「……ん」
小さな物音がして、私は目を覚ましました。薄く目を開けると、暗い職員室にはエアコンの低い駆動音と、誰かの寝息だけが聞こえています。カーテンの隙間から差し込んだ月明かりが、床に並べられた布団をぼんやりと照らしていました。
夏になってから、私達九人は職員室で寝泊まりしています。学校全体を冷やせるほど電気に余裕はありませんが、職員室一室くらいならエアコンを一日中動かしておくことができます。そのため、暑い時期は自然と全員がここへ集まるようになりました。プライバシーなんてものはほとんどありませんが、蒸し暑い教室で寝苦しい夜を過ごすよりは、遥かに快適です。
文明万歳。冷房万歳。
枕元に置いていた時計を確認すると、午前二時を少し過ぎたところでした。
「……何の音でしょう」
身体を起こし、まだ眠気の残った目で周囲を見回します。あずきさんは壁際で豪快に眠り、こむぎさんは布団を半分蹴飛ばしています。カヌレさんは寝ている時まで妙に姿勢がよく、さおりさんは穏やかな顔。きなこさんは枕に抱きつき、くるみさんは布団に包まるように丸くなっています。なめこさんに至っては服がめくれて、お腹が丸見えでした。
皆、ぐっすり眠っているようです。さっきの物音は気のせいだったのでしょうか。
「……?」
そう思いながらもう一度見回して、一つだけ空いている寝床に気が付きました。
「いちごさん?」
目立つはずの赤髪が見当たりません。嫌な予感というほどではありませんが、午前二時に一人だけ姿がないとなれば少し気になります。私は皆を起こさないよう、音を立てずに布団から抜け出しました。
♢
職員室を出ると、廊下は真っ暗でした。扉をそっと閉めれば、それまで聞こえていた冷房の音も遠ざかります。昼間は熱気のこもる校舎ですが、さすがに夜になると多少は過ごしやすくなっていました。
窓の外には暗い校庭が広がり、その向こうのフェンスが月明かりを受けて薄く浮かんでいます。遠くから聞こえてくるのは虫の声くらいで、ゾンビのいる世界とは思えないほど静かな夜でした。
そんな暗い校舎の中で、厨房だけに明かりが点いています。やっぱり誰かいますね。厨房は冷蔵庫や調理設備を使うため普段から電気が通っているので、照明も問題なく使えます。
私は足音を忍ばせながら厨房へ近づき、入口から中を覗きました。
「何してるんです?」
「……ん」
中にいたのはいちごさんでした。いつもの白いセーラー服ではなく、さすがに寝る時くらいは着替えているようで、今はゆったりしたTシャツと短パン姿です。相変わらずの猫背で、コンロに載せた鍋をじっと見つめています。
「……お湯」
「それは見れば分かります」
「……沸かしてる」
「それも分かります」
視線を横へ移すと、調理台の上にカップ麺が一つ置かれていました。なるほど。こんな時間に一人で厨房へ来た理由がようやく分かりました。
「夜食ですか?」
「……うん」
悪びれる様子はまったくありません。
「午前二時ですよ」
「……腹減った」
「だからって――」
そこまで言ったところで、ぐぅ、と自分のお腹が鳴りました。
なんて間の悪いお腹なのでしょう。
いちごさんが無言でこちらを見ます。
「……食べる?」
「食べません」
「……そう」
ぐぅ、ともう一度鳴りました。
沈黙が二人を包みます。
「……半分ください」
「……いいよ」
人間、空腹には勝てません。特に深夜のカップ麺には。
♢
お湯を注いで蓋を閉じ、そのまま待つこと数分。少しずつ漂い始めた匂いに、いちごさんが小さく鼻を動かしました。
「……いい匂い」
「そうですね」
これは認めざるを得ません。深夜に嗅ぐカップ麺の匂いというものは、どうして昼間より美味しそうに感じるのでしょう。もしかすると、食べてはいけない時間に食べるという背徳感まで調味料になっているのかもしれません。
「これ、半分にするんですか?」
「……うん」
いちごさんは棚から小さな器を二つ取り出しました。思ったよりちゃんと分けてくれるつもりらしいです。
「ありがとうございます」
「……共犯」
「嫌な言い方しないでください」
「……事実」
「誰にも言わなければ分かりません」
「……悪い顔」
「あなたが始めたんですよ」
やがて待ち時間が終わり、蓋を開けると湯気とともに濃い香りが立ち上りました。美味しそうです。いちごさんが箸で麺を持ち上げ、器へ取り分けようとした――その時でした。
「何してるの?」
「!」
背後から突然声を掛けられ、私は肩を跳ねさせました。恐る恐る振り返ると、厨房の入口にこむぎさんが立っています。寝起きらしく顔は眠そうで、髪には盛大な寝癖がついていました。
ですが、目だけは完全にカップ麺へ向いています。
三人でしばらく見つめ合いました。
「夜食?」
「違います」
「どう見ても夜食じゃん!」
「声! もっと小さく!」
私は慌てて口元へ指を立てます。
「皆起きるでしょう!」
「ずるい!」
「何がですか」
「二人だけでラーメン食べてる!」
「私は巻き込まれただけです」
「……共犯」
「余計なこと言わないでください!」
こむぎさんは私達の言い訳など聞く気もないようで、そのまま保存食を置いている棚へ向かいました。
「私も食べる!」
「駄目です」
「なんで!?」
「カップ麺が一つ減ってもバレづらいです。ですが二つ減ってしまえば、バレる確率も上がります。なので――」
「じゃあ、なめこちゃんに告げ口しちゃおうかなー」
「どうぞお取りください」
脅しに屈しました。今の私は無力です。
「やった!」
「一個だけですよ。それと静かにしてください」
「はーい」
こうして二つ目のカップ麺が取り出されました。お湯を注いで数分待ち、こむぎさんも椅子へ座ります。
「いただきまーす!」
「だから声」
「ごめん」
三人で麺をすすります。深夜の厨房に、ズルズルと麺をすする音だけが妙に大きく響きました。
なんでしょう。保存食を少し食べているだけのはずなのに、物凄く悪いことをしている気分です。
実際、黙って食べている時点で多少は悪いのでしょうけれど。
♢
「皆さん、何をしているのデスカ?」
「……」
今度は金髪を少し乱したカヌレさんが、厨房の入口から顔を覗かせました。
「また増えましたね……」
「何がデス?」
「いえ、こちらの話です」
カヌレさんは私達の前に並ぶカップ麺を見ると、眠そうだった顔を一瞬で輝かせました。
「深夜のラーメンデスカ!」
「声を小さくしてください」
「日本では飲み会の締めにラーメンを食べる文化があると聞きマシタ!」
「それはありますけど、私達は飲み会をしていません」
「では、これから始めれば――」
「未成年しかいません」
「ジュースで乾杯しマス!」
「話を広げないでください」
「私も食べたいデス!」
予想通りの展開になりました。
「……」
保存食の棚を見ます。
いちごさん。私。こむぎさん。そしてカヌレさん。すでに四人です。
一個や二個ならともかく、さすがにこれ以上は誤魔化せない気がします。
「一個だけですよ」
「ありがとうございマス!」
「だから声!」
結局、カヌレさんの分も追加されました。
最初は二人で一つだけだったのに、いつの間にか小規模なラーメン会になっています。
そして、カヌレさんのカップ麺が完成した頃。
「お前ら、何をしている」
低い声が厨房に響きました。今までとは違います。全員の動きが止まりました。厨房の入口。そこには腕を組んだあずきさんが立っています。
まずい。
あずきさんは戦闘好きで豪快な人ですが、意外とこういうところには厳しいです。当番や時間、それに皆で決めたことはちゃんと守るべきだという体育会系の人なので、こむぎさんのように「楽しければいいじゃん」で済ませてはくれません。
しかも現在、午前二時過ぎ。保存食を勝手に持ち出し、四人で夜食。これは言い逃れできません。
「あの……」
「夜中に何やってるんだ?」
「カップ麺を……」
「見れば分かる」
ですよね。
「食料は皆のものだろ。勝手に――」
「ごめんなさい」
私は椅子から立ち上がり、素直に頭を下げました。
「私も止めようとはしたんですけど、お腹が空いてしまって……。黙って食べたのは悪かったです」
「……」
あずきさんが黙りました。
「明日、さおりさんとなめこさんにも謝ります」
「……そうか」
少しの沈黙のあと、あずきさんは小さく息を吐きました。
「まあ、ちゃんと分かってるならいい。たまにはこういうことがあってもいいだろ」
「許してくれるんですか?」
「ああ」
助かりました。
「ただし、次からは一言――」
そこであずきさんの視線が、私達の食べているラーメンへ向きました。
「……一個くれ」
「食べるんですか!?」
「起きたら腹が減った」
「今の説教は何だったんです?」
「それとこれとは別だ」
「別なんですか?」
「いいから一個くれ」
規律はどこへ行ったのでしょう。
しかし、ここで断る理由もありません。こうして五人目が加わり、深夜のラーメン会は正式にラーメンパーティへ昇格しました。
「よし」
あずきさんはカップ麺にお湯を注ぎながら、急に真面目な顔になります。
「ただしルールを決めるぞ」
「ルール?」
「おかわりは一杯までだ。それ以上は禁止。食料なんだから、際限なく食うわけにはいかない」
「自分も食べてるのに仕切り始めましたね」
「こういう時こそ規律が必要なんだ」
「夜中に勝手に食べる時点で規律も何もないと思いますけど」
「細かいこと言うな」
そこは細かいことで済ませていいのでしょうか。
「一人二杯までデスネ!」
カヌレさんが嬉しそうに確認します。
「そうだ。今食ってるのを一杯目として、もう一杯まで」
「私といちごさんは半分ずつでしたけど?」
「……」
あずきさんが考え込みます。
「一杯目扱いだ」
「厳しい!」
「規則は公平じゃないと駄目だ」
「こんな時だけ体育会系を発揮しないでください」
とはいえ、おかわりが認められたのなら話は別です。
「味噌ある!」
こむぎさんが棚を覗き込みました。
「……味噌」
すぐにいちごさんが反応します。
「食べる?」
「……食べる」
「早いですね」
「……おかわり」
「ルール内だな」
あずきさんのお墨付きまで出ました。
「醤油もありマス!」
「カヌレさんはそれですか?」
「ハイ!」
「私は何にしましょう……」
棚を見ると、カップそばがあります。
「……」
魅力的です。あっさりとしたものが食べたいです。
「しぐれちゃん、それ狙ってる?」
「見ていただけです」
「食べないの?」
「……食べます」
人のことを言えません。
こうして二巡目が始まりました。
♢
厨房には再び湯気と即席麺の香りが満ちました。ただし、あずきさんが決めた「おかわり一杯まで」という規則のおかげで、それ以上棚の中身が際限なく減ることはありません。
いちごさんは味噌ラーメン。こむぎさんはカップうどん。カヌレさんは醤油ラーメン。私はカップそば。あずきさんは、なぜか一番大きなサイズのラーメンを選んでいました。
「それ、ずるくないですか?」
「一杯は一杯だ」
「ルールの穴を作った本人が利用しています」
「細かいことは気にするな」
「さっき公平じゃないと駄目って言いましたよね」
「あれはあれだ」
体育会系というものが分からなくなってきました。
「……うまい」
隣ではいちごさんが味噌ラーメンをすすり、いつもより少しだけ幸せそうな顔をしています。
「そんなに味噌好きなんですか?」
「……好き」
「初めて知りました」
「……覚えといて」
「覚えておきます」
「こっちの醤油も美味しいデス!」
カヌレさんもすっかり楽しんでいます。
「これぞ日本の深夜文化デス!」
「だから文化にしないでください」
「でも楽しいデショ?」
「……否定はしません」
悔しいですが楽しいです。夜中の学校。皆が寝静まった厨房で五人でこっそり食べる即席麺。
やっていること自体は大したことではありません。それでも、普段ならしないことをしているだけで妙に特別な時間に感じられます。
「しぐれちゃん」
「何です?」
「そば美味しい?」
「美味しいですよ」
「一口ちょうだい」
「駄目です」
「なんで!?」
「おかわりは一杯までです」
「一口は一杯じゃないよ!」
「なるほど」
あずきさんが頷きます。
「こむぎ。頭いいな」
「褒めるところですか!?」
規律を守る人が抜け道を推奨し始めました。
駄目ですね、この人。
♢
時計を見ると、すでに午前三時近くになっていました。
さすがに二杯分も食べれば、お腹はいっぱいです。最初に半分しか食べていない私ですら十分なのですから、最初から一杯丸ごと食べた人達はもっと苦しいでしょう。
「……幸せ」
いちごさんが椅子にもたれ、お腹を押さえています。
「食べすぎましたね」
「……うん」
こむぎさんもテーブルへ突っ伏しました。
「動けない……」
「自業自得です」
「しぐれちゃんもでしょ」
「私は一杯半です」
「同じようなもんじゃん」
「半杯は大きな差です」
「よく分かりマセンが美味しかったのでヨシ!」
カヌレさんだけはまだ元気です。
あずきさんも満足したらしく、空になった大盛りカップを机へ置きました。
「よし。終わりだ。これ以上は禁止」
「三杯目は?」
こむぎさん。
「駄目だ」
「半分なら?」
「駄目」
「一口なら?」
「もう寝ろ」
「はーい」
一応、最後には規律が戻ってきたようです。
「片付けましょう」
満腹で動きたくありませんが、このまま放置するわけにはいきません。五人で空容器や袋をまとめ、使った器を洗い、調理台を拭いていきます。
「証拠隠滅!」
こむぎさんが楽しそうに言いました。
「片付けです」
「でも証拠も消えてるよ?」
「棚の中身は戻りませんよ」
「……」
こむぎさんが保存食の棚を見ました。五人で一通り食べたうえ、おかわりまでしたのです。最初より、明らかに空間が増えています。
「これ、バレるかな?」
「バレるでしょうね」
「……バレる」
「いちごさんまで」
「でも、あずきさんも一緒です!」
こむぎさんが何かに気付いたように言います。
「怒られてもあずきさんが守ってくれる!」
「何で私が守るんだ」
「先輩だから!」
「関係ない。悪いことしたら一緒に謝る」
「体育会系!」
「当たり前だろ」
妙なところで頼もしいですね。
ただし、この時の私達はまだ少し甘く考えていました。怒られるとしても、せいぜい少し注意される程度だろう、と。
♢
「朝飯できたぞー」
なめこさんの声で目を覚ましました。
朝です。最悪です。
昨夜食べたものがまだ胃の中に残っているのか、身体を起こしただけでお腹が重く感じました。
「朝ご飯ですよ」
さおりさんも皆を起こして回っています。
「……はい」
職員室を見回すと、昨夜の共犯者達は全員似たような顔をしていました。いちごさんは布団から半分しか出てこず、こむぎさんはお腹を押さえています。カヌレさんもいつもの元気がありません。
そして、あずきさんまで布団の上で難しい顔をしています。
「おい、飯だぞ」
なめこさんが声を掛けました。
「……あとで」
こむぎさんが答えます。
「珍しいな。どうした?」
「まだお腹いっぱい」
「なんでだ?」
「……」
こむぎさんが固まりました。
「昨日の夕飯食いすぎた?」
「そう! それ!」
「嘘が下手ですね」
私は小声で言いました。
「しぐれちゃん助けて!」
「私も共犯なので無理です」
なめこさんは怪訝そうな顔をしながら、今度はあずきさんを見ました。
「あずきは食うだろ?」
「……いや、今はいらない」
「は?」
なめこさんが停止しました。
「あずきが?」
その反応は正しいと思います。
「体調悪いのか?」
「悪くない」
「熱は?」
「ない」
「じゃあ、なんで腹減ってねぇんだよ」
「……」
あずきさんが目を逸らしました。まずいですね。こういう時、嘘をつけない人は弱いです。
「なんや皆、具合でも悪いん?」
さおりさんも不思議そうに私達を見回しています。
「大丈夫です」
「しぐれちゃんも食べへんの?」
「……少しなら」
「昨日も焼きとうもろこし、あんな嬉しそうに食べとったのに?」
「今日は少食の日です」
「そんな日あるん?」
「今日できました」
苦しい。
「変やなぁ」
さおりさんは首を傾げました。そして、ふと何かを思い出したような顔をして厨房へ向かいます。
「……」
嫌な予感がします。
「何しに行ったの?」
こむぎさんが小声で聞きました。
「知りません」
できれば知りたくありません。
しばらくして。
「あ」
昨夜の事情を知らないくるみさんが、寝ぼけた顔のまま呟きました。
「さおり、昨日保存食の在庫数えてなかったっけ?」
「……」
五人全員が固まりました。
「終わった」
こむぎさん。
「……終わった」
いちごさん。
「何がデス?」
カヌレさんだけ少し反応が遅れています。
「私達です」
今度こそ、本当に終わりました。
♢
「みんな」
数分後、さおりさんが職員室へ戻ってきました。笑顔です。
「ちょっとええ?」
「……はい」
昨夜の五人だけが一斉に姿勢を正しました。
その様子を見て、くるみさんときなこさんが不思議そうな顔をしています。なめこさんも眉をひそめました。
「うち、昨日な。保存食の数、確認したんよ」
「はい」
「カップ麺も袋麺も、それなりにあったはずなんやけど」
「……はい」
「今朝見たらな」
さおりさんは笑顔のまま続けます。
「だいぶ減ってんねん」
「……」
「なんか知らん?」
「……」
誰も答えません。正確には、答えられません。
「おい」
なめこさんが私達を見ました。
「何した?」
「……」
「その反応、何かしただろ」
さすがです。なめこさんは厨房へ向かい、すぐに戻ってきました。
「お前らぁぁぁぁぁ!」
朝の職員室に怒鳴り声が響きます。
「夜中に食ったのか!?」
「……はい」
「どんだけ食った!?」
「一人、おかわり一杯までです」
私が正直に答えました。
「十分食ってんじゃねぇか!」
「ルールは守ったぞ」
あずきさんが言います。なめこさんが振り返りました。
「あずきが決めたのか!?」
「……ああ」
「なんで止める側がルール作って参加してんだよ!」
「最初は止めようとした」
「途中で何があったんだ!」
「……腹が減った」
「お前もかよ!」
ごもっともです。
「誰が始めた!」
なめこさんに睨まれ、いちごさんが静かに手を挙げます。
「……私。最初、一個」
「じゃあ何でこんな減ってんだ!」
「……増えた」
「何が?」
「……人」
「最終的に五人になりました」
私が補足すると、なめこさんの視線がこちらへ飛んできました。
「お前もいたのかよ!」
「いました」
「何してんだ小学生!」
「お腹が空いていました」
「理由になってねぇ!」
怒っています。当然です。
なめこさんは声も大きいですし、表情も分かりやすい。怖いことは怖いのですが、何を考えているか分かる分、まだ心の準備ができます。
「そうなんや」
ところが、その横から静かな声がしました。さおりさんです。いつも通りの穏やかな口調。そして笑顔。
「夜中に五人で食べたんやなぁ」
「……はい」
「うちが何日くらい持つかなぁって考えて、数えて置いといた分を?」
「……はい」
「勝手に?」
「……はい」
「しかも、おかわりまでしたんや?」
「……はい」
怖い。
さっきまでなめこさんに怒鳴られていた時より、明らかに空気が重くなりました。
横を見ると、こむぎさんもカヌレさんも背筋を伸ばしています。いちごさんですら、いつもより少し姿勢がいい。
そして。
「あずき?」
「……はい」
あずきさんまで姿勢を正しました。
さっきまで「ルールは守ったぞ」と胸を張っていた人とは思えません。
「最初は止めようとしたんやって?」
「ああ……いや、はい」
敬語になりました。
「それで?」
「しぐれがちゃんと謝ったから、たまにはええかと思って……」
あずきさん、関西弁が移っていますよ。
「ほんで、自分も食べたん?」
「……はい」
「おかわり一杯までって決めたんも?」
「……私です」
「そうなんやぁ」
「……すみません」
早い。
あのあずきさんが、完全に頭を下げています。
戦闘ではゾンビ三十体を相手にしても平気な人なのに、さおりさんの笑顔には勝てないようです。
「別に、食べたらあかんとは言うてへんよ?」
「はい」
「たまには夜食したくなるんも分かるし」
「はい」
「でも食料には限りがあるんやから、勝手にいっぱい食べたら困るやろ?」
「はい」
「次から一言言うてな?」
「はい!」
五人の声が綺麗に揃いました。
「それとな」
「はい!」
「夜中におかわりまでして、朝ご飯食べられへんのはあかんと思うんよ」
「はい!」
「せっかくなめこちゃんが作ってくれたんやし」
「はい!」
「ちゃんと食べよな?」
「はい!」
無理です。ですが、言えません。言ったらとんでもないことになりそうです。
「分かった?」
「分かりました!」
「よろしい」
さおりさんがいつもの笑顔に戻りました。
同じ笑顔のはずなのに、今度は少しだけ安心できます。
「……怖かった」
こむぎさんが小さく呟きました。
「聞こえてんぞ」
なめこさん。
「ひっ!」
「こむぎちゃん」
今度はさおりさん。
「はい!」
「なんか言うた?」
「何も言ってません!」
早い。
私の隣で、あずきさんが深々と息を吐きました。
「……戦う方が楽だ」
「同感です」
「聞こえとるよ、あずき」
「すみません!」
また即座に謝りました。
これは珍しいものを見ました。
♢
「ほな、朝ご飯食べよか」
「はい……」
こうして昨夜の五人は、まだラーメンが胃の中に残った状態で朝食の席に着くことになりました。
目の前には、なめこさんが作ってくれた朝食が並んでいます。いつもなら喜んで箸を伸ばすところですが、今日は見ただけでお腹がさらに重くなるような気がします。
それでも残すという選択肢はありません。
「いただきます」
覚悟を決めて箸を持ちます。
隣ではこむぎさんが完全に死んだ目をしていました。カヌレさんもいつもの勢いがありませんし、いちごさんは無言でゆっくりと箸を動かしています。
そして正面には、昨夜一番大きなカップ麺を食べていたあずきさん。
「……」
箸が止まっています。
「あずき?」
さおりさんが優しく声を掛けました。
「食べてる」
「あんまり進んでへんけど」
「今食べる」
すぐに箸が動き始めました。さおりさんに対しては完全に頭が上がりませんね。
「しぐれちゃん」
こむぎさんが小声で話しかけてきます。
「何です?」
「夜食って怖いね」
「夜食が怖いんじゃありません」
「じゃあ何?」
私は少し離れたところにいるさおりさんを見ました。今はもういつもの穏やかな顔に戻って、なめこさんと話しています。
「普段優しい人を怒らせることです」
「……なるほど」
「覚えておきましょう」
「うん」
「……同意」
いちごさんも神妙な顔で頷きました。
「日本のことわざにありマスネ!」
カヌレさんが小声ながら得意げに言います。
「仏の顔も三度までデス!」
「今日は一回目ですよ」
「あと二回ありマス!」
「試さないでください」
「もちろんデス!」
「絶対だからな」
あずきさんまで会話に入ってきました。
「次はないぞ」
「一番反省してますね」
「……うるさい」
どうやら昨夜のラーメンより、今朝の説教の方がよほど胃に効いたようです。
私も再び朝食へ箸を伸ばしました。美味しいです。なめこさんの朝食は、今日もいつも通り美味しいです。
ただし、昨夜のラーメンがまだお腹に残っています。もう深夜にラーメンパーティなんてしません。
少なくともしばらくは。