織田信時の人生   作:秋月 了

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信長の命日――信時と市、最後の旅立ち

 

 大坂夏の陣から、二十年近い歳月が流れた。

 

 戦国の世は、すでに遠い過去となりつつあった。

 

 江戸幕府の支配は安定し。

 

 街道には旅人が行き交い。

 

 かつて軍勢が踏み荒らした土地には、町や田畑が広がっている。

 

 だが。

 

 時代が穏やかになる一方で。

 

 乱世を生きた者たちは、次々とこの世を去っていった。

 

 徳川家康。

 

 黒田官兵衛。

 

 織田家でも。

 

 前田利家。

 

 佐々成政。

 

 雑賀孫一。

 

 真田昌幸。

 

 百地丹波。

 

 望月千代女。

 

 長い戦いをともにした者たちが。

 

 一人。

 

 また一人と。

 

 信時より先に旅立っていった。

 

 そして。

 

 信時の身近な者たちも例外ではなかった。

 

 雫。

 

 鈴。

 

 だし。

 

 家族として。

 

 妻として。

 

 時には信時を叱り。

 

 時には支え。

 

 苦楽をともにした女たちも。

 

 静かに、その生涯を終えた。

 

---

 

 病から回復した信時は。

 

 その後の十年間を、蝦夷地の政へ捧げた。

 

 道をさらに広げ。

 

 港を増やし。

 

 交易を整え。

 

 アイヌと和人が、ともに政へ関われる仕組みを作った。

 

 そして。

 

 自分がいなくなった後も。

 

 誰か一人の判断だけで、アイヌの文化や土地が奪われぬよう。

 

 掟と制度を残した。

 

 それらの仕事を終えると。

 

 信時は織田家の家督と政務を、完全に時継へ譲った。

 

信時「これより、織田家のことはお前に任せる」

 

時継「父上」

 

信時「軍権も」

 

信時「蝦夷地鎮守府の政も」

 

信時「すべてだ」

 

時継「本当に、よろしいのですか」

 

信時「ああ」

 

信時「いつまでも俺が前に立っていては」

 

信時「お前たちが自分で決められない」

 

時継「父上が口を出さずにいられるとは思えません」

 

信時「聞かれれば答える」

 

時継「聞かなくても来られるでしょう」

 

信時「困っていると聞けばな」

 

 時継は、思わず笑った。

 

時継「それでは、隠居になりません」

 

信時「細かいことを気にするな」

 

 こうして信時は。

 

 ようやく長い政務と軍務の表舞台から退いた。

 

---

 

 隠居後。

 

 信時が見つけた趣味は、釣りと旅だった。

 

 竹中半兵衛。

 

 市。

 

 真田幸村。

 

 この四人で、近くの川へ釣りに出かける。

 

 時には蝦夷地を離れ。

 

 船や街道を使い、日本各地を歩いて回った。

 

 尾張。

 

 美濃。

 

 近江。

 

 越前。

 

 京。

 

 大坂。

 

 かつて戦場だった場所を。

 

 今度は武器を持たず。

 

 ただの旅人として歩いた。

 

---

 

 ある日の川辺。

 

 信時は竿を握ったまま、水面を見つめていた。

 

 少し離れた場所では。

 

 半兵衛が日陰で横になり。

 

 幸村が真剣な顔で浮きを見つめている。

 

 市は、釣れた魚を入れる籠の横に座っていた。

 

市「あなた」

 

信時「何だ」

 

市「また、私たちの場所へ魚を入れていませんか」

 

信時「入れていない」

 

幸村「大殿」

 

信時「何だ」

 

幸村「俺の籠に、大殿が釣った魚が三匹おります」

 

信時「気のせいだ」

 

半兵衛「大殿は昔から」

 

半兵衛「人へ功を分ける時だけ、妙に手際がよいですからね」

 

信時「俺は何もしていない」

 

市「では、その手に持っている魚は何です」

 

 信時の手には。

 

 今まさに幸村の籠へ入れようとしていた大きな魚が握られていた。

 

信時「……逃げた魚を捕まえただけだ」

 

幸村「俺の籠へ戻そうと?」

 

信時「ああ」

 

幸村「俺はまだ一匹も釣っておりません」

 

 しばらく沈黙した後。

 

 市が声を上げて笑った。

 

 半兵衛も。

 

 幸村も笑う。

 

 信時も、最後には諦めたように笑った。

 

---

 

 信時は、年老いても変わらなかった。

 

 釣りへ出れば、大物を抱えて帰ってくる。

 

 旅に出れば、若い供の者より長く歩く。

 

 山へ登り。

 

 川を渡り。

 

 見知らぬ土地の民と話し。

 

 面白い技術や作物があれば。

 

 すぐに蝦夷地へ持ち帰った。

 

 その姿を見るたびに。

 

 時継や義近たちは、同じことを思った。

 

時継「父上は、いつまでたっても元気だな」

 

義近「百を越えても、俺たちより先に歩くからな」

 

時継「昔から、ああだったのか」

 

義近「ああ」

 

義近「止めても止まらない」

 

 だが。

 

 そんな時間にも。

 

 終わりは近づいていた。

 

---

 

 さらに二十五年が流れた。

 

 半兵衛が亡くなった。

 

 幸村も亡くなった。

 

 大谷吉継も、この世を去った。

 

 信時と同じ時代を知る者は。

 

 もう、ほとんど残っていなかった。

 

 そして。

 

 再び信時は病に倒れた。

 

 同じ頃。

 

 市もまた、床へ伏すようになった。

 

 二人とも。

 

 玄作の弟子たちが診療を続けたが。

 

 年齢による衰えだけは。

 

 どれほど優れた医術でも、止めることはできなかった。

 

 それでも二人は。

 

 互いの部屋を訪れ。

 

 同じ場所で過ごすことを望んだ。

 

 信時の部屋からは。

 

 時折、市と話す穏やかな声が聞こえた。

 

---

 

 それから半年。

 

 ある朝。

 

 信時と市は、使用人たちへ頼んだ。

 

信時「今日は、誰も部屋へ入れなくていい」

 

侍女「ですが、大殿」

 

信時「時継が来るまでで構わない」

 

市「二人で話したいことがあるのです」

 

侍女「承知いたしました」

 

 二人は助けを借りながら。

 

 縁側へ並んで座った。

 

 背筋を伸ばし。

 

 正座をする。

 

 庭には。

 

 信時が若い頃から大切にしてきた木々が並んでいた。

 

 遠くには。

 

 蝦夷地の山々が見える。

 

 風は穏やかだった。

 

 市は、隣に座る信時を見た。

 

市「あなた」

 

信時「何だ」

 

市「覚えていますか」

 

信時「何を」

 

市「初めて会った頃のことです」

 

信時「ああ」

 

信時「随分と気の強い姫だった」

 

市「あなたは、随分と無礼な家臣でした」

 

信時「俺は礼儀正しかった」

 

市「私へ面と向かって」

 

市「信長兄上に似ていると言ったではありませんか」

 

信時「褒めたつもりだった」

 

市「女に向かって、兄に似ていると言うものではありません」

 

信時「今なら分かる」

 

市「遅すぎます」

 

 二人は、静かに笑った。

 

 その笑い声は。

 

 若かった頃と同じだった。

 

---

 

市「長い人生でしたね」

 

信時「ああ」

 

市「本当に、長かった」

 

信時「戦ばかりだった」

 

市「いいえ」

 

 市は首を横へ振った。

 

市「戦だけではありません」

 

市「子供たちが生まれました」

 

市「孫も」

 

市「曾孫も」

 

市「それより先の子まで」

 

市「私たちは、たくさんの命を見ることができました」

 

信時「ああ」

 

市「蝦夷地で」

 

市「和人とアイヌが、同じ席で笑う宴も見ました」

 

信時「道も完成した」

 

市「あなたは、完成した地図を見ながら泣いていましたね」

 

信時「泣いていない」

 

市「泣いていました」

 

信時「目に雪が入っただけだ」

 

市「あの日は、城の中でした」

 

信時「……よく覚えているな」

 

市「あなたのことですから」

 

 市は、信時の手へ自分の手を重ねた。

 

 皺だらけになった手。

 

 だが。

 

 その温かさだけは、昔と変わらない。

 

市「あなたは」

 

市「幸せでしたか」

 

 信時は、すぐには答えなかった。

 

 庭を見つめる。

 

 信長。

 

 秀吉。

 

 勝家。

 

 良成。

 

 半兵衛。

 

 幸村。

 

 鈴。

 

 雫。

 

 だし。

 

 先に旅立った多くの者たちが、胸に浮かぶ。

 

信時「分からない」

 

市「あなたらしい答えですね」

 

信時「失ったものが多すぎる」

 

信時「守れなかった者もいる」

 

信時「間違えたことも」

 

信時「後悔も」

 

信時「数え切れない」

 

市「では」

 

信時「だが」

 

 信時は、市の手を握り返した。

 

信時「今」

 

信時「お前の隣にいられる」

 

信時「子供たちが生きている」

 

信時「織田の家も残った」

 

信時「蝦夷地で、人々が笑っている」

 

信時「それを幸せと呼ぶのなら」

 

信時「俺は」

 

信時「十分すぎるほど、幸せだった」

 

 市は微笑んだ。

 

市「よかった」

 

信時「市は」

 

市「私は」

 

 市は少しだけ考えた。

 

市「あなたを殴り足りませんでした」

 

信時「何だと」

 

市「何度言っても無茶をする」

 

市「病でも働く」

 

市「子供たちに心配ばかりかける」

 

信時「すまなかった」

 

市「ですが」

 

 市は、信時の肩へわずかに寄りかかった。

 

市「あなたの妻になって」

 

市「悪くない人生でした」

 

信時「悪くない、か」

 

市「とても幸せだったと言えば」

 

市「あなたが調子に乗るでしょう」

 

信時「百年近く夫婦をして」

 

信時「まだ信用がないのか」

 

市「ありません」

 

 また。

 

 二人は笑った。

 

---

 

 しばらくして。

 

 信時が空を見上げた。

 

信時「今日は」

 

市「はい」

 

信時「信長様の命日だ」

 

市「覚えていたのですね」

 

信時「忘れるわけがない」

 

市「兄上は」

 

市「向こうで待っているでしょうか」

 

信時「ああ」

 

信時「勝家様も」

 

信時「秀吉殿も」

 

信時「半兵衛も」

 

信時「皆、待っている」

 

市「兄上は、あなたを見たら」

 

市「最初に何と言うでしょう」

 

 信時は、しばらく考えた。

 

信時「遅い」

 

市「兄上らしいですね」

 

信時「それから」

 

信時「よくやった、新六」

 

信時「そう言っていただければ」

 

信時「俺は、それで十分だ」

 

市「きっと言ってくださいます」

 

信時「そう思うか」

 

市「はい」

 

市「兄上は」

 

市「あなたを誰よりも誇りに思っていましたから」

 

 信時の目が、わずかに潤んだ。

 

 百年以上。

 

 ずっと求め続けた言葉。

 

 信長の口から。

 

 もう一度聞きたかった言葉。

 

信時「市」

 

市「何ですか」

 

信時「ありがとう」

 

市「急にどうしたのです」

 

信時「お前がいたから」

 

信時「俺は最後まで、人でいられた」

 

市「あなたは最初から人です」

 

信時「軍神だの」

 

信時「天下一だの」

 

信時「好き勝手に呼ばれた」

 

信時「だが、お前だけは」

 

信時「いつまでも俺を、ただの新六として扱った」

 

市「当然です」

 

市「私にとってあなたは」

 

市「少し強くて」

 

市「随分と頑固で」

 

市「誰よりも世話のかかる夫です」

 

信時「少し強いだけか」

 

市「最後に訂正してほしいのですか」

 

信時「いや」

 

信時「それでいい」

 

 信時は、庭へ視線を戻した。

 

 風が吹く。

 

 木々の葉が揺れる。

 

 かつて戦場で聞いた風とは違う。

 

 穏やかな。

 

 人の暮らしの中を流れる風だった。

 

市「あなた」

 

信時「何だ」

 

市「今度は」

 

市「戦のない場所へ行きましょう」

 

信時「ああ」

 

市「兄上たちに会って」

 

市「皆で酒を飲んで」

 

市「昔の話をするのです」

 

信時「秀吉殿が、自分の手柄を十倍にして話すぞ」

 

市「勝家殿が怒るでしょうね」

 

信時「半兵衛が、横で笑っている」

 

市「幸村殿も」

 

信時「ああ」

 

市「鈴も」

 

市「雫も」

 

市「だしも」

 

信時「皆いる」

 

市「では」

 

 市は目を閉じた。

 

市「もう、寂しくありませんね」

 

信時「ああ」

 

信時「一緒に行こう」

 

市「はい」

 

市「どこまでも」

 

 信時も目を閉じる。

 

 二人の手は。

 

 最後まで重なっていた。

 

---

 

 その日の夕刻。

 

 政務を終えた時継は。

 

 父と母を見舞うため、二人の部屋へ向かった。

 

 障子は開いていた。

 

 縁側には。

 

 信時と市が並んで正座している。

 

 背筋を伸ばし。

 

 庭を見つめるように。

 

 静かに座っていた。

 

時継「父上」

 

 声をかけようとして。

 

 時継は足を止めた。

 

 返事がない。

 

 風が吹いても。

 

 二人の身体は、わずかにも動かない。

 

 時継は、ゆっくりと近づいた。

 

時継「母上」

 

 信時と市は。

 

 正座をしたまま。

 

 寄り添うようにして亡くなっていた。

 

 信時の右手には。

 

 市の手が重ねられている。

 

 二人とも。

 

 苦しんだ様子はなかった。

 

 むしろ。

 

 長い旅を終え。

 

 ようやく帰る場所へたどり着いたような。

 

 穏やかで。

 

 幸せそうな顔をしていた。

 

 最後に二人が何を思い。

 

 何を話したのか。

 

 時継には分からない。

 

 だが。

 

 悪い話ではなかったのだろう。

 

 それだけは確信できた。

 

時継「父上」

 

 時継は、二人の前へ座った。

 

 深く。

 

 深く頭を下げる。

 

時継「母上」

 

時継「長い間」

 

時継「本当に、お疲れさまでした」

 

---

 

 享年、百十一。

 

 農民の子として生まれ。

 

 九歳で戦場へ立ち。

 

 織田信長に見いだされ。

 

 乱世を駆け抜け。

 

 織田家を継ぎ。

 

 軍神と呼ばれ。

 

 北の大地に新たな国を築いた男。

 

 織田信時。

 

 戦国に名を轟かせた男は。

 

 最後まで背筋を曲げず。

 

 武士として。

 

 最愛の妻とともに、この世を去った。

 

 その日は。

 

 奇しくも。

 

 信時が生涯を通じて追い続けた主君。

 

 織田信長の命日だった。

 

---

 

 その夜。

 

 誰もいないはずの五稜郭城の一室から。

 

 楽しげな声が聞こえたという。

 

信長「遅いぞ、新六」

 

秀吉「まったく、百年以上も何をしておった」

 

勝家「相変わらず、最後まで働きすぎだ」

 

半兵衛「大殿らしいではありませんか」

 

幸村「お待ちしておりました、大殿」

 

 信時は。

 

 懐かしい者たちに囲まれながら。

 

 少しだけ困ったように笑った。

 

信時「申し訳ありません」

 

信時「やることが多かったもので」

 

 信長は、信時の前へ歩み寄る。

 

 そして。

 

 昔と同じように。

 

 短く。

 

 だが、誰よりも誇らしげに告げた。

 

信長「よくやった、新六」

 

 信時は。

 

 百年以上待ち続けたその言葉を聞き。

 

 深く頭を下げた。

 

信時「はっ」

 

信時「ありがたき幸せにございます」

 

 その隣では。

 

 市が穏やかに笑っていた。

 

 長かった信時の戦は。

 

 その日。

 

 ようやく本当に終わったのだった。

 

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