第二十八話
ブラックモアの短い詠唱に世界が震え、結界が軋みを上げた。
魔術師にしろ魔導師にしろ、魔力の存在を知り理解している。当然だ。その存在を前提として、燃料として扱う技術を扱っているのだから。
そんな彼らにしても、今この場で、現在進行形で起こっている現象は未知のものだった。
魔力が黒く染まり、まるで質量を有するかのように粘つき絡み付き、疲労も合間って今にも墜落しそうな程に全身が重く感じる。
加えて指先から体温が逃げていくような震えと寒さまで感じる始末だ。
クロノはその正体を知っていた。
つい最近。己の片手を失った時にも同じものを感じたのだから。
これは確信だ。
死、という終焉への根元的な恐怖。その先にある「自分は死ぬのだ」という確信。
恐怖することも抗うことも赦さず一足飛びに叩きつけられたソレに、自覚すら抱くことができないまま身体から順に生きることを諦めようとしているのだ。
このままではいけない。
なんとしてでもアレを止めなければ!
そう頭で考えて意識が抗じようとも、蛇に睨まれた蛙という言葉が生温いほどに身体が動かない。
クロノからすれば素人でしかない他の面々を気にかける余裕もなく、諦観が侵食するーー
刹那。
圧倒的で暴力的な、それでいて確固とした術理によって支配された爆発が世界を埋没させる。
それは天葢と形容しても遜色の無い強大で濃密な魔法陣。
それは豪雨、否、滝のように瀑布となって降り注ぐ紫煌の雷。
爆発と感じたのは目を焼く程に強烈極まりない雷光と、鼓膜をぶち抜き身体の芯まで伝播する雷音と、圧倒的という言葉すらまだ足りない雷撃の量による錯覚。
一瞬とも永遠とも判然としない突然の衝撃は、あらゆる意味で規格外に過ぎた。
雷撃が降り止み、それでもなお拡散した魔力が雷という属性を発散し切れずにそこかしこでバチバチと滞留している。
クロノをして未だかつて体験したことのない、どころか目にしたことも耳にしたこともない、濃密といってまだ余りある魔力濃度だ。
『ーー私の可愛い娘に、よくもまぁやってくれたものね』
唐突にそんな声が聞こえた。
低く冷たい女性の声だ。
自信に向けられた訳でもないのに、まるで背中に氷を入れられたように怖気立つ。
『ーーっ、く。他人のことを言えた義理かね。姿も見せぬまま横槍とは……』
あの雷撃の瀑布が直撃したのだろう。応えるブラックモアの総身から煙が立ち上ぼり、全身くまなく裂傷と火傷に苛まれているようだ。
あれほどの極大魔法を食らってその程度で済んでいるブラックモアを驚異的と言えばいいのか、数人がかりのダメージを上回る回復力を誇るブラックモアを上回った極大魔法を脅威的と捉えればいいのか。その両方か。
何れにしろ、趨勢は決した。
ブラックモアが声ほどに余裕が無いことは一目瞭然。流暢だった口上が鳴りを潜め、未だ回復へと至っていないのだから。
一方で声の主は、信じられないことにあれほどの極大魔法を行使しておきながら声に余裕を感じる。
空間を超越し、世界に悲鳴を上げさせるような魔法を放つ。どれを行うにも一流の魔導師でさえ極度の疲労は禁じ得ないものだ。それだけでなく、内と外を完全に隔絶するほどの結界すらも越えているのだ。魔導師ランクも魔力ランクも規格外という他ない。
『横槍というのなら、それこそ鏡を見て言いなさい。私の可愛い愛娘たちに茶々を入れたのはそちらじゃなくて?』
『くっ、然り。これは、一本取られた……』
もはやのこの場の支配者は完全に姿無き魔導師だ。
クロノを含めた誰もが黙って成り行きを見ているしかできない。
『で、どうするの? まだ懲りないというのなら、おかわり、差し上げましょうか?』
『……いや、遠慮しておこう。流石の私でもこれ以上は差し障る。認めよう、異界の魔術師よ。私は慢心と侮蔑が過ぎたようだ』
『あら、以外と殊勝ね』
『これ以上の無様は晒せんさ。何より、界を越えて害を及ぼす術を私は有していない』
『そう。結構なことだわ。なら、さっさと失せることね。勿論、ジュエルシードの持ち逃げなど許さないわよ?』
『くはっ。そんなことする筈もない。そんな真似をすれば何処までも追い立てられそうだ……』
『きちんと理解しているようで何よりだわ』
ブラックモアはジュエルシードをその場に放り投げると、登場した時同様、姿を消した。転移か、穏行か。
僅かな魔力の残滓と彼らに刻まれた恐怖と猛威のみが、不死の怪物が存在していたという証拠として在るだけだ。
あれだけの戦闘があって、決死の思いがあって。
しかし幕切れはなんとも言えない。
ジュエルシードを取り返したという達成感も、生き残ったことに対する歓喜もない。
あるの明確な敗北感と、後味の悪い無力感……。
「……いつだって、こんなはずじゃないことばっかりだ…………」
年若く、未だ歴戦と言うには僅かに及ばない執務官であるクロノは口の中でそう呟くと、ぎりっ、とデバイスを強く握りしめた。
『ーーノーーんっ! 応ーーして、ーーくん!』
悔しさに染まるクロノの耳を聞き慣れた補佐官の声がくすぐった。
所々ノイズ混じりであるが、それでも長い付き合いである彼女の声を聞き間違える筈はない。
「こちらクロノ。聞こえますか?」
『ーーローーくーー!? やっーー繋がった!』
クロノの眼前に展開された空間投射ディスプレイは電波の悪いテレビのように映像が乱れ音声に雑音が混じるが、しっかりと自らの部下であるエイミーの姿を移していた。
この事実はつまり、堅牢強固な結界が既に解かれていることを示していた。それでも映像や音声に不具合が生じているのは、先程の極大魔法による影響だろう。さすがに残留魔力の帯電現象は既に見られないが、それでも周囲の魔力が鎮静化するには少しだけ猶予が必要だ。
と、クロノがそこまで考えた所でハッと思い出す。
余りにも急展開過ぎて自失気味だったこともあり失念しかけていたが、あの極大魔法を使ったのは何者なのか。
管理局に勤めている現役執務感とは言え、その全ての魔導師の力量を把握している訳ではない。とは言え、それでも空間跳躍、オーバーS相当の結界透過、そしてそれ以上のランク規格外の魔法行使、それらを一度に行使可能な超絶的な魔導師が居れば当然に記憶に残る。
しかしクロノ記憶にそんな魔導師の存在は無く、噂として耳にした覚えすらもない。
と、言うことは管理局外の在野の魔導師ということになる。
管理外世界である地球にそんな大魔導師が居ることは問題だが、それでも助けられた以上は通すべき義理がある。
「先程の……助けて頂いた方、まだ聞こえていますか!?」
一瞬なんと言えば良いのか迷い、そのままストレートに呼び掛ける。虚空に声を張り上げる様は事情を知らないものから見れば奇行だが、この場にそんな者はいない。
『聞こえているわよ、若い執務官さん。けれど、今は話している時間さえ惜しいわ。早く愛娘+αを休ませてあげたいの。そうね、また明日……現地時間の夕方ごろにでも時間を取るわ。今はそれで納得しなさい』
姿無き魔導師は一方的にそれだけを通告すると、強力な魔力の捻りが生じる。
何事だ!? と言う疑問のままに生じた魔力の気配の方を向けば、フェイトとアルフの二人の足元に紫の魔力光で編まれた魔法陣が展開していた。
「フェイトちゃん!?」
「だ、大丈夫だからなのは! これ母さんの」
急展開に次ぐ急展開。突然の事態に血相を変えるなのはにフェイトが何かを言い切る直前、魔法陣が光を放つとフェイトとアルフの姿はそこには無かった。
『やっと通信状態が回復した! クロノくん、大丈夫なの!?』
「うわっ!」
次から次へと事態が勝手に進む中、疲労も合間って硬直していたクロノの耳朶を再度エイミーの大音声が震わせる。
ああ、そうだ通信が繋がってたんだった。と平時のクロノからは考えられない鈍さで思考しながら、それでも頭を切り替えてディスプレイに意識を向ける。
「あー、コホン。事態は終息しました。ジュエルシードも回収完了です」
『大丈夫なのクロノくん!?』
「大丈夫だから、落ち着いてくれエイミー』
『本当に!? 無事!? 大丈夫!? おっぱい揉む?』
「ブフッ! エ、エエエ、エイミー!? いったいなにを」
「はいはい、夫婦漫才はそのくらいにして。クロノ執務官、報告を」
頼りになる副官の突然の奇行に、そういった事に免疫も耐性もなくそれでも人並みの興味は胸に秘している純朴な少年は大いに狼狽えた。
それは傍目には微笑ましい光景で、それが我が息子と息子が憎からず思っている娘のやり取りであるなら和やかに眺めるのが、物事にはTPOというものがある。まぁ、あんな事がった後でのこの事態だ。エイミーが悲痛と混乱と歓喜でしっちゃかめっちゃかな感情のままに暴走気味なのだとしてもだ。
ーー対比して母親であるリンディが冷静であることから、クロノを心配していなかった風に思われるかもしれないが、それは大きな誤りである。それは武結界が解けるや否や装局員たちを残して我先にと飛び出した様が証明している。それでも、事が一つの世界の存亡に関わり兼ねないことである以上、職務をきっちりこなさなければならない大人の責任感が、母親であることよりも艦長としての自分が僅かに先立ったのだ。まぁ、他者が混乱している様を見て冷静になったという部分もあるが。
「か、母さん!? あ、いや、さっきのはエイミーが勝手に」
思いもよらない母親の登場に、気分はさながらエロ本が見つかった思春期少年のそれだ。自身に悪いところはないのに非常にばつが悪く気恥ずかしく居たたまれない。
「クロノ、今は執務中ですよ」
狼狽えテンパる息子に上官として注意を促せば、そこは根が生真面目な執務官。ハッとして背筋を正した。
「すみません、艦長」
「ええ。ところでクロノ執務官、流石に不純異性交遊はダメよ。そういうことはしっかりと責任を取れる年齢になってからね」
それはそれとして、母親として釘を刺すところには確りと釘を刺す。早く孫の顔を見たい気持ちはあるものの、法を守る組織の人間が法を犯すのは頂けない。
自分で注意しておきながらそれを混ぜっ返す母親兼上官に、若輩の執務官はプルプル震えて耐えるのだった。
色々と悔いの残る、後味の悪い幕切れだった。
それでも皆が皆無事に、重篤な死傷者を出すこともなく、目的であった危険なロストロギア、ジュエルシードも回収できた。
幾つかの問題点こそ散見されるものの、結果だけを見れば無事解決と言っても良いだろう。
僅かに弛緩した空気の中、だからこそ誰もが気付くのが遅れる。
アル・アジフの姿が、何時の間にか消えていることにーー。