織田信時がこの世を去ってから、数十年。
蝦夷地は、すでに北の辺境ではなくなっていた。
五稜郭城を中心に。
道。
港。
診療所。
学校。
交易所。
そして、和人とアイヌがともに政へ参加する仕組みが整えられていた。
信時が築いた国は。
その死後も、変わらず人を受け入れ続けていた。
その頃。
日の本では徳川綱吉が将軍となり。
生類憐みの令が施行された。
---
## 生類憐みの令――信豊、将軍を諭す
法の表向きの目的は、命を慈しむことだった。
だが。
その法が作られた理由は、民を救うためではなかった。
綱吉に子ができぬのは。
前世で多くの動物を殺したため、その祟りを受けている。
ある僧が。
そのような根拠のない話を吹き込んだことが発端だった。
犬や鳥を傷つけた者が、厳しく罰せられる。
病に苦しむ家畜すら、簡単には処分できない。
獣害から畑を守るための狩りも難しくなる。
その影響は。
狩猟と漁労を暮らしの柱とする蝦夷地へ、特に大きく現れた。
アイヌの集落では。
狩りを禁じられれば、冬を越すことすらできない。
家畜や犬を守るための細かな規則が。
かえって人々の生活を追い詰め始めていた。
---
蝦夷藩、五稜郭城。
藩主の前には。
和人の家臣。
アイヌの族長。
漁師。
猟師。
農民たちが集まっていた。
彼らの訴えを聞いていたのは。
織田信豊。
信時の曾孫であり。
蝦夷織田家の四代目当主だった。
信豊は、徳川幕府の相談役も務めていた。
その地位は。
将軍に次ぐ、事実上の幕府第二位とも言われている。
アイヌの族長「信豊様」
信豊「何でしょう」
アイヌの族長「狩りを禁じられれば」
アイヌの族長「我らは冬を越せない」
猟師「鹿が畑を荒らしても」
猟師「追い払うことしか許されません」
農民「食べるための魚まで」
農民「殺生だと咎める役人もおります」
信豊「分かりました」
家臣「殿」
家臣「幕府の法にございます」
家臣「我らだけ従わぬわけには」
信豊「従わぬとは申していません」
信豊は、静かに立ち上がった。
信豊「法そのものを、改めていただきます」
---
江戸城。
綱吉の前に、信豊が座っていた。
その傍らには。
生類憐みの令を強く推し進めた僧も控えている。
綱吉「信豊」
信豊「上様」
綱吉「蝦夷地では、この法に反対する者が多いと聞く」
信豊「はい」
僧「それは」
僧「命を軽んじる心があるからにございましょう」
信豊「違います」
僧「何を申される」
信豊「命を守るためです」
信豊は、蝦夷地から持参した記録を広げた。
信豊「法の施行後」
信豊「狩りを禁じられた集落で、食糧不足が起きています」
信豊「獣害で田畑が荒らされ」
信豊「冬を越すための毛皮や肉も得られない」
信豊「人の命が失われようとしています」
僧「人も獣も同じ命にございます」
信豊「では、お尋ねします」
僧「何でしょう」
信豊「病で苦しむ犬を」
信豊「苦しませ続けることは慈悲ですか」
僧「それは」
信豊「畑を荒らす獣を放置し」
信豊「子供を飢えさせることは慈悲ですか」
僧「しかし殺生は」
信豊「命を奪わずに、生きることができる者などおりません」
僧は、言葉を詰まらせた。
信豊「魚を食べる」
信豊「米を刈る」
信豊「薬草を摘む」
信豊「すべて、別の命をいただく行いです」
信豊「大切なのは」
信豊「命を奪わぬことではありません」
信豊「必要以上に奪わず」
信豊「いただいた命を無駄にせず」
信豊「次の命を守ることです」
綱吉「……」
信豊「上様」
信豊「この法は」
信豊「民のために作られたものですか」
綱吉は答えなかった。
信豊「それとも」
信豊「上様に御子ができぬのは」
信豊「前世の祟りであるという話を恐れて作られたものですか」
僧「無礼である!」
信豊「黙りなさい」
信豊の一言で。
僧は、息を呑んだ。
信豊「為政者が」
信豊「根拠のない恐れによって法を作れば」
信豊「その恐れを、民すべてへ押しつけることになります」
信豊「統治者は」
信豊「自分の不安を取り除くために、民を苦しめてはなりません」
綱吉「信豊」
信豊「政治とは」
信豊「民が明日も生きられるようにすることです」
信豊「己の徳を示すことでも」
信豊「己の恐れを慰めることでもありません」
信豊「民が飢え」
信豊「苦しみ」
信豊「死んでいるなら」
信豊「その法がどれほど美しい言葉で飾られていても」
信豊「間違っています」
江戸城の広間は。
長い沈黙に包まれた。
やがて。
綱吉は、ゆっくりと目を閉じた。
綱吉「……余は」
綱吉「命を慈しむつもりであった」
信豊「そのお気持ちまで、否定するつもりはありません」
綱吉「だが」
綱吉「結果として、人を苦しめた」
信豊「はい」
綱吉「ならば」
綱吉「改めねばならぬ」
生類憐みの令は。
施行からわずか半年で、大きく改められた。
狩猟や漁労は、生活のために必要な範囲で認められ。
獣への虐待を禁じながらも。
人の暮らしを壊さぬ法へ作り直された。
後に綱吉は。
信豊へ直接、礼を述べたという。
綱吉「あの時」
綱吉「そなたが止めてくれなければ」
綱吉「余は善政のつもりで、民を苦しめ続けていた」
信豊「過ちを認め」
信豊「改められたのは、上様ご自身です」
綱吉「それでも」
綱吉「礼を言わせてくれ」
綱吉「ありがとう、信豊」
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## 刃傷を防いだ叱責――赤穂の運命
それからしばらく後。
信豊は。
吉良上野介が、浅野内匠頭へ露骨な嫌がらせを続けていることを知った。
儀礼の作法をわざと教えない。
人前で侮辱する。
間違いを誘い。
それを笑いものにする。
信豊は、吉良を直接呼び出した。
信豊「吉良殿」
吉良「何でございましょう」
信豊「浅野殿への振る舞いを改めなさい」
吉良「何のことでございましょう」
信豊「分からぬと思っているのですか」
吉良「私は高家として」
吉良「ただ作法を教えているだけにございます」
信豊「教える者が」
信豊「教えぬことで相手へ恥をかかせるのですか」
吉良「……」
信豊「立場を利用して」
信豊「反論できぬ者をいたぶる」
信豊「それを武家の作法とは呼びません」
吉良「しかし浅野殿にも至らぬところが」
信豊「ならば正しく教えなさい」
信豊「侮辱する理由にはならない」
信豊は、吉良を厳しく見据えた。
信豊「武士の誇りとは」
信豊「弱い立場の者を踏みつけるためにあるのではない」
信豊「人を導き」
信豊「自らを律するためにあります」
信豊「浅野殿へ謝罪してください」
吉良「私が」
信豊「嫌ならば」
信豊「高家の役目を退いていただきます」
吉良は、ついに頭を下げた。
吉良「……浅野殿へ」
吉良「お詫び申し上げます」
吉良を支える上杉家との関係は。
一時、悪化した。
だが信豊は。
上杉家とも正面から話し合い。
家同士の争いへ広がらぬよう収めた。
その結果。
江戸城内での刃傷沙汰は起きなかった。
赤穂浪士の討ち入りも。
四十七士の死も。
この世界では起こらなかった。
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浅野内匠頭と大石内蔵助は。
後日、蝦夷地を訪れた。
内匠頭「信豊様」
信豊「浅野殿」
内匠頭「このたびは」
内匠頭「我らを救っていただき」
内匠頭「心より御礼申し上げます」
内蔵助「主君だけではありません」
内蔵助「家臣と家族」
内蔵助「すべての者の命を救っていただきました」
信豊「俺は」
信豊「当然のことをしただけです」
内蔵助「その当然を」
内蔵助「できる方は多くありません」
浅野家は。
その後、何度も家臣を蝦夷地へ送った。
織田家の政治。
アイヌとの協議。
食糧庫の運営。
診療所。
道と連絡網。
そして。
争いを武力ではなく話し合いで収める仕組み。
それらを学ばせた。
蝦夷地へ送られた者の中には。
大石内蔵助の息子、大石主税。
そして。
その友人である寺坂吉右衛門信行もいた。
主税「父上」
内蔵助「何だ」
主税「織田家では」
主税「アイヌの族長も、藩の会議へ出ます」
内蔵助「それが、信時公から続く仕組みだ」
主税「立場の違う者の声を聞くことが」
主税「これほど難しいとは思いませんでした」
吉右衛門「ですが」
吉右衛門「聞かずに決めれば、もっと大きな争いになる」
内蔵助「ああ」
内蔵助「よく学び」
内蔵助「赤穂へ持ち帰れ」
こうして浅野家は。
織田の政を手本とした統治を行うようになった。
---
## 流山の救い――新選組、蝦夷地へ
それから、さらに百五十年近くの時が流れた。
幕府の時代は終わろうとしていた。
鳥羽・伏見。
甲州勝沼。
各地で旧幕府軍が敗れ。
新選組もまた、追い詰められていた。
近藤勇。
土方歳三。
沖田総司。
彼らは流山へ集結し。
再起の機会をうかがっていた。
その陣へ。
一人の男が直接現れた。
蝦夷織田家当主。
織田信興。
信時の直系の子孫だった。
---
近藤「織田様が」
近藤「なぜ、我らのもとへ」
信興「迎えに来ました」
土方「迎えに」
信興「はい」
信興「蝦夷地へ来ていただきます」
近藤「我らは賊軍と呼ばれております」
信興「誰がそう呼ぼうと」
信興「誇りを持って戦った者であることに変わりはありません」
土方「だが」
土方「俺たちは、まだ戦える」
信興「何のためにですか」
土方「幕府のためだ」
信興「その幕府は」
信興「もう戦を終わらせようとしています」
近藤「……」
信興「死ぬことだけが」
信興「志を遂げることではありません」
土方「武士ならば」
土方「最後まで戦うものだ」
信興「違います」
信興は。
信時が残した言葉を書いた書状を広げた。
信興「蝦夷地を」
信興「敗れた者が埋まる地にしてはならない」
信興「生きようとする者たちが」
信興「新たに歩む門出の地とせよ」
信興「奪うな」
信興「捨てるな」
信興「ともに生きよ」
信興「誇りを持って戦う者を尊べ」
近藤は。
書かれた文字を、長く見つめた。
信興「これは」
信興「我が祖先、織田信時の言葉です」
信興「あなた方を」
信興「敗者として迎えるつもりはありません」
信興「次の役目を持つ者として迎えます」
沖田「次の役目」
信興「蝦夷地の秩序を守っていただきたい」
土方「俺たちに」
信興「あなた方ほど」
信興「規律と治安維持を知る者はいません」
その時。
沖田が激しく咳き込んだ。
近藤「総司!」
信興「医師を連れてきています」
沖田「俺は」
沖田「もう長くありません」
信興「それは、あなたが決めることではありません」
沖田「ですが」
信興「まず治療を受けてください」
信興「死ぬ話は」
信興「治す努力をすべて終えてからにしましょう」
信興が連れてきた織田家の医師団は。
すぐに沖田の治療を始めた。
蝦夷地で発展した医術。
異国との交易で得た薬。
長年の結核治療の研究。
それらによって。
沖田は少しずつ回復していった。
---
信興は。
近藤たちを蝦夷地へ迎え入れた。
温かい湯。
清潔な衣服。
そして。
大きな鍋から、温かい食事が配られた。
旧幕府兵「温かい」
旧幕府兵「こんな飯は、久しぶりだ」
信興「遠慮なく食べてください」
土方「俺たちは捕虜ではないのか」
信興「客人です」
土方「敵へ渡すつもりは」
信興「ありません」
近藤「なぜ」
信興「生きようとする者を」
信興「見捨てるなと教えられておりますから」
---
会津で敗れた後。
近藤が生きているという噂を聞きつけ。
斎藤一も蝦夷地へやってきた。
斎藤「局長」
近藤「斎藤!」
斎藤「ご無事で」
近藤「ああ」
さらに。
かつて織田家の武士でありながら。
正式な許可を得ずに脱藩し。
新選組へ加わっていた永倉新八も姿を現した。
新八「織田様」
信興「永倉新八」
新八「はい」
信興「そこへ座りなさい」
新八「何でしょう」
新八が座った瞬間。
信興の拳骨が、その頭へ落ちた。
新八「痛っ!」
近藤「織田様!」
土方「何を」
信興「脱藩などせず」
信興「正規の手続きで旅へ出なさい!」
新八「……」
信興「他の家ならともかく」
信興「織田は」
信興「武者修行へ出たいという者を」
信興「止めるほど心の狭い家ではありません!」
新八「申し訳ありません!」
信興「勝手に飛び出したことで」
信興「家族や仲間がどれほど心配したと思っている!」
新八「返す言葉もありません」
信興「まったく」
信興「命を張る前に」
信興「書状の一つくらい残しなさい」
新八は。
深く頭を下げた。
新八「織田家の武士として」
新八「恥ずべきことをいたしました」
信興「分かればいい」
新八「処罰は」
信興「蝦夷地の警備を、生涯務めていただきます」
新八「それは」
信興「嫌ですか」
新八「いいえ」
新八「喜んで務めます」
---
やがて。
榎本武揚が率いる旧幕府軍も。
蝦夷地へ到着した。
榎本「我らは」
榎本「蝦夷地へ、新たな国を作るつもりで来た」
信興「ここには」
信興「すでに国があります」
榎本「ならば、我らを追い出すか」
信興「いいえ」
信興「あなたには海を守っていただきます」
榎本「海を」
信興「異国の知識」
信興「航海術」
信興「軍艦の運用」
信興「そのすべてを」
信興「日本の未来へ使ってください」
榎本「敗者の知識を」
榎本「使うというのか」
信興「知識に」
信興「勝者も敗者もありません」
---
## 東京会談――旧幕府軍の命
信興は。
旧幕府軍を匿ったまま。
自ら東京へ向かった。
新政府側の代表者と会談するためだった。
西郷隆盛。
大久保一蔵。
桂小五郎。
三人が。
信興を待っていた。
西郷「織田殿」
西郷「旧幕府の者らを引き渡してもらいたか」
信興「お断りします」
大久保「彼らは新政府へ刃を向けた者です」
信興「戦は終わりました」
桂「終わったからこそ」
桂「責任を取らせねばならない」
信興「誰のための責任ですか」
信興は、三人を順に見た。
信興「新しい道を」
信興「これ以上、血で汚すべきではありません」
大久保「しかし」
信興「そのような道を」
信興「民は歩きたいと思いますか」
桂「……」
信興「あなた方は」
信興「新しい国を作るために戦ったはずです」
信興「二百年以上前の関ヶ原の復讐を」
信興「今になって果たすためではないでしょう」
西郷「関ヶ原の復讐」
信興「薩摩や長州が」
信興「徳川へ勝つためだけに戦ったのなら」
信興「それは政ではありません」
信興「長く続いた恨みを晴らしただけです」
大久保「織田殿」
信興「民のことを考えてください」
信興「旧幕府の兵にも家族がいる」
信興「彼らを皆殺しにすれば」
信興「新たな恨みが残る」
信興「その子供が」
信興「さらに次の戦を始めるかもしれない」
西郷は、腕を組んだまま。
長く信興を見つめた。
西郷「死ぬこっだけが」
西郷「志を貫くことではなかちゅうわけでごわすか」
信興「はい」
西郷「生かして」
西郷「次の世で働かせる」
西郷「それが正しか為政者ちゅうものでごわすか」
信興「少なくとも」
信興「俺はそう教えられました」
西郷「……分かりもした」
大久保が西郷を見る。
大久保「西郷」
西郷「もう血は十分に流れたでごわす」
西郷「近藤も」
西郷「土方も」
西郷「榎本も」
西郷「蝦夷地で働かせればよか」
桂「政府へ敵対しないことが条件です」
信興「その条件は、俺が保証します」
西郷「織田殿が責任を持つなら」
西郷「おいは反対せん」
こうして。
近藤勇。
土方歳三。
沖田総司。
斎藤一。
永倉新八。
榎本武揚。
そして多くの旧幕府軍の者たちは。
処刑を免れた。
---
蝦夷地は。
北海道と名を改めた。
織田家は新政府へ恭順した。
だが。
北海道の統治は。
引き続き織田家が県知事として担うこととなった。
新選組は北海道の秩序を守った。
近藤は警備組織をまとめ。
土方は訓練と規律を整え。
沖田は回復後、剣術と護身術を教えた。
斎藤は犯罪捜査と密偵組織を担当し。
新八は各地を巡回した。
榎本は海を守った。
---
## 西南戦争――西郷、再び救われる
後に。
西南戦争が起きた。
西郷隆盛と、その息子たちは。
新政府軍に追い詰められた。
その時。
再び信興が動いた。
西郷たちを密かに北海道へ迎え入れたのである。
西郷「織田殿」
西郷「また、おいを助けるとでごわすか」
信興「以前」
信興「あなたは旧幕府軍を助けてくださいました」
信興「今度は俺の番です」
西郷「おいは」
西郷「政府へ弓を引いた男でごわす」
信興「だからといって」
信興「死なせる必要はありません」
西郷「命を惜しんだと思われもす」
信興「言わせておけばいい」
信興「死んだ者は」
信興「民を守れません」
信興は、再び新政府を説得した。
西郷とその息子たちは助命され。
北海道の土地開発と防衛へ加わった。
新選組が秩序を守り。
西郷が土地と農民を守り。
榎本が海を守る。
かつて敵同士だった者たちは。
北の大地で、同じ民のために働いた。
---
## 北方防衛――織田信由
さらに時代は進み。
日本は近代国家となった。
世界では、大国同士の争いが激しくなっていった。
そして。
太平洋戦争の初期。
ソビエト連邦軍が、日本の北方へ侵攻した。
北海道。
樺太。
北方四島。
北の海へ。
赤い軍旗を掲げた大軍が押し寄せた。
それを迎え撃ったのは。
大日本帝国陸軍中将。
織田信由。
信時の直系の子孫だった。
---
信由は。
北海道を守る軍の総指揮を執った。
織田家が代々築いてきた道路。
港。
倉庫。
通信網。
寒冷地戦の知識。
アイヌから受け継いだ地形と気候の記録。
そのすべてを使った。
信由「正面から数で争うな」
信由「補給路を断て」
信由「吹雪を敵にするのではない」
信由「味方につけろ」
ソ連軍は。
進めば進むほど。
補給を失った。
海上輸送は妨害され。
雪原では部隊を分断され。
夜になれば、織田軍の奇襲を受けた。
わずかな期間で。
ソ連軍は甚大な損害を受け、撤退した。
北方四島は。
織田軍によって守り抜かれた。
---
## 二・二六事件――流血なき鎮圧
二・二六事件が起こる前。
信由は。
決起を計画していた青年将校たちと、直接会った。
信由「お前たちは」
信由「何のために兵を挙げる」
青年将校「天皇陛下のためです」
信由「陛下は」
信由「お前たちに人を殺せと命じたのか」
青年将校「いいえ」
信由「ならば」
信由「陛下の名を勝手に使うな」
青年将校「ですが、腐敗した政治を」
信由「政治を正すために」
信由「軍が銃を向ければ」
信由「次からは気に入らぬ政治家を」
信由「誰もが銃で殺す国になる」
青年将校「……」
信由「お前たちが望む国は」
信由「そんな国か」
信由は。
彼らの不満と主張を、すべて聞いた。
軍人の貧困。
農村の疲弊。
政治腐敗。
財閥への不信。
それらを。
天皇と政府へ正式に届けることを約束した。
事件は。
勃発する前に防がれた。
殺されるはずだった者たちも。
処刑されるはずだった青年将校たちも。
命を落とさなかった。
この働きによって。
信由は天皇から。
非常時に陸海軍すべてを統括する権限を持つ地位を与えられた。
---
## 特攻を許さぬ将
太平洋戦争が始まると。
日本はイギリスとの同盟を再び結んだ。
イギリスの海軍力と情報網。
日本の陸海軍。
そして信由の統一指揮。
その組み合わせによって。
戦局は史実とは大きく異なるものとなった。
だが。
戦争が長引くにつれ。
一部の将校は。
若い兵士を使い捨てる作戦を提案し始めた。
将校「敵艦へ体当たりする攻撃を」
将校「若者たちへ命じるべきです」
その瞬間。
信由の拳が。
将校の顔を殴り飛ばした。
将校「な、何を」
信由「若者の命を」
信由「何だと思っている」
将校「国のために死ぬことこそ」
信由「黙れ!」
信由の怒声が。
会議室全体を揺らした。
信由「お前は今」
信由「日本の未来を奪おうとした!」
信由「若者は」
信由「死ぬために生まれたのではない!」
信由「戦争が終わった後」
信由「国を作るために生きる者たちだ!」
将校「しかし戦局が」
信由「兵を生かして勝つ方法を考えるのが」
信由「将校の役目だ!」
信由「死ねと命じるだけなら」
信由「子供でもできる!」
特攻作戦を提案した将校。
無意味な突撃を命じた将校。
補給のない戦場へ兵を送った将校。
信由は彼らを。
最低でも四階級降格とした。
場合によっては。
軍から追放した。
信由「兵の死を」
信由「数字で数える者に」
信由「軍を率いる資格はない」
---
## 終戦協定――奪うな、捨てるな、ともに生きよ
やがて。
戦争は日本とイギリスを中心とする陣営の勝利で終わった。
アメリカは敗戦国として。
終戦協定の席へついた。
日本側の代表は。
天皇陛下から全権を与えられた織田信由。
アメリカ大統領。
ハリー・S・トルーマン。
イギリス国王。
ジョージ六世。
そして。
後に女王となるエリザベス王女も立ち会っていた。
多くの者が。
信由は敗戦国アメリカへ。
領土。
軍備。
権益。
巨額の賠償。
それらを求めると思っていた。
だが信由が求めたものは。
復興に必要な資金。
そして。
双方の戦死者を弔うための慰霊費用だけだった。
トルーマン「それだけなのか」
信由「はい」
トルーマン「領土を求めない」
信由「求めません」
トルーマン「軍を解体しろとも」
信由「申しません」
トルーマン「アメリカを弱体化させる要求もない」
信由「ありません」
トルーマン「なぜだ」
信由は。
静かに答えた。
信由「奪えば」
信由「奪われた者は、いつか奪い返そうとします」
信由「捨てれば」
信由「捨てられた者は、生きるために再び戦います」
信由「ですから」
信由「奪わない」
信由「捨てない」
信由「ともに生きる道を選ぶ」
それは。
信時が残した家訓を。
現代の言葉へ置き換えたものだった。
信由「勝者が敗者からすべてを奪えば」
信由「それは平和ではありません」
信由「次の戦争までの休息です」
信由「我々が作るべきものは」
信由「敗者が復讐を誓う時代ではない」
信由「ともに立ち直ることのできる未来です」
トルーマンは。
長く信由を見つめた。
トルーマン「私は」
トルーマン「敗戦国の大統領として」
トルーマン「屈辱を覚悟して、この席へ来た」
トルーマン「だが」
トルーマン「あなたは我々へ」
トルーマン「立ち上がる権利を残した」
信由「権利ではありません」
信由「人が生きるために、当然必要なものです」
トルーマン「……織田閣下」
トルーマン「あなたの国と」
トルーマン「いつか真の友人になれることを願う」
信由「そのための終戦です」
---
ジョージ六世も。
静かに言葉を続けた。
ジョージ六世「勝利した国の代表が」
ジョージ六世「ここまで自らを律する姿を」
ジョージ六世「私は初めて見た」
信由「我々も」
信由「多くの命を失いました」
ジョージ六世「だからこそ」
ジョージ六世「敗者へ同じ苦しみを与えたくなるものだ」
信由「それでは」
信由「亡くなった者たちの死を」
信由「次の戦争の理由に変えることになります」
ジョージ六世「その通りだ」
ジョージ六世「あなたの祖先が残した言葉は」
ジョージ六世「日本だけのものではない」
ジョージ六世「これからの世界が学ぶべき言葉だ」
---
若きエリザベス王女も。
信由へ問いかけた。
エリザベス「信由閣下」
信由「はい、王女殿下」
エリザベス「あなたは」
エリザベス「敗者を許すことが怖くはないのですか」
信由「怖いです」
エリザベス「それでも、許すのですか」
信由「許すことと」
信由「備えを捨てることは違います」
信由「我々は備える」
信由「二度と攻められぬように」
信由「そして」
信由「二度と攻める必要がない関係を作ります」
エリザベスは。
その言葉を胸へ刻むように頷いた。
エリザベス「強さとは」
エリザベス「敵を倒すことだけではないのですね」
信由「はい」
信由「倒した敵と」
信由「再び同じ席に座れることも」
信由「強さだと思います」
エリザベス「その言葉を」
エリザベス「私は忘れません」
---
## 軍を持つ理由
戦後。
信由は日本の総理大臣となった。
アメリカと同盟を結び。
日本の防衛体制を整えた。
だが。
強い軍を作ることへ反対する者もいた。
野党議員「織田総理は」
野党議員「再び戦争を始めるおつもりですか」
信由は、静かに立ち上がった。
信由「常に備えるのは」
信由「国を預かる者として当然のことです」
野党議員「軍を持てば」
野党議員「戦争へ近づきます」
信由「何も備えず」
信由「国民が死んでからでは遅い」
野党議員「しかし」
信由「あなたは」
信由「国民が死んでもよいとおっしゃるおつもりですか」
野党議員「そのようなことは」
信由「他国が攻めてきた時」
信由「国民が殺された時」
信由「あなたは何とおっしゃるのです」
野党議員「……」
信由「何の備えもせず」
信由「守れなかった責任を」
信由「それも俺のせいにするおつもりですか」
議場は。
静まり返った。
信由「軍は」
信由「戦争を始めるためだけのものではない」
信由「戦争を始めさせないためのものです」
信由「弱いから狙われる」
信由「守れないから奪われる」
信由「だから備える」
信由「そして同時に」
信由「戦わずに済む関係を作る」
信由「どちらか一方では、国は守れません」
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## 国際連合――世界へ伝わる家訓
日本が国際連合へ再加盟した日。
信由は演説を行った。
信由「我が国には」
信由「数百年前から受け継がれた言葉があります」
信由「奪うな」
信由「捨てるな」
信由「ともに生きよ」
信由「この言葉は」
信由「敗者を甘やかすためのものではありません」
信由「勝者が」
信由「己の力を律するための言葉です」
信由「異なる文化」
信由「異なる国」
信由「異なる考えを持つ者たちが」
信由「すべて同じになる必要はありません」
信由「違うまま」
信由「ともに生きる方法を探し続ける」
信由「それこそが」
信由「世界に必要な戦いだと私は考えます」
その演説は。
世界各国から大きな反響を受けた。
織田家の言葉は。
蝦夷地から。
日本へ。
そして。
世界へ広がっていった。
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## 二〇二六年――救済の英雄
時は流れ。
二〇二六年。
北海道では。
今も織田家の名を知らぬ者はいない。
五稜郭城。
北海道を走る主要道路。
各地の病院。
アイヌ文化を伝える学校。
北方四島の防衛史。
新選組が秩序を守った記録。
西郷隆盛が土地を開いた記録。
榎本武揚が海を守った記録。
それらすべての始まりには。
一人の男がいた。
農民の子として生まれ。
九歳で戦場へ立ち。
織田信長に見いだされ。
乱世を終わらせ。
敗れた者を受け入れ。
和人とアイヌがともに生きる国を築いた男。
織田信時。
その名と功績。
そして言葉は。
北海道の子供ならば、誰もが知っていた。
奪うな。
捨てるな。
ともに生きよ。
誇りを持って戦う者を尊べ。
敗れた者が埋まる地ではなく。
生きようとする者が、新たに歩み出す地を作れ。
信時は。
軍神と呼ばれた。
天下一の武人と呼ばれた。
織田家を救った忠臣とも呼ばれた。
だが。
長い歴史の末。
人々が彼へ与えた名は。
そのどれでもなかった。
戦う力を持ちながら。
救うために使い。
勝者となりながら。
敗者を捨てず。
異なる者たちへ。
ともに生きる道を差し出した男。
人々は。
織田信時を。
こう呼んだ。
**救済の英雄**。
その名は。
四百年以上の時を越えて。
今も北の大地に、生き続けている。