小牧山城へ戻った織田軍は、ひどく疲弊していた。
泥に汚れた甲冑。
折れた槍。
担がれて戻る負傷者。
城下の民は、いつもなら凱旋する兵を迎えるために道へ出る。だがこの日、誰も声を上げなかった。
敗軍の列を見れば、何が起きたかは分かる。
新六は林秀貞の屋敷で帳面を読んでいた。
年貢の配分。
道普請に使う人足。
寺社へ与えられた権利。
戦場とは異なる難しさに、眉を寄せていた時だった。
屋敷の外が騒がしくなった。
新六は立ち上がり、門の外へ出る。
そこには、敗れて戻った織田軍の姿があった。
新六「……美濃攻めが、失敗したのですか」
答えたのは、馬上の兵だった。
兵士「斎藤龍興の軍に阻まれた。こちらは押し返され、撤退するしかなかった」
新六「誰が指揮を執った」
兵士「竹中半兵衛重治という男だ。菩提山に城を構える若い武士だと聞く」
新六は、静かに拳を握った。
兵数だけの差ではない。
敵は、こちらの動きを読んでいた。
退路を断とうとする位置。
伏兵を置く場所。
織田軍が焦れて前へ出る瞬間。
それらをすべて知っているような戦い方だった。
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その夜。
新六は小牧山城へ呼び出された。
評定の間には、信長、林秀貞、村井貞勝、柴田勝家、丹羽長秀が集まっている。
信長は地図の前に座り、美濃の境目を睨んでいた。
信長「新六。戻った軍を見たか」
新六「はい」
信長「どう思う」
新六「ただの敗戦ではありません。敵はこちらの動きを読み、こちらが崩れる形へ追い込んでいます」
信長「その通りだ」
信長は、美濃の菩提山を指で叩いた。
信長「竹中半兵衛重治」
その名を口にしただけで、室内の空気が重くなった。
信長「今回、織田軍が敗れた決定的な原因だ」
勝家「若造一人の策で、ここまでの差が出たと?」
信長「一人で戦の流れを変える者はいる」
信長は、新六へ視線を向けた。
信長「半兵衛は斎藤家で正しく扱われておらぬ」
新六「扱われていない、と申されますと」
林「斎藤義龍と斎藤道三の争いでは、半兵衛は道三側に立ったと言われております。そのため義龍の時代から立場は悪く、龍興の代になっても重く用いられていないようです」
村井「菩提山の小さな城を任されてはおりますが、それ以上ではありませぬ。才能に見合う地位も、家臣も、与えられていない」
長秀「半兵衛を高く買っているのは、後見人である安藤守就と、その周辺だけだと聞きます」
信長は笑った。
信長「愚かだな、斎藤は」
その笑みは、戦場で敵を見つけた時のものではなかった。
宝を見つけた時の笑みだった。
信長「半兵衛のいない美濃など、李牧のいない趙と同じだ」
新六は、その言葉の意味を考えた。
名将を失った国は、外見がどれほど強く見えても、中身から崩れる。
つまり信長は、半兵衛一人を手に入れることで、美濃そのものを崩せると考えているのだ。
信長「新六」
新六「はっ」
信長「半兵衛を取り込め」
新六は顔を上げた。
信長「織田へ来るよう説け。地位でも、領地でも、望むものを出してよい」
新六「……拒まれた場合は」
信長の目が、わずかに細くなる。
信長「美濃から、竹中半兵衛という名を消せ」
室内に沈黙が落ちた。
殺せ、と信長は言っている。
新六は深く頭を下げた。
新六「承知いたしました」
信長「ただし、俺は半兵衛が欲しい」
新六「分かっております」
信長「殺すことは簡単だ。だが、生かして使う方が遥かに難しい。貴様がどちらを選ぶか、見せてもらう」
新六「必ずや、答えを持ち帰ります」
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評定が終わり、新六が廊下を歩いていると、林秀貞が後ろから声をかけた。
林「新六」
新六「林様」
林「半兵衛は、ただの策士ではない。相手の欲、恐れ、誇りを見て動かす男だと聞く」
新六「俺が会えば、逆に取り込まれるかもしれません」
林「その自覚があるなら、まだよい」
林は少しだけ表情を和らげた。
林「忘れるな。相手を説く時、最初に示すべきは褒美ではない。その者が何を望み、何を憎み、何を諦めているのかだ」
新六「半兵衛が斎藤家で何を失い、何を求めているのか。それを知れ、と」
林「そうだ」
次に村井貞勝が近づく。
村井「そして、美濃の民を見なさい」
新六「民を」
村井「武将が不遇でも、その領地の民が慕っているなら、力で奪えば反発が残る。半兵衛だけではなく、菩提山に住む者の心まで考えなさい」
新六「承知しました」
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出立の朝。
七海家の屋敷では、鈴と雫が新六を見送っていた。
鈴は旅装の新六を見つめながら、いつもより険しい顔をしている。
鈴「美濃へ入るのですね」
新六「ああ。信長様の命だ」
雫「相手は、織田軍を退けたほどの方なのでしょう」
新六「戦えば厄介な相手だ。だから戦う前に、話をしてくる」
鈴「話だけで済むとは思えません」
新六「分かっている」
新六は鈴へ向き直った。
新六「鈴。俺が戻らぬ時は」
鈴「言わないでください」
鈴の声が、鋭く遮った。
鈴「あなたは、戻ると言ってください。戦へ向かうたびに、死ぬ覚悟ばかり語らないでください」
新六は目を見開く。
鈴は一度息を整え、視線を逸らした。
鈴「……七海家の主が、簡単に死なれては困ります」
雫「鈴様」
鈴「何です」
雫「雫も、同じ気持ちです」
雫は新六の前へ進み、小さな守り袋を差し出した。
雫「熱田の神前で、お祈りして作りました」
新六「ありがとう」
雫「お帰りを待っています」
新六は二人を見た。
帰る場所がある。
だからこそ、今回の任務は失敗できない。
新六「必ず戻る」
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新六は精鋭を連れず、わずかな供回りだけを連れて美濃へ入った。
大軍を動かせば、竹中半兵衛は警戒する。
まずは商人を装い、菩提山周辺の村へ入り込む。
村人たちは、警戒しながらも新六の一行へ水をくれた。
新六「菩提山の城主は、どのような方ですか」
年老いた百姓が、周囲を気にしながら答える。
百姓「半兵衛様は、ようできたお方です」
新六「ようできた、と申しますと」
百姓「年貢が重い年には、城の蔵から米を出してくださる。戦で夫を失った家にも、子を飢えさせるなと」
別の女が口を開く。
村の女「城主様は、偉そうにしません。畑のことも、川のことも、ちゃんと聞いてくださいます」
新六「……そうですか」
新六は、胸の内で答えを得た。
半兵衛は、ただの軍師ではない。
民に慕われる領主だ。
信長が欲しがる理由が、少し分かった。
そして、力で奪えば、この地に長く傷を残すことも。
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その夜。
菩提山城を遠くに望む山道で、新六の前へ一人の男が現れた。
質素な衣を着た、まだ若い男。
しかし、その目だけは異様なほど静かだった。
男「尾張の商人にしては、兵の歩き方をしておられますな」
新六の部下たちが、即座に刀へ手をかける。
新六は片手を上げ、止めた。
新六「あなたが、竹中半兵衛殿ですか」
男「さて。そうだとして、何用でしょう」
新六「織田信長様の使いとして参りました」
半兵衛は、わずかに笑った。
半兵衛「やはり、そうでしたか」
新六「俺は七海新六」
半兵衛「桶狭間、森部、楽田、犬山。そして尾張の寺を裁いた新六殿」
新六は一瞬、言葉を失った。
自分のことを、相手は既に知っている。
半兵衛「織田信長殿が、わたしを欲しているのでしょう」
新六「その通りです」
半兵衛「そして、断れば殺せとも命じられた」
夜風が吹いた。
新六は否定しなかった。
新六「……はい」
半兵衛は、静かに新六を見た。
半兵衛「正直なお方だ」
新六「嘘で近づいても、あなたには見抜かれると思いました」
半兵衛「それも正しい」
半兵衛は山上の城を振り返った。
半兵衛「では新六殿。明日、菩提山へお越しください」
新六「会っていただけるのですか」
半兵衛「あなたが、織田信長殿の命をどこまで自分の言葉にできる方なのか。少し話してみたくなりました」
半兵衛は踵を返した。
半兵衛「ただし、お一人で」
新六「分かりました」
半兵衛「もし罠を疑うなら、来ない方がよい」
新六「俺は行きます」
半兵衛は振り返らずに答えた。
半兵衛「では、明日」
菩提山の闇へ、竹中半兵衛の姿が消えていく。
新六は、その背を見送った。
敵地の中で。
命を預ける交渉が始まろうとしていた。