織田信時の人生   作:秋月 了

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墨俣一夜城――新六、勝家と秀吉を動かす

 

 

 竹中半兵衛を家臣として迎えたことで、織田信長は美濃攻略の手をさらに早めた。

 

 次なる標的は、木曽川の向こうにある墨俣。

 

 美濃へ兵を送り込むための橋頭堡であり、斎藤家の目と鼻の先に城を築くという、あまりにも大胆な策だった。

 

 だが、その策はすでに二度失敗していた。

 

 最初に命じられた佐久間信盛は、築城の途中で斎藤軍の襲撃を受け、資材と兵を失って退いた。

 

 次に柴田勝家が挑んだ。

 

 しかし勝家もまた、完成前の陣地を叩かれ、城を築けぬまま引き返すことになった。

 

 小牧山城の評定では、重い空気が流れていた。

 

信長「墨俣は、美濃の喉元だ」

 

 信長は地図の上の一点を叩いた。

 

信長「ここに城が立てば、美濃は寝ても覚めても織田を意識せねばならぬ」

 

佐久間「されど、敵の目が近すぎます。材木を運べば見つかり、土塁を築けば叩かれる」

 

勝家「次は必ず――」

 

信長「よい」

 

 信長は勝家の言葉を遮った。

 

 責める声ではなかった。

 

 むしろ、次の一手を考える冷たい声だった。

 

信長「失敗した者を責めても城は立たぬ」

 

 視線が、新六へ向く。

 

信長「新六」

 

新六「はっ」

 

信長「墨俣に城を築け」

 

 その場にいた者たちの視線が、一斉に新六へ集まった。

 

 まだ若い侍大将。

 

 戦では手柄を重ね、寺社の問題も片付けた。

 

 だが、敵地の目前で城を築くなど、ただの武勇では成せない。

 

信長「できるか」

 

 新六は一度だけ目を伏せた。

 

 その脳裏には、半兵衛の策、勝家の教え、林秀貞と村井貞勝から学んだ政の理が浮かんでいた。

 

 そして、新六は顔を上げる。

 

新六「柴田様を軍監としてお貸しください」

 

勝家「俺を?」

 

新六「はい。墨俣の築城は、柴田様の威光と兵があればこそ成ります」

 

 続いて新六は、評定の末席にいた木下藤吉郎へ視線を向けた。

 

新六「そして木下藤吉郎殿を、お借りしたく存じます」

 

藤吉郎「俺を、ですかい?」

 

新六「あなたは人と物を動かすのが上手い。城を築くために必要です」

 

 藤吉郎は一瞬だけ驚き、すぐに楽しげな笑みを浮かべた。

 

藤吉郎「新六様にそう言われちゃあ、断れませぬな」

 

信長「それで、できるのか」

 

新六「柴田様と藤吉郎殿が力を貸してくださるなら」

 

 新六は地図の中美濃を見つめた。

 

新六「墨俣に城を築くだけではなく、中美濃まで取れます」

 

 評定の間が静まり返った。

 

 勝家が眉を上げる。

 

 佐久間は息を呑む。

 

 信長だけが、しばらく新六を見つめていた。

 

 そして。

 

信長「ははははは!言いよるわ」

 

 信長は、心底愉快そうに笑った。

 

信長「面白い!好きにやってみろ!」

 

 信長は立ち上がる。

 

信長「墨俣を築き、中美濃まで取ってみせよ。できたなら、貴様らに相応の褒美をくれてやる」

 

新六「はっ」

 

勝家「……面白い」

 

藤吉郎「これは、でかい仕事になりそうですな」

 

半兵衛「新六様」

 

 半兵衛が静かに口を開いた。

 

半兵衛「策は、すでにございます」

 

 新六は頷いた。

 

新六「聞かせてくれ」

 

---

 

 出陣前夜。

 

 新六の陣には、柴田勝家、木下藤吉郎、竹中半兵衛が集まっていた。

 

 地図の上には、墨俣周辺の川筋と村、斎藤軍の想定進路が書き込まれている。

 

半兵衛「敵は、築城の報を聞けば必ず川を渡って来ます」

 

勝家「城を壊すためにな」

 

半兵衛「はい。斎藤軍は、完成前の城を叩くつもりで動くでしょう」

 

新六「だから完成前を見せない」

 

藤吉郎「組み立てる前に、全部作っちまうんですな」

 

 藤吉郎は、指で山奥の村を指した。

 

藤吉郎「山の中で柱も壁も櫓も、先に作ってしまう。材木は切り出して、規格を揃える。筏に載せて川を下り、墨俣では組み立てるだけにする」

 

勝家「川を下る間に見つかる」

 

藤吉郎「だから、夜に下ります。見つかっても、ただの木材運びにしか見えません」

 

新六「そこで、もう一人必要になる」

 

藤吉郎「蜂須賀正勝ですな」

 

 藤吉郎は笑った。

 

藤吉郎「美濃との境にいる野武士どもは、地形も川も知り尽くしている。蜂須賀正勝なら、金だけではなく、話で動く男です」

 

新六「頼めるか」

 

藤吉郎「任せてくだせえ」

 

---

 

 数日後。

 

 木下藤吉郎は、美濃近くの山中で蜂須賀正勝と向き合っていた。

 

 正勝の周囲には、荒々しい野武士たちが控えている。

 

蜂須賀「織田の使いが、何の用だ」

 

藤吉郎「織田に仕えろとは言いませぬ」

 

蜂須賀「なら何だ」

 

藤吉郎「一緒に、面白い戦をしませんか」

 

 正勝の目が細くなる。

 

藤吉郎「墨俣に城を築く。斎藤の鼻先に、たった一晩で城を生やすんです」

 

蜂須賀「馬鹿な」

 

藤吉郎「馬鹿だからこそ、誰もやらねえ。ですが成功すれば、美濃の連中は腰を抜かす」

 

蜂須賀「そして俺たちは何を得る」

 

藤吉郎「織田家に覚えてもらえる。新六様は、働いた者を捨てない方です」

 

 正勝は、藤吉郎を見た。

 

蜂須賀「新六、か。あの怪力の若武者か」

 

藤吉郎「怪力だけじゃありませぬ。あのお方は、俺たちみたいな者の働きを見てくださる」

 

 少しの沈黙。

 

 やがて正勝は笑った。

 

蜂須賀「よかろう。野武士が城を生やすところ、見せてやる」

 

---

 

 山奥では、昼夜を問わず作業が進められた。

 

 柱。

 板。

 櫓の骨組み。

 柵。

 門。

 

 すべてが運びやすい大きさに切り分けられ、印が付けられた。

 

 新六は兵の配置と資材の数を確認し、勝家は完成後の城を守るための兵を整える。

 

 半兵衛は誰よりも早く墨俣へ入り、川辺を歩いた。

 

 川の深さ。

 渡れる場所。

 夜の流れ。

 対岸から見える篝火の位置。

 

 半兵衛は地面へ杭を打ち、川幅を測った。

 

半兵衛「敵が渡河するなら、ここです」

 

新六「なぜ分かる」

 

半兵衛「大軍が渡るには、水が浅く、足場があり、兵を広げられる場所が必要です」

 

 半兵衛は指を三つの地点へ向ける。

 

半兵衛「斎藤軍は、この中のどこかを選ぶでしょう」

 

新六「分かった。篝火の位置で見分ける」

 

半兵衛「夜の闇で敵兵は見えにくい」

 

新六「だが、火の揺れは見える。人が集まれば、火の数も動きも変わる」

 

半兵衛「新六様なら、読めますか」

 

新六「読む」

 

 半兵衛は満足そうに頷いた。

 

---

 

 決行の夜。

 

 月は雲に隠れ、川は黒い帯のように流れていた。

 

 大量の資材を載せた筏が、静かに川を下る。

 

 その上には織田の兵、柴田衆、藤吉郎の手勢、蜂須賀の野武士たちがいた。

 

 墨俣へ着くと、全員が一斉に動いた。

 

 柱が立つ。

 

 板が打ち付けられる。

 

 柵が組まれる。

 

 櫓が上がる。

 

 新六は中央で声を飛ばした。

 

新六「東の柵を先に立てろ! 川側の櫓は二つ! 藤吉郎殿、門の組み上げを頼む!」

 

藤吉郎「任せてくだせえ!」

 

新六「柴田様、城内へ入った後の守りを!」

 

勝家「言われるまでもない!」

 

 作業は夜を徹して続いた。

 

 そして夜明け前。

 

 墨俣の地に、城が立っていた。

 

 未完成の砦ではない。

 

 櫓と柵と門を備えた、斎藤家の目の前に突き立つ織田の城だった。

 

---

 

 夜明け頃。

 

 築城の報を聞いた斎藤軍が、墨俣の対岸へ現れた。

 

 大将は斎藤飛騨守。

 

 川向こうに立つ城と、その奥に掲げられた柴田勝家の旗を見て、顔を歪める。

 

飛騨守「柴田勝家が本陣にいる」

 

 飛騨守は叫んだ。

 

飛騨守「城が完成する前に潰すはずだったのだ! 今からでも遅くはない! 川を渡れ! 勝家の首を取れ!」

 

 斎藤軍が渡河を始める。

 

 篝火が川辺に並ぶ。

 

 火の動きが、暗闇の中でゆっくりと広がっていく。

 

 墨俣城の櫓。

 

 新六は火の位置を見つめていた。

 

半兵衛「敵は、中央の浅瀬へ集まっています」

 

新六「まだ待て」

 

半兵衛「新六様」

 

新六「もう少し引きつける。先頭だけではなく、後ろも川へ入ってからだ」

 

 鉄砲隊が、闇の中で息を潜める。

 

 火縄の先が赤く光る。

 

新六「今だ」

 

 号令とともに、鉄砲が火を噴いた。

 

 轟音が川面を裂く。

 

 先頭の斎藤兵が次々と倒れる。

 

飛騨守「夜の鉄砲など、滅多に当たるものではない!」

 

 飛騨守は、兵を奮い立たせようと叫ぶ。

 

飛騨守「恐れるな! 闇に紛れれば、敵も狙えぬ!」

 

 だが、銃声は止まらなかった。

 

 一発ごとに、前へ出た兵が倒れる。

 

 川の中で倒れた者が、後続の足を取る。

 

 逃げようとする者と進もうとする者がぶつかり、渡河の列が乱れた。

 

 それも当然だった。

 

 半兵衛は事前に渡河地点を絞り込み、新六は篝火の並びから敵の密集する場所を見抜いていた。

 

 闇の中でも、織田軍には敵の位置が見えていた。

 

半兵衛「新六様。右へ火が増えました」

 

新六「第二隊が入った。右の鉄砲を二十歩ずらせ!」

 

鉄砲頭「承知!」

 

新六「弓隊は、火の向こうへ散らせ! 川へ入った者を押し返せ!」

 

 鉄砲と矢が、斎藤軍へ浴びせられる。

 

 多くの兵が倒れた。

 

 それでも飛騨守は退かなかった。

 

飛騨守「渡り切れ! 城へ入れば鉄砲など使えぬ! 柴田勝家の旗を目指せ!」

 

 斎藤軍は、ようやく川を渡り切った。

 

 だが、その先には防御柵が立ちはだかっていた。

 

 柵の後ろから、矢と鉄砲が再び降る。

 

 死傷者が増える。

 

 それでも斎藤軍は、勝家の旗を目指して前へ進んだ。

 

 やがて柵が壊される。

 

 斎藤兵が城内へ雪崩れ込んだ。

 

飛騨守「今だ! 本陣へ進め!」

 

 城の内側では、新六が待っていた。

 

 その周囲には、七海家の百人衆と、蜂須賀の野武士たちがいる。

 

新六「ここから先は通さない!」

 

 新六が槍を振るう。

 

 先頭の敵兵が弾き飛ばされる。

 

 野武士たちが左右から斬り込み、七海の兵が槍を揃える。

 

 だが、斎藤軍も数は多い。

 

 少しずつ、少しずつ、新六たちは押し込まれていく。

 

藤吉郎「新六様! 敵の勢いが強すぎます!」

 

新六「まだだ!」

 

半兵衛「飛騨守が本陣を動かしました」

 

新六「……釣れたな」

 

 飛騨守は、勝利を確信していた。

 

 柴田勝家の旗が見える。

 

 織田軍は押されている。

 

 今ここで自ら本陣を前へ出せば、勝家を討つ戦の中心に立てる。

 

飛騨守「俺も行く! 勝家の首は、俺が取る!」

 

 斎藤軍の本陣が前へ動く。

 

 その瞬間。

 

 織田軍の後方から、鏑矢が高く上がった。

 

 空気を裂く音が、戦場へ響く。

 

 それが合図だった。

 

 川沿いの草むらから、蜂須賀正勝が率いる残りの野武士たちが現れた。

 

蜂須賀「逃げ道を塞げ!」

 

 野武士たちは、斎藤軍の後方へ回り込む。

 

 退路が断たれる。

 

 同時に、それまで防戦に徹していた新六が槍を掲げた。

 

新六「七海衆、前へ!」

 

「おおっ!」

 

新六「ここで押し返す! 飛騨守の本陣を崩せ!」

 

 新六たちは一転して攻勢へ出た。

 

 斎藤軍は、前から新六たちに押され、後ろから野武士に塞がれる。

 

 飛騨守は、ようやく事態を悟った。

 

飛騨守「撤退だ! 左から抜けろ!」

 

 だが、その左側から太鼓の音が響いた。

 

 重い。

 腹へ響くような太鼓だった。

 

 霧の向こうから、柴田勝家と柴田衆が現れる。

 

 勝家の旗が、真正面に立った。

 

勝家「遅かったな、飛騨守」

 

 斎藤軍の兵が、足を止める。

 

 前には柴田勝家。

 後ろには蜂須賀正勝。

 左右には新六の兵と城柵。

 

 包囲は、完成していた。

 

飛騨守「……違う」

 

 飛騨守は、掠れた声で呟いた。

 

飛騨守「織田は、城を築きに来たのではない」

 

 目の前の墨俣城。

 

 築城は、ただの餌だった。

 

 自分たちを川へ誘い、城内へ引き込み、中央の軍を潰すための罠。

 

飛騨守「この戦そのものの趨勢を、決めに来たのか」

 

勝家「ようやく分かったか」

 

 勝家は大槍を構えた。

 

勝家「ならば、終わりだ」

 

---

 

 斎藤軍は壊滅した。

 

 飛騨守は、自ら柴田勝家へ挑んだ。

 

 だが、勝家の槍は一合で飛騨守の守りを砕き、二合目でその胸を貫いた。

 

 斎藤飛騨守は、墨俣の地で討ち取られた。

 

 そして織田軍は、城に籠もらなかった。

 

 そのまま中美濃へ進撃した。

 

 城を落とし。

 村を押さえ。

 斎藤方の兵を降し。

 道と川を繋いで補給を確保する。

 

 二週間。

 

 わずか二週間で、織田軍は中美濃を押さえた。

 

 墨俣の城は、ただの前線基地ではなくなった。

 

 美濃を切り裂くための刃となった。

 

---

 

 中美濃を制した後。

 

 新六は、半兵衛と二人で戦場跡を歩いていた。

 

新六「最初から、この形を考えていたんだな」

 

半兵衛「はい」

 

新六「俺に、勝家様を軍監に付けろと進言したのも」

 

半兵衛「新六様が、手柄を立てすぎておられるからです」

 

 新六は足を止めた。

 

半兵衛「初陣から目覚ましい働き。侍大将への昇進。寺社の裁定。私を迎え入れ、墨俣の築城まで成功させる」

 

新六「それが何か問題なのか」

 

半兵衛「人は、あまりに早く伸びる者を恐れます」

 

 半兵衛は静かに続けた。

 

半兵衛「新六様が若く、農民の出でありながら重臣たちを追い越していけば、必ず妬む者が出ます。出る杭は、打たれるのです」

 

新六「だから勝家様を前に出した」

 

半兵衛「はい。勝家様は築城の失敗を挽回できる。そして柴田家の名で中美濃を取った形にもできる」

 

新六「俺は、そのための土台か」

 

半兵衛「違います」

 

 半兵衛は、はっきり答えた。

 

半兵衛「新六様は、この策の要です。ですが、要であることを今すべての者に見せる必要はありません」

 

 新六は、ゆっくりと息を吐いた。

 

新六「半兵衛らしいな」

 

半兵衛「お褒めにあずかり、恐悦至極にございます」

 

新六「ただし、次からは先に言え」

 

半兵衛「承知いたしました、新六様」

 

 この頃から半兵衛は、新六を「新六様」と呼ぶようになった。

 

 主従としてではなく。

 

 自らが選んだ主へ、明確な敬意を示すために。

 

---

 

 陣へ戻ると、柴田勝家が待っていた。

 

勝家「新六」

 

新六「勝家様」

 

勝家「墨俣の件、見事だった」

 

新六「勝家様が軍監として支えてくださったからです」

 

勝家「それだけではない」

 

 勝家は少しだけ笑う。

 

勝家「俺が城を築けずに退いたことを、貴様は一度も口にしなかったな」

 

新六「俺も失敗することはあります」

 

勝家「だが、今回の功を俺へ渡すように動いた」

 

新六「功は、戦った者皆のものです」

 

勝家「違う」

 

 勝家は、新六の肩へ手を置いた。

 

勝家「貴様は、人を立てることができる。将として、それは強さだ」

 

 勝家は一度だけ頷いた。

 

勝家「これからも俺を使え。だが、俺にもお前を使わせろ」

 

新六「はい」

 

---

 

 その夜。

 

 木下藤吉郎が、新六の陣を訪れた。

 

藤吉郎「新六様」

 

新六「藤吉郎殿。どうした」

 

藤吉郎「今回、俺を使ってくださってありがとうございやした」

 

新六「蜂須賀殿を連れてきたのは、藤吉郎殿の働きだ」

 

藤吉郎「褒めてもらえるのは、悪くありやせん」

 

 藤吉郎は、少し照れたように笑う。

 

藤吉郎「俺は、これまでずっと、でかい家の生まれでもなければ、立派な家臣でもありやせんでした」

 

新六「俺も同じだ」

 

藤吉郎「だからこそ、新六様が俺を初めから使い物になる者として見てくれたことが嬉しいんです」

 

新六「藤吉郎殿は使い物になるどころか、俺にできないことができる」

 

藤吉郎「へへっ。なら、これからも仲良くしてくだせえ」

 

新六「ああ。頼りにしている」

 

 藤吉郎は深く頭を下げた。

 

 その日から、木下藤吉郎は新六へ強い好意と敬意を抱くようになった。

 

---

 

 一方、小牧山城。

 

 中美濃制圧の報を受けた信長は、城の庭を歩いていた。

 

 その隣には、妹の市がいる。

 

市「兄上は、とてもご機嫌ですね」

 

信長「中美濃を二週間で取った。機嫌が悪くなる理由があるか」

 

市「新六殿が、また手柄を立てましたものね」

 

 信長は、わずかに笑った。

 

信長「新六は、いずれ五千の兵を預けてもよい」

 

市「五千……」

 

信長「勝家も、長秀も、藤吉郎も、皆それぞれに大きくなる。美濃を取れば、織田はさらに大きくなる」

 

 信長は歩みを止めた。

 

 浅井との縁談。

 

 市を近江へ嫁がせることで、北近江の浅井長政と結ぶ案。

 

 それは織田家にとって有力な策であった。

 

 だが今の信長には、迷いがあった。

 

信長「市」

 

市「はい」

 

信長「浅井へ行くのは、嫌か」

 

 市は少し黙った。

 

 そして、兄の顔をまっすぐに見た。

 

市「嫌です」

 

信長「理由は」

 

市「兄上が浅井と結びたいのは、美濃を取るためだけではないのでしょう」

 

 信長の目が、わずかに細くなる。

 

市「美濃を取った後、織田家が北へ向かう時、浅井との同盟が邪魔にならぬか。それを兄上は考えておられる」

 

信長「……よく見ているな」

 

市「妹ですから」

 

 市は微笑んだ。

 

市「兄上は、必要なら私を嫁がせるでしょう。それは分かっています」

 

信長「ならば」

 

市「ですが、今すぐでなくてもよいのなら」

 

 市は頬を少し赤らめた。

 

市「私は、ここにいたい」

 

 信長は、市の表情を見た。

 

 言葉にしなくても分かる。

 

 市の目が、新六を追っていることを。

 

 信長は、心の中で笑った。

 

 妹が新六へ心を寄せている。

 

 そして新六は、武勇、知略、人望、忠誠を持ち、織田家の中で急速に力をつけている。

 

 市を嫁がせれば、新六をさらに身内へ取り込める。

 

 だが、まだ早い。

 

 新六には鈴と雫がいる。

 

 市にも、将来の役目がある。

 

 信長は、軽々しく決めるつもりはなかった。

 

信長「稲葉山を取ってから考える」

 

市「兄上」

 

信長「美濃を取れば、織田家の形は変わる。その時、誰をどこへ置くかも変わる」

 

 市は小さく頷いた。

 

市「……分かりました」

 

信長「それまで、新六に余計な気を取らせるな」

 

市「兄上!」

 

 市の頬が赤くなる。

 

 信長は笑った。

 

信長「顔に出ている」

 

市「出ていません」

 

信長「出ている」

 

 市は顔を背けた。

 

 だが、その胸の内では確かに、新六への想いが芽生えていた。

 

 兄とは違う。

 

 恐ろしくも頼れる天下人とは違う。

 

 民を守り、部下を立て、戦場の最前で戦いながら、人の心を見失わない男。

 

 新六という存在は、市にとって、初めて自ら望んだ未来になり始めていた。

 

 そして信長は、美濃の稲葉山城を見据える。

 

 次に奪うべきは、斎藤家そのもの。

 

 新六、半兵衛、勝家、藤吉郎。

 

 織田家の新しい力を使い、信長は美濃攻略の総仕上げへ進もうとしていた。

 

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