全員元カノ〜勇者様、昔の女と再会するたびに尋問するのはやめてくれ〜 作:レトやま
「……長い話になる」
「夜は長いですから」
ユスティアは笑っていた。
とても綺麗な笑顔だった。
だからこそ怖い。
人間、本当に怒っている時ほど静かになる。
軍にいた頃、俺はそれを嫌というほど学んだ。
怒鳴る上官はまだいい。
殴る上官も対処できる。
一番まずいのは、机の向こうで笑いながら、
『ツェングハウアー候補生。少し話をしようか』
と言ってくる教官だった。
大抵その後、一週間はろくな目に遭わない。
「ベルカさん」
「何だ」
「聞いてます?」
「聞いている」
「では」
ユスティアは両手を膝の上に置き、姿勢を正した。
「レティシアさんについて、最初からお願いします」
「断る」
「どうしてですか」
「なぜ俺の十五年前の話を、お前に説明する義務がある」
「十五年前!?」
「そこに食いつくな」
「じゃあベルカさん、十二歳くらいですよね?」
「そうだ」
「子供じゃないですか!」
「だからそう言っている」
俺は食後の茶を飲んだ。
苦い。
もっと薄くしてくれればいいのに。
「エマ」
「なあに?」
「お前から説明してやれ」
「えー」
「お前が余計なことを言ったんだろうが」
「だって事実じゃない」
エマは楽しそうだった。
昔からそうだった。
人の困っている顔を見ると笑う女だ。
いや。
人聞きが悪いか。
人の恋愛話が好きなのだ。
昔、宿に泊まっていた旅商人夫婦が喧嘩した時も、厨房の壁越しに聞き耳を立てていた。
「レティシアはね、私の妹なの」
「それは聞きました」
「当時十三歳」
「ベルカさんより一つ下」
「そうそう」
ユスティアが真剣な顔で頷く。
なぜ情報整理を始めている。
「ベルカは十二歳の頃、うちの宿で住み込みで働いてたの」
「十二歳で?」
「親元を離れていたんですか?」
「色々あった」
「色々とは」
「色々だ」
「……後で聞きます」
「聞かんでいい」
エマが笑う。
「ベルカって昔からこうなのよ。自分の話になると途端に口が重くなるの」
「分かります」
「お前ら妙なところで意気投合するな」
「でね」
エマが続ける。
「レティシアはすごく大人しい子だったの。宿の手伝いもあまりしないで、ずっと本を読んでた」
「へえ」
「ベルカは逆。朝から晩まで働いてた」
「偉いですね」
「働かないと飯が出なかったからな」
「……急に重い話を差し込まないでください」
知らん。
「レティシアは最初、ベルカのこと嫌ってたのよ」
「え」
「乱暴だし無愛想だし、口も悪いし」
「今と変わりませんね」
「おい」
「でも」
エマの口調が少し柔らかくなる。
「ベルカが毎晩、厨房の隅で字の練習してるのを見つけたの」
ユスティアが俺を見る。
「字?」
「当時、あまり書けなかった」
「そうなんですか?」
「ああ」
「今は軍務書類も読めるし書けるんですよね」
「読めなければ士官学校に入れん」
エマが懐かしそうに笑った。
「それでレティシアが教えてあげたのよ」
「……なるほど」
「毎晩二人で」
「毎晩」
まただ。
ユスティアの目つきが変わった。
「そこを強調するな」
「してません」
「している」
「続けてください」
「最初は文字だけだったんだけど、そのうち本も貸すようになってね」
「どんな本を?」
「戦記」
「色気がないですね」
「うるさい」
「地理書」
「さらに色気がない」
「兵法書」
「十二歳ですよね!?」
「面白かった」
「面白かったじゃないです」
エマが吹き出した。
「でもベルカ、恋愛小説も借りたじゃない」
「借りてない」
「借りたわよ」
「記憶にない」
「『月下の薔薇姫』」
「…………」
「覚えてるじゃないですか」
「題名を聞いただけだ」
「顔に出てます」
失敗した。
「で?」
ユスティアが身を乗り出した。
「その恋愛小説を二人で?」
「別々に読んだ」
「感想を言い合ったり?」
「したかもしれん」
「しました?」
「覚えてない」
「したんですね」
「なぜそうなる」
まったく。
尋問官に向いている。
「それで夏祭りの日」
エマが言った。
「レティシアがベルカを誘ったの」
ユスティアの背筋が伸びる。
「二人きりで?」
「うん」
「エマ」
「何よ」
「もうその辺でいい」
「どうして?」
「どうしてでしょうね」
ユスティアが俺を見る。
「ベルカさん」
「……何だ」
「続きが気になります」
「俺は気にならん」
「当事者でしょう」
「十五年前だぞ」
「初恋は何年前でも初恋です」
「知らん」
「初恋だったんですね?」
「……」
「ベルカさん?」
「祭りに行っただけだ」
「二人きりで」
「たまたまだ」
「手は?」
「何が」
「繋ぎました?」
「覚えてない」
「繋いだんですね」
「その理論をやめろ」
エマはもう完全に面白がっていた。
「繋いでたわよ」
「エマ」
「私、見たもの」
「何で見てる」
「妹が男の子と出かけるんだから気になるじゃない」
「尾行したのか」
「少しだけ」
「最低だな」
「姉として当然です」
「違うと思います」
そこだけはユスティアも俺側だった。
「それで?」
ユスティアはすぐ戻った。
「キスは?」
「…………」
「ベルカさん?」
「した」
観念する。
「…………」
ユスティアが固まる。
「頬に」
「頬」
「レティシアがな」
「レティシアさんから?」
「ああ」
「ベルカさんは?」
「何もしてない」
「本当に?」
「十二歳だぞ」
「十二歳でもする人はします」
「何の知識だ」
ユスティアは少し考え込む。
「つまり」
嫌な予感。
「ベルカさんの初恋相手で」
「初恋とは言ってない」
「毎晩勉強を教えてもらって」
「話を盛るな」
「夏祭りに二人きりで出かけ」
「事実ではある」
「手を繋ぎ」
「エマの証言だけだ」
「頬にキスされた」
「そうだ」
「元カノですね」
「違う」
「元カノです」
「付き合ってない」
「ほぼ元カノです」
「ほぼ元カノという概念を作るな」
「では元カノ未遂」
「それも違う」
「元カノ候補」
「候補にもなってない」
「初代」
「何の初代だ」
ユスティアは腕を組んだ。
「私の中では一件として記録します」
「記録?」
「はい」
「何を記録する気だ」
答えなかった。
怖い。
「でもレティシア、本当にベルカのこと好きだったのよ」
エマが言う。
俺は視線を落とした。
「知ってる」
口から出てしまった。
ユスティアが止まる。
「……知ってたんですか?」
「ああ」
「いつから」
「後から」
「後から?」
エマも黙った。
少しだけ。
空気が変わった。
「士官学校へ行く直前だ」
十三年前のことだ。
覚えている。
朝。
霧。
宿の前。
俺は小さな鞄一つだけ持っていた。
エマの父親に別れを告げた。
エマにも。
レティシアにも。
あいつは何も言わなかった。
ただ、小さな本を一冊くれた。
「何の本ですか」
「地図帳」
「最後まで色気ないですね」
「俺が欲しがっていたからだ」
レティシアは言った。
この地図の向こうまで行くんでしょう。
なら、いつか帰ってきて。
私はここにいるから。
「……帰らなかったんですか」
「士官学校に入ってすぐ、戦争が始まった」
俺は続けた。
「それから一度も戻ってない」
「レティシアさんは」
「死んだ」
沈黙。
ユスティアの表情から、さっきまでの嫉妬が消えた。
「魔物に?」
「ああ」
エマが静かに頷く。
「この町じゃないの。昔の宿はもっと東にあったから」
九年前。
東部侵攻。
町は焼かれた。
避難民の半分が死んだ。
レティシアも、その中にいた。
「手紙が届いた」
俺は言った。
「軍にいた俺のところへ」
「……誰から?」
「エマから」
「私、生き残ったからね」
エマは笑った。
だがその笑顔は、さっきまでとは違った。
「レティシアは最後までベルカのこと想ってた」
「エマ」
「いいじゃない」
「……」
「どうせ本人は言わなかったんだから」
エマは俺を見る。
「妹の代わりに一回くらい言わせてよ」
俺は黙る。
「避難する時ね」
エマが言った。
「レティシア、あの地図帳の写しを持ってたの」
「……」
「ベルカがいつか戻ってきた時に、話ができるようにって」
俺は何も言えなかった。
ユスティアも黙っている。
遠くの卓で誰かが笑っていた。
皿が鳴る。
酒場はいつも通りだ。
昔からそうだった。
誰かが死んでも、世界は何事もなかったように続く。
「悪かったな」
俺は言った。
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
エマが首を振る。
「ベルカのせいじゃない」
「俺が――」
「違う」
強い声だった。
「戦争のせいよ」
エマは笑った。
「あなたまで死んでなくてよかった」
「……そうか」
「うん」
俺は茶を飲む。
冷めていた。
◇
その夜。
宿の部屋。
ノアは既に寝ていた。
恐ろしく寝つきがいい。
俺は窓辺に座っていた。
月が出ている。
町は静かだった。
眠れない。
「十五年前、か」
長い。
だが、思い出せる。
レティシアの顔。
声。
妙に細い指。
笑う時に右側だけ上がる口元。
忘れていたわけじゃない。
思い出さないようにしていただけだ。
軍人にはそういう記憶が増える。
思い出しても何も変わらない記憶。
名前。
顔。
約束。
死体。
「……馬鹿馬鹿しい」
独り言。
その時。
コンコン。
扉が鳴った。
「誰だ」
「私です」
ユスティアの声。
「寝ろ」
「少しだけ」
「明日は早い」
「分かってます」
「……」
「ベルカさん」
「何だ」
「開けてもらえませんか」
仕方なく扉を開ける。
ユスティアは寝巻き姿だった。
上から外套を羽織っている。
「何だ」
「これ」
木製のカップを差し出された。
「薬草茶です」
「なぜ」
「胃にいいらしいです」
「……誰のせいだと思っている」
「半分くらいは私です」
「自覚があったか」
受け取る。
温かい。
「エマさんに聞きました」
「何を」
「レティシアさんのこと」
「……」
「もっと」
「そうか」
ユスティアは俯いた。
「ごめんなさい」
「何が」
「面白がって聞いて」
「別にいい」
「よくないです」
こいつは妙なところで真面目だ。
「戦争が始まったのは、お前のせいじゃない」
「でも」
「俺も慣れてる」
「それ、慣れていいことなんですか」
答えに困る。
ユスティアは窓の外を見た。
「私も」
「ん?」
「故郷を失った時」
そうだった。
こいつも魔物に村を潰されている。
「たくさん死にました」
「……ああ」
「最初は毎日思い出してたんです」
ユスティアは言う。
「お父さんとか、お母さんとか、近所のおばさんとか、友達とか」
静かな声。
「でも最近、顔が少しずつ曖昧になってきて」
俺は黙って聞く。
「それが怖いんです」
「忘れることが?」
「はい」
なるほど。
それは分かる。
「忘れていい」
「え?」
「全部覚えてたら人間は前に進めん」
「でも」
「忘れたからって、いなかったことにはならない」
ユスティアが俺を見る。
「俺も部下の顔を全部は思い出せない」
「……」
「でも死んだことは覚えてる。それで十分だ」
「ベルカさんは」
「ん?」
「そうやって、自分に言い聞かせてきたんですか」
「知らん」
「そういうところです」
「何が」
「ずるい」
意味が分からない。
ユスティアは少しだけ笑った。
「じゃあ」
「何だ」
「レティシアさんは元カノ一覧から外します」
「最初から入れるな」
「初恋枠に移します」
「枠を作るな」
「特別枠です」
「やめろ」
こいつ。
せっかく少し感心したのに。
「ちなみに」
嫌な流れ。
「ベルカさんの本当の初恋はレティシアさんで合ってます?」
「帰れ」
「違うんですか?」
「帰れ」
「気になります」
「明日行軍速度を倍にするぞ」
「横暴!」
「軍では質問しすぎる新兵は走らせる」
「私、軍人じゃありません」
「なら勇者訓練だ」
「そんな訓練聞いたことないです!」
ユスティアは不満そうに帰っていった。
扉を閉める。
「……まったく」
だが。
さっきより少しだけ、眠れそうだった。
◇
翌朝。
「おはようございまーす!」
ノアが元気よく食堂へ飛び込んでくる。
「朝からうるさい」
「元気が一番です!」
「ベルカさん、おはようございます」
「ああ」
ユスティアは妙に機嫌がいい。
昨夜のことは引きずっていないらしい。
ミレーネは先に食事を始めていた。
「遅い」
「まだ鐘一つ前だ」
「私は早起きなの」
「そうか」
「ねえ」
ミレーネがパンをちぎりながら言った。
「何だ」
「今日、どこまで行く予定?」
「このまま北西。午後にはウルズ街道へ出る」
「ウルズ街道」
「ああ」
「……へえ」
妙な反応。
「何だ」
「別に」
「またそれか」
「気にしないで」
「気になる言い方をするな」
ユスティアもミレーネを見る。
「何かあるんですか?」
「ないない」
「本当に?」
「本当」
ミレーネは笑う。
この女。
何か隠している。
◇
昼前。
一行は町を出た。
北西へ続く古い街道。
麦畑。
低い丘。
遠くに山。
平和だ。
戦場を知っていると、こういう景色の方が落ち着かない。
静かすぎる。
「ベルカさん」
ユスティアが早歩きで追いついてきて隣を歩く。
「何だ」
「レティシアさんって、綺麗な人でした?」
「知らん」
「何で」
「十三歳だぞ」
「じゃあ可愛かった?」
「知らん」
「好みでした?」
「前を見ろ」
「気になります」
「お前、外すと言っただろ」
「元カノ枠からは外しました」
「まだ残ってるのか」
「初恋特別枠に」
「捨てろ」
「嫌です」
ノアが俺たちの前を歩きながら振り向く。
「二人って仲いいですよね」
「悪い」
「いいです」
同時。
「ほら」
「うるさい」
「ノア、前を見て」
「はーい」
その時だった。
先頭のノアが止まる。
「ベルカさん」
声が変わる。
「どうした」
「馬」
「何頭」
「二……いや、三」
「方向」
「正面」
「速さ」
「速いです」
俺は手を上げる。
「止まれ」
全員が止まった。
街道の先。
小さな土煙。
「旅人?」
ユスティアが剣へ手を置く。
「違う」
走り方。
隊列。
訓練されている。
「騎兵だ」
「どこの?」
「旗が見えない」
俺は目を凝らす。
三騎。
一人が先頭。
二人が後方。
先頭の騎手は女だった。
赤茶色の髪。
軍装。
胸元に銀色の徽章。
「……皇国軍?」
ミレーネが呟く。
「なぜこんな場所に」
東の皇国領から、かなり離れている。
騎兵が近づく。
俺は無意識に姿勢を正した。
古い癖だ。
三騎は俺たちの少し手前で速度を落とした。
先頭の女が俺を見る。
「……」
「……」
女の顔から表情が消えた。
俺も動けない。
赤茶色の髪。
鋭い目。
左眉の上に小さな傷。
知らないはずがない。
女が馬から降りる。
「隊長」
後ろの兵士が呼ぶ。
しかし女は聞いていない。
一歩。
二歩。
こちらへ歩く。
「……ベルカ?」
声。
昔と同じだった。
俺の喉が乾く。
「……」
隣でユスティアが俺を見る。
嫌な予感がする。
最悪の予感。
「ベルカさん」
小声。
「知り合いですか?」
「……」
「ベルカさん?」
答えるより先に。
女が俺の胸倉を掴んだ。
「この――」
拳。
避ける暇はなかった。
右頬に直撃。
「ぐっ!」
「ベルカさん!?」
俺は二歩よろめいた。
「何するんですか!」
ユスティアが剣を抜きかける。
「待て!」
止める。
女は震えていた。
怒っている。
違う。
泣いている。
「生きてたのか」
かすれた声。
「リリア」
俺は名前を呼んだ。
女――リリア・フェルデンは、俺を睨みつける。
「私が」
拳が震える。
「私が、お前の墓に何回花を供えたと思ってる!」
「……」
「死んだと思ってた!」
「俺もだ」
「ふざけるな!」
胸倉を掴まれる。
「南方戦線で!」
ああ。
やめてくれ。
今それを言うな。
「私を抱いた次の日に行方不明になって!」
世界が止まった。
「…………」
リリアも止まる。
俺も止まる。
ノアも。
ミレーネも。
後ろの皇国兵も。
そして。
隣。
ゆっくり。
本当にゆっくり。
ユスティアが俺を見る。
「…………」
勇者の刻印が。
淡く。
光り始めた。
「ベルカさん」
「待て」
「昨日」
「待て」
「初恋の話をしましたよね」
「これは違う」
「何がです?」
「事情がある」
「どういう事情です?」
「戦場だった」
「戦場だと女性を抱くんですか?」
「そういう意味じゃない!」
「ではどういう意味です?」
「ユスティア」
「はい」
「まず落ち着け」
「落ち着いてます」
「刻印が光ってる」
「気のせいです」
「絶対違う」
リリアが俺とユスティアを交互に見る。
「……誰だ、その女」
やめろ。
火に油を注ぐな。
「勇者です」
ユスティアが答える。
「勇者?」
「ユスティア・ユレイシアです」
「……そうか」
リリアの目が細くなる。
「ベルカとは、どういう関係だ」
「仲間です」
「一か月限定のな」
付け足してやる。
「ベルカさん?」
ユスティアの冷たい声。
「いや」
失敗した。
「一か月?」
リリアが俺を見る。
「お前、何をしている」
「色々あって」
「昔からそればかりだな」
「お前に言われたくない」
「何だと?」
「ベルカさん」
「何だ」
「この方は?」
来た。
最悪の質問。
「リリア・フェルデン」
「それは名前です」
「元同僚だ」
「本当に?」
「本当だ」
「それだけですか?」
「……」
沈黙。
ユスティアの笑顔。
昨日と同じ。
いや。
昨日より怖い。
「ベルカさん」
「……何だ」
「昨日、私言いましたよね」
「何を」
「夜は長いですからって」
「……」
「今日も長くなりそうですね」
まだ昼前だ。
俺は空を見上げた。
雲一つない青空。
こんなに晴れているのに。
どうして俺の胃は、こんなにも痛いのだろう。
そして俺は、この時まだ知らなかった。
リリア・フェルデンとの再会が。
勇者ユスティア・ユレイシアにとっての――
最初の。
本当の意味での。
元カノとの遭遇になることを。