天青の巫女 ~箱入り少女とおちゃらけ幽霊の死に戻り救済譚~ 作:あじのふらい
アルトヴァイゼン魔術学院の正門をくぐった瞬間、私は足を止めそうになった。
遠くから見た時は、ただ大きくて立派なお城のような建物だと思っていた。
近くで見れば、石造りの校舎は見上げても上まで視界に収まらないほど大きい。
正面には何本もの塔が伸び、壁には複雑な魔術陣のような模様が刻まれている。
本来なら、魔術を学ぶ学生の声や、授業で使われる魔術の音が聞こえる場所なのだろう。
だけど、今の学院にあったのは、そんな雰囲気ではなかった。
「東門外、第三討伐班が帰還しました! 負傷者3名、うち一名重傷です!」
「治療室へ運べ! 報告できる者だけ本部に寄越せ!」
正門を入ってすぐの広場を、破れたローブを着た魔術師の人たちが横切っていく。
そのうち一人は二人がかりで肩を支えられていた。腕から血が垂れていて、通った後の石畳に赤い跡が残っている。
すぐに治療を——
そう思って足を向けかけたけど、白い腕章を付けた人たちが担架を持って駆け寄っていった。
「ミコト、今は無視して。向こうに任せとけ」
「……はい」
セシルさんに促されて、再び歩き出す。
私たちが都市政府に情報の閲覧を申請してから、2日が経っていた。
今朝になってようやく、魔術学院に設置された対策本部であれば、政府がまとめている情報を閲覧してもよいという返答が届いた。
その返答を持ってきてくれた役人さんは、許可が遅くなったことを何度も謝っていた。
申請を検討する人たちすら、魔物への対応に追われていたらしい。
そして、その2日の間にも、状況はさらに悪くなっていた。
『思っていたより、ずっと切迫していますね』
『うん……』
トコヨも、いつものようにふざけた様子は見せず、広場を右往左往する人たちを見つめている。
私たちの前を、書類の束を抱えた学院職員らしい人が走り抜けた。
反対側からは、都市政府の紋章が付いた腕章を身につけた人が何人も歩いてくる。
ローブを着た教師らしい人。制服姿の学生。
街の外から戻ってきたらしい、泥と黒い血で汚れた魔術師。
教会の神官服を着た人までいる。
様々な人が、誰かに指示を出し、報告を受け、また別の場所へと走っていた。
「学院っていうより、軍の詰め所みてぇだな。それも切羽詰まった戦況最悪の末期の詰め所だ」
ルドガーさんが周囲を見ながら呟く。
「授業休止して戦える教師と上級生は討伐か防衛準備ってことなんでしょ。さっきから一部なんて表現じゃ効かないくらい学院のローブ着てるのが走り回ってるし」
「学生の方まで……」
リーゼちゃんが不安そうに声を漏らした。
肩に乗っているフレスベルグも、周囲の慌ただしさを感じ取っているのか、いつもより身体を低くして羽を畳んでいる。
正面の校舎へ入ろうとしたところで、入口に立っていた二人の人に止められた。
「失礼。現在、学院内は一部を除き立入制限中です。ご用件と許可証を」
セシルさんが無言で書類を差し出す。
受け取った男性は、都市政府の印章と記載された内容を素早く確認した。
一度私たちの人数を数え、リーゼちゃんの肩にいるフレスベルグへ視線を向ける。
「記載にある同行者と、風の聖獣様でお間違いありませんか」
「はい。フランも言葉を理解できますし、勝手に動いたりはしません」
リーゼちゃんが答えると、フレスベルグも短く鳴いた。
男性は一瞬驚いたように目を見開いたけど、今はそれ以上確認している余裕もないらしい。
すぐに許可証を返して、廊下の奥を示した。
「対策本部は中央講堂です。床に引かれた赤い線を辿ってください。封鎖されている区画には入らないようお願いします」
「分かった」
「それと、途中で討伐隊や伝令が通る場合があります。呼び止められた際には壁際へ寄って道を空けてください」
「はい。ありがとうございます」
私がお礼を言うと、男性は短く頭を下げ、次に入ってきた人への対応を始めた。
校舎の中に入っても、慌ただしさは変わらなかった。
広い廊下の床には、説明された通り赤い線が引かれている。
その線に沿って歩いている間にも、何度も人とすれ違った。
「南西街道から追加報告! 小型20以上、中型3体! 第二班だけでは足りません!」
「第五班を回せ! 北門側は学長が防衛陣の確認を終えるまで待機だ!」
「聖堂騎士団からの返答はまだなのか!」
短い言葉が、廊下のあちこちから飛び交っている。
聞こえてくる数字が、どれも多い。
少し前に私たちが依頼で倒した魔物も、報告されていた数よりずっと多かった。
あれが特別だったわけではなく、今は周辺のどこでも似たことが起きているのだろうか。
「セシルさん……」
「まず情報を見る。考えるのはその後」
私が何か言う前に、セシルさんはそう答えた。
表情はいつも通りに見える。
だけど、歩く速度は普段より少しだけ早かった。
赤い線の先にあった大きな扉を抜ける。
そこは、階段状に机が並ぶ巨大な講堂だった。
授業で使われる場所なのだろう。
正面には大きな黒板があり、その前には教壇が置かれている。
今は、その黒板を覆い隠すように、巨大な周辺地図が貼られていた。
地図には、赤、青、黒の札が無数に刺さっている。
赤い札は街の周辺一帯に散らばっていた。
街道沿い。森の近く。周囲の村。
私たちが魔物討伐へ向かった草原にも、いくつもの赤い札がまとまっている。
青い札は、その近くに重なるように刺されていた。
黒い札は数こそ少ないけど、赤い札の密集している場所に多かった。
講堂の中では、教師らしい人や都市政府の役人さんたちが机を囲んでいた。
地図の前で言い争っている人。
届いた報告を読み上げる人。
紙に何かを書き写している人。
大きな箱から新しい札を取り出し、地図へ付け足している人。
講堂の端には簡易的な伝令受付まで作られていて、息を切らした人が次々に報告書を渡している。
「閲覧許可を受けた方々ですね」
入口近くにいた都市政府の役人さんと思わしき人が、私たちに気づいて近づいてきた。
顔色が明らかに悪い上に、目の下には濃い隈がある。
きっと、碌に休めていないのだろう。
「ん」
「拝見します」
セシルさんが書類を差し出すと男性は粛々と受け取る。
役人さんは内容を確認すると、私たちを講堂の前方へ案内してくれた。
「資料の閲覧は許可されていますが、原本の持ち出しは禁止です。必要であれば、この場での書き写しは認められています。機密指定された氏名や個人情報は写さないようお願いします」
「位置、日時、魔物の種類、数、被害状況、討伐結果は」
「その程度でしたら問題ありません」
「ならいい」
セシルさんは鞄から帳面と筆記具を取り出した。
役人さんはそれを見届けてから、地図の前に立っていた白髪混じりの男性へ声をかける。
「先生。閲覧申請が通った方々をお連れしました」
「分かった」
男性は私たちを一度見渡した。
年齢は、クロードさんよりもかなり上に見える。
学院の教師らしい濃紺のローブを着ていて、その胸元にはいくつもの小さな金属飾りが付いていた。
「学長は現在、北門外に構築している防衛術式の確認へ出ている。学院側の責任者は、当面私が代行している。資料について分からないことがあれば尋ねてくれ」
「この札の意味」
セシルさんが地図を指差す。
「赤が魔物の目撃及び被害報告。青が討伐隊の派遣先。黒が人的被害の発生地点だ」
「札についてる数字は日付?」
「ああ。上が報告日、下が報告された概算の数だ」
セシルさんは返答を聞きながら、地図を端から見ていく。
私もその隣から地図を見上げた。
赤い札は、本当に広い範囲に散らばっている。
学院のあるヴァイスタールを中心に、東西南北、どの方角にもある。
一番遠いものは、地図の端にある小さな村の近くに刺さっていた。
「この数日で、どの程度悪化したのですか?」
リーゼちゃんが、白髪混じりの先生に尋ねた。
先生は地図の右端に貼られた紙を指差した。
「最初の頃は、日に数件だった。小型が数体、稀に中型が混ざる程度だ。だが、一週間ほど前から報告数が急増した。直近三日だけを見れば、それぞれ1日だけでそれ以前の一週間とほぼ同数の報告が上がっている」
「1日で、一週間分……」
「数だけではない。以前は一種類だけで行動していた魔物が、異なる種類と群れを作っている例も増えた。通常なら縄張りを争う可能性の高い個体同士が、同じ獲物を追っているという報告まである」
先生の言葉に合わせて、役人さんが何枚かの報告書を机へ並べる。
「昨日は西側の農村近くに、小型を中心とした30体近い群れが出ました。村の自警団と討伐班で撃退しましたが、重傷者が二名。家畜と備蓄食料にも大きな被害が出ています」
「今朝は南東と北西の街道で、ほぼ同時に群れが確認されました。どちらもこれまでより数が多い。街道の一部は通行を止めています」
別の役人さんが、書類を持ったまま会話に加わった。
「討伐班を増やしてはいますが、既に人員が足りません。都市政府は傭兵や滞在中の魔術師にも協力を募っています。学院も教師と上級生を出していますが、それでも全てには対応できていない状況です」
「都市への襲撃は」
ルドガーさんが尋ねる。
今まで黙っていたけど、目はずっと地図を見ていた。
「現時点では、外壁へまとまった数が到達した例はありません。ただし、群れの規模と発生頻度は明らかに増えています」
白髪混じりの先生が、重い声で続ける。
「この推移が続けば、数日以内に都市へ向けた大襲撃が起きてもおかしくない。複数の群れが同時に押し寄せる可能性も、高いと見ている」
講堂の中は、ずっと人の声が飛び交っている。
それなのに、その言葉だけは妙にはっきりと聞こえた。
大襲撃。
故郷を襲った時とは違うのかもしれない。
だけど、大量の魔物が一斉に押し寄せてくる光景を想像すると、胸が苦しくなる。
「聖堂騎士団への救援要請は出してるんだよな。この都市独自の防衛のための人員はどの程度期待できる」
静かに地図を睨んでいるルドガーさんが尋ねると、役人さんは言葉を続けた。
「3日前に、都市内の教会を通じて最寄りの管区本部へ正式な救援要請を出しています。昨日、状況が悪化したことを受けて2度目の要請を送り、聖都にも同内容を報告しました」
「その返答がまだ、と」
ルドガーさんが、廊下で聞こえた話を確かめるように言う。
「はい。仲介してくださっている都市内の教会は返答があり次第可及的速やかに伝えると言ってくれてはいるのですが……」
「返答だけでも早くてもあと数日はかかるってところか」
「恐らくは」
「なら、バルグラント帝国へ、もう一度援軍を要請するべきではありませんか」
少し離れた机にいた役人さんが、堪えきれなくなったように声を上げた。
「聖堂騎士団の返答を待っていては間に合わない可能性があります。帝国軍の一部だけでも派遣してもらえれば、都市防衛に回せる人員は大きく増えるはずです」
「既に一度、非公式に打診している」
年嵩の役人さんが、疲れた声で答えた。
「帝国は現在、国土の北東……フェリシア王国との国境へ兵と物資を集めている。こちらへ回す余裕はないという返答だった」
「ですが、ヴァイスタールが魔物に呑まれれば、帝国にとっても大きな損失になるはずです。魔術学院も魔道図書館も失われることになります」
「だからこそ、無理に頼むわけにはいかない」
年嵩の役人さんの声が低くなった。
「帝国は、この都市を焼き払って奪いたいわけではない。学院も図書館も、都市の機能ごと無傷で欲しがっている。救援を名目に軍を入れれば、次に求めてくるのは常設の駐屯地だ。その次は防衛協定への介入。その先にあるものが何か、分からないわけではないだろう」
「……ヴァイスタールの属州化ですか」
「少なくとも、その足掛かりにはされる。助けを求めた都市を保護するという名目まで、こちらから与えることになる」
役人さんたちは、それきり黙り込んでしまった。
今ここにいる人たちの命を救うために援軍を呼ぶ。
ただそれだけのことでは済まないらしい。
帝国軍が来れば、目の前の魔物はどうにかできるかもしれない。
だけど、その後もヴァイスタールが今までと同じ都市でいられる保証はない。
「で、この街独自の人員はどの程度いるんだよ」
ルドガーさんはそれ以上帝国の話を続けず、地図へ視線を戻した。
「それは……現状、学生まで動員したうえで間に合っていないとしか言いようがありません。数十人規模の魔術師部隊が3部隊、常時待機しています。それらをさらに分割し、都市防備や街道、同じ被害を被っている周辺の山村の防衛にも割いています。そのうえで、学徒動員までしているのです。平時は常時待機の部隊だけでも足りるのですが、この規模の異常事態となると……」
ルドガーさんは小さく息を吐いた。
騎士団が来てくれる可能性はある。
でも、それまで都市にいる人たちだけで持ちこたえなければならない。
この感じだと、それができるかすら怪しい程の状況だということなのだろう。
そのうえで、大襲撃が数日以内に起きてもおかしくないのに、援軍が間に合う保証はない。
「原因は」
セシルさんの短い問いかけに、先生と役人さんの視線が集まった。
「魔物が急に増えた原因。何か当たりはつけてる?」
「現時点では、明確なものはない」
白髪混じりの先生が答えた。
「繁殖期、餌場の減少、大型個体による縄張りからの追い出し、季節的な移動。考えられる要因は一通り検討した。だが、これほど広範囲で、複数種が同時に活性化する説明にはならなかった」
「魔術的な影響は調べた?」
「被害地点のいくつかで、魔素の偏りや、悪意ある魔術師による魔物の追い込みまで想定して残留魔力も調べた。だが、異常と断定できるものは確認されていない」
「いくつかって、どこ」
先生が、青い札の近くに小さく印を付けられた場所を示す。
全部ではない。
地図全体から見れば、ごく一部だった。
「調査したのは戦闘前? 戦闘後?」
「大半は討伐後だ。戦闘中に調査する余裕はない」
「使った術式と、調べた時間は記録してる?」
「報告書にある」
「出して」
セシルさんは机に置かれた資料へ手を伸ばした。
許可を得てから、一枚ずつ素早く読んでいく。
私には何が書いてあるのかほとんど分からない。
魔物が出た場所と数。
誰が討伐に向かったか。
被害を受けた建物や人の数。
それくらいは読み取れるけど、術式や魔素の記録となると全く分からなかった。
「薄い」
何枚か読んだところで、セシルさんが呟いた。
「何がだ」
「情報。発生地点と派遣先はある。討伐した数も、大体はある。でも、討伐前に魔物が何をしていたか、どの方向から来たか、同じ群れがどこに移動しようとしていたか、細かい情報がほとんど残ってない」
「現場は討伐を優先している。全てを記録する余裕はない。そして、それは討伐隊に想定以上のリスクまで押し付けることになる」
「それは分かる。でも、これじゃ原因は追えない」
セシルさんは地図を見上げた。
赤い札の下に、小さく書かれている日付を順番に確認している。
「日付ごとに色を分けてないの」
「現在の色分けは、報告、派遣、被害の三種だ。日付は札に記載している」
「見づらい」
「必要なら、別紙の一覧がある」
「それも出して」
セシルさんの前に、新しい紙束が積まれていく。
そのやり取りを、講堂の机に座っていた何人かの教師の人たちが見ていた。
中には、露骨に不審そうな顔をしている人もいる。
「貴女は、原因を特定しようとしているの?」
少し離れた席にいた年配の女性教師が尋ねた。
「そのために来た」
「何か仮説があるように見えるけど……」
セシルさんはすぐには答えなかった。
帳面に日付を書き写しながら、地図と資料を何度も見比べている。
それから、短く息を吐いた。
「まだ仮定。根拠も足りない」
「構いません。今は可能性を一つでも増やしたい」
女性教師の言葉は、真剣だった。
白髪混じりの先生も、セシルさんの返答を待っている。
セシルさんは面倒そうに眉を寄せた。
それでも、帳面を閉じて地図へ向き直る。
「魔物が活性化し始めたのは、ひと月以内。急激に悪化したのは、その後。あってるね」
「ああ」
「——同じ頃から、街の人間の食欲も変わってる」
「食欲?」
役人さんが聞き返した。
「食事処の一人前が増えた。屋台の商品も、片手で食べられる小さいものから、量の多いものに変わった。店側が勝手に始めたわけじゃない。客が求めて、実際に以前の倍近い量を食べてる」
「それが、魔物と何の関係があるのですか?」
講堂の机に座っていた若い教師が口を挟んだ。
見た目は二十代の後半くらい。
この場にいる教師の中では、一番若く見える。
「残留魔力の調査を担当したのは私です。街の食事量が増えたことと、魔物の活動が活発になったこと。それが同時期に起きたというだけでは、両者を結びつける根拠にはなりません」
「だから仮定って言った」
セシルさんは、特に表情を変えずに返した。
「ただ、広い範囲で、人間と魔物の両方に同じ時期から変化が起きてる。別々の原因が偶然重なった可能性もある。でも、一つの大きな影響で両方が変化してる可能性も捨てられない」
「一つの大きな影響……それが、魔術だと?」
白髪混じりの先生の声が、少し低くなった。
「大規模な魔術実験。その余波か、副作用。目的が食欲を増やすこととは限らない。結果として、そうなってるだけかもしれない」
一瞬、周囲が静かになった。
講堂全体が静まったわけではない。
別の机では今も報告が続いているし、伝令も出入りしている。
だけど、私たちの周囲にいた人たちだけは、言葉を失ったようにセシルさんを見ていた。
「……現実的ではありません」
若い教師が、硬い声で告げた。
「精神へ干渉する術など、確認された前例がない。それどころか、仮に存在するとしても、対象ごとに術式を作用させる必要があるはずです。都市全体へ継続的に影響させるだけでも、必要となる魔力と術式の規模は現実的ではない。それを周辺の魔物にまで作用させるなど、既存の理論では成立しません」
「既存の理論ではね。それに、精神干渉だけに限定して言ったつもりはないけど」
「だとしても、既存の理論から外れた現象を想定するだけなら、何とでも言えます」
「今分かってる理論じゃ説明できない現象が起きてるなら、理論の外も疑う必要があるって言ってるだけ」
「では、どう検証するのです」
「これから調べる」
「検証方法すら定まっていないのであれば、それは仮説ではなく、思いつきに過ぎません」
若い教師の言葉には、苛立ちが滲んでいた。
自分が調べた結果を、突然現れた人に不十分だと言われたのが気に入らない。
そう思っているのではないかと感じてしまうほどだった。
「少し待ちなさい」
年配の女性教師が、二人の間へ入るように声をかけた。
「検証方法が未確立であるという指摘はもっともです。ですが、現時点で説明できていない現象があることも事実です。荒唐無稽であることと、確認する価値がないことは同義ではありません」
「ですが教頭、人的にも時間的にも余裕がない現状で、根拠の薄い可能性を一つずつ調べていては——」
「彼女は学院の人員を使わせろとは言っていない」
白髪混じりの先生が、険しい顔で若い教師を見る。
「反論するなら、発言を正確に聞いた上で行え」
若い教師は不満そうに口を閉じた。
それでも、セシルさんへ向ける視線から警戒は消えていなかった。
「そもそも、貴女はいつ学院を卒業されたのです?」
少しして、若い教師が尋ねた。
「学院には入ってない」
「……入っていない?」
若い教師の眉が僅かに動いた。
「学院の課程すら修めていない。それで、既存理論そのものに疑問を呈しているのですか」
「経歴で理論の正誤が決まるの?」
「一定の課程を修めたという事実は、最低限の知識を持っている証明にはなります」
「知識があるかどうかなら、話の中身で判断すればいい」
「セシルさんはっ——」
リーゼちゃんが言い返そうとした。
だけど、セシルさんが片手を上げて止めた。
「いい。話すだけ無駄」
「一応、記録のためにお名前と所属だけ確認させてください」
間に立っていた役人さんが、空気を変えようとするように口を挟んだ。
「閲覧許可証には代表者名がありますが、学院側の記録にも残す必要がありますので」
セシルさんは、少しだけ面倒そうな顔をした。
「セシル・フォートリエ。所属はない。今は依頼を受けて動いてるだけ」
その名前が告げられた瞬間、白髪混じりの先生と年配の女性教師が目を見開いた。
「フォートリエ……?」
「まさか、ベルンハルト前学長の姪御の……」
セシルさんは、驚かれている理由が分からないわけでもないだろうに、いつも通りの顔で立っていた。
「そうだけど、だからなに」
短く答える。
その返答を聞いて、白髪混じりの先生はまじまじとセシルさんの顔を見た。
「……大きくなったな。最後に見た時は、まだベルンハルト先生の後ろを歩いていた頃だった」
「覚えてない」
「そう、か」
先生の顔に、一瞬だけ寂しそうな表情が浮かんだ。
若い教師は、周囲の反応を理解しようとするように視線を動かした。
「前学長の姪……」
「君は、ベルンハルト先生が退職された後に学院へ来たのだったな」
白髪混じりの先生が言う。
「はい。直接お会いしたことはありませんが、残された論文や研究記録は何度も拝読しています」
若い教師はセシルさんを見た。
先ほどまでとは違い、その目には僅かな動揺があった。
それでも、引き下がるつもりはないらしい。
「……前学長から直接教えを受けたことと、貴女の仮説が正しいことは別です」
「当たり前でしょ」
「ですが、前学長ほどの方の教えを受けた者であるなら、なおさらです。貴女にも分かるでしょう。この緊急時にそのような荒唐無稽な仮説に時間を費やすのは、無駄でしかない」
「そんな言い方は——」
一歩前に出ようとした瞬間、袖を掴まれた。
セシルさんだった。
「いい、ミコト」
「でも、セシルさん」
「私自身、荒唐無稽な推測をしてる自覚はある」
声は、いつも通りだった。
表情も変わっていない。
だけど、私の袖を掴んでいる指には、少しだけ強く力が入っている気がした。
「でしたら——」
セシルさんは私の袖から手を離すと、机の上の資料を閉じた。
「さっきも言った。初めから協力しろなんて言ってない。必要な情報は見た。行くよ」
「待ってくれ」
白髪混じりの先生が呼び止める。
「君の仮説は、確かに既存の魔術理論から大きく外れている。だが、変化が始まった時期が重なるというなら、確認する価値はある。必要な情報が他にあるなら——」
「ない」
セシルさんは即座に切り捨てた。
「発生地点と日付は写した。それ以外は、原因を探すのに使える情報がほとんどない」
「……」
「魔物が出た。人を向かわせた。倒した。今あるのはそれだけ。防衛のためには必要なんだろうけど、何が起きてるか調べるための記録になってない」
セシルさんは、地図に刺さった無数の札へ視線を向けた。
「原因調査のために特化した情報集積の場所じゃないから仕方ないだろうけど、少なくとも現状でこれ以上目新しい情報はない」
若い教師が何か言おうとした。
でも、年配の女性教師が鋭く睨むと、口を閉じた。
白髪混じりの先生は、反論しなかった。
苦い顔で地図を見上げている。
「……指摘は、その通りだ。現場対応を優先するあまり、原因根絶のための調査が後回しになっていた。強制はできないが、次の報告からは、進行方向や行動、周辺の魔素測定、討伐個体の状態も可能な範囲で記録させる。君が必要とした情報がまとまれば、都市政府を通して共有する」
「勝手にすれば」
セシルさんは、少しだけ足を止めた。
振り返りはしなかった。
それだけ言って、講堂の出口へ歩き出す。
私たちも、先生方に一礼して後を追った。
本当は、あの若い先生に言いたいことが沢山あった。
だけど、白髪混じりの先生も、女性の先生も、すぐに言い過ぎだと止めてくれていた。
学院全体が、あの人と同じ考えではない。
それは分かる。
分かるけど、胸のもやもやは簡単には消えてくれなかった。