ティーパーティーの会議室、というものに僕は少し夢を見ていた。
もっとこう、いいお花みたいな香りがして、日差しがきらきらして、優雅なお嬢様たちが「ごきげんよう」と微笑みながら紅茶を嗜む、そういうThe・お嬢様学園みたいな空間を想像していたのだ。
まあ、半分くらいは当たっていた。
もう半分くらいは、見事に外れたが。
「……思ったより、仕事部屋だぁ」
思わず漏れた感想に、前を歩いていたナギサが振り返った。
「何か言いましたか?」
「ううん、なんでもないよ」
慌てて誤魔化したけれど、本当に、思っていたよりずっと仕事場だったのだ。
部屋そのものは想像通りだ。綺麗。綺麗すぎるくらい綺麗だ。大きな窓、淡い色の壁、上品な装飾、磨き抜かれた机。いいお花みたいな香りだってちゃんとある。あるのだけれど、その机上に積まれた書類の山が、全てを台無しにしていた。
夢とロマンと政治闘争が同居している。
そう表現するのが正しいだろうか。
ああ、うん。これぞトリニティって感じだ。
「ミカさん、こちらへ」
「はーい」
ナギサに促され、僕は丸テーブルの一席に座った。言うまでもなく、これも高級品だとわかる。ふかふかだもん。
そして、それ以外にも気が付いたことが一つ。
(ひい、ふう、みい...席が三つ。やっぱり、三つだ)
ナギサの席。僕の席。そして、もうひとつ。
空席。
何も置かれていないわけではなく、そこにもちゃんとティーカップとソーサーが用意されていて、まるで持ち主が少し席を外しているだけみたいに整えられていた。
なのに、誰も来ない。
来るはずのない席みたいに、静かだった。
「……」
そこを見ていたらしい。ナギサは視線だけで僕の先を追い、それから何でもないように自分の書類を整えた。
「本日は定例の確認と、二、三の小さな案件を片付けます」
「小さな案件?」
「ええ。あなたにとっては大きくないと思いますが、私にとっては頭痛の種です」
「なーんか含みあるなぁ?」
「事実を述べただけです」
ジト目で抗議したが、すぱん、と切られた。
まあ、概ね予想通りである。昨日までの僕――いや、この身体にとっての“昨日まで”は詳しくないけれど、少なくともナギサの認識しているミカは、書類仕事に真面目に向き合うタイプではないのは容易に想像ができる。
悪いことではない。僕も僕で、世間を知っているわけではないし、手探りで仕事をするのだから、なんならそちらの方が都合がよいのだ。僕が、ミカとしてお利口にしているためには。
...まあ、心配な部分もあるのは否めないが。雑でも通る分、突然「ちゃんとしてください」と言われたときに揺り戻しが来る。
「では、まずはこちらから」
ナギサが僕の前へ紙束を滑らせてくる。
さらりと目を落として、僕は三秒くらい固まった。
―――文字が...文字が多い。
字が多いし、内容も重い。重いっていうか、丁寧すぎる。ぶっちゃけ回りくどい。トリニティの正式文書ってなんでこんなに一文が長いんだ。お嬢様学園だから? 日本も長い文章を作るのが好きだよな...言語的には文章は短いはずなのに、と現実逃避をしつつ。読まないわけにもいくまい。
人間は、三歳児までは皆天才と言われている。
それは脳の成長期とも言われる時期が出生から三歳程度までだからであり、それまではスポンジのごとく情報を吸収していく。三つ子の魂百までというのも、そういった観点から見れば納得がしやすいだろう。
何が言いたいのかといえば、僕は前世ではブルアカとある程度の書物を読むことなどにしか意識的に脳を使っていないということだ。
(僕のピチピチ新鮮な脳が火を吹くぜ!)
読む、読む!
ああ、凄い速さで書類がめくられていく!
「読んでいますか、ミカ」
「読んでる読んでる!すごい読んでる!」
「その割には目が滑っているようですが」
「...気のせいダヨ!」
「そうですか」
こわい。
この人ほんとうにこわい。
真面目にやろう。これ以上は僕の精神が持ちそうにない。
とりあえず文章を追う。内容はやはり難しいが、どうやら今日の議題は大きく三つらしい。
まず、中庭の噴水前の使用申請が正義実現委員会と救護騎士団で重なった件。
両者とも、その場所で広報活動を行う予定だったらしく、広報活動に関しては担当者がいるはずなのだが、両団体とも担当者が不在時の対応を画一化していなかったことが原因らしい。
図書館自治区からの苦情。
...まあ、これは置いておこう。別に、大したことじゃないし。
近々予定されている他校との交流会についての下準備。
これは字面からして例年行われているものかと思ったが、そういう訳ではないらしい。
今のところ、他校との情報・文化交流をひとまず小規模で行うようだ。
ここまでは僕の頭でも理解できた。
そして、前二つはまだ分かる。だが三つ目からは嫌な予感しかしない。
「中庭の件は、昨日のうちにだいたい話は通してあります」
「さすがナギちゃん、早いねえ」
「でないと、あなたが“みんなで仲良くお茶会したら?”などと言い出しかねませんから」
「それはねぇ……」
「なぜ黙るのですか」
「いや、ちょっとだけ思った」
「でしょうね」
見抜かれていた。
...僕、もうちょっと嘘つくの上手いはずなんだけどなー? ミカになってから、ミカとして嘘を吐くのが下手な気がする。
「まったく、そこで黙るからバレるんですよ?ミカさんもティーパーティーなら、もう少し腹芸というものを身に着けてください」
「はーい☆」
「軽いですね....。まあいいでしょう。次ですが」
ナギサは一枚書類をめくり、淡々と説明を続ける。
「正義実現委員会には午後、救護騎士団には午前を譲ってもらうことで一応まとまりました。問題は図書館です」
「また私?」
「“また”とは?」
「なんでもない」
つい口から言葉がこぼれた。
僕ではない。だが、おそらくミカが以前やらかしたのだろう。少し目を瞑り、記憶を探る。
(...なるほど、ね。僕、ふかふかに弱いのか?)
差し出された苦情書には、相変わらず婉曲表現の暴力みたいな文面で、要するに「閲覧席で寝るな」「ソファを占拠するな」「あと静かにしろ」と書いてあった。
名指しはされていない。されていないけれど、最後の一文にこうある。
――特に、桃色の髪を持つ一部生徒に関しては。
「名指しじゃん」
「そうは書いていません」
「ほぼそうだよ」
「心当たりがあるなら改善してください」
ぐうの音も出ない。
でも、ここでしおらしくしてもミカっぽくない気がしたので、僕は肩を竦めるだけに留めた。
「うーん。図書館のソファって、座ったら終わりなんだよね」
「どういう意味ですか」
「こう……吸われる感じがあるっていうか」
「知りません」
ですよね。
ナギサは呆れたように息をつきつつも、仕方ないとでも言うようにほんの少しだけ口元を緩めた。気のせいかもしれないけど、さっき食堂で見たときより、僅かに空気が柔らかい。
「今後は控えてください。注意だけで済ませておきます」
「え、ほんと?」
「今回は、です」
「ナギちゃんって意外と優しいよね」
「意外は余計です」
本当に少し意外だったのだ。もっと完璧に管理しようとしてくるのかと思っていた。もちろん十分管理されている気もするけれど、それでも、今の返しにはどこか身内相手の甘さがある。
ふーん、これが幼馴染か。
そう思った途端、なんだか胸の奥が変にざわついた。
それは羨ましさに近いのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。僕には分からない。ただ、ナギサが当たり前みたいに僕――いや、ミカへ向けてくるこの距離感は、きっと長い時間で積み重ねられたものなんだろう、とは思った。
「次です」
ナギサの声で意識を引き戻される。
「えーと、交流会?」
「ええ。トリニティ内部の話ではありません。自治区間の催しです」
「ほー?」
紙には、各区の代表者同士による顔合わせだとか、催しの警備計画だとか、そういう文字が並んでいた。今のところゲヘナの文字はない。ないのだけど、こういう交流だの調整だのという単語を見るだけで、僕の中の“知っている未来”が勝手にざわつく。
やだなあ、まだ何も起きていないのに、起きると知っているだけで嫌な感じがする。
「...ミカ?」
「んー?」
「珍しく大人しいですね」
「考えごと」
「朝もそう言っていましたね」
じろ、と見られる。
設定を使い回したのがバレたかもしれない。
でも、ここで慌てると余計に怪しいしな。僕はとりあえず、書類の上に指を置いて、いかにも“内容について考えています”みたいな顔をした。妙にやりやすかったのは、ミカ自身もよくしていたからだろうか。
「ん。これ、顔合わせ自体は堅苦しくやるんだろうけど、あんまり最初から固めすぎると空気悪くならない?」
「…まあ、それは少し問題としてありますね」
お?
ちょっと食いついた。
「トリニティって、なんというか……最初の見た目で圧があるじゃん」
「自覚はしています」
「だから、最初の場は少し柔らかいほうがいい気がする。お茶とお菓子を前に出しとくとか、話題のきっかけになるものを置くとか」
「なるほど。まあ、発想自体はいつものミカさんですが、今回は理にかなっていますね」
「でしょ? それに、ほら。みんな黙ってると怖いし」
「主語が大きいですね」
「ナギちゃんも含まれてるよ」
「...不本意です」
でも、ナギサは否定の含意はなく。
むしろ何かを計算するみたいに、指先でカップの縁を軽くなぞっている。
「悪くありませんね」
「ほんと?」
「ええ。警戒心を和らげる導線としては、十分に機能する」
「やったね☆」
思わず小さくガッツポーズをしそうになって、ぎりぎりで堪えた。
今はナギサのご機嫌を取らなければ。またはしたないとかなんとか言いかねない。
けれど...少し嬉しかったのも事実だった。僕の言葉が通った。ゲーム知識とか未来予知とか、そういう特別なものじゃない。ただ思いついたことを言っただけなのに、それがこの場で役に立った。
(僕でも、ここにいていい...その可能性もあるよな?)
僕がミカを演じているのは...贖罪でもあり...僕が僕として生きるためだ。
だが、贖罪というのも、僕がミカの分まで生きるというのも手だし...今みたいに、僕として認めてくれるなら。ここに居ても、許されるんじゃ...?
……なんて考えた瞬間に、脳内のどこかが冷たく笑った気がした。
(...今のはミカの言葉だから通っただけだ。それに、ミカを殺しておいて、身勝手に彼女の分も生きるなんて...できる訳がない...よな...?)
きっと、僕は熱に浮かされていたんだろう。
現実を直視しなければ。
僕は、僕だ。ミカではない。
彼女のものを使って得たものは、僕のものではない。
「ミカさん?...ミカ?」
「っ、あ、ごめん。ちょっとぼーっとしちゃった」
「今日は随分と上の空ですね」
「朝だからかな~?」
「もう昼を過ぎますよ」
「トリニティ時間では朝だよ」
「初めて聞きました」
くす、と。
今度は小さく、けれどはっきり、ナギサが笑った。
ほんの少しだけだったけれど、確かに笑った。その事実に、僕は変な達成感を覚えてしまう。
...だから。僕のものではないのに。僕のばか。
会議はその後も続いた。細かな申請、予算の確認、自治区間の調整、警備ルートの見直し。どれもこれも頭が痛くなりそうな内容だったけれど、幸い、ナギサがほとんど仕切ってくれた。僕はたまに相槌を打って、たまに軽口を叩いて、たまに本当に少しだけ役に立つことを言った。
そうして、気づけば一時間近くが経っていた。
「――以上で本日分は終了です」
「おつかれ~☆...」
椅子の背にもたれながら、僕はこっそり息を吐く。
終わった。生き延びたんだ、僕は。すごいことだ。ティーパーティーの会議を一回乗り切ったなんて偉業だ。
なんか、急にすごいことをした気がしてきた。
この気持ちは、さっきとは違って、僕のものだ。
「妙な達成感に浸っている顔ですね」
「えへ、分かる?」
「ええ」
「いやあ、頑張ったなって」
「あなた基準では、でしょうね」
「ひどいよー」
でも、ナギサの声音はいつもより少しだけ軽かった。
彼女は書類を整えながら、ふと視線を上げ、こちらを見つめる。
「……今日のあなたは、ちょっぴり変でした」
「えっ」
心臓がどきり、とはねた。
ば、ばれた?まだ、一日目だぞ?
指先が一気に冷たくなる。息も詰まって、ナギサが遠く感じる。
そんな僕に構わず、ナギサは続ける。
「朝からぼんやりしていますし、変なところで素直ですし、書類にも珍しく目を通そうとしていました」
「そ、それ褒めてる?」
「半分は」
「半分?」
「残り半分は...」
なぜか、言いよどむ。
けれどその逡巡も一瞬のことで、すぐに言葉を紡いだ。
「..警戒ですよ」
わざとらしく、にこり、と笑う。
怖い。やっぱりこの人怖い。
「ですが」
ナギサはティーカップを持ち上げた。中身の紅茶は幾度となく入れ替えられていた。
「今日のあなたは、嫌いではありません」
「……そっか」
「ええ。少なくとも、話はしやすいですよ。いつものミカさんよりは」
それだけ言って、彼女は紅茶を飲んだ。
なんだか、変な気分だった。
ひとまず、ばれてはいないようだった。だが、何かは伝わっている。
それに、少しだけでも“今の僕”がここにいた痕跡が残ったみたいで、嬉しいのか、怖いのかよくわからない感情を抱いている僕が居る。
思考を誤魔化すように視線を横へやる。
空いたままの三つ目の席。中身は注がれていない、整えられたままのティーカップ。
そこに誰かがいた時間を、部屋だけが覚えているみたいだった。
「……ねえ、ナギちゃん」
「何でしょう」
「その席って、いつも用意してるの?」
聞いてから、自分が何を口にしたか理解した。
僕の記憶にはミカのことでいっぱいで、他の生徒のことなど欠片ほどしか覚えていなかったから、というのは...言い訳にはならないか。
だが、言ってしまったことはしかたがない。
百合園セイアのことを今聞くのは、いったん退いた危機を再発させることだとしても。
下を向き、手を膝の上で握り反応を待つ。
でも、ナギサは怒らなかった。怒らずに、ただ少しだけ目を伏せたようだった。
「ええ。習慣のようなものです。覚えているでしょう?」
「そう、だね」
「戻ってくるべき席ですからね」
短い返答だった。
理由は分からないがそれ以上の会話は要らないようだったので、僕も黙る。
窓の外では、トリニティらしい穏やかな風景が広がっている。白い校舎、整えられた庭、遠くで聞こえる生徒たちの声。平和で、綺麗で、何もかもがうまくいっているように見える。
けれど、そればかりではないことを僕は知っている。
この綺麗な場所の裏では、火種がくすぶっている。
そして、その中心に立つのが誰なのかも。
「このあとのことですが」
「ん?」
「午後は自由にして構いませんが、図書館のソファで眠るのは禁止です」
「えー...」
「えー、ではありません」
「ちょっと休むくらいなら」
「駄目です」
「厳しい~」
「当然です」
さっきまで少ししんみりしていた空気が、そこでふっと軽くなる。
たぶん、ナギサなりの区切りだったのだろう。
(優しいな、この子)
たぶん本人に言ったら否定されるだろうけど。恥ずかしさを紛らわすために、ロールケーキを口に入れられたりするかもしれない。それはそれで...。
「じゃあ、別の場所で寝る!」
「そういう意味ではありません。...ロールケーキの貯蔵は十分なんですよ?」
「う、嘘嘘!冗談だよ☆」
「本当に、冗談でしょうね?」
「う、うん。冗談、冗談」
「ならよろしい」
うん。やっぱり怖い。でも、少しだけ安心する。
席を立った僕は、最後にもう一度だけ空席を見た。
席からは、何も返答はない。けれど、そこに何かが欠けていることだけは、嫌でも分かる席。
僕はまだ、この世界のことを全部は知らない。知っているつもりで、知らないことだらけだ。
それでも。
今日、ここで座って、笑って、誤魔化して、少しだけ言葉を交わした。
きっと、それは嘘だけじゃない。そう思いたい。
「じゃ、またあとでね!」
「ええ。―――それと」
「なに?」
「あなたは、無茶だけはしないでください」
その一言だけ、ナギサはいつもより少し低い声で言った。
冗談でも皮肉でもない、本気の声音だった。
僕は一瞬だけ返事に詰まり、それから、なるべくいつも通りの顔で笑う。
「大丈夫だよ☆」
「その言葉は信用なりません」
「ひどっ」
「事実です」
扉を開ける。
廊下に出た瞬間、少しだけ強い光が差し込んできた。
軽い足取りのまま、僕は歩き出す。
トリニティの朝はもう終わっていて、たぶんここから先が、本当の学校生活なのだろう。
その途中で、何を失くして、何を拾うのか。
まだ、何も分からない。
そんな中で、僕がたった一つ分かるのは、今日も僕は聖園ミカの顔で笑える。笑えてしまう、ということだけだった。