政務や勉学が終われば、午後の授業が始まるまでは自由にしていい。
ただし、図書館のソファで眠るのは禁止。
会議の終わり際、ナギサから言い渡されたその条件付き自由時間を、僕はしばらく廊下の真ん中で持て余していた。
自由というのは、喜ばしいことのように思えて、案外むずかしい。
前世の僕にとって自由というのは、もっとこう、神々しいものだった。窓際に行っても怒られないとか、今日は昼寝をしていいとか、廊下を歩いていいとか、その程度の小さな奇跡みたいなものだったのだ。
だから、と言いたい訳でもないが。
いざ、「好きにしていいよ」と丸ごと渡されると、逆に困る。
いやまあ、選択肢はあるにはある。
図書館に行ってソファを前に葛藤するとか。
中庭のベンチで意味もなく風に吹かれてみるとか。
あるいは、あてもなく校内をぶらりとして、“ミカとしての日常”をもう少し知るとか。
「……うん、歩こう」
口に出してみると、それが一番な気がした。
今は風に吹かれても...という気分だし、ソファの誘惑に負けて寝ると怒られるし。
そんな訳で、僕は陽の差し込む長い廊下を、特に当てもなく歩きはじめた。
トリニティ総合学園は、どこを見ても“トリニティ”だった。
白を基調とした校舎。磨かれた床。等間隔に置かれた花瓶。窓辺で揺れるレースのカーテン。時折すれ違う生徒たちは、皆どこか所作が上品で、制服の着こなしさえ絵になっている。
自分が置かれている状況に困っていることに変わりはないのだが、景色というものはやはり、心に直接語り掛けてくるものがあり。
単純に、すごいなあ、と。
そう感じたのである。
あと、この世界、どこを切り取ってもスクショ映えするだろうなとも思った。
写真は、前世ではほぼ取ったことがないので、どのようにとればいいのかわからないけど。
などと感心していたら、向こうから歩いてきた二人組の生徒がぴたりと足を止めた。
「み、ミカ様……!」
「ごきげんよう、ミカ様!」
(うわ!?)
不意打ちの“ミカ様”はまだ心臓に悪い。
でもここで「ひゃい」とか言ったらやっていけないので、僕は努めて自然に、にこっと笑ってみせた。
「うん。ごきげんよう!」
「っ……!」
なぜか二人とも感動したみたいな顔をした。
え、今ので?
そんなに?
片方の子なんて、よく見れば軽く頬まで赤い。僕はいま何をした? いや挨拶だぞ。ただの。
「きょ、今日も素敵です……!」
「あ、ありがとう...?」
疑問形になった。
終わったかもしれない。
だが二人は「きゃー」と小声で盛り上がりながら去っていった。助かった。いや助かったのか? たぶん助かったんだろう。
僕はその場でそっと胸を押さえる。
なるほど。なるほどなるほど。
これが、’’聖園ミカ’’というものか。
ただ廊下を歩いて、笑って、挨拶を返すだけで、人の顔色が変わる。
もちろんそれは、見た目の可愛さとか、お姫様じみた雰囲気とか、そういうのもあるにはあるだろう。けど、それだけじゃない。たぶん、もっと前から積み重なってきた“聖園ミカ”っていう存在そのものに、何かしらの意味があるのだ。
例えば、期待。
それと、憧れとか。
あるいは、安心だったり。
ちょっとした畏れとかも。
...恐ろしい。
いやほんとに。
廊下を歩いてるだけで他人の感情が上下するって、ハードモード過ぎない?
ミカ、普段これを素でやってたの? すごくない? ミカはすごいし偉いし可愛いのは当たり前なんだけどね? でも、僕だったら前世でも現世でも三日で胃が死ぬ。現に、胃のあたりがほんのりきゅっとしている。朝に食べたスープが嫌な方向から香ってきそう。
けど、そうだとしても。足は止まらなかった。
まあ、せっかく自由に歩けるのだ。この他人に影響しやすいというのも、考えれば少しのアクションで演技が済むということなのだから。
止まったらもったいない。そう思うことにする。
階段を降りて、中庭へ出る。白い噴水の向こうで、何人かの生徒が談笑していて、そのさらに奥では誰かがベンチで本を読んでいた。そうした空間だと、なんだか鳥の声まで上品に聞こえる気がする。気のせいだろうけど。
「あっ、ミカ様だ」
「えっ? あ、ほんとだ……」
今度は、少し離れたところにいた一年生らしい集団がざわついた。
ひそひそと何事かを話している。本で顔を隠している子もいる。
そのうちの一人が、おずおずとこちらへ歩いてくる。
「み、ミカ様。あの……」
「ん? なに?」
「よ、よろしければ、サインを……」
「...サイン?」
あまりに予想外で、素っ頓狂な声が出そうになった。
サインって、あのサイン? 芸能人とかが書くアレ?
「だ、駄目でしょうか……?」
「いや、駄目じゃない、けど……」
受け取ったのは、ノートの切れ端だった。しかもよく見ると、端っこのほうに『ティーパーティー三名分コンプリート』みたいな文字が見える。
……待って。
この子、セイアとナギサのも集めてるの?
なにそれ気になる。トリニティ内部で流通している公式か非公式かわからない文化があるんだけど。
「えっと、どこに書けばいい?」
「こ、ここに! ここにお願いします……!」
きらきらした目で差し出されるペン。
羽はパタパタしていて、感情がうかがえる。
僕は一瞬、固まった。
まずい。
聖園ミカのサインなんて知らないぞ、僕は。
いや、知るわけがないのだ。ゲーム画面の向こうにいた時代、そんなディテールまでは流石に見えていない。もしかしたらカードか何かになっているかもしれないが、僕はそういうのには疎い。
どうする。ここで変な字を書いたら後世に残る恥だぞ。というかこの子のコレクションに傷をつけることになる。
だが、悩んでいる時間はない。
(...体に任せよう。体が覚えてるかもしれないし!)
僕はとりあえず、なるべく丸くて可愛い感じの筆記体っぽい何かを捻り出した。もうぶっちゃけ雰囲気である。ただの勢いである。これが通ることを祈るしかない。
「はい、どうぞ☆」
「......」
ど、どうだ?
ファンの少女は目の前でわなわなと震えている。
どっちだ。感激しているのか? 怒ってるのか? 前者だとすごい助かります!
「...ミカ様」
「はい!? ど、どうかなー?」
「...ありがとうございます! わたし、一生の宝物にしますっ!」
泣いて喜ばれた?
と、言うことは。なんとか、サインは体が覚えてくれていたようだ。
流石、肉体派!
だが、横から覗き込んできた別の子がぽつりと言う。
「うーん? ミカ様のサイン、前とちょっと雰囲気違うかも?」
「...えっ」
「成長したんだよ、たぶん! ですよね、ミカ様!」
「そ、そうですよね。流動的なんですね!」
サインって流動的なの?
よくわからない勘違いに救われながら、僕は曖昧に笑ってその場を離れた。
危ない危ない。今ので寿命が三日くらい縮んだ気がする。せっかく転生して延びた命をこういうところで削りたくはない。
しかし、中庭の回廊を抜けようとしたところで、今度は少し険のある声が耳に入る。
「ですから、こちらは先に申請していたんです。今更変更は無理です」
「でも、その……わたしたちも、今日しか練習できなくて……」
「...事情は存じません。規則は規則、です」
ああ、またか。
トリニティってば平和そうな顔して、定期的にこういう“上品な言い争い”が発生する。
声のしたほうへ目をやると、小さな屋外テラスのような場所で、二つのグループが向かい合っていた。
片方は二年生くらいの生徒が三人。姿勢がしゃんとしていて、胸元の徽章もどこかきちっとしている。見るからに“真面目ちゃん''。
もう片方は一年生くらいの女の子が二人と、給仕用らしきワゴン。ワゴンの上にはティーセットと焼き菓子が並んでいた。
ほう。
これは、たぶん場所取りだ。
なんともトリニティらしい火種だこと。
「あのー」
僕が間に声を落とすと、両方が一斉に振り返った。
「「「ミカ様!?」」」
いい反応だ。
心臓に悪いことを除けば。
二年生側の一人が、すぐさま一礼する。
「失礼いたしました、ミカ様。お見苦しいところを」
「えっと、どうしたの?」
「本日のテラス使用についてです。こちらの一年生方が、使用許可の時間を勘違いされていたようでして」
「ち、違うんです……!」
一年生の一人が、泣きそうな顔で反論した。
「午後からだって聞いてたんですけど、わたしたち、その、準備に時間がかかっちゃって……」
「それはそちらの都合でしょう」
「それは...そうなんですけどぉ...」
ふむ。
二年生ちゃんの言ってることは正しい。正しいんだけど、言い方はHPをごっそり削ってくるタイプだ。ナギサとはまた別方向に鋭い。
僕はワゴンの上を見た。銀のポット、カップ、焼き菓子。どうやら何かのおもてなしの練習でもしていたらしい。なるほど、これは片づけるのも大変そうだ。
「ふーん」
僕はわざと間延びした声を出して、テラスの中央へ歩み寄った。
「じゃあさ、いっそのこと、半分こにしない?」
「……半分こ?」
二年生側が揃って固まる。
「時間じゃなくて、場所。別にさ、テラス全部使わなくてもいいんでしょ?」
「それは...はい。そうですが……」
「そっちは? 何の練習なの?」
「し、新入生歓迎会の、簡易的なお茶会の練習です……」
「ふーん、いいじゃん」
僕はしゃがみこんで、ワゴンの上の焼き菓子を見る。スコーンだ。見た目はかなり美味しそう。
「あなた達は?」
「っ、フィリウスとの合同打ち合わせに向けた、席次確認と動線の確認です」
「...じゃあ、なおさら同時でいいじゃんね。人がいる想定のほうが本番に近いし」
僕が言葉を言い終わると、三人組は静かに顔を見合わせた。
お、ちょっと効いてるっぽい、かな?
僕は勢いに乗って続ける。
「一年生たちはお茶会の練習ができる。そっちは本番に近い導線確認ができる。お互い得じゃない?」
「しかし、動線上にワゴンがあると……」
「だったら、私が動かすよ」
「ミカ様が?」
「うん」
全員の視線が僕に集まった。
...いやまあ、確かに勢いで言ったけど、聖園ミカが自分でワゴン押すのってどうなんだろ? こう、お姫様的に。いや、ミカならやるか? 想像したらやりそうな気もするな。大丈夫か。
「だって、そのほうが早いし――」
僕はにっこり笑った。
「――みんな仲良くできたほうが、楽しいでしょ?」
それは、いかにもミカが言いそうな台詞だった。と、思う。
言いながら、胸の奥が少しだけざわつく。
これは僕の言葉じゃない。
僕が知っている“聖園ミカの好きそうな言葉”だ。
でも。
その一言で、一年生の顔がぱっと明るくなったのを見てしまったから。
(...ミカはこんなクールに解決できないし? だから、僕の功績...だよね?)
僕は今一度、深く聖園ミカの仮面を着けなおした。
「……承知しました」
二年生側の生徒が、わずかに頭を下げる。
「ミカ様が、そう、おっしゃるのであれば」
「やったね☆」
「た、ただし! 時間は、厳守で。...お願いいたします」
「ふふっ、はーい!」
なんと、解決である。
すごいぞ! 聖園ミカ!
いや、頑張ったのは僕だが。まあ、この顔と地位にもちょっと助かった...けども。
一年生たちは、ほっとしたように頭を下げた。
「ありがとうございます、ミカ様……!」
「ううん。あんまり気負わなくていいよ。それに、お茶って、ゲストもそうだけど...ホスト側も緊張したら美味しくなくなるから」
「……はい!」
その返事がやけにまっすぐで、少し眩しかった。
僕はその後、本当にワゴンを少し動かす羽目になった。まあ軽い。前世の僕だったらまず動けないが、今は片手でもいけそうなくらいだ。いや、本当に凄いなミカボディ。
準備が一段落し、落ち着いたあと、一年生の一人がおずおずと口を開く。
「あ、あの……ミカ様。よろしければ、試作品のスコーンを一つ、いかがでしょうか?」
「えっ、いいの?」
「はいっ! ぜひ!」
(っ...来たか)
僕は一瞬、手を止めた。
スコーン。焼き菓子。紅茶。
つまり、“トリニティには大事なもの”だ。
この場で断るのは、明らかに変だ。それに、そんなことは...したくない。
(...でも、食べて...また味が、曖昧だったら?)
少しだけ、ほんの少しだけ迷って。
それでも僕は―――笑って、お菓子を受け取った。
「あはは、ありがとう」
勢いで口に運ぶ。
ほろり、と崩れる食感。
焼きたてのあたたかさ。
バターの香り。
……香りは、わかる。
でもやっぱり、どうしても。味は...。
不味いわけではない。
何かが一枚、舌と世界のあいだに薄く挟まっているような感覚。
(...へんなの)
「ミカ様、いかがでしょうか……?」
期待に満ちた目が向けられる。
僕はほんの一拍だけ置いてから、できるだけ、自然に笑った。
「...うん。すっごくいいバターの香り! あと、食感が好きかも」
「ほ、本当ですか!?」
「うん。紅茶によく合いそう!」
「やったぁ……!」
その子は心底嬉しそうに飛び跳ねた。
もう一人の子も、静かにガッツポーズをしている。
……そっかぁ。
味が分からなくても、別に。伝えられるのか。
それが少しだけ救いで、ほんの少しだけ苦しかった。
結局、その場で数分だけ一年生たちの練習を眺めてから、僕はその場を離れた。去り際、さっきまで厳しめだった上級生の一人にまで、「本日は助かりました」と丁寧に頭を下げられてしまって、なんだかむずがゆい気持ち。
(...ただ歩いて、ちょっと口を出しただけなのにね)
でも、たぶん。
“聖園ミカ”がそこに立つ、っていうのは。本人が思っている以上に、僕が感じた以上に。それだけできっと、影響があるんだろう。
回廊の窓に、自分の姿が映る。
桃色がかった白い髪。
軽い足取り。
ふわりと笑う顔。
どこからどう見ても、お姫様。
なのに中身は、さっきから内心で「うわどうしよう」とか「今ので合ってた?」とかしか言っていない僕である。
「……お姫様って、たいへんだあ」
ぽつりと零すと、窓の向こうのミカも同じように口を動かした。
その顔は、思ったよりずっと、自然に笑っていた。
誰かに見せるための笑顔。
ごまかすための笑顔。
でもそれだけじゃなくて。
きっと、ほんの少しだけ本当に楽しかった笑顔でもあった。
不自由なく歩けること。
隔たりなく誰かと話せること。
自分で何かをして、目の前で空気が和らぐこと。
そんな当たり前みたいなことが、僕には、いちいち嬉しいことで。
……いや、嬉しいって認めるのはちょっと、悔しいけれど。
中庭の先から鐘の音が響いてくる。午後の授業が始まる合図だったのか、生徒たちの流れが少しずつ変わっていく。
その中を、僕は再び歩き出した。
お姫様みたいに。
聖園ミカみたいに。
けれど、誰の真似でもない一歩で。
きっと、これが今の僕にできる“歩き方”なんだろう。