織田信時の人生   作:秋月 了

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稲葉山城――半兵衛、敗北を知る

 

 

 菩提山城へ入る約束の日。

 

 新六は半兵衛に指定された場所へ向かった。

 

 だが、案内された先にあったのは城ではなかった。

 

 山あいにひっそりと建つ、小さな庵。

 

 竹垣に囲まれ、庭には薬草が植えられている。戦の気配など一切ない、静かな場所だった。

 

 庵の縁側に、竹中半兵衛は座っていた。

 

 粗末な衣をまとい、湯気の立つ茶を二つ用意している。

 

半兵衛「お待ちしておりました、新六殿」

 

新六「城ではなく、こちらへ呼ばれた理由を聞いてもよろしいですか」

 

半兵衛「城では、余計な耳がございます。今日の話は、わたしと新六殿だけで足りるでしょう」

 

 新六は庵へ入り、半兵衛の向かいに座った。

 

 茶が差し出される。

 

半兵衛「毒は入っておりません」

 

新六「そうは思っていません」

 

半兵衛「信じられるのですか」

 

新六「あなたが俺を殺す気なら、昨夜の山道でできたはずです」

 

 半兵衛はわずかに笑った。

 

半兵衛「なるほど。織田信長殿が気に入るわけです」

 

 しばらく、二人は黙って茶を飲んだ。

 

 先に口を開いたのは新六だった。

 

新六「竹中半兵衛殿。織田信長様は、あなたを欲しておられます」

 

半兵衛「聞いております」

 

新六「美濃であなたの力を腐らせるには惜しい、と」

 

半兵衛「随分と買ってくださる」

 

新六「俺も、そう思います」

 

 半兵衛は茶碗を置いた。

 

半兵衛「新六殿は、織田家へ来れば何を与えると申されますか。領地ですか。家臣ですか。高い席ですか」

 

新六「最初に約束できるのは、あなたの才を正しく使う場です」

 

半兵衛「正しく」

 

新六「信長様は、役に立つ者を使う方です。ですが、ただ従順な者だけを望む方でもない。意見を言える者、策を出せる者、結果を見せる者を必要としている」

 

半兵衛「それは織田家の都合でしょう」

 

新六「そうです」

 

 新六は否定しなかった。

 

新六「ですが、半兵衛殿の都合でもあるはずです。美濃でどれほど策を立てても、正しく見られず、使われず、疑われるだけなら――それは、半兵衛殿にとっても損でしょう」

 

 半兵衛の目が、少しだけ細くなった。

 

半兵衛「よく調べておられる」

 

新六「民があなたを慕っていました。城の者も、村の者も。あなたが何も望まぬ人ではないことは分かっています」

 

半兵衛「何を望むと」

 

新六「美濃を、壊さずに変えることではありませんか」

 

 半兵衛は答えなかった。

 

 代わりに、窓の外へ目を向ける。

 

半兵衛「新六殿。織田信長殿は、美濃を取るためなら、何人を殺せますか」

 

新六「必要なら、多くを殺すでしょう」

 

半兵衛「新六殿は」

 

新六「できる限り、殺さずに済む道を探します」

 

半兵衛「ですが、最後には命令に従う」

 

新六「はい」

 

半兵衛「正直なお方だ」

 

 半兵衛は、ふっと息を吐いた。

 

半兵衛「では、一つだけ新六殿に頼みがあります」

 

新六「何でしょう」

 

半兵衛「わたしの策に、少し付き合っていただきたい」

 

新六「……策、ですか」

 

半兵衛「ええ。わたしが織田へ行くに値するかどうか。新六殿が、わたしを本当に連れて行く器かどうか。それを確かめたい」

 

 新六は半兵衛を見た。

 

 この男は、会った時からこちらを測っている。

 

 そして今も、何かを動かそうとしている。

 

 だが新六は、静かに頷いた。

 

新六「分かりました」

 

半兵衛「よろしい。では、今から稲葉山城へ参りましょう」

 

新六「稲葉山へ?」

 

半兵衛「城主・斎藤龍興殿へ、少し忠言を申し上げます」

 

---

 

 半兵衛が連れた手勢は、わずか十数人だった。

 

 新六の供回りを足しても、城を攻め落とせるような人数ではない。

 

 それでも半兵衛は、まるで散歩にでも出るような足取りで稲葉山城へ向かった。

 

 城門前。

 

 半兵衛は堂々と名を告げた。

 

半兵衛「竹中半兵衛重治である。龍興様へ急ぎ申し上げたいことがある」

 

 城兵たちは半兵衛を知っていた。

 

 菩提山の城主。

 

 斎藤家の家臣。

 

 しかも少数の供しか連れていない。

 

 疑う者はほとんどいなかった。

 

 門は開いた。

 

 半兵衛と新六は、稲葉山城へ入る。

 

 城内へ進む間、半兵衛は声を潜めた。

 

半兵衛「新六殿。これより先、わたしの言う通りに動いてください」

 

新六「どこまでですか」

 

半兵衛「城を取るところまで」

 

新六「……本気ですか」

 

半兵衛「本気です」

 

 新六は半兵衛の横顔を見た。

 

 冗談ではない。

 

 この男は本当に、十数人で稲葉山城を奪うつもりだ。

 

新六「なぜ俺を連れてきた」

 

半兵衛「新六殿がいると、城兵は余計な抵抗をしにくい」

 

新六「織田の者だと知られれば、逆でしょう」

 

半兵衛「知られなければよい」

 

 半兵衛は笑った。

 

半兵衛「それに、新六殿は人を殺しすぎぬ。今日は、それが必要です」

 

 その言葉に、新六はわずかに目を細めた。

 

 半兵衛は、こちらの性質まで読んでいる。

 

 だが新六は何も言わず、従った。

 

---

 

 城内の一室。

 

 半兵衛は、龍興の近臣へ告げた。

 

半兵衛「美濃国内に織田方の間者が入り込んでおります。城内にも協力者がいる恐れがあります」

 

近臣「何だと」

 

半兵衛「念のため、城門と武器蔵、詰所を改める必要があります」

 

近臣「分かった。兵を集める」

 

 半兵衛の指示で、城兵は散った。

 

 武器蔵の見張りが入れ替えられる。

 

 城門の兵が集められる。

 

 龍興の近臣たちは、それぞれの持ち場へ走る。

 

 半兵衛は、わずかな言葉だけで城の要を空にしていった。

 

 新六は背筋に冷たいものを感じた。

 

 策とは、兵を動かすことではない。

 

 相手が自ら動きたくなる言葉を置き、望む場所へ歩かせることなのだ。

 

半兵衛「新六殿。武器蔵へ」

 

新六「分かった」

 

 武器蔵では、半兵衛の手勢が既に見張りを制圧していた。

 

 傷つけず、縛り上げている。

 

 新六も加わり、兵を押さえた。

 

 次は城門。

 

 次は龍興の居所へ続く廊下。

 

 城兵たちは混乱していた。

 

「織田の間者がいる!」

 

「裏切り者を捕えろ!」

 

「誰の命令だ!」

 

 命令が飛び交うほど、誰が敵なのか分からなくなっていく。

 

 半兵衛はその混乱の中心を、静かに歩いていた。

 

半兵衛「新六殿。城門は」

 

新六「押さえた。外から援軍を入れられる」

 

半兵衛「結構です」

 

新六「本当に落とす気か」

 

半兵衛「もう落ちております」

 

 半兵衛の言葉通りだった。

 

 城主のいる御殿へ至る頃には、稲葉山城はほとんど抵抗を失っていた。

 

 龍興は事態を理解できぬまま、近臣に囲まれていた。

 

龍興「何が起きている!」

 

近臣「竹中半兵衛が、城内を掌握しております!」

 

龍興「半兵衛が? あの者が、なぜ!」

 

 半兵衛は御殿の前に立ち、静かに頭を下げた。

 

半兵衛「龍興様。ご安心ください。命を奪うために参ったのではございません」

 

龍興「ならば何のためだ!」

 

半兵衛「殿に、お見せするためです」

 

 半兵衛は顔を上げた。

 

半兵衛「稲葉山城が、どれほど容易く落ち得る城かを」

 

 龍興の顔から、血の気が引いた。

 

半兵衛「敵が大軍で攻めて来なくとも、城は落ちます。家臣が互いを疑い、命令が乱れ、誰も責を負わぬ時には」

 

龍興「貴様……!」

 

半兵衛「この城を返します。ですが、どうか美濃を軽んじぬでください」

 

 その言葉だけを残し、半兵衛は踵を返した。

 

---

 

 稲葉山城を出た後。

 

 半兵衛は山道の途中で立ち止まった。

 

半兵衛「これで、わたしは隠居いたします」

 

新六「隠居?」

 

半兵衛「龍興様へ恥をかかせました。城を一時でも奪った以上、斎藤家に留まる理由はありません」

 

新六「だから、美濃を出ると?」

 

半兵衛「ええ。どこか山奥で、静かに暮らします」

 

 新六は、半兵衛の前へ回り込んだ。

 

新六「それでは駄目です」

 

半兵衛「なぜです」

 

新六「龍興にも面子があります」

 

 半兵衛の表情が、わずかに変わった。

 

新六「半兵衛殿は城を落としただけではない。龍興の面子を、家臣たちの前で砕いた」

 

半兵衛「……そうでしょうね」

 

新六「このまま美濃を出ようとしても、追手がかかります。斎藤家は、あなたを生かしておけない」

 

半兵衛「それでも、織田へは行かぬと?」

 

新六「俺たちが守ります」

 

 新六は、はっきりと言った。

 

新六「織田へ来てください。信長様のもとで、あなたの才を使ってください。あなたを殺させない。菩提山の民も、残された家臣も、可能な限り守る」

 

半兵衛「……新六殿」

 

新六「美濃を捨てて逃げるのではない。美濃を変えるために、織田へ来るんです」

 

 半兵衛はしばらく黙っていた。

 

 そして、ゆっくりと笑った。

 

半兵衛「なるほど」

 

新六「何がおかしい」

 

半兵衛「わたしは、新六殿を動かしたつもりでした」

 

 半兵衛は静かな目で、新六を見た。

 

半兵衛「庵へ呼び、城へ連れ込み、策に従わせた。稲葉山を落とせば、わたしは美濃にいられなくなる。そうなれば、新六殿は信長殿の命に従い、わたしを織田へ連れて行こうとする」

 

新六「……」

 

半兵衛「ですが違った」

 

 半兵衛は小さく息を吐いた。

 

半兵衛「新六殿は、最初から分かっていたのでしょう。わたしが稲葉山を落とせば、自ら美濃に居場所を失うことを」

 

新六「半兵衛殿は、龍興を試すつもりだった」

 

半兵衛「ええ。そして、美濃の家臣たちにも」

 

新六「その上で、自分が織田へ行く理由を作るつもりだった」

 

半兵衛「……そうです」

 

 半兵衛は、苦笑した。

 

半兵衛「新六殿は、わたしに動かされるふりをしていた」

 

新六「違います。俺は半兵衛殿の策が見たかった」

 

半兵衛「それが、動かされるふりです」

 

 半兵衛は空を見上げた。

 

 負けた。

 

 策で負けたわけではない。

 

 目の前の男は、自分の策に乗りながら、最後に自分が最も選びやすい道を用意していた。

 

 美濃に残れば死ぬ。

 

 隠居すれば、民も家臣も守れない。

 

 織田へ行けば、才能を使う場があり、新六という男がいる。

 

 選ぶべき道など、最初から一つしかなかった。

 

半兵衛「敗北ですな」

 

新六「半兵衛殿」

 

半兵衛「ですが、不思議と嫌な気持ちはいたしません」

 

 半兵衛は新六へ向き直り、深く頭を下げた。

 

半兵衛「条件があります」

 

新六「何でも聞きます」

 

半兵衛「わたしは織田家に仕えましょう」

 

 新六は息を止めた。

 

半兵衛「ただし、わたしがお仕えするのは織田信長殿ではなく――新六殿です」

 

新六「俺に?」

 

半兵衛「新六殿のもとでなら、わたしの策は人を生かすためにも使えるでしょう」

 

 新六は、しばらく答えられなかった。

 

 やがて、深く頭を下げる。

 

新六「……俺は、まだ未熟です」

 

半兵衛「存じております」

 

新六「それでも、俺のもとへ来てくれるなら」

 

 新六は顔を上げた。

 

新六「必ず、あなたの才を無駄にしません」

 

半兵衛「承知いたしました。これより竹中半兵衛重治、新六殿にお仕えいたします」

 

 山風が吹き抜けた。

 

 その日。

 

 織田家は、一人の天才軍師を得た。

 

 そして新六は、初めて自分のために仕える家臣を得たのだった。

 

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