午後なり。
トリニティ総合学園の午後は、午前と同じように綺麗で、午前より少しだけ眠かった。
会議を乗り切った。校内を歩いた。よく知らない後輩たちの揉め事をなんかいい感じに丸めた。ついでにスコーンの味がやっぱりよく分からなかった。
情報量が多い。非常に。
僕の人生、昨日まで病室とスマホでほぼ完結していたのに。いきなりお嬢様学園の生徒会長業務を体験させられても、脳の処理が追いつくわけがないのが自明の理。
だからまあ、少しくらい休んでもいいと思う。
ほんの少しだけ。
ほんとうに、ほんの少しだけ。
「……図書館に行こう」
そう呟いた時点で、たぶん負けていた。
ナギサに「図書館のソファで寝るのは禁止」と言われていたのに、そこへ向かおうとしているのだ。
...禁止されると逆に気になるじゃん。どれだけ危険なんだ、そのソファ。
僕は誰に言い訳するでもなく、静かな廊下を歩いた。
トリニティの図書館は、図書館というより神殿だった。
高い天井。長い本棚。陽光に照らされたステンドグラス。紙とインクの匂いが静かに漂っていて、足音すら遠慮しているみたいに小さく響く。こんな場所で大声を出したら、なんて考えてしまうのは、僕がまだ子供だということなのだろうか。
(トリニティ...やっぱり、すごいな...)
たぶん、普通の学園生活を送るだけでも驚くことがたくさんあるだろうけど、その何倍も豪華なものがあって、ここに来てから『すごい』という感想を何度持ったことか。
どうして学園の施設がいちいちラストバトル前の廊下みたいな荘厳さなんだ。
受付近くにいた生徒が僕を見るなりぴしっと背筋を伸ばした。
「ミカ様。ごきげんよう」
「うん、ごきげんようっ」
もうだいぶ慣れてきた、とは言わない。言わないけど、前みたいに心臓が飛び出しそうになることは減ってきた。
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
「えっと、本を読みに...?」
「左様でございますか」
ミカが自主的に本を読むことが想像できないので疑問符がついてしまった。
でも相手は特に不審がる様子もなく、丁寧に一礼しただけだった。助かる。トリニティの人たち、みんな品が良すぎて、こっちが多少変でも“そういうものなのかな”で流してくれるのかもしれない。ありがたいような、怖いような。
とりあえず館内を歩いてみる。
本棚が並ぶ。どこまでも並ぶ。歴史、神学、政治、文学、地誌、銃器の整備入門みたいな本まである。銃器の整備入門などの銃関連の本...これらが視界の三割以上を占めているのが流石キヴォトス。
しかし、背表紙を眺めているだけで少し楽しいものだ。もともと、前世でも本は好きだった。正確には、好きにならざるを得なかった、の方が近いのかもしれないが。
病室の中で一人きりでいられる時間、本はわりと優しかった。読んでいる間だけは、どこか別の場所へ行ける気がしたから。まあ、世間的には旬を過ぎた本というか、古い本ばかりもらっていたから、ブルアカのように今風のものはあまり知らない。
けど、僕の娯楽はブルアカに出会うまではそれだけだったのだ。だから、こうして本棚の前に立っていると、少しだけ落ち着く。
……落ち着くのだけど。
「...んっ?」
視界の端に、見つけてしまった。
窓際。少し奥まった場所。日差しがやわらかく差し込む位置に置かれた、深緑のソファ。
(あっ、だめだ)
あれはだめなやつだ...!
見ただけで分かる。座ったら終わる。沈む。意識が。たぶん魂まで。
なんで図書館って、ああいう“座ってください”みたいなソファのくせに、妙に寝心地がよいものがあるのだろう。静かだから眠くなるのかな?
なんにせよ、僕は吸い寄せられるように歩み寄った。
仕方ない。
これは確認だ。
調査だ。
ナギサに禁止された以上、その危険性をきちんと把握しておく必要がある。
僕は何も間違っていない。うん。
腰を下ろす。
「......っ」
「……あっ」
ふかふか!
座面がやわらかいのに沈みすぎない。背もたれの角度も完璧。窓から差し込む光も暑すぎず、明るすぎず、ただぽかぽかしているだけ。意図的だ。トリニティの誰かが絶対に意思をもって設計している。
僕は本を一冊適当に抜き取って膝に置いた。読んでいる体裁を取るためである。タイトルは『わが校――』だめだ。三文字で眠くなる。
でもいい。今はこれでいい...。ちょっとだけ目を閉じても、きっと許される。
今の僕はミカのようだし。
ともかく、僕は本を開いたまま、ゆっくりと背もたれに体を預けた。
「....」
ああ、静けさや。
穏やかで、柔らかくて、優雅の一言にふさわしい午後だった。
こういう時間が、前世にはほとんどなかったものだから。
何も起こらないのに、苦しくもない時間。不定期に訪れる苦痛に怯えなくてよくて、機械音もなくて、呼吸を意識しなくてもちゃんと酸素が入ってくる、ただそれだけの時間。
贅沢だなあ、とぼんやり思う。
もしこのまま眠れたら、すごく気持ちいいだろうな。
ふあぁ....。
もう、ねちゃおうかな...。
「ミカ様?」
びくっ、と体が跳ねた。
「ふぁい!?」
情けない声とともに飛び起きる。都合三度目である。
正面にいたのは、図書館の受付にいた生徒ではなかった。もう少し年上に見える生徒だった。腕には図書委員らしき腕章。ウイ...ではないようだ。
「ごきげんよう。ご休憩中のところ失礼いたします」
「休憩中じゃないよ? これ、本読んでたの、ほら、えーと、『わが校――」
「左様でございますか」
視線が、僕の手の中にある本に落ちる。
上下、逆だった。
「……」
「……」
視線を上げると、僕と彼女の視線がぶつかる。
俯いて目をそらすが、視界に入るのは上下逆の本。とりあえず、ひっくり返しておく。
「たいへん、独創的な読み方をなさるのですね」
「ちょっと新しい視点で読んで見たくてね! ね!?」
「上下逆ですよ」
「逆だったよね...」
終わった。
完全に終わった。
これで図書館出禁とか言われたら泣くぞ僕。ふかふかの魔力は人を狂わせるんだと見せつけてやるぜ?
虚勢を張るようにシュッ、シュッ、と心の中でシャドーボクシング。
けれど図書委員の子は怒るでもなく、ほんの少し困ったように眉を下げただけだった。
「ミカ様におかれましては、以前より閲覧席でのうたた寝について何度かご注意を差し上げております」
「うん...いや! そうだけど、でもソファが悪いよこの憎きソファ! ふかふかなんだよ?ほら、座ってよ。感じてみて!」
「そのセリフは3回目です」
「ゥゥゥ...!」
僕と同じこといってんじゃないよ、ミカ。何、聖園ミカはソファを見ると眠くなる呪いでもかかってんの? このソファにはヘイローでもあるの? 人をダメにする神秘?
「ですが本日は、まだ眠ってはいらっしゃいませんので」
「セ? セー...?」
「セーフですね。今のところは」
「だと思ってた!」
「喜ぶところではありません」
ぴしゃり、と咎められレしまう。
でもその口調には本気の怒気はなくて、むしろ“まいど困るなあ”みたいな慣れがあった。
「……もしお疲れでしたら、閲覧席ではなく休憩用のラウンジをお使いください」
「ラウンジ?」
「ええ。ミカ様お気に入りの。もっとも、そちらも長時間の占有はお控えいただきたいところですが」
「うっ」
「その反応がお出来になるなら改善をお願いします」
僕は本を閉じて立ち上がった。
「ミカ様?」
「...ちょっと待ってね」
おいソファ、ふかふかの魔力で僕を離さない気か?
ぐぬぬ、と意志の力でなんとか立ち上がる。くっ、余計に疲れた気がする。
「ごめんね、迷惑かけて。ソファは皆のものだよね」
「……いえ」
何か、ミカにそぐわないことを言ってしまったらしい。
生徒は目を丸くしている。
でももう遅い。言ってしまったものは仕方ない。僕は軽く笑って誤魔化す。
「...あはは、静かなとこって、つい気が抜けちゃうんだよね」
「それは……分からなくもありません」
「でしょ?」
「ですが、だからといって占領していいわけでも、眠っていい理由にはなりません」
「まじめだ」
「図書委員、ですので」
ちょっとだけ得意げな、胸をそらしながらの返しだった。
なんだ、可愛いな。
そう、くすっと笑ってしまった自分にびっくりした。前までの僕なら、たぶん誰かとこんなふうに軽く話すこと自体、ほとんどなかった。話しかけられることも稀で、話しかける元気も、あんまりなかったから。
今は、それができている。
ミカだから、というのは大きいだろう。
でも、それだけじゃなくて。
「じゃあさ、おすすめの本とかある?」
「おすすめ、ですか」
「うん。読みやすいやつがいいな」
図書委員の子は少し考えてから、本棚の一角へ僕を案内した。
「軽い読み物でしたら、こちらなどはいかがでしょうか。トリニティ創立時の逸話を集めた読み物でして、史料集ほどお堅くはありません」
「へえ」
差し出された本は、さっきのトリニティ成立史何某よりだいぶ薄い。ありがたい。分厚い本は読めないこともないが、一つにのめり込みたくはない。
「……あと、こちらは」
彼女は少しだけ迷ったあと、別の一冊を抜き出した。
「お茶会で供される菓子の由来や作法をまとめたものです」
「そんな本あるんだ」
「トリニティですので」
「知らなかったよ」
思わず笑ってしまう。
すると、図書委員の子もつられるように小さく笑った。
胸のあたりがほんの少しだけあたたかくなる。こんな小さなやり取りでも、人はちょっと嬉しくなれるんだ。
...知らなかったな。今まであんまり。
「では、その二冊を貸出に?」
「うん、お願い」
受付まで戻る途中、ふと視線が奥へ流れる。
本棚と本棚の隙間。少し離れた閲覧席。そこに、ひとりで本を読んでいる生徒がいた。
銀色がかった髪。静かな横顔。背筋の伸びた姿勢。
誰だろう、と一瞬だけ思って、でもすぐに視線を戻した。広い学園だ。知らない生徒なんていくらでもいる。なのに、なぜか少しだけ引っかかった。
何がと言われると、それは分からない。ただ、見覚えがあるような気がしただけだ。
「ミカ様?」
「あ、ううん。なんでもないよ」
貸出の手続きを終える。生徒証みたいなものを出せと言われたらどうしようと思ったけど、どうやら顔パスに近い何かで済んだ。地位とは便利だな。
本を二冊抱えて図書館を出るころには、眠気は少し引いていた。
それは、あの図書委員の子と話したからだろう。ちょっとだけ意識がこっち戻ったのだ。ふかふかの国から現実に。
廊下へ出ると、窓から午後の光が差し込んでいた。
腕の中の本は軽い。体も依然軽い。でも、その軽さに慣れたくないな、と少しだけ思った。
慣れてしまったら、前の僕がどんどん遠くなってしまう気がするから。
僕は、僕だ。
それはまだ、ちゃんと意識している。はずなのに。
さっき図書館で笑った僕は、少しだけ自然すぎたように思う。図書委員の子に謝って、おすすめを聞いて、一緒に笑って。
それは“演技”だったんだろうか。それとも、僕だったんだろうか。
「……わかんないなあ」
ぽつりとこぼした声は、午後の静かな廊下へ溶けていく。
そのとき。
「ミカさん」
聞き慣れた、落ち着いた声が背後から飛んできた。
思わずはっと振り返る。
そこには、書類を数枚抱えたナギサが立っていた。灰色の長い髪が、窓の光を受けて淡くきらめいている。気品で殴ってくる美少女、ここにありける。
「ナギちゃん?」
「ごきげんよう」
「ご、ごきげんよーう……」
なんだろう。何も悪いことしてないはずなのに、ちょっと声がしおらしくなる。
ナギサの視線が、僕の腕の中の本に向いた。
「珍しいですね。読書ですか?」
「うん。ちょっと借りてみたんだ」
「……本当に?」
「なに、その反応は」
「いえ、あなたが図書館で本を借りるより先に、ソファでうたた寝をして追い出されるほうが自然かと思っていました」
「ひ、ひどいよ!」
図星だった。大声で誤魔化しただけだ。
なんで分かるんだ。もう怖い。もしや未来視持ちか? 狐耳属性?
「...まさか、本当に?」
「してないしてない! しててもみ未遂!」
「未遂ではあったのですか」
「……何のことカナー」
まったく。僕ってば正直だね(白目)。
ナギサは目を閉じ、片手でこめかみを押さえた。すごく頭が痛そうな仕草だった。
「あなたという人は……」
「でも、本も借りたよ?」
「本を借りたことと、図書室でうたた寝することは同じ勘定には入りません」
「厳しいなあ」
「ミカさんにはこれが通常です」
そう言いながらも、ナギサは本の表紙を覗き込んだ。
やはり、人が持っているものは見てしまう。それはナギサほどのお嬢様でもそうらしい。
「……お菓子の由来と作法?」
「おすすめされたんだ」
「誰にです?」
「図書委員の子」
「なるほど」
ナギサはそれだけ言って、少しだけ表情を緩めた。
「あなたも紅茶は好きでしょう。いい機会です、お茶菓子を作るのも楽しいはずですよ」
「え、そう?」
「ええ。少なくとも、紅茶を飲む機会を増やせば、眠たくなることも減るでしょう」
「...だから、昼寝はしてないもん。未遂だってば」
「大差ありません」
ぴしゃり、といつものように感じる。
でも、ほんのわずかに機嫌がいい気がした。もしかすると、僕が本を借りていたのが本当に少し嬉しかったのかもしれない。あるいは、図書館から苦情が追加で来なかったことに安堵しているのか。...後者だろうな。
「ところで」
と、ナギサが僕を見る。
「顔が、少しすっきりしていますね」
「そう?」
「ええ。会議のあとよりは多少」
「......そっか」
へえ、自分じゃ分からなかった。けれど、誰かにそう言われると、そうなのかもしれないと思えてくる。
図書館で眠りかけて、怒られて、本を借りて、少し話しただけ。
それでも、少しだけ。
本当に少しだけ、呼吸がしやすくなっていたのかもしれない。
「なら、よかったです」
ナギサはさらりと言った。
「あなたが妙にぼんやりしていると、こちらの心臓に悪いので」
「それ、心配してくれてる?」
「業務上の都合です。...まあ、ちょっとは幼馴染としてもありますが」
「はいはい」
僕が笑うと、ナギサは呆れたように息を吐いた。
「......夕方にもう一度、簡単な確認があります。それまでに読み終えておく必要はありませんが、せめて上下は正しく読んでしてくださいね」
「...なんで知ってるの?」
「昼前の会議で話題にあがったのです。図書館から私へ連絡が来ないと思いましたか?」
「......それくらい想定内だし?」
「顔に出ていますよ」
「もう...やらかしたなあ......」
「ええ、やらかしましたね」
僕は本を抱え直しながら、なんだかおかしくなって笑ってしまった。やらかした。確かにやらかした。でも前世みたいに、それが全部で何もかもおしまいって感じはしない。
怒られて、呆れられて、それでも次がある。
それだけのことが、こんなに...なんというのか。...そう、変なんだ。
「見ててよ! 今度こそちゃんと読むってとこ!」
「是非そうしてください」
「座るのも、ソファじゃないし!」
「...あなた、ソファというより、落ち着く場所で寝てしまうだけでしょうに」
廊下の窓の向こうでは、午後の光が少しだけ傾きはじめていた。
僕は借りた本を胸の前に抱えたまま、ナギサと並んで歩き出す。
足並みをそろえるのに少し苦労したけど、確かに並んで歩いていた。
それがごくごく当たり前みたいに。
その当たり前に、今はまだ、ちょっぴりだけ戸惑いながら。
この主人公、書いてて思ったけど色々拙すぎない?