天青の巫女 ~箱入り少女とおちゃらけ幽霊の死に戻り救済譚~ 作:あじのふらい
白いフードの女は、こちらを見たまま動かなかった。
頭上に浮かべた光弾の明かりが、金糸で縁取られた女の外套を淡く照らしている。
フードの中は暗く、見えるのは薄い唇と顎の辺りだけだった。
背丈も体つきも、以前に見た人とほとんど同じに見える。
口元が僅かに違うような気がしないでもないけど、同じ人かどうかまで判別できない。
光の当たり方でそう見えているだけかもしれない程度の違いだった。
「……貴女は」
何を聞けばいいのか迷いながら、声をかける。
女は返事をしなかった。
その視線が私、セシルさん、リーゼちゃん、ルドガーさんを順番に捉える。
前に会った時はリーゼちゃんとフレスベルグを最優先殺害目標と言っていたのに、リーゼちゃんにも、その肩にいるフレスベルグにも反応を示したようには見えなかった。
「……リオレ大森林にもいましたよね。ここで何をしているんですか」
「警告。直ちにこの場から立ち去ることを推奨。立ち去るのであれば追撃はしない」
抑揚のない声だった。
以前に聞いたものと、話し方までほとんど同じ。
前と同じで、全く会話がかみ合ってない。
私の質問を理解していないのか、理解した上で答える気がないのかすら判断できなかった。
「知り合いか?」
ルドガーさんが、女から視線を外さないまま尋ねてくる。
「以前、同じ格好の方に襲われたことがあります。剣だけでもシスイとライルさんが二人がかりで押し切れないくらいの手練れです」
「なるほど。そりゃ随分と景気のいい話だ」
軽い返事だった。
それでも、ルドガーさんは既に剣へ手をかけていた。
セシルさんは女ではなく、その奥にいる巨大な魔物を見ている。
巨体は地面に腹をつけるようにして伏せていた。
身体はゆっくりと上下していて、眠っているようにも見える。
「随分とふざけた警告してくれんじゃん。私らは異常の原因を排除するために来た。調べもせずに立ち去るなんてあり得ない。それで、一つ聞きたいんだけど……お前がヴァイスタール近郊の異常の大本って認識で間違いないな」
セシルさんはそう言い切った。
もう会話で何かを聞き出すつもりはないらしい。
白いフードが、ほんの僅かに奥へ向いた。
「——ヒルディス」
女が呟くと同時に、巨大な魔物の動きが止まった。
次の瞬間、閉じられていた目が開く。
暗い洞窟の中で、濁った赤い眼だけが不気味に光った。
「警告に従う様子なし。侵入者の排除に移行する」
「来ます!」
リーゼちゃんが声を上げる。
同時に、彼女の肩にいたフレスベルグの身体を緑の風が包んだ。
小さかった身体が一気に膨れ上がり、広げられた翼が洞窟の空気を強く押し退ける。
フレスベルグは大きく羽ばたくと、岩壁へ翼をぶつけない高さまで舞い上がった。
そのまま開けた空間の上を旋回し、ヒルディスと呼ばれた魔物とフードの女を見下ろす。
翼が振るわれるたび、白い風がヒルディスの頭上と女の足元を交互に走った。
どちらが動いても、すぐに進路を塞げる位置を保っている。
ヒルディスが立ち上がった。
太い四肢が巨体を持ち上げる。
ただそれだけで、蹄の周囲の地面が大きな音を立てながら沈んでいく。
その直後、フードの女が動いた。
白い外套が揺れたと思った時には、もうルドガーさんの目の前にいた。
外套の内側から抜かれた剣が、首元へ走る。
「ルドガーさん!」
金属音が響いた。
ルドガーさんは半歩だけ身体をずらし、女の剣を受け流していた。
シスイたちと模擬戦をしている時に見たのと同じだ。
剣の腹を僅かに押し、軌道だけを外している。
女はそのまま手首を返し、下から斬り上げた。
それを今度は刃の根元で受け止め、勢いを利用するように女の剣を外へ弾いた。
「その人、本当に強いです! 気を付けてください!」
「見りゃ分かる。だが——」
ルドガーさんが一歩踏み込んだ。
次に響いた金属音は、さっきよりも大きかった。
反動のせいか、女の身体が僅かに後ろにずれる。
ルドガーさんは立て続けに切りかかっていく。
それに対して、女は防戦一方……というよりも、反撃に出る様子すら一切なかった。
「これなら、まだ楽な方だな」
信じられなかった。
シスイとライルさんが二人がかりで相手をしても、あれほど苦戦していた人だ。
シスイ一人だと、殺されかねなかったほどの手練れだったはずだ。
その剣を、ルドガーさんは危なげなく躱す。
それどころか、少しずつ前へ押し込んでいた。
女の剣は、私だと目で追うだけでも精一杯だった。
だけど、ルドガーさんは最小限の動きで全てを躱していく。
一撃を受け流すたびに剣先を女の手元へ返し、次の攻撃に移る前に体勢を崩していた。
女が大きく踏み込む。
ルドガーさんも同時に踏み込み、打ち込まれた剣を弾く。
そのまま剣の柄を女の肩へ打ち込んでいた。
女の身体が横へよろめいた。
それでも、フードの奥に見える口元は一切動かなかった。
「へぇ? 随分と鍛えあげてんな」
返事はない。
女は崩れた体勢のまま剣を振るった。
ルドガーさんが受け止める。
その瞬間、女の空いていた左手に光が集まった。
「槍です!」
私が叫ぶのと、光が長い槍の形へ変わるのはほとんど同時だった。
光の穂先が、剣の下からルドガーさんの脇腹を狙う。
ルドガーさんは身体を横にずらして躱した。
光の槍が服の表面を掠め、白い筋を残して通り過ぎる。
「なるほど。こっちが本命か」
ルドガーさんの笑みが消えた。
片手で持っていた剣に、左手を添えた。
腰が僅かに落ち、足の位置が変わった。
次の瞬間、何が起きたのか分からなくなった。
女は、シスイの時と同じように、剣で切りかかりつついつでも槍を使えるように立ち回ろうとしていたように見えた。
それなのに、いつの間にか女の剣が大きな音を立てて弾かれて、振り上げたかのような状態になっていた。
ルドガーさんの剣を振りぬく速さが、今までの比じゃないほど速くなっていた。
「——あの傭兵、今まで手抜いてたな」
「え……?」
白い外套の胸元が浅く裂けた。
女は下がらない。
自分へ向かってくる刃を避け切るよりも、光の槍を突き込むことを優先しているように見えた。
ルドガーさんは踏み込みを止め、槍を弾く。
その直後には女が構えなおした剣を受け、返す刃でフードの端を切り飛ばした。
今まで魔物相手に見せていた剣技すら、ルドガーさんにとっては本気ではなかった。
女が二本目の武器を出して、ようやく同じ場所に足を止めて相手をし始めたのだと分かってしまった。
だけど、圧倒しているからといって、すぐに終わるわけではなかった。
女はどれだけ剣を弾かれても、どれだけ危険な位置へ刃を差し込まれても退かない。
紙一重で最低限避けて、ルドガーさんを貫くことを優先する。
その戦い方のせいで、ルドガーさんも一気に決め切れずにいた。
「あいつは傭兵に任せろ。あのフードも手練れだって話だけど、あの様子なら余裕で抑え込めるでしょ。私らはあっちをやる」
「は、はい!」
ヒルディスの方を向きなおすのと同時に、低い咆哮が洞窟を震わせた。
ヒルディスが、フレスベルグが発生させた暴風の中で、こちらへ向けて頭を下げている。
湾曲した牙が光を反射するのが見えた。
「フラン!」
リーゼちゃんの声に応じて、フレスベルグが急降下する。
ヒルディスが地面を蹴る直前に、翼に風を纏わせたまま突撃していた。
風の弾丸のようになったフレスベルグが、猪のような巨大な頭部に直撃する。
その衝撃で、ヒルディスがわずかによろめいて見えた。
だけど、それでも止まり切らず、地面を抉りながら私たちの右側を通り過ぎる。
凄まじい轟音とともに、岩壁に鋭い牙が突き刺さる。
ヒルディスは即座に蹄を地面に突き立て、牙を引き抜いて無理やり身体の向きを変えた。
壁も、地面も、大きく削られていた。
「あんなの当たったら、ひとたまりも……」
「確かに当たったらまずいけど、洞窟ごと崩される方がまずい! 壁に激突させるな! あんまり続けられると崩落するかもしれない!」
「フラン!」
フレスベルグがヒルディスの側面へ回り込み、もう一度風を叩きつける。
ヒルディスも、それに応戦するようにそっちに向かって走りながら牙を振り回していた。
一応、空間の中央には戻っている。
だけど、その足元で、奇妙なことが起きていた。
蹄の周囲の土と細かな石が、ゆっくりと沈んでいく。
ただ踏み固められているわけではない。
地面から引き抜かれたような石の欠片が、ヒルディスの脚へ吸い寄せられていた。
剛毛の隙間へ潜り込み、黒ずんだ皮膚と一つになっていく。
「……あれ、地面を」
「見えてる。リーゼ、私らも魔術で応戦する。直接ぶつかるのはフレスベルグに任せろ。邪魔にならないように正面は避ける。あんたは右側から」
「はい!」
リーゼちゃんが杖を構える。
ヒルディスはフレスベルグを見上げ、牙を振り回していた。
その右側面へ向けて、緑色の魔術陣が展開される。
「風よ、収束せよ。天駆ける翼よ、鋭き螺旋となりて敵を撃て——貫け、エアロランス!」
螺旋状の風の槍が放たれた。
ヒルディスが、突然こちらへ頭を向ける。
巨大な口が開いた。
風の槍の軌道が歪む。
まっすぐ側面へ向かっていたはずの風が、口元へ引っ張られた。
周囲の空気まで巻き込みながら、緑色の光がヒルディスの口へ吸い込まれていく。
「えっ」
リーゼちゃんの声が漏れた。
風の槍は、ヒルディスへ届かなかった。
跡形もなく、全て巨大な口の中へ消えていた。
ヒルディスの喉が大きく膨らむ。
異様に張っていた腹が、さらに一回り膨れ上がった。
「リーゼ、そこから離れろ!」
セシルさんが叫ぶ。
ヒルディスが前脚を持ち上げた。
蹄が地面へ叩きつけられる。
轟音が鳴って、足元が跳ねた。
リーゼちゃんの立っている場所へ向けて、地面そのものが波打つように盛り上がる。
岩塊が下から突き出していた。
尖った岩槍ではない。
それでも、人の身体を簡単に押し潰せそうな大きさだった。
『ミコト! 下からきます! 盾で!!』
「うん!——穏やかなる守りの光よ、我が前に集いたまえ!」
リーゼちゃんの前へ飛び込む。
両手を地面へ向けるように突き出し、斜めに光盾を展開した。
槍のような形に盛り上がった岩塊が光へ激突する。
盾の表面に、白い亀裂のような光が走った。
完全には止められない。
地面そのものが持ち上がり、私とリーゼちゃんの身体が横へ投げ出された。
それでも、岩塊の先端は光盾に逸らされた。
身体を直接押し潰されることだけは避けられた。
「っ、ぁ……!」
肩から地面へ落ちる。
腕が痺れた。
頭上の明かりとして残していた光弾が大きく揺らぐ。
慌てて意識を戻すと、消えかけた光が再び安定した。
「——スパークランス! こっち向け!」
セシルさんの声が聞こえる。
多分、気を引いてくれてるんだと思う。
早く立て直さないと……
「ミコトさん!」
「だ、大丈夫……リーゼちゃんは?」
「私は大丈夫です。ミコトさんが庇ってくださったので……!」
リーゼちゃんが私の腕を支えて立たせてくれる。
膝を擦っていたけど、血が滲む程度だった。
大きな怪我はない。
「魔術を……吸収してる?」
雷が迸る魔術陣が足元に浮かび上がっている状態のセシルさんが、信じられないものを見るようにヒルディスを見ていた。
ヒルディスの身体は、さっきよりも大きくなっていた。
岩が硬い外殻のように皮膚を覆い、肩から背中にかけて盛り上がっている。
「あれは、どちらかというと、食べたといった方が……」
リーゼちゃんも呆然としながら呟いていた。
そうなると、これは、魔術師にとって天敵と言ってもいい存在なんじゃ……
明らかに固い外皮が身体を守っている。
吸収した岩とかで身体を固くしてるのは間違いない。
ルドガーさんはまだ激しい剣戟を繰り広げててこちらに来るのは無理そうだし……
そんな風に考えこんでいると、フレスベルグが上空から風を叩きつけた。
ヒルディスが私たちへ向けようとしていた身体が横へ流れる。
フレスベルグはルドガーさんだけで女を抑え込めると判断したのか、ヒルディスの方に集中して向き合い始めたようだった。
ヒルディスだけを見下ろし、私たちの方へ進ませないように旋回を始める。
巨体がこちらへ頭を向ければ、風を纏って突撃する。
横へ回ろうとすれば、翼を振るって暴風で意識を逸らす。
ヒルディスは地面を抉りながら何度も向きを変えたけど、私たちへ近づくことはできていなかった。
「ミコト、動ける?」
「はい。腕は少し痺れてますけど、大丈夫です」
「ならいい。明かりは絶対に消すな。お前のそれが無くなったら、私らどころかあの傭兵すら危ない。攻撃は二の次でいい」
「分かりました」
セシルさんが杖を構えた。
「冷気展開、気流制御……貫け——スパークランス」
細い雷撃がヒルディスの顔へ走る。
また口が開いた。
雷が不自然に曲がり、周囲の青白い光ごと吸い込まれる。
ヒルディスの腹が僅かに膨らむ。
その直後、蹄が地面へ落ちた。
今度は広い範囲の足場が波打ち、私たちの身体が揺れる。
「食った後に地面へ流してる……?」
セシルさんは独り言のように呟きながら、すぐ次の術を組み上げる。
「冷気収束……アイシクル」
セシルさんの杖先に、小さな氷塊が形作られる。
それがヒルディスの前脚へ向けて撃ち出された。
ヒルディスは口を大きく開き、飛んできた氷塊を周囲の冷気ごと吸い上げた。
白い霜が脚へ届く前に消えていく。
「正面から来る術なら、属性も関係なしと。あれは術というよりも術を構成する魔素を食ってるな」
セシルさんがヒルディスの左側へ移動する。
フレスベルグが風で巨体の顔を反対へ向けた瞬間、今度は詠唱を省いた小さな火球を二つ、時間をずらして放った。
一つ目は口へ吸い込まれる。
二つ目も軌道を曲げた。
だけど、完全には消えなかった。
火球の半分ほどがヒルディスの頬へ当たり、剛毛を僅かに焦がした。
「……なるほど」
「何か分かったんですか?」
「まだ確認中。リーゼ、フレスベルグの風に併せて私らも追撃。私が撃った直後にウインドカッター。小さくていい。できるな」
「はい!」
「冷気収束……気流制御……電位上昇……貫け——プラズマランス」
「風よ——!」
ヒルディスが向きを変えるのに合わせて振るわれたフレスベルグの風撃。
ヒルディスはフレスベルグの風に対して口を大きく開けて吸い込んだ。
だけど、それと同時にセシルさんの雷とリーゼちゃんの風刃が側面から襲い掛かる。
ヒルディスは頭を振った。
雷撃にも、風刃にも反応しようとしている。
それでも、フレスベルグの風以外は吸収できてなかった。
雷撃が腹部に突き刺さり、風の刃が肩へ届き、岩のように硬くなった皮膚の表面を削る。
ダメージはほとんどなさそうだけど、吸収はされてない。
「やっぱり、一度に全部は食えない。口を向けた一方向だけだ」
セシルさんがそう言った直後、ヒルディスの動きが止まった。
フレスベルグを追っていた濁った赤い目が、ゆっくりとこちらへ向く。
雷撃を受けた腹部では剛毛が焦げ、風刃が当たった肩の岩肌には浅い亀裂が走っている。
効いていないわけではない。
そう思った瞬間、ヒルディスが地面を掻いた。
前脚の蹄が一度、二度と土を抉る。
明らかに力を籠めていた。
「来るぞ!」
セシルさんの声と同時に、ヒルディスが走り出す。
さっきまでのように頭を低くして狙いを定めた突進じゃなかった。
フレスベルグの位置も、セシルさんたちが構えている魔術も無視して、巨体を前へ投げ出すような走り方だった。
「フラン!」
フレスベルグが急降下する。
風を纏った巨体がヒルディスの横顔へ叩きつけられた。
頭が横へ流れる。
前脚が僅かにもつれ、巨体が傾く。
それでも止まらない。
片側の蹄を地面へ深く食い込ませ、倒れかけた身体を力任せに起こしながら。
進路を修正する余裕すらないのか、斜めに滑りながらこちらへ突っ込んでくる。
「嘘……! っ、風よ——!!」
リーゼちゃんの風刃が連続して放たれた。
一つが頬を削り、もう一つが前脚を覆う岩を砕く。
セシルさんの雷撃も肩口へ突き刺さった。
ヒルディスの身体が何度も揺れた。
剛毛が焼け、岩の欠片が飛び散る。
それでも、足を止めようとする様子がない。
防ぐことも、口を開いて吸収することもしない。
傷つくことを無視して、ただ私たちへ近づくことだけを優先していた。
「散れ! 正面に固まるな!」
直線上から外れるように、斜めに向かって走る。
セシルさんは左へ、リーゼちゃんは右へ逃れようとしていた。
ヒルディスの赤い目が、リーゼちゃんを追った。
「リーゼちゃん!」
進路が変わる。
無理に身体を捻ったせいで、後脚が地面を大きく滑った。
巨体が横倒しになりかける。
それでも前脚を突き立て、地面を削りながら強引に向きを変えた。
「フラン、止めて!」
フレスベルグが真横から突撃して、ヒルディスの頭部へぶつかる。
鈍い衝突音が洞窟に響いた。
ヒルディスの前脚が浮く。
進路が逸れ、リーゼちゃんの横を通り過ぎる。
完全には避け切れない。
振り回された牙の先端がリーゼちゃんへ迫った。
「光弾っ!」
咄嗟にヒルディスの頭に光弾を叩きつけた。
白い光が眉間で弾ける。
岩に覆われていない目元の毛が焼け、ヒルディスの頭が僅かに揺れる。
口を開く様子はなかった。
聖魔法を吸収しようともせず、光をまともに受けた。
リーゼちゃんを追っていた赤い目が、私へ向く。
「……っ」
さっきまでとは違った。
獲物を見定めるような目ではない。
濁った瞳の奥に、明らかな怒りが浮かんでいるように見えた。
ヒルディスが低く唸る。
洞窟の空気が震えた。
「ミコト!」
セシルさんの声が届くより早く、ヒルディスが地面を蹴った。
巨体からは考えられない速度で距離が縮まる。
蹄が地面を抉り、砕けた石が後ろへ飛び散った。
横へ逃げないと。
そう思って足を踏み出した時には、もう湾曲した牙が目の前まで迫っていた。
避け切れない……!?
『盾です!』
「っ!!」
両手を突き出す。
詠唱をする暇なんてなかった。
ただ必死で祈りを捧げて目の前に光盾を出すので精一杯だった。
その盾は、詠唱した時に比べると明らかに小さく心もとない。
私の前に光盾が展開された直後、ヒルディスの頭が真正面から激突した。
「っ、ぁあ……!?」
光盾全体が大きく軋む。
白い亀裂のような光が、中心から一気に広がった。
受け止めるなんてできなかった。
盾を構えたまま、身体ごと後ろへ押し流される。
倒れるな。倒れたら終わりだ。
踏みつぶされて殺されてしまう。
だから、なんとか踏みとどまって——
そう考えて、必死で盾を維持し続けることしかできなかった。
目の前には光盾と、その向こうから押し込んでくる巨大な頭しか見えない。
ヒルディスは盾に牙を押しつけたまま、私ごと突進を続けている。
「ミコトさん!」
リーゼちゃんの声が遠く聞こえた。
次の瞬間、背中に凄まじい衝撃が走った。
「かはっ……!」
岩壁へ叩きつけられる。
肺の中の空気が全部押し出され、声すら出なかった。
背中と後頭部に鈍い痛みが広がる。
痛みで意識が飛びかける。
一瞬視界が白く染まって、頭上に残していた光弾まで大きく揺らいだ。
それでも、光盾は消さない。
消せるわけない。
光盾だけなら私だけで済む。
だけど、上空の光弾を維持できなくなったら、皆も危ない。
ヒルディスの牙が、亀裂だらけになった光をさらに押し込んでくる。
盾の向こうにある禍々しい巨大な顔が、私を壁へ押し潰そうとしていた。
腕が震える。
掌が焼けるように痛い。
背後には岩壁があるせいで、もう後ろへ逃げることもできない。
「っ、く……!」
光盾の亀裂が、さらに深く広がった。
「ミコトさんから、離れてくださいっ!」
リーゼちゃんの叫びが洞窟に響いた。
視界の端に、緑色の光が広がる。
リーゼちゃんの足元に浮かんだ魔術陣は、さっきまで使っていたものよりも明らかに大きかった。
「風よ、私に力を貸して! 空翔ける翼よ、舞い降りて鋭い刃となれ——テンペスト!」
詠唱を終えるより早く、ヒルディスの足元から暴風が吹き上がった。
緑色に輝く風の柱が巨体を包み込む。
柱の中で無数の風刃が生まれ、岩に覆われた脚と腹部へ立て続けに叩きつけられた。
ヒルディスは口を開かなかった。
私を押し潰すことしか考えていないかのように、背中や側面へ風刃を受け続ける。
岩の外殻が削られる。
剛毛が千切れ、黒い血が飛び散った。
それでも、頭を引こうとはしなかった。
「っ、ぁ……!」
盾へかかる力がさらに強まる。
背中が岩壁へ押し付けられ、息を吸うことさえできない。
リーゼちゃんの術は効いている。
ヒルディスの巨体は何度も揺れている。
だけど、私から引き剥がすには足りない。
「フラン、お願い! ミコトさんを助けて!」
フレスベルグが鋭く鳴いた。
テンペストの外側から急降下し、風を纏った身体をヒルディスの脇腹へ叩きつける。
巨体が僅かに横へずれた。
盾に食い込んでいた牙の位置も動く。
その一瞬だけ、腕にかかる力が弱まった。
逃げないと。
そう思っても、身体が動かなかった。
背中を叩きつけられた衝撃のせいか、足に力が入らない。
「氷核形成……気流展開……電位多重化……放電経路固定……」
セシルさんの声が聞こえた。
風刃が吹き荒れる向こうで、杖をヒルディスに向けていた。
リーゼちゃんがテンペストの詠唱を始めた時から、別の術を組み上げていたらしい。
ヒルディスの周囲へ、青白く光る小さな氷塊が次々に浮かび上がっていく。
頭上に二つ。
左右に一つずつ。
背後と腹部の下にも、さらに複数。
激しく吹き荒れる風の中でも、氷塊は流されない。
それぞれが見えない糸に固定されたように、ヒルディスを囲む位置へ留まっていた。
氷核の表面を、青白い光が走る。
一つ一つ、光り方が違っていた。
強く光るものと、僅かに明滅するもの。
それぞれの間で、細い雷が弾け始める。
「連なり穿て——ヴォルトカスケード」
最初の雷撃が、ヒルディスの右側を貫いた。
続けて、左。
背後から腹部。
頭上から前脚。
氷核同士を結ぶ青白い雷が、次々に異なる方向からヒルディスへ突き刺さっていく。
一度では終わらない。
右から走った雷が消えるより早く、別の氷核から次の雷が放たれる。
ヒルディスの全身を囲うように、何本もの放電経路が連続して明滅した。
轟音が途切れることなく洞窟に響く。
青白い光が何度も弾け、ヒルディスの巨体が小刻みに震えた。
口をどこへ向けるかなんて関係ない。
前後左右、頭上からも雷撃が襲いかかっている。
ヒルディスの身体が硬直した。
私を押し潰していた頭が持ち上がる。
牙が光盾から離れた。
「弾けろ!!」
セシルさんが走ってくる。
最後に、全ての氷核から伸びた雷がヒルディスの身体の中心へ向かった。
ヒルディスも大きく口を開け始めていた。
何本もの青白い光が一点へ収束する。
洞窟全体を白く染めるほどの雷光が弾けた。
ヒルディスが咆哮を上げる。
巨体が仰け反り、数歩後ろへよろめいた。
同時に、光盾が砕け散った。
「っ……!」
支えを失って、その場に崩れ落ちそうになる。
倒れこむ前に、セシルさんが私の腕を掴んだ。
「さっさと離れる!! 起きろ!!」
そのまま強引に引き起こされて引っ張られる。
膝が震えたけど、どうにか立つことはできた。
全身の痛みに耐えながらただついていくことしかできなかった。
セシルさんが私の腕を自分の肩へ回す。
脇腹を支えられ、そのまま岩壁沿いを引きずられるように移動した。
背中が痛い。
頭もぼんやりする。
足を動かすたびに胸の奥まで鈍く痛んだ。
それでも、今はヒルディスから離れる方が先だった。
雷撃から立ち直ったヒルディスが、低い咆哮を上げる。
岩に覆われた身体の至るところから煙が上がっていた。
赤い目が、逃げる私たちを追う。
「フラン、行かせないで!」
フレスベルグがヒルディスの正面へ回り込んだ。
大きく広げた翼を振るい、暴風を叩きつける。
ヒルディスが前へ出ようとする。
その蹄を、風が横から押し流した。
「風よ! お願い、止めて!」
リーゼちゃんも休むことなく魔術を放っていた。
細い風刃がヒルディスの目元へ飛ぶ。
顔を背けたところへ、今度は脚を狙って風が叩きつけられる。
術式の構築も、魔力の配分も、さっきセシルさんに指示されていた時ほど整っているようには見えなかった。
ただ、私たちへ近づけさせたくないという一心で、必死に魔術を放ち続けている。
フレスベルグも何度も突撃を繰り返した。
頭を振り回され、牙が翼を掠めても退かない。
ヒルディスがこちらへ向こうとするたび、風を叩きつけて進路を逸らしていた。
「ここまで来ればいい」
セシルさんが、突き出した岩の陰まで私を連れていく。
ヒルディスからは距離があり、直線上にも岩が挟まっている。
その場へ座らされると同時に、セシルさんが私の肩を掴んだ。
「自分で治癒できる?」
「はい……」
セシルさんの顔が、すぐ近くにある。
眉間には深い皺が寄っていて、普段よりもずっと険しい表情をしていた。
「セシルさん、私は大丈夫ですから。リーゼちゃんたちの援護を——」
「いいからさっさと治せ」
強い声で遮られた。
反論できる雰囲気ではなかった。
私自身、まだ身体がどうなっているのか判断できていない。
目を閉じて、自分の胸元へ手を当てる。
頭上の光弾を維持したまま、静かにオリツキ様へ祈りを捧げた。
淡い光が手のひらに灯る。
光は胸から背中へ広がり、後頭部までゆっくりと包み込んでいった。
焼けるようだった背中の痛みが少しずつ薄れていく。
息を吸った時に走っていた胸の痛みも、徐々に和らいだ。
『ミコト、意識ははっきりしていますか?』
『うん。さっきよりは』
治癒の光が消える。
ゆっくり深く息を吸ってみる。
少し痛みは残っているけど、問題なく呼吸できた。
指も動く。
「……大丈夫です。まだ少し痛いですけど、動けます」
そう言うと、セシルさんは私の顔をじっと見た。
嘘をついていないか確かめているようだった。
少しして、ようやく肩を掴んでいた手が離れる。
「……次から、気を引くなら先に言え。勝手に一人でやるな」
「ご、ごめんなさい。でも、あのままだとリーゼちゃんが——」
「分かってる。別に怒ってない。心配しただけだから」
「——ありがとう、ございます」
予想外の言葉に静かに頷いて、ヒルディスの方へ視線を戻す。
フレスベルグとリーゼちゃんは、今も必死に巨体を抑えていた。
セシルさんも、同じ場所を見ていた。
さっきまでの心配そうな表情は消えている。
代わりに、何かを確かめるように目を細めていた。
「……セシルさん?」
呼びかけると、セシルさんの口元が僅かに上がった。
「見つけた」
「え?」
セシルさんは杖を握り直し、ヒルディスを真っすぐ見据えた。
「打開策。あいつを倒す方法」