ピ、ピ、ピ。
一定の間隔を刻んでいるその冷たい音は、物心ついた頃からずっと、僕のそばにあった。
朝も、昼も、夜も。
眠れない日も、眠りたくない日も。
白く、狭く、どうしようもなく退屈なこの世界。その電子音だけが、僕の生を代弁するように、律儀に鳴り続けていた。
もう、いい。...そう思ったのは、いつからだっただろう。
生きたいと願ったことがないわけじゃない。
――でもそれ以上に、この先に何かがあるとも思えなかった。
窓の外に季節があった。手を伸ばせば届きそう―――僕のところまでは届かない。
誰かが笑っていた。笑顔は誰かを幸せに――それは僕のためじゃない。
この場所にいれば、苦しまなくて済む代わりに、きっと何も手に入らない。
だから、もういい。
そう思っていたはずなのに。
薄暗い病室の中で、僕の目は最後までひとつの光を追っていた。
スマートフォンの小さな液晶画面。そこに映っていたのは、このつまらない世界の中で、僕が唯一、何度も見つめ続けた女の子だった。
トリニティのお姫様。無邪気で、我がままで、可愛くて。それでも誰よりも真っ直ぐに、幸せを信じている少女。
聖園ミカ。
「……ミ、カ……」
かすれた声で名前を呼ぶ。当然、返事はない。
触れられない。
届かない。
呼びかけても、画面の向こうの彼女はただそこにいるだけだ。
(最後に、一度でいいから――)
――その声を、聞いてみたかった。
そう思ったのを最後に、僕の意識は音もなく途切れた。
◇
「――っ!?」
肺の奥に、冷たい空気が一気に流れ込んできた。
「はっ、ぁ……!」
反射的に息を吸う。何度も、何度も。
止まっていた何かが、無理やり再起動するみたいに、体の隅々まで空気が巡っていく。
熱い。苦しい。でも――生きている。
「は、ぁ、は……っ」
胸が上下する。視界が、急速に明るさを取り戻していく。
死ぬ直前までまともに動かすことさえ億劫だった体が、信じられないくらい軽い。
「え……?」
自分でも間抜けだと思う声が漏れた。
「.......!」
重くない。
だるくない。
指先に力が入る。
腕が動く。
呼吸をするたび、胸がちゃんと膨らむ。
奇跡みたいだった。たった、それだけのことなのに。
「い、生きてる……?」
勢いよく上体を起こして、そこで初めて周囲を見回した。
見慣れた白い天井じゃない。高く、荘厳で、どこか教会を思わせる意匠の天井。大きな窓から差し込むやわらかな光。病室特有の薬品臭の代わりに、薄く甘い香りが漂っている。
その下で、僕はふかふかの大きなベッドに寝かされていた。シーツに触れると、指先がするりと滑る。上等な布だと触れただけで分かった。
「ここ、どこ……?」
呟いた瞬間、自分の声にぞくりとした。
高く澄んでいて、どこか甘い。
(僕の声じゃないみたいだ。まるで――)
いや、そんなはずはないのに、確かな違和感だけが先に響いた。
恐る恐る、視線を落とした。
白く細い指。
華奢な手首。
やわらかな袖口からのぞく肌は、驚くほどきめ細かい。
「……まさか」
立ち上がろうとして、足先が床に触れる。ひやりとした感触に、思わず小さな声が漏れた。
「ひぅ……」
……変な声が出た。
そんな場合じゃないのに、一瞬だけ羞恥が勝ってしまうあたり、たぶん僕の中身は何ひとつ上品になっていない。
部屋の隅に豪奢な全身鏡があった。吸い寄せられるように、その前へ歩く。そして、鏡の中の姿を見た瞬間。
呼吸が、止まった。
「……は?」
そこにいたのは、知らない少女なんかじゃない。
何度も画面越しに見てきた。
好きで、好きで、好きでたまらなかった、あの子だった。
ピンクがかった白い髪。
星を映したみたいに澄んだ瞳。
人形みたいに整った顔立ち。
そして、頭上に静かに浮かぶ、複雑な光の輪。
『ヘイロー』。
「聖園……ミカ……?」
鏡の中の少女が、僕と同じタイミングで唇を動かす。
冗談みたいだった。夢だと言われたほうが、まだ納得できた。
しかしそれにしては、頬に触れた指先の感触も、足裏に伝わる冷たさも、胸の奥で暴れる鼓動も、何もかもが生々しすぎた。
「うそ……」
口元が勝手に緩む。
「うそ、でしょ……?」
笑ってしまう。
「あは、あはは……」
だって、こんなの。
「最高、じゃん……!」
死ぬしかなかったはずの僕が生きている。
それだけでも信じられないのに。
大好きだった世界で。
大好きだった女の子の体で。
あのどうしようもなく狭い場所から、何もかもを置き去りにして、今...ここに立っている。
「やった……!」
手を握る。それから開く。
腕を振る。足を踏み出す。
ちゃんと動く。どこも痛くない。苦しくない。
――――嬉しい。嬉しいよ。とっても。嬉しくて、どうしようもない。
なのに。
―――鏡の中のミカと、ふいに目が合った。
「……待って」
さっきまであんなに浮かれていたのに、聞こえる温度が急速に下がっていく。
鏡の向こうの少女は、僕を見返している。
綺麗で、可愛くて、あまりにも“聖園ミカ”だった。
だからこそ。
「……じゃあ」
喉がひどく乾く。
「本物の、ミカは……?」
誰に聞くでもなく、こぼれた。
僕がここにいる。
この体を動かしている。
それは、分かる。
でも、だったら。
だったら、さ...!
もともとここにいたはずの彼女は、どこへ行ったんだ?
僕の魂に押し出された?消えた?
それとも――。
「やだ……」
足元から、ぞわりと寒気が這い上がってくる。
「そんなの……やだ……」
鏡の前にしゃがみ込み、肩を抱く。
痛い。痛い。少し冷静になれるかと思ったが、余計に混乱した。
僕は、ミカが好きだ。
好きだからここに来たいと思ったことは、たぶん一度や二度じゃない。
でも、それは。
彼女をどこかへ追いやってまで、奪いたかったってことじゃない。
「僕は……」
苦しい。さっきまでの歓喜が、嘘みたいに遠い。
「僕は、僕だ……」
呟く。そうしなければ、僕は...考えるな。
それは誰かに向けた言葉じゃなくて、崩れそうになる自分を押しとどめるための、か細い杭みたいなものだった。
「ミカじゃ、ない……」
鏡の中の少女の胸元を、ぎゅっと掴む。
「僕は、僕だ……っ」
その瞬間だった。
頭上のヘイローが、ぱち、と嫌な音を立てた。
「っ!?」
光が乱れる。一瞬だけ、星の輪が黒くひずんだ気がした。
次いで、胸の奥を鋭い痛みが貫いた。
「ぁ、ぐ……っ!」
息が詰まる。視界が揺れる。膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちた。
なに、これ。
心臓が嫌にうるさい。冷や汗が額から、頬へと伝っていく。
鏡に映った僕――ミカの顔は、ひどいものだった。
泣きそうで、怯えていて、とてもじゃないけど、お姫様なんて呼べない顔。
(こんなの、違う)
ミカは、こんな顔をしない。
――こんこん。
唐突に、扉がノックされた。
「ミカ様? お目覚めでしょうか。朝食の準備が整っておりますが……」
「ひっ...!?」
びくりと肩が跳ねた。
人...人だ。外に、誰かいる。
返事をしなきゃいけない。でも...でも、どうやって?
自分はミカじゃないと、そう言ったらどうなる。
(信じてもらえる?)
そんなわけがない。
頭のおかしい人間を見る目をされるだけだ。それで済めば、まだいい。
こんな世界で、こんな体で、こんな立場で、僕が“おかしい”と知られたら。何が起きるかなんて、考えたくもない。
せっかく手に入れたこの体。ちゃんと動く手足。自由に歩ける足。苦しくない呼吸。
それを、失いたくない。
「……っ」
喉の奥が震える。
怖い。混乱してる。泣きたい。
でも。だって。
今ここで壊れたら、本当に何もかも終わる気がした。
「ふぅ...」
ミカの声を思い出す。
ミカの笑い方を思い出す。
画面の向こうで、何度も見てきたあの表情を、必死に頭の中へ引っ張り上げる。
笑え。
笑うんだ。
とにかく、笑え!
今だけでいい。今だけでいいから、笑ってよ...僕...。
「は、ぁ……」
深呼吸をひとつ。
頬をぺち、と軽く叩く。鏡の中のひどい顔を見つめる。
「え、えへ...」
頬をぺち、と叩く。
違う。そんな顔じゃない。
もっと明るく。もっと軽く。何も知らないみたいに、可愛く。
僕は口角を持ち上げた。
「えへ...☆」
ぎこちない。
気持ち悪い。
でも、それでも。
「はーい!」
少しだけ高く、少しだけ甘く。なるべく何もなかったみたいに、声を張る。
「今行くね☆ ちょっと寝ぼけちゃってただけだから、心配しないでー!」
数秒の沈黙。
「……承知しました。では、食堂でお待ちしております」
扉の向こうの足音が、遠ざかっていく。
それを聞いて、僕はその場にへたりこんだまま、しばらく動けなかった。
「...は、徘徊型、ぼ、ボスかよ、っての...」
……できた?
ちゃんと、ミカだった?
おそるおそる、鏡を見る。
そこにいるのは、やっぱり聖園ミカだった。
泣きはらしたみたいに少し赤い目元も、作りきれていない笑顔も、全部ひっくるめて、それでもやっぱり、僕の大好きなあの子だった。
「……うまく、できたかなぁ」
ぽつり、と零す。
返事はない。部屋は静かで、ひどく広かった。
(ひとりぼっちだ...)
さっきまでなら、その静けさは心地よかったかもしれない。
でも今は、ひとりでいると余計なことばかり考えてしまいそうで、むしろ息が詰まりそうになる。
(...駄目。駄目だよ、こんなんじゃ)
立たなきゃ。
扉の方を向く前に、もう一度だけ鏡を見る。そこには、まだ少し不安そうな顔をしたミカがいた。
だから、もう一度、笑った。
今度は少しだけ、さっきより上手く。
(笑え。笑うんだ)
僕はミカじゃない。でも今は、ミカでいなきゃいけない。
(だって、僕は――)
その先を言葉にする前に、僕は扉を開けた。
ひんやりとした廊下の空気が頬を撫でる。
足取りは、不気味なくらいに軽い。
大きな、大きな最初の一歩だった。
誰にも知られないままだったとしても。
エタったらすみません。20話くらいを想定しています。
誤字報告、感想ありがとうございます。