朝はいつも、こちらの都合なんて知らない顔でやってくる。
まだ夢の底に片足を残したまま、枕元で震える端末へ手を伸ばした。まぶたの裏に薄く残っていた眠気が、画面の光を浴びた途端、砂みたいに崩れていく。
通知の差出人を見た瞬間、指先が止まった。
シャーレの先生からだった。
それだけで、寝起きの心臓には十分すぎる衝撃だった。昨日会ったばかりだというのに、名前を見ただけで胸のどこかが勝手に騒ぎ始める。変な話だ。別に、こんなになる必要はないのに。
メッセージを開く。
先生:おはよう。
補習授業部の件で、午前中に少し確認したいことがあって。
時間はもらえるかな?
「…………」
短い。よし。
事務的。よし。
うむ、極めて、健全である。
なのに、なぜだろう。胸の内側に、昨日の会話の余熱を感じる。
平熱の文面だ。変な含みなんてどこにもない。ないのに、読み終えたあともしばらく視線を離せなかった。
この感覚は、例えば、図書室で好きな本を見つけたときに似ている。
背表紙だけでも膨大な量の文字の中から、僕好みの言葉が並ぶ本を目に留めたとき、しばらく目が離せない。それは時に灯台下暗しとでもいうように入り口に飾られていたり、僕に見つかるのを待っていたと思うほど、本との間にひっそりと存在していたりする。
要は、なにか得体のしれない、大きな力が働いて、僕の手元まで来たように錯覚してしまう。
その時の、オノマトペとして表せば、キュン、とでも言うべきか、ビビッと来たといった法が正しいのか。時に雷に打たれたように激しく、時に意識が吸い込まれるような静けさを伴う衝動が、今の僕を襲っていた。
そのままに返事を打とうとして、止まる。
(...これ、なに返せばいいんだ?)
丁寧すぎると距離が出る気がする。軽すぎると落ち着きがないかも? そもそも今の僕は、どこまで“ミカらしく”していればいいんだっけか? そんなことを考え出すと、親指が錆びついた蝶番のようになって、まるで動かなかった。
結局、ああでもないこうでもないと小一時間悩んで出した答えは、酷く単純で、短い。
ミカ:おはよ、先生☆
もちろん、だいじょーぶだよ
必要ならナギちゃんにも言っとくね!
送ってから、僕は枕に顔を埋めた。
「“だいじょーぶ”って何よ...ちゃんと書けよ...」
文章はきちんと書くべきだ。でもこういうのって砕いて書いたりするんだよね? 普段から女子学生に触れている先生にこれで不自然ではないよね? ああ....。
でも、今さら取り消せはしない。取り消したところで余計に不審がられるのが関の山。
ベッドの上でじたばたしているうちに、返信はすぐやってきた。
先生:ありがとう。
ナギサにもこちらから連絡してみる
ミカも、無理はしないで
「無理はしないで、か...」
それだけで、見ないふりをしていたものが急に輪郭を持ち始める。
昨夜はちゃんと眠れたはずなのに、胸の奥にはまだ細い疲れが沈んでいたらしい。先生の言葉は、それをやさしく掬い上げるくせに、見逃してはくれない。やはり、やはり。
「……ずるいなあ」
ぽつりとこぼれた声は、朝の静けさに消えた。
白い天井。朝の光。静かな部屋。
病室とは違う。けれど、不思議と似てもいない景色同士が、記憶の中で勝手に重なることがある。今の身体は軽い。息も苦しくない。頭だって痛まない。奇跡みたいに恵まれている。
心だけは、前のままだ。それでいい。それがいい。でないと、僕でない。
それは、ミカを殺してまで...本当に必要なことだったと言えるのか?
端末を胸の上に置いたまま、しばらく目を閉じる。
まだ眠い。あくびをしたからか、涙が出た。
それから息を吐き、無理やり体を起こした。
先生が来る。
補習授業部の話を進める。
今日は、そういう日だ。
◇
少し早めに応接室へ向かうと、ナギサはもう席についていた。
扉を開けた瞬間、綺麗すぎるほど整っている机上の景色が目に入る。書類は端まで揃い、ティーカップの取っ手の向きまできちんとしていて、ここだけ時間が几帳面に畳まれているみたいだった。
「おはよう、ナギちゃん」
声をかけると、ナギサは顔を上げた。僕を見て、一拍。目元だけでほんの少し笑う。
やはり、どこか彼女は柔らかい。こちらが信じられないほどに。
「おはようございます。今日は随分と素直にベッドから離れられたようで」
「なにそれー。私がまるで、いつも朝起きられないみたいじゃない?」
「みたい、ではなく、事実でしょう」
「言い切ったね?」
「言葉を濁すほどでもないかと」
前言撤回、やっぱり今のナギサは優しさを忘れた暴君だ。しかし、今の僕にかみつく余裕はない。椅子を引いて座ると、ナギサは何食わぬ顔で予定表を一枚こちらへ滑らせた。くそう。
「先生から連絡がありました。午前中にいらっしゃるそうです」
「うん。こっちにも来たよ」
さらっと返したつもりだったのに、ナギサの手が書類の上で止まった。
「……そうですか」
「何、その間」
「別に」
「別にって顔じゃないけど?」
「そうでしょうか。私には、朝から分かりやすい人が見えているだけですが」
「分かりやすくないもん」
「では、その耳まで赤いのは何ですか」
「ぅえーっと、あ、朝日? いや紅茶の飲みすぎかな...」
「紅茶にそんな成分はありません」
僕はカップへ手を伸ばして逃げようとしたけれど、その動きごと見透かされた気がして、結局途中で止めた。
ナギサは追い打ちをかけるでもなく、ただ静かに紅茶を口に含む。香り立つ湯気の向こうで、その横顔だけが少し和らぐのが分かる。このトリニティで紅茶が常飲されている訳である。
「機嫌が悪そうではないようで、よかったです」
「...慰めてる?」
「まさか。今日は多少扱いやすそうだと思っただけですよ」
「...うわー」
「褒め言葉として受け取っていただいても構いませんよ?」
ひどいことを言っているのに、声音そのものは刺々しくない...気がする。
たぶんこの人は、心配しているときほど、あえてそうは言わない。包帯の代わりに小さい皮肉を巻く。そういうところがある。
僕はカップを持ち上げた。手に伝わる紅茶の温度は少し熱いが、それくらいがちょうどいい。口に入り、舌を撫で、喉に流れていく感覚は良いものだ。味も...今日はどうやら茶葉が切れかけているのか、まあ微妙だが、注ぎ方がいいのかそれでも旨い。
「……先生、何て?」
「補習授業部の段取りについて最終確認をしたいそうですよ」
「そっか」
「あなたにとっては、“そっか”で済まない話にも見えますけど」
「ナギちゃんさあ」
「なんでしょう」
「たまに楽しんでるよね?」
「まさか」
即答だった。
彼女はポーカーフェイスだが、口元は弱い。少し綻んでいるのを見るあたり、たぶん半分は本当にそう思っていて、半分は僕をつつくことで調子を見ている。
僕はこのやりとりが、案外嫌ではなかった。
こうしていつも通りの顔でいてくれる方が、助かる。昨日のことだって、先生のことだって、自分でもうまく整理できていないのだから。
「ミカさん」
ナギサが書類をめくる。
「今日は候補者の資料も、もう一度確認しておきましょう。先生が来てから齟齬があると面倒です」
「うん、分かった」
頷いて、机上の紙束へ視線を落とし、流し読んでいく。
阿慈谷ヒフミ。下江コハル。浦和ハナコ。白洲アズサ。
名前だけなら何度も見た。けれど、並んだ文字列は、実際の呼吸や声音までは運んでこない。こうして資料にされると、みんな妙に安っぽく見えてしまう。そう思うのは、僕が書類に慣れていないからか。
────アズサの欄で、指先が止まった。
「またですね」
「何が?」
「その子のところで手が止まるのがです」
「よく見てるなあ」
「見ていなければなりませんから」
冷たいようで、きっちり見ている。見た上で、黙っていることも多い。
その目を真正面から受けると、こちらまで試されているような。
僕は資料の写真を見つめる。無駄なものを削ぎ落としたみたいな目をした少女が、そこにいる。
「やっぱり、ひとりで頑張りすぎる顔、してる」
「...写真一枚でそこまで分かるものですかね」
「分からないよ。分からないけど、そう見えたもん」
「感傷的な考えですね」
「ナギちゃんはそう思わないの?」
「...思ったところで、どうにかできるとは限りませんし」
紙を揃える音が、小さく挟まる。
「ですから、形が要るんです。制度でも、名目でも、隔離場所でも。救うにせよ切り分けるにせよ、そうした形がなければ話になりません」
理屈としては、正しいように思えた。正しすぎるくらいに。
それでも、あまりにまっすぐな物言いの奥に、疲れが滲んでいる気がした。ナギサはこういうことを好きで言っているんじゃない。言わなければ回らないから言っている。
...こういうところで、人生経験の少なさが嫌になる。彼女の態度が二転三転すると、額面通りに受け取ってしまうから、真意が分からなくなってしまう。
「...ミカさん」
「ん?」
「...あなたは時々、先々のことを知っているみたいな話をしますね」
ドキリ、と心臓が跳ねた。がた、と椅子の動く音が聞こえる。
けれど、そこで言葉を詰まらせたら終わりだ。僕は肩をすくめてみせる。
「...まったく、私を何だと思ってるの?」
「そうですね...勘が良くて、余計なところで情が深い困りものです」
「褒めてないよね、それ」
「ええ、まったく。分かりませんでしたか?」
「そこ、ちょっとは迷ってよ...」
ナギサはそれ以上踏み込まなかった。
問い詰めたいのなら、もっと別の聞き方もできる人だ。それをしないのは、今はまだ保留にしてくれているからだろう。
それとは別に、僕の反応で色々分かったから、というのもあるだろうけど。
ありがたい、と思う。
同時に、いつまでそれが通るだろうかとも思う。
◇
追加の資料を取りに出た帰り、資料を眺めながら歩いていたら、廊下の角で誰かとぶつかりそうになった。
「わ.....っ」
「あ、ごめんね」
慌てて身を引く。相手も同じように足を止め、抱えていた教科書の束を取り落としかけた。数枚のプリントが滑って床へ散る。あちゃちゃ。
「あっ......!」
見覚えのある白い鳥が飛び込む。キモイがかわいい。
...阿慈谷ヒフミだ。
固まっていた僕と目が合った途端、その肩が露骨に跳ねる。
「み、ミカ様......!」
「そんなに驚かなくても。取って食べたりしないよ」
「そ、そういう意味ではないです......!」
しゃがんで紙を拾うと、ヒフミも慌てて膝を折った。指先が少しかすめて、二人同時に「あ」と言う。何とも締まらない。けれど、その締まらなさで強張っていたのが少し和らいだ。
「はい、これで全部かな」
「どうも、ありがとうございます......」
紙束を受け取ったヒフミは、そのまま立ち去ることはなかった。
抱えたノートの端を親指で撫でている。これは、何か言いたいときの仕草か。自分の言葉に触れながら、出すかどうか迷っているみたいな。
「どうしたの?」
「えっと......その......少しだけ、お時間いいですか」
小さい声だった。
けれど、そこには引き止めるだけの決意が込められていた。
「うん、いいよ。お話ししよっ」
窓際へ寄る。朝の光が...いつの間にか、昼が近い。燦燦と輝く陽光が廊下の窓を通して細長く床へ落ち、僕たちの影を薄く引き延ばしていた。
ヒフミは少し俯いたまま、なかなか本題を切り出せない。急かすのも違う気がして、僕は黙って待つ。
「補習授業部のこと、なんですけど......」
やっと出てきた言葉は、思った通りだった。
「最近、その......噂。そう、噂がすごくて。まあ、日程を勘違いしていた私も悪いですけど...私、ちゃんとできるのかなあって、それで...」
言葉が止まる。
続きを言う代わりに、ヒフミはきゅっとノートを抱え直した。
「今までみたいには、いられないのかなって」
その“今まで”の中身を、僕は知らない。
教室での居場所だとか、昼休みに一緒にご飯を食べる相手だとか、放課後の買い食いだとか、そういうささやかなもの全部をまとめて呼ぶ言葉なんだろうと思う。
そして、そういうものほど、失う前は名前がつかない。
別に、補習授業部はただの部活だ。裏にいくら策略があったって、それは変わらない。
僕は、彼女がナギサに頼まれたことを知っている。裏切者が居ないこともわかっている。
だから、これから起こることは、出会う人々は、あなたにとってかけがえのないものになると言ってしまいたい。無駄な不安など抱えさせたくない。
「怖い、よね」
ヒフミが顔を上げる。驚いたように目を瞬かせ、それから小さく頷いた。
「はい。怖いです。成績のこともですけど...ええと、『ダメな人』って言われてるみたいで」 「ダメな人、か」
苦い響きだった。
そんなレッテルは、たとえ冗談で貼られたって、綺麗には剥がれない。
窓の外で風が木々を揺らす。ざわり、と葉擦れの音がした。
昨日、先生が言っていた言葉を思い出す。相談できる場所にしたい、と。静かで、押しつけがましくなくて、それなのに不思議と忘れにくい声だった。
「......補習って聞くとさ、なんか、良くない響きだけど。でも、補習授業部は、補習でもあると同時に、部活なんだよ」
「部活、ですか?」
「うん。部活はね、みんなが一緒になって、好きな物や、頑張りたいことに打ち込む、楽しくて、わくわくするものなんだ。まあ、僕は...あいや、私は部活はしてないけど」
「好きなものを...?」
ヒフミが、ノートに張っているモモフレンズのシールを見る。
「例えば...ほら、ヒフミちゃんって、モモフレンズ好きでしょ?」
「わ...分かりますか!?」
「あー、うん。私はウェーブキャットさんが好きかな...でね──」
ヒフミが一歩、距離を詰めてきた。目は爛々と輝いている。
「いいですよねェ~、ウェーブキャットさん! あのフォルムはさることながら、ああ、あの、もちろん枕は持っていらっしゃいますよね? でですね、ニコライさんと──」
「──ヒフミちゃん、ごめん、私あんま詳しくないんだ。えっと、あとでモモトークでも電話でも聞くから、一旦ストップ」
「あ....す、すみません...」
こほん。
「...まあ、ヒフミちゃんはモモフレンズか好きでしょ?」
「はい!」
「でも、周りに好きな子、いっぱいいる?」
「それは...あんまり、居ないです」
「補習授業部は、確かに補習に打ち込む部活。でも、部活なんだから、好きなものの話を、他の子にしたって、何がいけないの?」
「.......!」
「むしろ、ずっと一緒にいて、同じことを長い時間やる仲間...布教し放題、成功率も上がるでしょ?」
「た...確かに」
「まあ、厳しいことはあるはず。逃げたくなる日も、やりたく日も、きっとある。でも──」
少しだけ息を吸う。
これは断言じゃない。願いだ。願いを、嘘になりきらない程度の形へ整えて差し出すだけだ。
「忘れられない、楽しい場所には、なると思う」
「本当、ですか......?」
「うん。それに、噂されてるような...最初から切り捨てようとしてるだけなら、わざわざそんな場所は作らないでしょ。面倒でも、手間だったとしても...箱を作るってことは。きぅと、まだ見捨ててないってことなんだから」
言い終えたあと、自分でも胸が少し痛んだ。
最後のこれは、本音だけじゃない。ナギサの思惑だって、トリニティの都合だって、そんなに単純じゃない。それでも、そうであってほしいと思っている自分がいる。
そうでないなら、僕がそうする。
ヒフミはしばらく黙りこんでいた。
やがて、肩から僅かに力が抜けた。
「......少し、安心しました」
「そっか」
「はい。ミカ様って、もっと、その...怖い方、だと思ってました」
「それ、地味に傷つくなあ?」
「あっ、す、すみません、そういう意味じゃ......!」
「うそうそ! 分かってるよ☆」
慌てる様子があまりにもそのままで、つい笑ってしまう。
ヒフミも戸惑いながら、遅れて口元を緩めた。
「あの、ありがとうございます。私、ちょっとだけ、頑張れそうです」
「......なら、よかったよ」
どうしてだろう。その言葉はうれしいのに、少し怖かった。
誰かの“頑張れそう”に、自分の言葉が触れてしまう。
伝えるのに一生懸命で気が付かなかったけど、その重みに、僕はまだ覚悟が持てない。
それでも、願ってしまう。
どうか、その“ちょっとだけ”が、ちゃんと明日まで届きますように、と。
◇
ドキドキとなる心臓を落ち着かせるように、ゆっくりと応接室へ戻ると、先生はもう来ていた。
ナギサと向かい合い、資料に目を通している。扉の音に気づいて顔を上げたその一瞬だけで、さっきまで鳴っていたのが嘘みたいに、心音が整った。
「ごめんなさい二人とも、ちょっと遅れちゃった」
「''大丈夫。ほんの少し前に来たところだったから''」
責めるでもなく、気を遣わせるでもない声音。
水面に落ちた光みたいだと思った。決して派手ではないが、見た側の目を自然と上向かせる。
僕が席につくと、ナギサが軽く咳払いをした。
「では、補習授業部発足に向けた最終確認を始めましょう
「''よろしくお願いします''」
「こちらこそ、よろしくね。先生」
呼んでから、少しだけ照れた。
昨日から何度もそう呼んでいるのに、改めて口にすると妙に熱を持つ感覚がする。
先生には気づかれず、資料の一頁を指先で押さえた。
「''候補生徒のことだけど、最初から“ただ管理される場所”だとは思われたくないんだ''」
「……」
「''勉強を見るのはもちろん必要。でも、それだけじゃ足りない。色々な相談できる場所にもしたいんだ。この部に来たのにも、色々な理由があるから''」
昨日の言葉と同じ芯が、そこにあった。
決して強い口調じゃない。けれど、静かな言葉ほど引き返しにくいことがある。雨が石を少しずつ削るみたいに、柔らかい声が硬い理屈の形を変えることがある。
ナギサが目を細めた。
「...理想論、ですね。そのような分野のケアはこちらでします。先生には監督者としていただければ結構です」
ナギサにしては、随分と陳腐な返しだと思った。
「''『理想論』ね...うん、君が言うならそうかもしれない''」
「理想だけでは現実は動きません」
「''でも、理想がなければ、動かした先が空っぽになる''」
あっさり言う。あっさりと言ったことが、軽くは聞こえない。
この人は、綺麗事をそのまま口にしているんじゃない。汚れた現実を知った上で、それでも手放したくないものとして理想を置いている。
「''せっかく部活として場所を作るなら、来た生徒が“ここで活動できてよかった”と思えるようにしたいんだ''」
その一言のあと、部屋は少し静かになった。
ナギサはすぐには言葉を返さない。資料に目を落としたまま、考えている。秤に掛けているんだろう。危険と必要、建前と実利、その全部を。
やがて、静かに顔を上げた。
「……分かりました。その理想に最低限の現実味を持たせるための段取りは、こちらで整えます」 「''ありがとう、ナギサ''」
「礼には及びません。こちらにも事情というものがありますから」
「''それでも、だよ。ありがとう''」
ナギサが、一拍だけ言葉を失った。
ほんの少しだった。たぶん、他人には分からないくらいの間のことだ。
でも、見えてしまった。棘の奥に隠している柔らかい部分は、不意に撫でられると案外弱いものだ。
ずるい、と、再三思う。
先生はきっと、何も知らないわけじゃない。ナギサの打算も警戒も、僕の落ち着かなさも、たぶん見えている。見えた上で、まっすぐ手を伸ばしてくる。
そんなことをされたら、信じたくなるに決まっているのに。
「’’ミカ’’」
呼ばれて、僕ははっとした。何を考えているんだ。
「え、あ……なに?」
「''この文面なんだけど、ミカの意見も聞かせてほしい''」
「僕の?」
「''うん。生徒にどう届くか、という意味で''」
そう言われて、差し出された紙を見る。
そこには、規則や注意事項が整然と並んでいた。どれも必要で、どれも正しい。正しいけれど、 触れた指先が少し冷えるような文章だった。
僕はその一行を指で撫でる。当然、指先は紙の感触を返すのみで、冷えたりはしない。
紙を撫でる、という行為で、僕は先ほどの出来事を思い返した。
「……もう少し、柔らかい言い方にしてもいいかも」
「''柔らかい?''」
「正しいことばっかり書いてあると、読む前から息が詰まりそうだから」
ナギサがこちらを見る。
先生は何も急かさず、続きを待っている。
その沈黙の形が、ありがたかった。
説明を急がせないでくれたら、正しく僕の言葉を伝えられる、
「怖いのって、成績が悪かったりして怒られることだけじゃないと思うんだよね」
僕は紙を見たまま言った。
「“ここに来た時点で、もうだめだ”って思わされることの方が、たぶんつらい。だから、せめて最初の文章くらいは......そうじゃないって分かるものにしたい。だって、これは『部活』なんだもん。楽しくないと、おかしいよ」
言ってから、自分の声が少し静かすぎたことに気づいた。
部屋の空気に溶ける寸前の音だった。
でも、先生はちゃんと拾ってくれた。
「''うん。それは大事なことだ''」
「......ほんと?」
「''ミカの言う通り、最初に受け取る言葉...印象って、その後もずっと残るから''」
その言葉が胸の奥へ落ちていく。
昨日、名前も知らない生徒へ。
僕は“終わりじゃない”と口にした。ただの優しい嘘かもしれないと思いながら。
さっき、ヒフミに。
僕は''きっと楽しい場所だ''と語った。嘘にはしたくないと思いながら。
けれど今、その嘘を本当にしようと、嘘ではないという人が目の前にいる。
だったら、もう少しだけ信じてもいいのかもしれない。
自分の言葉も、補習授業部も、その先に集まる誰かたちも。
朝は唐突にやってきて、心はまだ忙しなくて、今日の紅茶の味はイマイチだ。
それでも、薄いガラス越しに見ていただけだったの世界の向こうで、何かが確かに動き始めている。
どうか、僕が嘘つきになりませんように。