その日の夜、僕はなかなか寝つけなかった。
それか、寝つけなかった、というより、寝るのがもったいなかったのかもしれない。
シャーレの先生と会った。
ちゃんと話した。
モモトークまで交換した。
言ってしまえばそれだけだ。
たったそれだけのことなのに、胸のどこかがずっと、じんわりと温かいままだった。熱があるわけじゃない。苦しいわけでもない。ただ、布団に入って目を閉じると、応接室で見た先生の顔がぼんやり浮かんでくる。それが数度、さっき目を閉じたのが5回目だ。
困った人だな、と思う。
別に、何か劇的なことをしてもらったわけではなかった。少なくとも、僕が思考しているこの心の表層では、大したことではないと思っている。つまり、なんてことはなかったはず。
「困っていることはないか」と訊かれて、「相談はいつでも大歓迎だよ」と言われて、それで終わりだ。
...僕が悩める生徒と仮定すると、なかなかにいい文句なのではないか?
まあ、悩んでなどいないから、意味のない仮定と結論ではあるけれど。でも、だからってこんなに引きずるものだろうか。
ベッドの上で、僕はごろりと寝返りを打った。肌がある程度さらけ出されていて、枕はひんやりとしていた。掛け布団は自分の体温でちょうどいい温度で、ここが『巣』のような場所だなと思う。
枕に顔をうずめてみる。うん、ふかふかだ。快適すぎる。人間を駄目にする寝具というのは、図書館のソファに限らないらしい。ソファは寝具なのか...? ミレニアムに解いてもらわねば。
「……僕、ちょろいのかなあ」
馬鹿なことを考えて、ふと、そう思ったので呟いてみる。
当然、返事はない。
静かな部屋に、自分の声だけが落ちて消えた。
その静寂に甘えてだらだらと時間を経たせた後、なんとなくスマホを手に取る。
自然なしぐさで画面をつける。
なんとはなしにメッセージアプリを開く。
先生の名前が、ちゃんとそこにあった。
「...うわっ」
特に理由はないが、電源を切っエスマホを枕の下に滑らせた。
いや、登録したの自分なんだけど。自分なんだけども。文字になって存在していると急に現実味が増してくる。我ながら、すごいことをしてしまったのでは? スマホの連絡先に“シャーレの先生”がいる。よくよく考えればとんでもない事態である。
最後のやりとりがこれだ。
先生:今日はありがとう。これからよろしくね
ミカ:こちらこそ、よろしくね☆
「ゔっ!」
ちょい、ちょい! 無難すぎる。もっと何か気の利いたことはなかったのか。しかし、初対面の男女なのだからあまり砕けたようなのは。
いや、僕は男だが! ミカは女の子だからねうん。
でも、もう一回開くと既読が増えるとか、そういうのはないのかな。いやこの世界のアプリ事情知らないんだけど。なんなら病院でも使ったことないから元の仕様もわかんないけど。既読スルーは良くないとされているらしいけど、じゃあ要らないんじゃないのとも思う。
あーだこーだと考えて、しばらく画面を見つめ、それから僕はやっぱり端末を置いた。
「......だめだぁ!」
これ以上眺めていたら、変なテンションでメッセージを送りかねない。
たとえば、何だ。
ミカ:今日は来てくれてありがと! 先生って思ってたより先生だった!
先生:それはよかぅた。困ったことがあれば何でも相談してね。
ミカ:うん、なんでも相談しちゃおうかな☆
とか送るのか?
「.........」
僕は大人しく布団をかぶりなおした。
ダメで元々、もう一度目を閉じる。
応接室。
補習授業部。
セイアの話題。
ナギサの薄い微笑み。
そして先生の、「無理に話さなくていい。でも、何かあったら頼っていいから」という声。
うん。
「やっぱり、ずるいなあ」
わーお、ってやつだね。こりゃ。
◇
翌朝。
時間は万人に平等である。
つまるところ、僕は珍しく寝坊しかけた。
原因は明白である。昨夜の一人反省会だ。乙女の悩み事とも言う。言わない。
おかげで朝は目覚めが最悪だった。ベッドが名残惜しすぎて、三回くらい滞在期間の更新を打診。すべて却下された。他ならぬ自分に。
なんとか身支度を整えて食堂へ向かうと、ナギサが席についていた。
本来、彼女とミカはこの頃にはあまり絡みがないはずだが...最近のナギサは何かと理由をつけて僕の周りにいる。この前の図書室にも、メイクなのかそういう技術なのか、変装をしていたのに後から気が付いた。
「おはようございます、ミカさん」
「おはよー、ナギちゃぁん……」
「眠そうですね」
「ちょっとだけね」
「その“ちょっとだけ”が信用ならないのですが」
「最近のナギちゃん、私への信頼ない?」
「...最近に限った話ではありませんけどね」
ぴしゃり節である。そんな節があればだが。
でも、その返しにももうだいぶ慣れてきた。
しかし、慣れてきた、というのは何もいいことばかりではない。うっかり気を抜くからだ。気を抜くとすぐ“僕”が前に出る。そして前に出たところで、僕などはあまりいい影響を与えない。せいぜいがミカをなぞり行動すること。こればかりはできる気がする。
席につくと、紅茶が注がれる。いい香りをしてる。
今日の朝食は、パン、スープ、果物、そして小さな焼き菓子がいくつか。相変わらずトリニティの朝食は優雅だ。優雅なんだけど、その分厨房は大変だ。細かな作業が要されるであろうから。
紅茶を一口飲んだところで、ナギサが書類を一枚、こちらへ差し出してきた。
「本日の予定です」
「はいはーい、えーと...?」
ざっと目を通す。
午前はティーパーティー関連の確認事項がいくつか。
昼前に先生への連絡内容の最終整理。
午後は、候補生徒の資料確認と、補習授業部発足に向けた内部調整――。
あ。
「……候補生徒」
「ええ」
ナギサはさりげない顔で紅茶を置いた。
「先生に任せる以上、こちらでも最低限の共通認識は持っておく必要がありますから」
補習授業部は、もうナギサの中だけの構想ではない。
名簿が作られ、理由がつけられ、切り分けられて、現実のものとして動き始めている。
しかし、ここに僕を関わらせるというのは、一体どういう訳なんだろうか?
この時点では聖園ミカすら疑っている彼女だ。
いくら僕がミカではないからと言って、さほど影響がある行動はしていないはず。
補習授業部は、桐藤ナギサに裏切者だと疑われた生徒を推し量るために、隔離するために存在している。最悪、全てを退学処分で切り捨てるつもりなのだ。当の本人たちはそんなことは知らないが、そのための『補習授業』部である。
僕は焼き菓子に手を伸ばしかけて、やめた。
代わりに紅茶を飲む。ひどく喉が渇いている感じがした。
ナギサはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「...ミカさん、最近、食欲がないのですか?」
「ん? いや、あるよ。今日ももりもり食べてるし、ほら」
「そうですか?」
「そういうナギちゃんこそ、食欲あるの? 進んでないけど」
「...ありますよ。食べなければ、いい仕事もできませんし」
笑って、ナギサはそういった。それ以上は僕も何も言わなかった。
◇
気持ちが進まないまま始めた午前の仕事は、思っていたより忙しかった。
トリニティの生徒会が暇なわけないだろという話ではある。
けれど、どこかまだ現実味が薄かったのだ。ティーパーティー、ナギサ、先生、補習授業部――全部、ゲーム越しに眺めていたものでしかなかったから。
それが今は、紙の束になって机の上に積まれている。
会話になって耳へ入ってくる。
サインが必要な書類として回ってくる。
どうも、不思議だ。
不思議で、そんなことでちょっとだけ笑えてしまう。
「...そう隠すように笑われては、不安なのですが」
「えっ、笑ってた?」
「ええ」
「……気をつけまーす」
「本当に?」
「ナギちゃん、私が嘘ついたことあった?」
「なら目を見ていってください」
目をそらしているはずなのに、ジトっとこちらを見ているナギサの姿が見える。
でも、ナギサは露骨に機嫌を損ねているようではなかった。
むしろ僕が変に黙り込むより、このくらいの軽口が入る方が“いつも通り”を感じられているのかもしれない。
その“いつも通り”が、誰のものなのかはわからない。
昼前、僕らは先生へ送る事前資料の確認に入った。
補習授業部発足の名目、日程案、候補者の現状、必要な教室や教材の手配。
先生に見せるための表向きの文面は、どこまでも綺麗なものだった。
成績不振者の救済措置。
学業継続支援。
生徒の将来を閉ざさないための臨時措置。
何一つ、嘘は書かれていない。
でも、それだけでもない。
そのことを僕は知っている。
ナギサもわかっている。
けれど、まだ誰も、そのことを真正面からは言わない。
言えない、のかも。
「……綺麗なものだね」
思わずこぼした言葉に、ナギサが手を止めた。
「何がですか?」
「...理路整然とした言葉でさ、生徒の救済とか、学業継続支援とか、臨時措置とか? 難しい言葉ならべて、随分丁寧に書いてるでしょ」
「それは、公文書としては当然です。誤解のないような言い回しで、誰にでもわかる内容にしなくてはいけませんから」
「あのさ、そうじゃなくて」
僕は紙の上を指先でなぞる。
「こうやって書いてると、ほんとに救済のためだけみたいに見えるなあってね?」
しん、と。言葉が消えた。
言ってから、気づく。言い方を間違えたかもしれない。
けれどナギサは、すぐには言葉を返さなかった。
ただ、じっと僕を見て、それからゆっくりと口を開いた。
「……それが、何か、不満ですか?」
「ううん」
僕は首を振った。
「ただ、必要なんだろうなって思っただけ。綺麗に書かないといけないのは分かるよ」
「ええ、ええ。その通りです。必要なことなんです、これは」
「その“綺麗”のせいで、きっと怖くなる子もいるよ」
口に出した瞬間、自分でも変なことを言っていると思った。
僕は僕の分際で何を言っているのだろうと。
落第しかけたこともない。
補習授業部に集められる側でもない。
そもそも、僕は学校になんか行ったことがないから、そんな気持ち欠片もわからない。
僕は、どう考えても部外者で、ミカとしてしか物が言えない身だ。
ただ、書類に書かれた綺麗な言葉を見ていると、なんだか息苦しくなる気がする。
この気持ちを補習授業部の彼女らも味わうのなら、僕はそれが嫌だ。
きっと、ミカも、嫌だと言ってくれるはずだ。
ナギサはしばらく目を閉じて黙っていたが、息を小さく、しかし深く吐くと、絞り出すように言葉を紡いだ。
「……だからこそ、私達には先生が必要なのです」
「先生が?」
「私や正義実現委員会では、どうしても“管理する側”の色が強くなる。それは自体は仕方のないことです。学校という組織を生徒で回さなければいけない以上、出てしまうものですから」
ナギサの声は、落ち着いていた。その声に、僕への疑念の色はないように思えた。
これは、彼女の本心だ。
「ですが先生なら、彼女たちにとって“管理”ではなく“導き”として...一方的な存在ではなく、頼れる存在として...同じ道の先に先に立って、手を引いてくれるかもしれない」
「でも...でも、それだけじゃないでしょ? そんな綺麗ごとだけじゃないはずだよ」
「...あなただから話したんですよ。特別サービスというものです。もちろん、これは本心ですよ。落第しかけている生徒がいるなら手を差し伸べる、生徒会として当然のことです」
その返答は、想像していたよりずっとまっすぐだった。
僕は、それが信じられないと思いながらも、どこか納得をしていた。
それは、僕を見る彼女の目が、疑心暗鬼に陥っている人間の目とは思えぬほど、慈愛に満ちていたからだろうか。それとも、経験の浅い僕が、トリニティの代表の彼女に言いくるめられているだけなのだろうか。
...きっと、ナギサはナギサなりに、ちゃんと先生へ期待しているんだ。
利用価値とか、体裁とかだけではなく。
まあ、もちろん全部が全部、彼女の語った通りではないんだろうけども。
「なにかよからぬことを考えていますね?」
「え、か、考えてないよ」
「本当に?」
「本当に!」
「ふむ、久々に口にロールケーキをぶち込む機会かと思いましたが」
「はしたないからやめようね!!」
あぶない、あぶない。
顔によく出る、と言われているのに、これではダメだな。
◇
昼食のあと、僕らは早速候補生徒の資料確認に入った。
四人分のファイルが、机の上に並ぶ。
阿慈谷ヒフミ。
下江コハル。
浦和ハナコ。
そして、白洲アズサ。
知っている名前だった。知っている顔だった。
なのに、紙の上に整然と並んでいるのを見ると、また違った重みがあるような。
「……白洲アズサ、か」
僕は最後のファイルに目を落として、呟いた。
「経歴不詳。成績は悪くない。しかし、素性に不審点が多い」
「……」
「コハルさんは正義実現委員会への牽制。ヒフミさんはブラックマーケットへの出入りの噂。ハナコさんは……落差、ですか」
「落差?」
「将来を嘱望されていた天才が、今はこの体たらくです」
ナギサの言い方は冷たい。けれど、そこで完全に切り捨てているふうでもなかった。
「四人とも、表向きには“成績不振者”。ですが、それだけではありません。彼女たちの中に、トリニティに害を及ぼす裏切者がいる可能性がある」
そんな子はいない。
そう叫びたくなった。
知っているんだ、僕は。
この四人がどういう子たちで、この先どんなふうに笑って、怒って、泣いて、先生と関わっていくのか。どんなに素晴らしい青春を送っていくのか。
でも、それを口に出せるわけがなかった。
特にアズサの名前は、おくびにも出せない。
この子は、この子が、と。
そこまで考えたところで、ナギサがふと顔を上げた。
「ミカさん、あなた、アズサさんの資料だけ見つめすぎでは?」
「え? そ、そんなことないよ」
「何か気になることでも?」
「んーとね...」
「なんとなく、で済ませるには、ずいぶん気にしているようですが」
「それは...」
言ってから、一瞬だけ迷う。
「……目が、ね。ちょっと、気になって」
嘘ではない。半分ほど、本当のことだった。
アズサの写真の中の目は、静かで、鋭くて、どこかひどく遠いものを見ているような。
画面越しに見ていたときより、ずっと痛々しく見える目をしていた。
ナギサは資料へ視線を戻した。
「目、ですか? ...何も、おかしなところはありませんよ?」
「えっとね...なんていうか……」
上手い言葉が出てこない。
孤独? 悲壮? 諦観? これは...。
「すごく、ひとりで頑張ってそうな目をしてるんだ」
自分で言って、心臓が跳ねる。
それはもしかしたら、アズサだけのことではなかったのかもしれなかった。表現する、というのは、知らないことではできない。知っていることでしかできないものだから。
僕の言葉をすぐには否定しなかったけれど、ナギサはやはり、何も言わなかった。
桐藤ナギサは、ミカにこのように接していただろうか?
「……なるほど」
やがて、彼女は静かに呟いた。
「あなたにしては、珍しく考えさせられる言葉です」
「どういう意味?」
「普段なら、もっと見た目など、直接的な部分から入るでしょう」
「最近失礼じゃない?」
「事実ですから」
いつもの、素気無い態度だ。
でも、その返しに、今は救われた。
いつのまにか重くなりすぎていた空気が、またいつもの調子へ戻ってくれる気がした。
◇
資料確認を終えたあと、僕は一人で中庭へ出た。
ただ、風に当たりたかった、とでも言うべきか。
理由としてはそれっぽい感じにはなるが、実際にはただ少し、静かなところで考えたかっただけだったり。
見上げれば空は悠々と、高く、白い雲がゆっくり流れている。
トリニティの午後は、今日も今日とて綺麗だった。綺麗すぎて、こういう空があるのに限って頭の中がごちゃごちゃするのは、なんだか腹立たしいような、清々しいような。
「……補習授業部、かあ」
ベンチに腰掛けて、ぼんやり空を見る。ずっと籠って確認作業をしていた僕には、天井にぽっかりと大きな穴が開いているように感じられて、少し恐ろしい。
あと少しもすれば、先生があの四人と出会う。
それはきっと、いいことなんだ。
少なくとも、原作を知っている身としては、そう言い切れる。
でも同時に、それはこの世界が、知っている流れへ本格的に入っていくってことでもある。
逃げられない。
日々矛盾を抱えながら、細かな所でどうにか逃れられないかと模索しているが、もう逃げたいのかそうでないのかも分からなくなってきた。
僕は僕でありたい。そこで自我だのなんだのと哲学の話はするつもりはない。ただ、今この空のような清々しい場所で、大きく伸びをした時のような、そんな自由を感じる自分でありたい。
でも、それだけを追うことはできない。ミカがいないからだ。だから、本当はやりたくなくても、僕はミカでなければならない。
全て擲ってしまいたい。早く、僕は僕の友と、スイーツでも食べに行きたい。きっと、甘くて、楽しくて、最高な時間だろうな。
空を眺めてぼうっと、心から湧き出る思考をそのままに垂れ流していると。
そこで、足音が近づいてきた。
「あの……ミカ様?」
その声に振り返る。
もしやこの間の一年か、と思ったが、見覚えのない一年生だった。
小柄で、いかにもおどおどした雰囲気の子。手には分厚いノートと、紙の束を抱えている。見るからに勉強中です、という感じだ。
「どうしたの?」
「えっ、あ、その……」
その子は目を泳がせて、それから意を決したように僕を見た。
「ミカ様って、補習授業部のこと……ご存知、でしょうか」
「……どうして?」
僕がそう訊くと、少女はぎゅっとノートを抱きしめた。
「私じゃ、ないんですけど。正実の友達が......その、候補かもしれなくて」
「そっか」
「みんな、面白がってですけど、言うんです......補習授業部に入れられたら、もう終わりだって」
「……」
「本当に、そうなんでしょうか? ティーパーティーの皆様なら、私達、一緒に卒業させてくれますよね?」
まっすぐな目だった。
それ故に、困った。
僕は全部を知っているわけじゃない。
知っているのは原作の流れだけで、この子の友達誰なのかも、実際にどうなるのかも分からない。
ここで適当なことを言うのは、違う気がする。
でも、何も言わないのも、たぶん違う。
僕は少しだけ考えて、それから笑ってみた。
「終わりじゃないよ」
言い切ることが大事だ。詰まったら、本心とは思ってくれない。
「最悪な終わりにはならない」
少女が目を瞬かせる。
「ほ、本当ですか?」
「うん」
僕はなるべく軽く、でも適当には聞こえないように続けた。
「補習って、できなかったことをもう一回やるためのものでしょ? 最初から切り捨てる気なら、わざわざそんな形にしないよ」
「でも……」
「もちろん、補修が恐ろしいのは分かるよ。名前だけ聞くと、なんか厳しそうかもって感じするし」
僕は肩をすくめてみせる。おどけた感じが出せているといいな。
「でも、もし本当に困ってるなら、助けてもらえる場所にもなる」
――それは、楽観的な考えだ。
少なくとも今の段階では、全部本当とは言いきれない。
話してくれたことは本音だろうが、それでもナギサの思惑がある。
僕も、今後どうしていくかはわからない。
けれど、それでも。
もしそこに先生がいるなら。
もしあの人が顧問をやるなら。
きっと嘘っぱちにはならない。
「だから、そんな顔しなくてへーきだよ」
僕はにこっと笑った。
「お友達にも、そう伝えてあげてよ」
少女は目を丸々と開いて、ぽかんとして、それから、みるみるうちに表情を和らげた。
「……はいっ」
「うん」
「ありがとうございます、ミカ様!」
深く頭を下げて、彼女は去っていった。
残された僕は、ベンチの背にもたれながら、長く息を吐く。
「……言っちゃった」
『終わりではない』
『大丈夫』
そんなの、保証できるわけがなかった。
でも、そういわざるを得ない。言いたかっただけかもしれない。
まるで、自分が本当にそう信じているみたいだ。
先生がいるなら。
補習授業部が始まるなら。
少なくとも、あの四人の物語は、そこで閉じたりはしないんだって。
あり得ないが、もしそうだったら、あれは嘘なんかじゃなくて――
「ミカさん」
聞き慣れた声に、びくりと肩が跳ねた。
「うわっ、ナギちゃん!? ビックリするでしょ!」
「ひゃっ...こほん、驚いたのはこっちの方です」
「こっちだっていきなり声かけられたら驚くよ!」
「何度も、声はかけましたよ?」
「あー...ごめん、考えごとしてたんだ」
ナギサは僕の隣までは来ず、ベンチの前に立ったまま僕を見る。
「今の生徒、何か相談事ですか?」
「うん。補習授業部のことで」
「......そうですか。もう、噂に...」
「そりゃなるでしょ」
「ええ、でしょうね」
ナギサは小さく息をついた。
「何と答えたのですか?」
「んー...入れらたら怖いって言われたから、別にそれで終わりじゃない、って」
「……」
「あと、助けてもらえる場所になるかもって」
沈黙。
これは、怒られるやつ...?
そう思って少し身構えたけれど、ナギサはすぐには何も言わなかった。
風が吹く。彼女の長い髪がやわらかく揺れる。
「……優しい嘘、になりますよ」
やがて、ナギサは静かに言った。
心臓がドクドクと動いているのを感じる。
緊張ゆえだろうか。
「嘘になっちゃうのかな」
「少なくとも、現時点ではそれは確約できないでしょう」
「.......まあね」
「ですが」
ナギサは僕を見下ろしたまま続ける。
「あなたが彼女に掛けた言葉を、間違っているとは言いません」
彼女は少しだけ目を細めた。
「生徒が怯えているとき、必要なのは正確な文言だけではありませんから。それこそ、''綺麗’’な言葉だけでは」
「ナギちゃん……」
「ただし!」
「はい!」
「あとで先生が苦労するような期待の持たせ方をしていたら、ロールケーキです」
「してませんやりません!」
でも、怒ってはいなかった。
それどころか、どこか少しだけ疲れたように笑ってすらいた。
「……ミカ」
「な、なに? ロールケーキはダメだよ?」
「あなたは時々、妙なところで人を安心させますね」
「...どういうこと?」
「普段は不安要素の塊なのに」
「なんかいいこと言ってたのに、なんでそういうこと言っちゃうの?」
「分かってるでしょう」
「...事実だから、でしょ」
「その通りです」
いつもの流れ。それで会話は終わるはずだったのに、ナギサはその場を動かなかった。
珍しい。何か言いたそうな顔をしている。
「……補習授業部が、彼女たちにとって本当に救いになるかは、まだ分かりませんが」
「うん」
「そうなるように整えるつもりはあります」
「......そっか」
綺麗な文書の裏で、疑いも警戒も策も飲み込んだ上で、それでもナギサはちゃんと“救い”を捨てていない。
ああ、やっぱり。この子も、優しい子なんだ。
きっと、まだ迷っているだけなのだ。
自分の中に救う疑心暗鬼と、信じた気持ちの間で。
「戻りますよ。まだ確認事項が残っています」
「はーい」
僕はベンチから勢いよく立ち上がる。先ほど感じていた自由の風は、今はヘドロのように僕に纏わりついている。
校舎へ戻る前に、さっきの一年生が去っていった方角をなんとなく見た。
僕の口から出たあの言葉は、嘘だったのか?
先生がいて。
ナギサがいて。
これから始まるものが、もし本当に誰かを救えるなら。
嘘は、いつか本当になるかもしれない。そうだったら、いいな。
そんなふうに思いながら、僕はナギサの半歩後ろを歩き出した。
少ししてナギサが速度を落としてきたのは、きっと、彼女が優しいからだと思いたい。
今日も、トリニティはお綺麗だ。
その綺麗さの下に、いろんなものが隠れている。
隠れているものが何かは、もう僕も、きっとナギサも、すべては分からない。
『大丈夫』と人に言えたこと、それが妙におかしく感じて。
少しだけ、嫌ではなかった。