夏の太平洋は、どこまでも青く広がっていました。空には大きな雲が浮かび、強い日差しが海面をきらきらと輝かせています。寄せては返す波が白い泡を作り、砂浜へゆっくりと打ち寄せていました。
潮の匂いに波の音。遠くで飛んでいる海鳥。紛うことなく海です。
「海だー!」
こむぎさんが叫びました。
「海だよ! 海!」
「見れば分かります」
「テンション低い!」
ケイちゃん二号を降りるなり、こむぎさんは砂浜へ駆け出していきます。
「待ってろ海ー!」
「海は逃げねぇぞ」
なめこさんが呆れながら荷台から降りました。
「それより着替えるぞ」
「はーい!」
私達は適当な場所にレジャーシートを広げ、荷物を置きました。周囲には人影もゾンビ影もありません。あるのは海と砂浜だけ。少し離れた道路にはケイちゃん二号が停まっています。静かなものです。
着替えを済ませると、こむぎさんは真っ先に海へ飛び込んでいきました。
「冷たっ!」
「夏なんだからすぐ慣れるだろ」
「なめこちゃんも早く!」
「今行く」
なめこさんは浮き輪を抱えて海へ入っていきます。そして。
「ふぅー……」
浮き輪に身体を預け、波に揺られていました。
「最高だな」
「なめこちゃん泳ぐんじゃなかったの?」
「忘れたのか、あたしは泳げないぞ」
「そうだった!」
「というかお前もだろ」
「そうだった!」
こむぎさんはそう言って波と戯れています。波が来るたび飛び跳ねたり、逃げたり、逆に突っ込んでいったり。一人で忙しそうです。
肝心の私はというと。
「よし」
釣り竿を持って、砂浜の端へ移動しました。少し岩場になっている場所です。波も穏やかで、釣りをするには悪くなさそうです。
「しぐれ、本当に釣りをするのね」
後ろからきなこさんが付いてきます。
「そのために来ましたから」
「海水浴は?」
「後で考えます」
「せっかく水着なのに」
「ラッシュガード着てますけど」
「それが残念なのよ」
「何がですか」
「何でもないわ」
きなこさんは私の少し後ろに座りました。
「きなこさんは泳がないんですか?」
「泳ぐわよ」
「じゃあ行ってきたらどうです?」
「ここでいいわ」
「なぜ?」
「しぐれを見てるから」
「やっぱり向こう行ってください」
私はきなこさんを無視して釣り糸を垂らしました。海面がゆっくり揺れています。
しばらく待っていると。ピクッと竿先が動きました。まだです。まだ警戒して餌をつついているだけです。もう一度。ちゃんと針に食らいつくのを待ちます。
「来ました!」
竿を引きます。なかなかの手応えです。
「おっ」
魚が水面から飛び出しました。
「釣れた!」
思ったより大きいアジです。
「やりました!」
「しぐれ、すごいじゃない」
「ふふん」
調子がよかったのか、それからアイナメ一匹、アジ一匹を釣り上げました。順調に魚が増えていきます。まあ、私にかかればこんなものです。
「しぐれちゃん!」
遠くからこむぎさんの声がします。
「見てー!」
振り返ると、こむぎさんが砂浜を走っていました。
「貝殻!」
「よかったですね」
「綺麗でしょー!」
「はいはい」
「反応薄いよ! 乙女でしょ!」
乙女ですが今は魚のほうが大事です。というか貝殻ではなく中身入りを取ってきて欲しいものです。
さらにしばらくすると、針に妙な重さが掛かりました。
「……重い」
「大物?」
きなこさんが覗き込みます。
「分かりません」
ゆっくり巻き上げます。海面から現れたのは赤い姿。
「タコ?」
「タコですね」
針に絡みつくように、一匹のタコが上がってきました。素晴らしいです。本日最高の釣果です。
「タコです!」
「そんなに嬉しい?」
「タコですよ!」
「見れば分かるわ」
タコは焼けます。茹でられます。お刺身にもできます。完璧な海産物です。
「ふふふ……」
「しぐれ、怖いわよ」
「何がです?」
「タコを見る目じゃないのよ」
失礼な。
♢
それから二時間ほど。
私達は思い思いに海を楽しみました。こむぎさんは水際を走り回り。なめこさんは浮き輪で海を漂い。きなこさんは途中から海へ入ったものの、何故か頻繁にこちらを確認し。私は釣りを続けました。その結果。
「結構釣れたな」
なめこさんがクーラーボックスを覗き込みます。
「でしょう?」
「魚が五匹に、タコ一匹か」
「十分です」
「じゃあ食うか」
「はい!」
待ってました。
私達は砂浜にバーベキュー用のコンロを出しました。
炭に火をつけ、網を載せます。なかなか火がつかない頑固な炭でしたが、着火剤によって事なきを得ました。
なめこさんは慣れた手つきで魚を捌いていきます。
「なめこさん、魚捌けるんですね」
「料理担当なめんな」
「頼もしいです」
「こいつは刺し身でいいな」
「刺し身!」
「こっちは焼く」
「焼き魚!」
「タコは?」
「半分焼いて、半分刺し身」
「素晴らしいです!」
「今日一番声出てるぞ、お前」
魚の身が包丁で綺麗に切り分けられていきます。残った魚には軽く塩を振って網の上へ。脂が炭の上に落ちてジュウと美味しそうな音を立てました。
「おお……」
いい匂いです。
「しぐれちゃん、顔近いよ」
「焦げないか見てるだけです」
タコも網の上で焼かれています。足が少しずつ丸まり、香ばしい匂いが漂ってきました。これは期待できます。お醤油どこでしたっけ。
「みんなー!」
そのとき、こむぎさんが海のほうから走ってきました。
「見て見て!」
「今度は何だ?」
なめこさんが顔を上げます。
こむぎさんの手には、黒くて丸いものが握られていました。
「ウニ!」
「おお!」
なめこさんが反応します。
「ウニですか!」
私も立ち上がりました。
「すごいでしょ!」
「どこにありました?」
「岩のところ!」
「食べられる?」
「開けてみりゃ分かる」
なめこさんがウニを受け取ります。
「ウニ……」
魚にタコ。さらにウニ。今日は当たりの日かもしれません。
「開けるぞ」
「はい!」
なめこさんが殻を割ります。
「おお……」
中を覗き込みます。全員が黙りました。
「……身、少な」
こむぎさんが言いました。中身は。ほとんどありませんでした。
「何これ!?」
「スカスカだな」
「ウニってもっとこう、いっぱい入ってるんじゃないの!?」
「自然に文句言うなよ」
なめこさんが中を確認します。やっぱりスカスカで痩せています。
「夏なのに! シーズンなのに!」
「ウニにも都合があんだよ」
「海に来たらウニ食べられると思ったのに!」
「少しは入ってるぞ」
「ちょっとじゃん! まるでしぐれちゃんみたいにガリガリに痩せてるじゃん!」
「すごい失礼なこと言ってません?」
「食う?」
「食う!」
「食うんですね」
結局食べるようです。少ない中身を四人で分けました。
「少ないね」
「だから言っただろ」
一瞬でなくなりました。味はまあまあでした。
「もっと拾ってくる!」
「やめとけ」
「なんで!?」
「そいつがいた場所のウニは皆スカスカの可能性が高い」
「そんなぁ……」
こむぎさんが肩を落とします。
気持ちは分からなくもありません。私も少し期待していました。それでも魚はありますしタコもあります。
「焼けたぞ」
「!」
なめこさんが網の上の魚をひっくり返します。皮には綺麗な焼き色がついていました。
「いただきます!」
「まだだ!」
「早い早い!」
「もう焼けてます!」
「反対側がまだだ!」
「待ちます!」
危ないところでした。身体が海産物を求めるあまり、先走ってしまいました。
しばらくして。アジの焼き魚、焼きダコ、タコの刺身、アイナメの刺身。持ってきたおにぎりや軽食。簡単ですが、十分豪華な昼食が出来上がりました。
「いただきまーす!」
四人で手を合わせます。
まずは刺し身からです。何ヶ月ぶりでしょうか。
「……!」
美味しい。
「新鮮……」
「そりゃさっきまで泳いでたからな」
「素晴らしいです」
「しぐれちゃん幸せそう」
「幸せです」
「認めた」
「これは認めます」
焼き魚も美味しい。タコも美味しい。
潮風に当たりながら、砂浜で食べるからでしょうか。いつも学校で食べる食事とは、少し違って感じます。
「来てよかったでしょ?」
こむぎさんが得意げに聞いてきました。
「まあ……」
「まあ?」
「少しだけ」
「素直じゃない!」
「魚が美味しいので」
「海は!?」
「魚が美味しいです」
「海は!?」
「景色も綺麗ですね」
「ついでみたいに言った!」
そんなふうに騒ぎながら。
私達は、久しぶりの海とバーベキューを楽しんだのでした。
♢
お昼を少し過ぎた頃。
私達は海を後にしました。ケイちゃん二号は海沿いの道路を走っています。窓の外には、さっきまで遊んでいた青い海がどこまでも続いていました。
「楽しかったー!」
運転席のこむぎさんが満足そうに言います。
「また来ようね!」
「いいな」
荷台からなめこさんの声が聞こえます。
「久しぶりに海に入れたし、悪くなかった」
「浮き輪で浮いてただけじゃないですか」
「いいじゃねえか。泳げないんだし」
「私はもう少し遊びたかったわ」
きなこさんも荷台から言いました。
「結局、しぐれのラッシュガード姿しか見られなかったし」
「十分でしょう」
「十分じゃないわよ」
「何が不足してるんですか」
「肌」
「学校に着いたらあずきさんに報告しますね」
「ごめんなさい」
素直でよろしい。
「しぐれちゃんも楽しかったでしょ?」
こむぎさんがこちらを見ます。
「前見て運転してください」
「楽しかった?」
「前見てください」
「魚おいしかった?」
「……美味しかったです」
「ほらー!」
「海じゃなくて魚の感想です」
「でも楽しんでたじゃん!」
「まあ」
否定はしません。
釣りもできました。新鮮なお刺身も食べられました。焼き魚も美味しかったです。タコも最高でした。ウニは残念でしたが。
「また行きたいです」
「よっしゃ!」
「ただし次はもっと早く出発しましょう」
「了解!」
「釣りする時間が足りませんでした」
「やっぱり魚じゃん!」
そんなことを話しながら、ケイちゃん二号は学校へ向かって走っていました。
楽しい一日でした。あとは帰るだけ。そう思っていた、その時です。
「ん?」
車体が小さく揺れました。
プスン。
「……?」
こむぎさんがアクセルを踏みます。
プスン。
エンジンの音が消えました。
ケイちゃん二号は惰性で少しだけ進み、そのまま道路の端で止まりました。車内が静かになります。
「何?」
荷台からきなこさんが顔を覗かせました。
「止まった?」
「止まったね」
こむぎさんがキーを回します。
エンジンはキュルルルルと音がするだけでかかりません。
「おい」
なめこさんも荷台から身を乗り出します。
「壊れたのか?」
「えー?」
こむぎさんがもう一度キーを回します。
キュルルルルという音が続くだけです。
「ケイちゃん二号ー?」
返事はありません。軽トラなので当然です。むしろ返事されたほうが困ります。
「くるみがいないのに故障は困るぞ」
「ちょっと待って」
こむぎさんがメーターを見ます。そして。
「……あ」
固まりました。
「どうしました?」
「……」
「こむぎさん?」
「……」
額から、一筋の汗が流れています。
「おい」
なめこさんの声が低くなりました。
「まさか」
「……」
私もメーターを見ました。
燃料計の針は一番下。ガソリン残量を知らせるランプが、しっかりと点灯しています。
全員が黙りました。
「こむぎさん」
「はい」
「これは?」
「ガソリンのランプですね」
「そうですね」
「もしかして」
きなこさんがゆっくり言います。
「ガス欠?」
「……」
こむぎさんがこちらを向きました。両手を胸の前で合わせます。
「ごめんね?」
首を少し傾げました。
「可愛く言っても駄目だ!」
なめこさんが怒鳴りました。
「ひぃ!」
「だからあたし、あれほどガソリン大丈夫かって確認しただろ!」
「大丈夫だと思ったんだよ!」
「思っただけかよ!」
「燃料計見たもん!」
「だったらなんでこうなってんだ!」
「思ったより減った!」
「車なんだから走れば減るに決まってんだろ!」
「こむぎ!」
きなこさんも怒っています。
「予備は!?」
「ない!」
「なんでよ!」
「積んでないから!」
「それは知ってるわよ!」
きなこさんが荷台を漁り始めました。
「どこかにないの!? 予備のガソリン!」
「ないって!」
「本当に!?」
「本当に! 確認した!」
「なんでそんなところだけ自信満々なのよ!」
私は助手席に座ったまま、深くため息を吐きました。
「……はぁ」
「し、しぐれちゃん?」
こむぎさんが恐る恐るこちらを見ます。
「どうしました?」
「怒ってる?」
「いいえ」
「よかった」
「呆れているだけです」
「そっちのほうが辛い!」
「出発前に聞かれましたよね」
「はい」
「ガソリン大丈夫かって」
「はい」
「百キロ先だとも言われましたよね」
「はい」
「予備はあるかとも聞かれましたよね」
「はい」
「それで大丈夫だと言いましたよね」
「はい……」
「結果がこれです」
「はい……」
私は窓の外を見ました。
道路と山。そして遠くに見える海。学校まではまだ遥か彼方です。
「素晴らしい判断力ですね」
「しぐれちゃん」
「尊敬します」
「しぐれちゃん」
「ここまで綺麗に最悪の選択肢だけ選べる人、なかなかいませんよ」
「泣きそう」
「泣きたいのはこっちです」
それでも怒鳴らないだけ、私は優しいと思います。多分。
「それで」
なめこさんが言いました。
「学校まであとどれくらいだ?」
「えーっと……」
こむぎさんが地図を確認します。長考して固まっています。
「こむぎ」
「八十」
「は?」
「あと八十キロくらい」
風の音だけが聞こえます。
「八十キロ?」
きなこさんが聞き返しました。
「うん」
「歩いて?」
「うん」
「荷物持って?」
「うん」
「軽トラ置いて?」
「……」
四人でケイちゃん二号を見ました。
「置いていくわけにもいかねぇよな」
なめこさんが言います。
「くるみさんに怒られます」
「絶対怒るわね」
「ケイちゃん二号まで失ったら、あずきちゃんにも殺されるかも」
「殺されは……いやでもリスポーンありますし」
「死ぬ前提!」
まあ生きたままの仲間殺しはしないでしょう。多分。
「……どうする?」
こむぎさんが聞きます。
「どうするって……」
なめこさんが腕を組みました。
「ガソリン探すしかねぇだろ」
「この辺にガソリンスタンドある?」
「知らねぇ」
「そもそも電気がきてないわ。普通の給油機は動かないわよ」
きなこさんが周囲を見回して言います。
「じゃあ歩いて帰る?」
「ケイちゃん二号はどうするんです?」
「置いてく?」
「嫌だ」
なめこさんが即答しました。
「せっかくくるみが整備してる車だぞ。置き去りにしたくねぇ」
「じゃあ……」
こむぎさんがケイちゃん二号を見ます。
「押す?」
こむぎさんは、残り八十キロを三人で押して帰ろうと言い出しました。
「無理じゃない?」
きなこさんが言いました。
「でも少しずつなら進むかも!」
こむぎさんが言います。
「そして放置車両からガソリンを抜けばいいんだよ!」
「抜き方知ってるの?」
「……知らない!」
「駄目じゃねえか」
それはそうです。普段から給油やガソリンの調達をしているのはくるみさんだけです。他の誰もガソリンの調達方法なんてわかりません。
「……やるしかないか」
なめこさんがため息を吐きました。
「えぇ……」
きなこさんが嫌そうな顔をします。
「私も押すの?」
「高校生だろ」
「関係あるかしら?」
「しぐれに押させんのか?」
三人の視線が私に集まりました。
「小学生です」
「そうだった」
「こういう時だけ便利ね、その肩書き」
「普段も小学生です」
そんなわけで私は運転席へ移動し、ハンドルを担当することになりました。
こむぎさん。なめこさん。きなこさんの三人はケイちゃん二号の後ろへ回ります。
「準備いい!?」
こむぎさんが叫びます。
「よくない!」
なめこさんが答えます。
「私もよ!」
「でも押すよ!」
「分かったよ!」
私はサイドブレーキを解除しました。
「じゃあ行くよ!」
こむぎさんが車体に手をつきます。
「せーの!」
三人が一斉に力を込めました。
ケイちゃん二号がゆっくり。本当にゆっくりと動き始めます。
「押せ押せー!」
「お前も押せ!」
「押してるよー!」
「もっと力を入れて!」
――そして。
話は、冒頭へと戻るのでした。