トリニティ総合学園の朝は、なんというか。思っていたよりずっと静かだった。
正確に言うと、お上品にお騒ぎになる。
廊下の窓から差し込む朝日。磨き上げられた床。遠くの方から聞こえてくる、食器が軽く触れ合う涼しげな音。どこかから漂ってくる、焼きたてのパンと紅茶の香り。
この時間帯といえば、カーテンを開ける音とか、消毒液とか、体温計とか、そういうものがセットだった僕からすると、ここはもう同じ「朝」のカテゴリに入れていいのか怪しい。世界が違うのだ。事実、そうなのだけど。
そんなことを感じつつ。僕は廊下を歩きながら、三歩に一度くらいの頻度で、「やばい、どうしよう」と「でも、嬉しいし……」を反復していた。
何がといえば、軽いのだ。
本当に軽いのだ、自分自身が。
歩ける。普通に。しかも別に息切れもしないし。なにこれすごい。人間ってこんなに自由に動いていいんだ?
危うく感動でその場にしゃがみこみそうになったが、そんなことを廊下の真ん中でやったら絶対に変人である。ミカはたぶんそんな感極まり方しない。いや、するかも? まあ、お嬢様だししないだろう、たぶん。
「ミカ様、おはようございます」
「ひゃいっ」
裏返った声が僕の喉から出る。
(しまった!!)
つい反射で変な声が出た僕の前で、銀のトレイを抱えた生徒が、きょとんと目を丸くしていた。
やっばい...!第一村人に不審がられた!終わった!
(ああ、信仰しきれてはいないがトリニティの神よ。どうか許されるなら、次の人生は三食昼寝付きふかふかクッションオプションの部屋で頼む....)
微笑みを湛える僕の美少女フェイスの裏でお祈りが巻き起こっているのに気づいてか否か、次の瞬間にはその生徒は、ふわりと笑った。
「ふふっ。まだお眠いのですね」
「えっ、あ、う、うん! ちょっとだけね~」
(かわいい...これがモブのクオリティ...?)
思考とは別に、肉体は制御する。語尾を上げる。笑う。軽く首をかしげる。どうだ、ミカっぽいか。ミカ検定準二級はあるだろ。
「朝食の席はいつものお部屋にご用意しております」
「ありがとう」
「本日はフィリウスの方との打ち合わせもございますので、お時間にはお気をつけください」 「……あー、うん。大丈夫だよ」
何があるかは全然大丈夫じゃないけど、とりあえず返事はした。生徒は一礼して去っていく。徘徊系ボスかとさっきは思ったが、いい奴かもしれない。
...とりあえずは、助かった。
というか。
今の僕、ミカだった?
胸のあたりを押さえたくなるのを我慢して、僕は歩き続ける。歩けるのが嬉しいのと、止まったら余計なことを考えそうなのとで、足は勝手に前へ進んだ。
案内された“いつものお部屋”は、食堂というよりは小さな応接室というのが相応しい部屋だった。
白いテーブルクロス。朝の光が差し込む窓辺。花瓶には季節の花。銀のポットから湯気が立ちのぼっていて、その隣にはパン、サラダ、スープ、そして――
「うわ……」
小さめのケーキスタンドに、焼き菓子が並んでいた。
(朝からこんな甘いもの食べて...若い女の子は無敵なの?)
流石にキヴォトスの常識だとは思いたくない。
...うんまあ、トリニティだしな。あり得るか、これくらい。
テーブルに近づけば、紅茶の香りが鼻をくすぐる。甘くて、やわらかくて、どこか落ち着く匂いだった。思わずふらっと席につく。ふわぁあ、なんだ、椅子の座り心地が良すぎる。何この建物。家具が全部ふわふわなんだけど。
「...お気に召されないようでしたら、別のものをご用意いたしますが」
給仕をしてくれていた生徒が、そう言って微笑む。
「えっ、いや、大丈夫大丈夫。わぁ、美味しそうだね」
「でしたら、幸いです。...それでは、ごゆっくりどうぞ」
ひとりになった瞬間、僕はそっと息を吐いた。
(...よぅし!)
実は、会話の裏で行動を考えていたのだ。僕がただ状況に驚きっぱなしだと思ったら大間違いである。そう、ここはまず情報収集だ。食べ方とか作法とか、そういうのを周囲の雰囲気から学ぶ時間――ぁ、ひとりだ僕。見本がいない。詰んだかもしれない。
「いただきます」
―――と、とはいえ、フォークとかの使い方くらいはなんとかなる。たぶん外側から使うんだ。たしかそういう感じだったがする。かとらりーとかなんとかって名前なのもわかる。
「...えーっと、ちょっと落ち着こう」
まあ、まずは喉を潤そう。
という訳で紅茶をひとくち。
「……おいしい」
思わず、言葉が出た。
熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうどいい温度。香りがふわっと抜けて、舌の上にかすかな渋みが残る。思えば、僕は温かい飲み物は白湯しか飲んだことがなかった。それに比べれば美味い。
格差がひどい。
「はむ」
パンも食べる。おいしい。スープもおいしい。サラダもおいしい。どうしよう、全部おいしい。
「ふう」
この場に誰も居なくてよかった。
無我夢中で食事を摂り、気が付けば粗方食べつくしてしまっていた。
暴飲暴食、とまではいかないが、お嬢様にあるまじき食事であった。反省。
と、食事を終えるとケーキスタンドの上の、小さな苺のタルトに目がいく。
綺麗だった。見た目は完璧だ。赤い苺、つやつやのナパージュ、縁取りも兼ねたクリーム。お嬢様学園の朝食デザートですって感じがすごい。
僕はなんとなく、それを取った。
フォークで切る。口に運ぶ。
さくっ、と生地が崩れる音がした。
甘い匂いもする。
「……あれ?」
次いで、もう一口。
(やっぱり、変だ)
食感はわかる。温度もわかる。香りも、なんとなくする。けど――味が、薄い。いや、ないわけじゃない。でも、僕が想像していた“甘くておいしい”が、そこになかった。
(え、なんで?)
タルトってこんなものなのか? そんなわけあるか、見た目の時点でもっとすごい味がしそうだったじゃん。それにほら、高そうだし。高いものって美味いんじゃないの?
「ミカさん、朝から難しい顔をしていますね」
「ふぇっ!?」
本日二回目の情けない声が出た。
慌てて顔を上げると、そこにいたのは、紅茶の香りがふわりと漂う美少女だった。
腰まで届きそうな、金色がかった灰色の長い髪。整った立ち姿。すっと通った視線。聖園ミカが物理で殴るタイプのお嬢様なら、気品で殴ってくるタイプのお嬢様。
桐藤ナギサ。
フィリウス派のリーダーであり、ティーパーティーのホスト代理。つまり、トリニティの中枢ど真ん中にいる人だ。やばい。大物が来た。
「ナギ...ちゃん」
「おはようございます、ミカさん」
「お、おはよ~」
危なかった。
思わず呼び捨てにするところだった。偉い。たぶん今のは、かなり偉いぞ僕。
ナギサは僕の向かいへ腰掛けると、ちらりと皿を見た。
「食欲がないのですか?」
「え?」
「タルトがほとんど減っていませんから」
「あー……はは、ちょっと、考えごとしちゃって」
「あなたが朝から?」
「失礼じゃない?」
口が勝手に軽くなる。というか、ナギサ相手だと軽く返さないと逆に不自然な気がした。ミカとナギサは幼馴染で、公私の区別はしっかりしている――知識としてはそう知っているけど、実際に向かい合うと、距離感ひとつ取っても綱渡りだ。
ナギサはわずかに眉を上げたあと、ふっと息を吐いた。
知識で分かる。これは彼女のドヤ顔、イキリ顔である。
「失礼なのは承知しています」
「開き直った」
「あなた相手にはこれくらいでいいのです」
これはつよい。さすがである。
僕はごまかすように紅茶を口に運ぶ。ふわりと心地よい香り、暖かなのど越し。体がふっと熱く、軽くなる。うん、ナギサの前でも、紅茶はちゃんとおいしい。助かった。紅茶がおいしい世界は信用できる。
「それで、今日はどうしたの?」
「どうしたの、ではありません。今日の打ち合わせ、忘れていませんよね?」
「えっ...もちろん?」
「なぜ疑問形なのですか」
「気のせいだよ☆」
「そうですか」
こわい。
この人、穏やかな言葉遣いなのに、全然油断できない。やさしい口調のまま本音を隠してくるタイプだ。ゲームで見ていた印象と、目の前の圧が完全に一致している。やめてよ、僕はそういう政治的な性格してないんだよ。...実物だ!とちょっぴりワクワクしているのは否定できないが。
「まったく。あなたが穏やかな朝を過ごしていると、逆に何か企んでいるのではないかと不安になります」
「ひどくない?」
「日頃の行いです」
即答だった。取りつく島もない。
...でも、たぶんこれがいつものやり取りなのだろう。
僕はそのことに少しだけ安心した。
ちゃんと会話になってる。
少なくとも今のところ、僕は“ミカ”として破綻していない。
ナギサが自分の分の紅茶を受け取る。給仕の生徒が静かに下がる。目の前の彼女は所作ががいちいち綺麗で、見ているだけで「うわ、本物だ」と変な感動が押し寄せてくる。ブルアカのキャラって本当に動くんだな……当たり前のことかもしれないけど。
「ところで」
と、ナギサは紅茶をことりと置き、話題を振る。
「ん?」
「先ほどから、なぜそんなに私を凝視しているのですか」
「えっ」
ずい、と顔を近づけてくる。
「何かよからぬことを考えていますね?」
「考えてない考えてない!」
「本当に?」
「本当に!」
つい、「ナギサが動いてる……」みたいな感想が顔に出ていたらしい。
危ない。ものの数十分で決意が粉々に砕けるところだった。
ナギサは少しだけ呆れた顔をしたあと、視線を僕の皿へ戻した。
「食べないのなら、下げさせますよ」
「え、あ...ううん、食べる」
そう言って、もう一度タルトにフォークを入れる。
会話自体は楽しかったが、それでもやっぱり味はぼやけていた。
けれど、今度は無理に表情を変えない。少なくとも、ナギサほど茶葉やお茶菓子にうるさい性格でないのが救いだった。それに、お茶会でないのもだ。ナギサの手製ロールケーキで人格が測定されかねない。
「美味しくありませんでしたか?」
「んー……いや、おいしいよ?」
「歯切れが悪いですね」
「ん。ちょっと気分の問題、かも」
それはたぶん、嘘じゃない。
ナギサは一拍だけ僕を見た。その視線は鋭いのに、不思議と冷たくはない。相手の粗を探しているというより、単純に見逃さないだけ、という感じだった。
「……顔色は、悪くありませんね」
「そりゃもう、元気いっぱいだよ」
「ならいいのですが」
それだけ言って、ナギサはそれ以上踏み込まなかった。
助かった、と言うべきか。
それとも、助けられた、と言うべきか。
どちらかは分からないまま、僕は紅茶を飲み干した。
「ごちそうさま」
「では、そろそろ参りましょうか」
「うん」
立ち上がる。
椅子を引く動作すら妙に軽い。まだ少し、現実味がない。
部屋を出る直前、なんとなく窓ガラスに映った自分が見えた。
桃色がかった白い髪。
キュートでプリティー、可愛い顔。
きらきらした星空みたいなヘイロー。
そこにいるのはどう見ても聖園ミカで、僕ではない。
(いつか、この姿のように、僕も――)
思考はせど、足は止められない。
「..ナギちゃん」
「ミカさん?」
ナギサが振り返る。
その先にある、廊下の光がやけに眩しかった。
お姫様みたいな体で。
お姫様みたいな顔で。
僕は、今日も僕のまま、聖園ミカのふりをする。
きっと、上手くいく。
だからまだ、大丈夫だ。
そう思うことにして――そういうことにして、僕はナギサの隣へ並んだ。
「で~...今日の打ち合わせって何するんだっけ?」
「はぁ...やはり、忘れていたのですね」
「えっ、いや、いやいや。確認だよ確認☆」
「ええ。ええ、もう、そういうことにしておきます」
「ああ、もー!ナギちゃんってば優し~!☆」
「...ミカがそう思ってくれるなら、私は嬉しいですよ」
ほんの少しだけ、ナギサが笑った気がした。
そのことに、理由の分からない安堵を覚えながら。
僕は、ティーパーティーの朝へと踏み込んでいった。