これも全部陸八魔アルのせいです。
図書館で借りた本は、意外とちゃんと読めた。
どうも、「お茶会で供される菓子の由来と作法」なんてタイトルだけ見たときは、絶対に途中で眠くなると思っていたのだが。だってどう考えてもトリニティ上級者向けの一冊じゃん。新規転生者に優しいラインナップじゃないよ。
そうぐだぐだ思いながら読んでみたら案外面白かった。
スコーンの割り方にも流派があるとか、ジャムを先に塗るかクロテッドクリームを先に塗るかで戦争が起こりうるとか、紅茶と焼き菓子の組み合わせには意外と明確な相性があるとか。銃と神秘と政治闘争だけじゃなく、お茶菓子にも派閥があるのかもしれない。まあ、こればっかりはキヴォトスの外でも似たようなものだろうけど。
そんなことを思いつつ。僕は自室の机で本を閉じたのだ。
ちなみに、ちゃんと机で読んだので。ソファではないとは言っておこう。これは偉い。崇め奉り褒めてほしい。できれば図書委員の子とナギサの両方に。でも言ったらたぶん「当然です」で終わる。この世は虚しい。 バニタス...。
なんだかんだと読書を楽しんでいると、窓の外は、もう夕方だった。
白い校舎の壁に、少しだけ橙色が差している。静かな時間だ。病室で見ていた夕方と違って、ここでの夕方は世界が終わる前触れみたいな印象を受けない。ただ、明るい一日が静かに沈んでいくだけの色をしている。
今の僕では形容しがたい感情を感じて、思考の海に沈みそうな所で、こんこん、と扉がノックされた。
「ミカ様。ナギサ様がお呼びです」
「えっ、今?」
「はい。“可能であればすぐに”とのことです」
可能であれば、という丁寧な言い回しのくせに、実質ほぼ確定召喚である。トリニティ語、むずかしい。言ってみれば、数年ぶりに懐かしのゲームをしたら、操作方法を忘れてるのに当時の実力通りの設定のせいでボコボコにされる、みたいなものなのに。
「わかった。今行くね」
「かしこまりました」
侍女めいた役目の生徒が一礼して去っていく。僕は本に後ろ髪を引かれるのを感じながら、軽く伸びをした。
さて、呼び出しとは、何だろうか。
夕方の簡単な確認、という話はたしかにあった覚えがある。しかし、わざわざ呼び出すほどのことだろうか。図書館ソファうたた寝未遂事件についての追加お仕置きなら、僕は泣く。
...いや、ミカなのに泣いてられないや。まあ、心の中で泣く。
そんな訳で足取りは軽くなかったが、僕はナギサのいる会議室へ向かった。
妙に重く感じる会議室の扉を開ける。
「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん!」
「遅いです」
「えっ、呼ばれてから三分以内だけど?」
「まあ、聖園ミカ基準では早いですね」
「...褒められた?」
「...聖園ミカ基準ではそうですね」
いつものやりとりが掴めてきた。少し安心する。
ナギサは机の上に書類を広げたまま、ちらりとこちらを見た。夕方の光を受け、金色がかった灰色の髪が、淡く柔らかに靡いている。相変わらず綺麗だ。人間の容姿ってこんなに整ってていいんだなあと、会うたびにちょっと思う。
ま、ミカの方がずっと綺麗だけど!
綺麗だけどね!
「ミカ、口にロールケーキ突っ込んでもいいですか」
「なんで!?」
「...いえ、なんでもありません。たぶん、気のせいですね」
「...あー、それで、何かあったの?」
「そうでした、これを話さなくては。...明日、外部から来客があります」
「来客? ああ、他校からの外交官みたいな?」
「いえ、シャーレの先生です」
センセイ?
その一言で、思考が止まった。
シャーレ。
先生。
知っている言葉だ。否、知っているどころじゃない。この世界で、一番“特別”な人だ。
僕の胸の奥で、心臓が妙に大きく鳴った。
「……ミカ? どうか、しましたか?」
「っ、あ、ごめんね...なんでもないよ」
しまった。止まりすぎた。
ナギサは心配そうに...いや、怪訝そうに眉を寄せる。
「珍しい反応ですね。何か気になることでも?」
「いや、ホントに。なんでもないよ、ただ……先生、来るんだなあって」
「そうですか」
「うん...」
「...しかし、あなたがそこまで感慨深げになるのも不思議ですね」
「それはー...ほら、あれだよ。大人って珍しいし?」
「以前アビドスでの話をした時は、そこまで反応はしていなかったと思うのですが」
「……だよね☆」
危ない危ない。
そうだった。この身体は“初対面”ではない可能性もあったんだ。ああ、安心していたばっかりにボロが出るところだった。
やはり、彼女との会話では安心してはいけない。
ナギサは書類を一枚抜き出し、僕の方へ滑らせた。
「明日の訪問で、補習授業部の件について、先生にも少し話を通しておきたいのです。形式上の説明は私が行いますが、あなたにも同席してもらいます」
「私も?」
「ええ。ティーパーティーの一員として」
「……ナギサが全部やってくれるなら、私いらなくない?」
「そう言うと思いました」
「...わーお。ナギちゃんってば心読めるの?」
「心、というより。あなたは表情が読みやすいですから」
はいはい。僕は単純ですよーだ。
「ですが、先生にとってトリニティは決して気楽な場所ではありません。形式ばった説明ばかりでは、かえって窮屈でしょう」
「ふむふむ」
「そこで、ミカさん。あなたです」
ビシッ、と指をさされる。
「急に雑な役割が来たなあ」
「あなたは、場を少し和らげてください」
「私、マスコット扱い?」
「自覚はあったのですね」
「...一応、パテル派の首長なんだけど?」
「それも、マスコットのようなものでしょう」
「ひどっ」
「自覚はなかったのですね」
...ナギサ、ストレスたまってるのかな?
まあ、どうであれ実際問題その役目ならまだやれそうだった。難しい書類の説明より何倍もいい。
......いや、ちょっと待て。
先生に会う。
あの、先生に。
そう認識した瞬間、今さらじわじわ実感が押し寄せてきた。
(どうしよう...?)
いや何が、ってわけでもないんだけど。漠然と、何をすればいいのか分からない。
僕はこの世界に来てから、ずっと“知っている人たち”に会ってきた。ナギサも、トリニティの生徒たちも、図書委員の子だって知らないはずなのに、この世界の一部として受け取れていた。
それは、先生として関わってきたからだ。モブの子も、校風という括りでその思考はなんとなく読めていた。
でも、''先生''は違う。
なんというか、距離感が定まらない。ゲームの中では、たしかにずっと近くにいたはずなのに、同時に決して触れられない中心でもあった、あの人だ。
僕は、やはり僕だ。''先生''ではないから、分からない。
「……ミカ?」
「んー?」
「顔が難しくなっていますよ」
「うそっ」
「本当です」
「明日のこと考えてた」
「珍しいですね」
「最近ね....。ちょっと、考えること多いんだよ」
「それは良い傾向です」
...まあ、考えても仕方ないか。先生も僕と、生徒と敵対したい訳ではないだろうし。
「...はあ。ミカ、今日はもう下がっても構いません」
「え、いいの? ナギちゃん」
「ええ。明日、妙な顔をされても困りますし...」
「みょ、妙な顔って...」
「今のような顔です」
「えー、そんなに変かなあ?」
「...少なくとも、いつものあなたらしくは...ありませんよ」
その言い方が、ほんの少しだけ引っかかった。
いつものあなた。
それは当然、本物の聖園ミカのことだ。
でも僕は、その“いつも”を借りているだけで、本当に持っているわけじゃない。
「......そっか」
「...? どうかしましたか」
「んーん。なんでも。じゃあ、明日に備えてちゃんと寝ることにする!」
「ぜひ、そうしてください」
「あ、もちろん、ソファじゃなくてベッドで寝るからね」
「当然です。うたた寝程度ならともかく...」
「もう、根に持ってるなあ」
「反省が見えませんので」
ナギサは、ほんの少し口元を歪めていた。
会話を切り上げて、僕は会議室をあとにした。
廊下を歩きながら、胸の奥がざわざわする。
明日、先生が来る。
それだけのことで、こんなに落ち着かなくなるなんて、思ってもいなかった。
◇
次の日、僕は少しだけ早く起きた。
少しだけ。別に何時間も前から待機していたわけではない。別に、そわそわしていたわけでもない。ないったらないのだ。
けれど、朝食のときに出てきた小さな焼き菓子を前にしても、なんだかいつもみたいに気の抜けた感想が出てこなかったあたり...まあ、たぶん、落ち着いてはいなかっただろう。
ナギサに「今日は静かですね」と言われたので、やはり、だいぶ分かりやすかったらしい。恥ずかしいったらない。
そうして、昼前になった時。
トリニティの応接室へ向かうころには、もう完全に心臓の音がうるさかった。
ナギサはそんな僕をちらりと見たが、特に何も言わなかった。ただ、いつもより少しだけ歩く速度を落としてくれていた気がする。エデン条約編ではお労しかったが、優しい子なのは確かだ。
「ミカさん、緊張していますか?」
「...なんで?」
「顔に出ていますから」
「昨日も言われた...そんなに?」
「ええ。あなたには珍しいことに」
「.......まあ、うん。ちょっとだけ」
「...そうですか」
ナギサはそれ以上深掘りしなかった。
助かったような、少しだけ物足りないような、変な気分だった。
応接室の扉の前で、案内役の生徒が小さく会釈する。
「シャーレの先生をお連れしております」
「ありがとうございます。お通ししてください」
扉が開く。
僕は、無意識に息を止めていた。
入ってきたのは、生徒ではない。“大人”だった。
トリニティの誰とも違う空気を纏っている。制服でないが、けれど場に馴染まないわけでもない、妙な自然さがあった。派手ではない。圧が強いわけでもない。でも、その人が一歩入ってきただけで、少しだけ部屋の空気がやわらぐ。
「''こんにちは''」
先生はそう言って、まずナギサに、それから僕に視線を向けた。
「''お招きいただきありがとう''」
「いえ。こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
ナギサが丁寧に頭を下げる。
それから自己紹介などを挟み、ナギサの思惑通り(なのかは分からないが)いつも通りのじゃれ合いを見せ、先生に印象を与えたところで話題はいよいよ例のものになる。
「本題に入りましょう」
ナギサが机上の書類を整える。
「本日先生をお呼びしたのは、ある部活動の顧問をお願いしたいからです」
「''部活動?''」
「ええ。新設される臨時の部活動──補習授業部です」
その単語を聞いた瞬間、胸の奥が小さく軋んだ。
知っている流れ。知っている名前。これから起こる事柄は、僕にとっては既知である。
けれど、いま目の前で実際に動き始めようとしているそれは、ゲーム画面の向こうにあったものとは、まるで違うもののように思えた。
「トリニティ総合学園は、昔からキヴォトスでは文武両道を掲げる、歴史と伝統が息づく学園です」
ナギサの声はいつも通り穏やかで、綺麗だった。
「しかしその理念から外れ、成績不振によって進級すら危ぶまれている生徒が数名いまして」 「''その子たちを集めて、面倒を見てほしいってこと?''」
「はい。先生には、落第の危機に陥っている生徒たちを救済していただきたいのです。『部』の形ではありますが、今回は顧問というよりも『担任の先生』として加わっていただくことになりますね」
先生は書類に目を落とし、それから顔を上げた。
「''なるほど。言わば、救済措置。ってことかな''」
「そう捉えていただいて構いません」
ナギサは淀みなく答えた後、紅茶を口に含む。まあ、僕の番だということだ。
「でも、今は困ったタイミングというか...。エデン条約が近いし。あの子たちの件も解決したいんだけど、時間も人手も足りなくって...。でも、そんな時、ちょうど見つけたの! 新聞に載ってたシャーレの活躍ぶりを!」
ゲームでもいろいろな依頼を請け負っていたのは分かるが、猫探し、街の清掃、宅配便の配達、まさに八面六臂の大活躍。
そんな細々としたものもやるのか、とも思ったが、メインストーリー並みの事態がそうそう怒ってたまるかという話でもある。本来はこういった生徒のささやかな悩みを解決するためのものなのだろう。
「それでね、思ったの! シャーレにならこの面倒事を任せられそうだなって!」
「......『面倒事』、などと言ってはいけませんよ、ミカさん」
「ある意味、本当のことでもあるし...」
それに、と言葉を続ける。
「『先生』なんでしょ? 今時、BDでなんでも学べちゃうからさ、珍しいんだよ、『先生』って概念は。『先の道を生きる』...そう表す存在、つまり導いてくれる人なんだよね?」
「''そうとも言えるね''」
先生は軽く頷いた。ヨユーな大人の態度だ。
「尊敬の対象、あるいは生きる『指針』として手を取って導く存在...『補習授業部』の顧問に、これ以上ない配役だよ!」
「『尊敬』に値するかどうかは、噂では意見が割れているようですが...」
「うん...まあ、報告書によって正反対というか...先生の名誉のために、私は何も言わないでおくよ...」
「(''いったいどんな噂が...?'')」
今、僕はミカをなぞっているが、こればかりは本心である。
いやホント、先生、変態性と善性が同じくらい輝いてるから...。
「とにかく! 今はちょーっと忙しいのもあって、ぜひ先生に、この子たちを引き受けてほしいの!」
「ただし、通常の部活動設立手続きでは間に合いません。ですから今回は、シャーレの権限をお借りしたいのです」
「やっぱり、色々ややこしいよこれ。ナギちゃん」
「ええ、まあ...。ですが、本質にはあくまで『成績の振るわない生徒たちを救済すること』にあります。だからこそ、こういった特殊な形での創設が許可されたわけですが...」
ここまで話して、ナギサは先生に紅茶を注いだ。随分時間が経過している。
「いかがでしょうか、先生? 助けを必要としている生徒たちに、その手を差し伸べていただけませんか?」
先生はナギサが入れた紅茶をぐいっと飲んで、穏やかな笑顔で返した。
「''私にできることがあれば、よろこんで''」
困っている生徒がいるならいくらでも力になる、と。
そうあっさりと返答にしたことに、僕は眩しさを感じた。
なんのこともないように、そう言えることが、羨ましい。
ナギサは少し息を吐き、肩の力を抜いたように見える。
「感謝します。先生なら、そういってくださると思っていました」
「''信じてくれるのは嬉しいけど、買いかぶりじゃないかな‘’」
「...先生って、そういうの断れなさそうだもんね」
「ミカ...」
「でも、ありがとー! 先生!」
ナギサはひゅーと口笛を吹く僕に呆れたような目を向けるが、これは事実だと思うのだ。
原作では、先生は生徒の頼みならどんな形であれ叶えようとしていた。
まさしく、生徒の味方。先生と呼べる御仁であったと思う。
咎めるナギサに対して、当の本人は微笑むのみ。
「''ふふっ、否定はしにくいかな...''」
そう先生が困ったように笑うのを見て、ナギサも次第にしょうがない、とでもいうような笑みを浮かべた。
二人から穏やかな空気を感じるのに対し、僕は口こそ回るものの、心の中は落ち着きがなかった。ざわざわと感情が騒がしいわけではないが、心に何か訳のわからないものが触れている感覚。
「では、先生。こちらを」
先生が名簿を受け取った。
「そちらの方々が対象です」
「つまり、トリニティのやっか──」
「その表現は愛が足りませんよ、ミカさん。...こう言いましょうか。トリニティにおける『愛が必要な生徒たち』」
「...別に、呼び方なんて、どうでもいいじゃん」
「良くないですよ。まあ、やっか──こほん、『愛が必要な生徒たち』には、普段のあなたも入りそうですけどね」
「...ナギちゃんも、言いかけてるし」
「...うるさい口ですね。ロールケーキの貯蔵は十分なんですよ?」
「その言葉で始まったら普通キスじゃないの?」
やいのやいのと熾烈な舌戦を繰り広げていると、先生が何かに気づいた様子で表情を変えている。
「ん? 何か、気になる子でもいたの、先生?」
「''(口笛を吹く)''」
「...先ほどのミカさんの真似なのでしたら似てますよ」
「えっ。こんなに下手じゃないもん!」
「詳しい内容についてはまた追って連絡いたします。他に気になる点はございませんか?」
はいはい無視ですかそーですか。
「''エデン条約って、何?''」
「......」
「......」
先生の質問に、言葉に詰まる僕とナギサ。
まあ、聞かれるだろうとは思っていたけども、どう説明したものだろうか。
気まずくもあるし、ナギサが何か上手いこと言ってくれないかなあ。
「うーん...それは、何て言えばいいのかなあ...」
「...その説明には中々時間が掛かってしまいますので、また後日お話しますね。一応、それなりに内部機密ということもありますし...」
それに、とナギサが続ける。どうにか、上手いこと言ってくれているようで。
流石、我らが桐藤ナギサ様である。
「補習授業部の件とはそれほど関係のないことですから...」
「そうそう! まあ、どうしても気になるなら後でってこと!」
あとは僕がいい感じに勢いづけていってしまうことだ。
先生も、わざわざ面倒な会話を強引にしようとはしないだろうし。
これで会議はようやくお開き、と思いきや、先生はもう一つ、と質問を続けた。
「''あと、ティーパーティーにはもう一人生徒会長は?''」
「ぁっ...!」
「それは...」
僕は思わず声を出してしまった。指先が震えている。翼も、内側に包まるようになった。
どう、答えればいいだろうか。
原作では、ミカはどういう気持ちでこの会話をしていたのだろうか。少なくとも、てんでへっちゃら、ヨユーって感じではない。
だって、僕は今、胸が苦しくて、浮足立つような感覚に襲われている。
思わず急所を突かれたような、自分を根本から抉られるような。
とてつもない不安と焦燥、混乱の爆発に晒されている。
「...彼女は──―」
「っせ、セイアちゃんはね!...今、トリニティにいない。入院中で...」
「''入院中?''」
先生はナギサの方を向き、どういうことなのかと聞いている。
その視線が僕に向けられていないことだけが救いで、それ以外は考えられなかった。
僕のせいではないのに。
ミカが悪いのに。
どうしようもない焦りと非現実感、アイデンティティの揺らぎは、僕に脳裏に自然とカフカの『変身』を思い起こさせて、僕がミカでない、寄生虫のような存在だと知れたらあの主人公のように忌避されるのかと恐れが湧いてきた。
僕には彼の妹のような存在が居ない分、その分の絶望はないのだろうけど。
「確かに、彼女は入院中です。本来であれば、今のホストはそのセイアさんだったのですが...そういった事情で不在のため、私がホストを務めているところです」
「元々ティーパーティーのホストは、順番でやるものだからね」
それだけ、なんとかいつもの調子で言葉を絞り出した。
頭の中では僕はミカだと復唱を続けている。その言葉を唱えるたびに、体は平常を取り戻していくとともに、心が何か音を立てるのを感じる。
それを復唱を何度も何度も続けることで抑えつけながら、僕は笑顔を絞り出す。
「''そっか、早く良くなるといいね。......今聞きたいのはこれくらいかな''」
先生の顔は入室時と同じような柔和なもので、そこに余計な同情も、探るようなのもない。ただ事実として受け取り、それ以上踏み込まない。
その配慮に、少しだけ救われる。
僕は横目でナギサを見る。
彼女は微笑んだままだった。けれど、その微笑みがいつもより少しだけ薄い気がした。
先生も、たぶん何かは察したのだろう。
それ以上、セイアのことには触れなかった。
「承知しました。また何かあれば、聞いてください。では、準備が整い次第、先生にはトリニティ総合学園に派遣、という形で来ていただくことに出来ればと」
「''うん。力になれるよう頑張るよ''」
「先生のご協力に感謝します。...これで、一安心です」
ナギサが、今度こそは安堵の笑みを浮かべた。
...僕はそれに安心はできない。何故なら、彼女が苦悩していることを知っているから。
...彼女が苦しんでいるのなら、僕と一緒だ。僕が苦しんでいるんだから、ナギサも──これはダメな思考だ。ミカはそんなこと言わない。ミカは心の奥底では友人が大事な子だ。思ってはいけない。これはふさわしくない。
「''...あと一つ、いいかな''」
「なんでしょう? 先生」
先生は安心させるような笑みを真剣なものに変えて、僕を見た。
......なんだ?
「''ミカ、何か、困っていること、悩んでいることはない?''」
「────」
「......先生? 何か、ミカさんに気になることでも?」
「''具体的にどう、というか...何か悩んでいる気がしたから'']
「......。先生ってば、心配性だなー☆ そうだなあ、困ってること...ナギちゃんによくめっ、って言われるからそれかな? 今日もふかふかの魔力に負けちゃったし...」
「''...そっか。なら、いいんだ。ごめんね、変なこと聞いて''」
「...いいよ、別に! まあ、困ったことがあったら相談しようかな☆」
「''生徒からの相談はいつでも大歓迎だよ。モモトーク交換しようか?''」
「するするー☆!」
僕は、悩んでいるの?
これは、悩みと呼べるようなものなの?
............。
否。否だ。
......これはただの事実。
悩みではない。
やはり、先生は、心配性だ。
僕なんかよりも、ナギサを心配してやればいいのに。補習授業部だって、きっと、彼女からのSOSに違いない。幼馴染すら信じられない彼女が、僕なんか信じられるわけがないのだから、先生が頼りだ。
「じゃあ、またね。先生。...また会えるのかどうか分からないけどっ☆」
「そうですね。特に今は忙しい時期ですし、私もミカさんも生徒会長。こうしてすぐ集まれるとも限りませんから」
「あはは、やっぱり忙しいんだ? ま、でも最近は呼び出し以外じゃ会えてなかったし、こうしてお話できて良かった良かった」
「はい。...私もですよ」
「えへへ」
先生は微笑ましいものを見る目で私達を見ていた。
僕が彼女の一助になれているはずもないが、言葉として聞くのは嬉しいことは嬉しいものだ。
「こほん。...では、これからよろしくお願いしますね、先生。私もティーパーティーのホストとして、先生をエスコートいたしますので」
「''うん。ナギサ、よろしくね''」
「先生、私は~?」
「''ふふっ、ミカも、よろしくね''」
「────っ。...こちらこそ、先生♪」
にこっと笑って返した、その瞬間。
胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなった。なんなんだろう、これ。
ナギサにも、モブの子にも感じた、これは。
ただ、この熱さは、呼吸がしやすい。
じんわりと体に染みるような、朝露のような熱さだった。
◇
扉が閉まる。
先生の足音が遠ざかっていく。
静かになった応接室で、ナギサが長く息を吐いた。
「……少なくとも、最悪の初対面ではありませんでしたね」
「なに? 最悪の可能性があったの?」
「あなたが余計なことを言いすぎる可能性は常にあります」
「...最近の私知らないでしょ、ナギちゃん。私だって成長するんだよ」
「『ふかふか』の件でここ数日毎日のように顔は合わせますが、そう思ったことはありませんね」
いつもの、ぴしゃりだ。
でも、その声音は少しだけ柔らかい、ように聞こえた。
僕は先生が出ていった扉を、なんとなく見つめてみる。
補習授業部。
エデン条約。
百合園セイアの不在。
これから巻き起こる、様々なこと。
分かっているんだ。
分かっているはずなのに!
でも......今はそれよりも先に、妙に胸に残る感覚が。
僕は彼女に、出会えて良かった。
そんなふうに思ってしまう僕自身が、少しだけ恐ろしくて、少しだけ嬉しかった。
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嬉しい順に書いてます。