僕は無邪気な夜の希望なんだから   作:プレイアデス

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見直してみて、全体的に手直しをしました。(2026.8.19)


希望(絶望)の始まり

 ピ、ピ、ピ。

 

 一定の間隔を刻んでいるその冷たい音は、物心ついた頃からずっと、僕のそばにあった。

 

 朝も、昼も、夜も。

 眠れない日も、眠りたくない日も。

 白く、狭く、どうしようもなく退屈なこの世界。その電子音だけが、僕の生を代弁するように、律儀に鳴り続けていた。

 

 もう、いい。...そう思ったのは、いつからだっただろう。

 

 生きたいと願ったことがないわけじゃない。

 ――でもそれ以上に、この先に何かがあるとも思えなかった。

 

 窓の外に季節があった。手を伸ばせば届きそう―――僕のところまでは届かない。

 

 誰かが笑っていた。笑顔は誰かを幸せに――それは僕のためじゃない。

 

 この場所にいれば、苦しまなくて済む代わりに、きっと何も手に入らない。

 

 だから、もういい。

 

 そう思っていたはずなのに。

 

 

 

 

 

 

 

 薄暗い病室の中で、僕の目は最後までひとつの光を追っていた。

 

 スマートフォンの小さな液晶画面。そこに映っていたのは、このつまらない世界の中で、僕が唯一、何度も見つめ続けた女の子だった。

 

 トリニティのお姫様。無邪気で、我がままで、可愛くて。それでも誰よりも真っ直ぐに、幸せを信じている少女。

 

 聖園ミカ。

 

「……ミ、カ……」

 

 かすれた声で名前を呼ぶ。当然、返事はない。

 

 触れられない。

 届かない。

 

 呼びかけても、画面の向こうの彼女はただそこにいるだけだ。

 

(最後に、一度でいいから――)

 

――その声を、聞いてみたかった。

 

 そう思ったのを最後に、僕の意識は音もなく途切れた。

 

 

「――っ!?」

 

 肺の奥に、冷たい空気が一気に流れ込んできた。

 

「はっ、ぁ……!」

 

 反射的に息を吸う。何度も、何度も。

 止まっていた何かが、無理やり再起動するみたいに、体の隅々まで空気が巡っていく。

 

 熱い。苦しい。でも――生きている。

 

「は、ぁ、は……っ」

 

 胸が上下する。視界が、急速に明るさを取り戻していく。

 死ぬ直前までまともに動かすことさえ億劫だった体が、信じられないくらい軽い。

 

「え……?」

 

 自分でも間抜けだと思う声が漏れた。

 

「.......!」

 

 重くない。

 だるくない。

 指先に力が入る。

 腕が動く。

 呼吸をするたび、胸がちゃんと膨らむ。

 

 奇跡みたいだった。たった、それだけのことなのに。

 

「い、生きてる……?」

 

 勢いよく上体を起こして、そこで初めて周囲を見回した。

 

 見慣れた白い天井じゃない。高く、荘厳で、どこか教会を思わせる意匠の天井。大きな窓から差し込むやわらかな光。病室特有の薬品臭の代わりに、薄く甘い香りが漂っている。

 

 その下で、僕はふかふかの大きなベッドに寝かされていた。シーツに触れると、指先がするりと滑る。上等な布だと触れただけで分かった。

 

「ここ、どこ……?」

 

 呟いた瞬間、自分の声にぞくりとした。

 

 高く澄んでいて、どこか甘い。

 

(僕の声じゃないみたいだ。まるで――)

 

 いや、そんなはずはないのに、確かな違和感だけが先に響いた。

 

 恐る恐る、視線を落とした。

 

 白く細い指。

 華奢な手首。

 やわらかな袖口からのぞく肌は、驚くほどきめ細かい。

 

「……まさか」

 

 立ち上がろうとして、足先が床に触れる。ひやりとした感触に、思わず小さな声が漏れた。

 

「ひぅ……」

 

……変な声が出た。

 

 そんな場合じゃないのに、一瞬だけ羞恥が勝ってしまうあたり、たぶん僕の中身は何ひとつ上品になっていない。

 

 部屋の隅に豪奢な全身鏡があった。吸い寄せられるように、その前へ歩く。そして、鏡の中の姿を見た瞬間。

 

 呼吸が、止まった。

 

「……は?」

 

 そこにいたのは、知らない少女なんかじゃない。

 

 何度も画面越しに見てきた。

 好きで、好きで、好きでたまらなかった、あの子だった。

 

 ピンクがかった白い髪。

 

 星を映したみたいに澄んだ瞳。

 

 人形みたいに整った顔立ち。

 

そして、頭上に静かに浮かぶ、複雑な光の輪。

 

『ヘイロー』。

 

「聖園……ミカ……?」

 

 鏡の中の少女が、僕と同じタイミングで唇を動かす。

 

 冗談みたいだった。夢だと言われたほうが、まだ納得できた。

 しかしそれにしては、頬に触れた指先の感触も、足裏に伝わる冷たさも、胸の奥で暴れる鼓動も、何もかもが生々しすぎた。

 

「うそ……」

 

 口元が勝手に緩む。

 

「うそ、でしょ……?」

 

 笑ってしまう。

 

「あは、あはは……」

 

 だって、こんなの。

 

「最高、じゃん……!」

 

 死ぬしかなかったはずの僕が生きている。

 それだけでも信じられないのに。

 

 大好きだった世界で。

 大好きだった女の子の体で。

 あのどうしようもなく狭い場所から、何もかもを置き去りにして、今...ここに立っている。

 

「やった……!」

 

 手を握る。それから開く。

 腕を振る。足を踏み出す。

 ちゃんと動く。どこも痛くない。苦しくない。

 

――――嬉しい。嬉しいよ。とっても。嬉しくて、どうしようもない。

 

 なのに。

 

 

 

 

―――鏡の中のミカと、ふいに目が合った。

 

 

 

 

「……待って」

 

 さっきまであんなに浮かれていたのに、聞こえる温度が急速に下がっていく。

 

 鏡の向こうの少女は、僕を見返している。

 綺麗で、可愛くて、あまりにも“聖園ミカ”だった。

 

 だからこそ。

 

「……じゃあ」

 

 喉がひどく乾く。

 

「本物の、ミカは……?」

 

 誰に聞くでもなく、こぼれた。

 

 僕がここにいる。

 この体を動かしている。

 それは、分かる。

 

 でも、だったら。

 だったら、さ...!

 

 もともとここにいたはずの彼女は、どこへ行ったんだ?

 

 僕の魂に押し出された?消えた?

 それとも――。

 

「やだ……」

 

 足元から、ぞわりと寒気が這い上がってくる。

 

「そんなの……やだ……」

 

 鏡の前にしゃがみ込み、肩を抱く。

 痛い。痛い。少し冷静になれるかと思ったが、余計に混乱した。

 

 僕は、ミカが好きだ。

 好きだからここに来たいと思ったことは、たぶん一度や二度じゃない。

 

 でも、それは。

 彼女をどこかへ追いやってまで、奪いたかったってことじゃない。

 

「僕は……」

 

 苦しい。さっきまでの歓喜が、嘘みたいに遠い。

 

「僕は、僕だ……」

 

 呟く。そうしなければ、僕は...考えるな。

 それは誰かに向けた言葉じゃなくて、崩れそうになる自分を押しとどめるための、か細い杭みたいなものだった。

 

「ミカじゃ、ない……」

 

 鏡の中の少女の胸元を、ぎゅっと掴む。

 

「僕は、僕だ……っ」

 

 その瞬間だった。

 

 頭上のヘイローが、ぱち、と嫌な音を立てた。

 

「っ!?」

 

 光が乱れる。一瞬だけ、星の輪が黒くひずんだ気がした。

 次いで、胸の奥を鋭い痛みが貫いた。

 

「ぁ、ぐ……っ!」

 

息が詰まる。視界が揺れる。膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちた。

 

 なに、これ。

 

 心臓が嫌にうるさい。冷や汗が額から、頬へと伝っていく。

 

 鏡に映った僕――ミカの顔は、ひどいものだった。

 泣きそうで、怯えていて、とてもじゃないけど、お姫様なんて呼べない顔。

 

(こんなの、違う)

ミカは、こんな顔をしない。

 

 

――こんこん。

 

 唐突に、扉がノックされた。

 

「ミカ様? お目覚めでしょうか。朝食の準備が整っておりますが……」

「ひっ...!?」

 

 びくりと肩が跳ねた。

 人...人だ。外に、誰かいる。

 

 返事をしなきゃいけない。でも...でも、どうやって?

 

 自分はミカじゃないと、そう言ったらどうなる。

 (信じてもらえる?)

 

 そんなわけがない。

 

 頭のおかしい人間を見る目をされるだけだ。それで済めば、まだいい。

 

 こんな世界で、こんな体で、こんな立場で、僕が“おかしい”と知られたら。何が起きるかなんて、考えたくもない。

 

 せっかく手に入れたこの体。ちゃんと動く手足。自由に歩ける足。苦しくない呼吸。

 

 それを、失いたくない。

 

「……っ」

 

 喉の奥が震える。

 怖い。混乱してる。泣きたい。

 

 でも。だって。

 

 今ここで壊れたら、本当に何もかも終わる気がした。

 

「ふぅ...」

 

 ミカの声を思い出す。

 ミカの笑い方を思い出す。

 画面の向こうで、何度も見てきたあの表情を、必死に頭の中へ引っ張り上げる。

 

 笑え。

 笑うんだ。

 

 とにかく、笑え!

 

 今だけでいい。今だけでいいから、笑ってよ...僕...。

 

「は、ぁ……」

 

 深呼吸をひとつ。

 

 頬をぺち、と軽く叩く。鏡の中のひどい顔を見つめる。

 

「え、えへ...」

 

 頬をぺち、と叩く。

 違う。そんな顔じゃない。

 もっと明るく。もっと軽く。何も知らないみたいに、可愛く。

 

 僕は口角を持ち上げた。

 

「えへ...☆」

 

 ぎこちない。

 気持ち悪い。

 でも、それでも。

 

「はーい!」

 

 少しだけ高く、少しだけ甘く。なるべく何もなかったみたいに、声を張る。

 

「今行くね☆ ちょっと寝ぼけちゃってただけだから、心配しないでー!」

 

 数秒の沈黙。

 

「……承知しました。では、食堂でお待ちしております」

 

 扉の向こうの足音が、遠ざかっていく。

 

それを聞いて、僕はその場にへたりこんだまま、しばらく動けなかった。

 

「...は、徘徊型、ぼ、ボスかよ、っての...」

 

……できた?

 ちゃんと、ミカだった?

 

 おそるおそる、鏡を見る。

 

 そこにいるのは、やっぱり聖園ミカだった。

 泣きはらしたみたいに少し赤い目元も、作りきれていない笑顔も、全部ひっくるめて、それでもやっぱり、僕の大好きなあの子だった。

 

「……うまく、できたかなぁ」

 

 ぽつり、と零す。

 

 返事はない。部屋は静かで、ひどく広かった。

 

(ひとりぼっちだ...)

 

 さっきまでなら、その静けさは心地よかったかもしれない。

 でも今は、ひとりでいると余計なことばかり考えてしまいそうで、むしろ息が詰まりそうになる。

 

 (...駄目。駄目だよ、こんなんじゃ)

 

 立たなきゃ。

 扉の方を向く前に、もう一度だけ鏡を見る。そこには、まだ少し不安そうな顔をしたミカがいた。

 

 だから、もう一度、笑った。

 今度は少しだけ、さっきより上手く。

 

(笑え。笑うんだ)

 

 僕はミカじゃない。でも今は、ミカでいなきゃいけない。

 

(だって、僕は――)

 

 その先を言葉にする前に、僕は扉を開けた。

 ひんやりとした廊下の空気が頬を撫でる。

 

 足取りは、不気味なくらいに軽い。

 

 大きな、大きな最初の一歩だった。

 

 誰にも知られないままだったとしても。




エタったらすみません。20話くらいを想定しています。
誤字報告、感想ありがとうございます。
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