謀反の恐れは」
信時「俺が責任を持ちます」
家康「関ヶ原の時も」
家康「大谷吉継を貰い受けたな」
信時「忠義ある者を」
信時「使わずに捨てるのは惜しいですから」
家康は、長く信時を見た。
そして。
諦めたように笑った。
家康「よかろう」
家康「中将殿が責任を持つなら」
家康「罪の軽い者と、その妻子を預ける」
信時「ありがとうございます」
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その中には。
毛利勝永の姿もあった。
勝永は捕縛された後。
信時の前へ連れてこられた。
勝永「織田中将殿」
信時「毛利勝永殿」
勝永「なぜ、私を生かす」
信時「死にたいのですか」
勝永「豊臣へ殉じる覚悟はできていた」
信時「豊臣は滅びました」
勝永「……」
信時「あなたがここで死んでも」
信時「秀吉殿も秀頼様も戻りません」
勝永「ならば」
勝永「私に、豊臣を忘れて生きろと」
信時「忘れる必要はありません」
勝永が顔を上げる。
信時「豊臣への恩も」
信時「共に戦った者も」
信時「すべて覚えていてください」
信時「その上で」
信時「生きてください」
勝永「敗者として」
信時「違います」
信時「次に守るものを探す者としてです」
信時は、勝永の妻子へ視線を向けた。
信時「あなたには家族がいる」
信時「その者たちを守る役目が残っている」
勝永「……」
信時「蝦夷地へ来ませんか」
勝永「蝦夷地」
信時「土地を作り」
信時「人を守り」
信時「もう一度、武士として働く場所があります」
勝永「私を」
勝永「織田へ迎えると」
信時「はい」
信時「ただし」
勝永「何でしょう」
信時「豊臣を忘れろとは言いません」
信時「ですが」
信時「織田へ入るなら」
信時「これから守る民を、昔の主家より下に置かないでください」
勝永は、長く沈黙した。
やがて。
妻と子供たちを見た。
そして信時の前へ膝をつく。
勝永「毛利勝永」
勝永「妻子ともども」
勝永「織田家へ、お預けいたします」
信時「お預かりします」
信時「生きてくださったこと」
信時「後悔はさせません」
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大坂夏の陣が終わり。
豊臣家は滅亡した。
徳川の天下は。
今度こそ、揺るがぬものとなった。
だが。
敗れた者たちのすべてが。
その場で命を失ったわけではない。
多くの武士とその妻子が。
織田家の船に乗り。
遠い北の大地へ向かった。
毛利勝永も、その一人だった。
蝦夷地へ渡った後。
勝永は武士としての才を示し。
幸村のもとで軍務を学んだ。
幸村「勝永殿」
勝永「何でしょう、副将殿」
幸村「大坂で敵として見た時から」
幸村「あなたは恐ろしい将だと思っていました」
勝永「今は味方です」
幸村「それが何より頼もしい」
幸村は、やがて軍務の第一線から退くこととなる。
その後。
織田軍副将の役目を継いだのは。
毛利勝永だった。
豊臣のために最後まで戦った男は。
今度は北の大地で。
織田とアイヌ。
和人と、新たに移り住んだ者たちを守るために。
再び槍を取った。
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五稜郭城へ戻った夜。
信時は一人。
大坂から持ち帰った小さな瓢箪を前に置いていた。
かつて秀吉が好んだ馬印を模したものだった。
信時「秀吉殿」
信時は酒を注ぐ。
自分の杯と。
誰も座っていない向かいの杯へ。
信時「あなたの家を」
信時「最後まで残すことはできませんでした」
風が、障子をわずかに揺らした。
信時「ですが」
信時「あなたのために戦った者たちは」
信時「できる限り、生かしました」
信時「これで」
信時「許していただけますか」
返事はない。
だが。
信時の耳には。
遠い昔と変わらぬ、明るい笑い声が聞こえた気がした。
秀吉「相変わらず」
秀吉「面倒なものばかり背負い込むな、新六殿」
信時は、小さく笑った。
信時「あなたにだけは」
信時「言われたくありません」
大坂は落ちた。
豊臣は滅びた。
だが。
そこに生きた者たちの思いと忠義は。
北の大地へ受け継がれた。
戦国の最後の残り火は。
新たな国を照らす火へ。
静かに姿を変えたのだった。