「ねえ
「え……噂?」
何の話かさっぱり分からず、猫猫は首を傾げた。
振り向けば、洗濯桶でじゃぶじゃぶしぶきを上げている
猫猫がこの話に食いついてくると確信している眼だった。彼女とは比較的新しい付き合いだが、猫猫が好奇心に抗えない質であることはすっかり把握されているらしい。
(……なんというか、こうも『知りたいでしょ?』って感じを出されると素直に頷きたくなくなるけれど)
しかしやはり、好奇心旺盛なのは猫猫の元来なのである。そこを刺激されては抗いがたく、
「また何か面白い話でもあったの?」
観念し、同じく洗濯物を洗いながらそう尋ねた。
猫猫たちがいるこの仕事場所、後宮に広まる噂話を知っておくことも、自身の雇い主たる
するとやはり、子翠の口角は予想通りにニマリと弧を描いた。
「やっぱり知らないんだ。ここ最近は猫猫こっちに来てなかったもんね」
「うん、まあ……」
事実である。彼女との会話は久しぶりだ。
そしてさらに言うならこうして後宮での仕事をするのも結構久方ぶりのこと。この間まで都から離れた場所でのお偉方の鷹狩に連れていかれて、戻ってきたのはつい最近だ。
噂話が大好きな後宮官女の
「そうだよ猫猫ぉ。ぜんぜんおしゃべりできなくて、私、寂しかったんだから! ねぇ、いったいどこで何してたの?」
と、次いで洗濯桶ごとずいっと身を寄せてきたのは眉をへの字にした
だが猫猫は口を結び、逃れるように身を引くしかない。
件の鷹狩は素性を隠した壬氏と、現在の柘榴宮の主である
「ねえねえ、どうなの?」
「あー……それは、なんていうか……」
故に小蘭に詰め寄られても、猫猫は言葉を濁すしかない。大変気まずい状況だ。
「まあまあ、猫猫もいろいろ忙しかったんだよ。なんといっても玉葉妃の侍女なんだから」
「えー? ……まあ、そっかぁ……」
だが幸いなことに、一方の子翠はそんな話せぬ事情を察してくれたようだった。ふくれっ面の小蘭の頭を撫で諭し、おかげで彼女の怪訝の角も取れていく。
猫猫が元来好奇心を抑えられない質であるように、小蘭は根が素直ないい子なのである。寂しさが故の不満はなだめすかされ徐々に解け、とどめに猫猫も手を拭ってから頭を優しく撫でてやれば、やがてその顔からはすっかり隔意が消え去った。
あとに残るは気持ちよさそうな蕩け顔だ。小動物的愛らしさが全開で、むしろ猫猫たちの方がムズムズとしてしまう。がしかし、構ってやりたい衝動から、猫猫は辛うじて抜け出した。
それよりも、と。好奇心の方が勝ったのだ。意識して切り替えて、猫猫は今度こそ子翠へと視線を戻した。
「……で、子翠。その噂っていうのは?」
「ああ、うん。実はね……」
子翠も、小蘭の魔性に囚われそうになっていたところでハッとなり、我に返る。
そして心なしか深刻そうな顔色で、彼女は一本立てた指を口元にあてがい、言った。
「……妖怪が出るんだって」
「……妖怪?」
「そう! そうなの!」
瞬間、小蘭もまた復活した。その表情は一転して血の気が引いて、子翠と同様、その噂話を信じ込んでいるらしい。
対して猫猫からすれば、妖怪など所詮は空想の産物だ。あるいはただの見間違い。恐れるようなものではない。
首を傾げながらそれを聞いた。
「私の友達の下女がね、夜中に部屋の窓から見ちゃったんだって……! 腕を伸ばして、腰を曲げたみたいな体勢で動かない――女の
「
操られた死体の妖怪だ。有名どころであり、そして猫猫としても比較的に興味がある類の話ではある。
死体を操り、動かす。ある意味でそれは蘇りの秘術と言えるだろう。一応、薬作りを生業としている猫猫にとって、
そして今に於いては特にそういうものへの関心が強くなっているのだが――しかし、それはそれ。これは薬の話ではない。
妖怪、怪異、魑魅魍魎。そして呪いなんかも然り、そういう超常のものは所詮幻想。物語の中にしか存在しないものだ。
「見間違えたんじゃないの。それこそ、ただ外でボーっとしていた誰かをさ。……前にも似たような幽霊騒動があったでしょ」
「そうなんだ? ……まあともかく、私も最初はそう思ったよ。でも、明らかに様子がおかしかったんだって。見たその子が勇気を出して声をかけてみても無反応。ただゆらゆら揺れながら、ずーっとそこに立ち続けていたの。相部屋の子たちもみんなが見たんだよ」
「そして朝になってからまたこっそり窓を覗いてみたら……いなくなってたって。ね? これは絶対妖怪だよ!
話をするうちに怖くなったのか、子翠と小蘭が怯えて互いに身を寄せている。子翠のほうは以前一緒に肝試しへ赴いたこともあり、こういう話は平気な印象があったのだが……。
(そんなに真実味がある話ということ……?)
よくわからない。やはり猫猫には単なる怪談話にしか聞こえなかった。
「……いや、やっぱり何かの見間違いだよ。仮にもし本当に
「……猫猫、随分
「……まあ、ちょっとね……」
感心している小蘭と少々訝しげな子翠を咳払いで治め、猫猫は「ともかく」と頬に上る羞恥の余波を断ち切った。
「小蘭の友達が見たのは
気分が悪く、外の空気を吸おうと思って出てみれば、その途中で体調が悪化して動けなくなった。そしてしばらくして落ち着いた頃、目撃者に気付かれぬ間に部屋に帰った。恐らくこんなところだろう。
「うーん、そうなのかなぁ……」
「そうなの」
いかにも納得がいかないというふうな小蘭に、力強く頷いてみせる。存在するわけがないのだ、妖怪など。
(ただまあ……体調不良の下女がいるっていうのは、ちょっと心配ではあるか)
ただの腹痛などであったならいいが、もし流行る病であれば事だ。その下女を特定し、最近その存在を知った後宮の診療所へ行くよう言ってやるべきだろう。
(あるいは私が診ても……いやいやいや……)
それはまずい。猫猫の薬作りや医療行為はお目こぼしをいただいているだけなのだ。あまり大っぴらにするものではない。
「そもそも、どこの誰かもわからないんだし。検診のしようがない」
「? 猫猫?」
やはりちょっと、好奇心は疼くままだが。
しかし心の奥に封じ込め、猫猫はこちらを見つめる小蘭に何でもないとそう告げる。再び洗濯仕事に戻るのだった。
――そして、その時だった。
「小蘭っ!」
不意に声。若干音がひっくり返った必死の声が、猫猫たちの背にかけられた。
振り向けば、猫猫にとっては知らない顔。だが小蘭は見知った相手であったようだ。その誰かの焦りように、彼女は驚き目を見張った。
「わっ! ど、どうしたの?」
「出たっ……また出たのよっ!
小蘭に縋りつくような勢いで、その下女はそう言った。
小蘭と子翠が驚愕と、そして怯えに息を呑む。たった今、件の
が、猫猫は大いに胡乱気だ。なにせ見上げれば空は快晴。太陽は元気に空のてっぺんで輝いている。
(……まあ、
二度見てわからないものだろうか。その正体はただの病人であろうに。
「……きっと見間違いだよ。落ち着いて考えてみな、こんな真昼間に妖怪なんて出るわけがないだろう?」
「でもっ、はっきりこの目で見たのよ!! 下級妃に洗濯物を届ける最中に……アレは絶対、普通じゃなかった……!!」
言ってやっても下女は聞く耳持たず、震えるばかり。切迫した様子で、その手に持ったままの『下級妃に届ける洗濯物』を小蘭へと押し付けた。
「お願い小蘭! 私の代わりにコレ、届けて! 代わりに洗濯やっておいてあげるから……!」
「う、うん。それはいいけど……」
と、良い子の小蘭は素直にそれを受け取った。が、しかし同時に下女の剣幕に
ついてきてと、そう言われ、猫猫に拒絶できるわけもなかった。
「……私も一緒に行くよ。どちらにせよ、見ておきたいしね」
「猫猫ぉ……っ!」
「さすが猫猫、優しい! じゃあ猫猫の分の洗濯は私がやっておくね!」
「あー……うん、じゃあ、お願い。よろしくね、子翠」
猫猫の洗濯物は妃付きの侍女としての仕事だが、妃や公主のものではなく同僚である侍女に頼まれたものだ。それでも子翠とはいえ部外者に触らせるのは一瞬どうかと思ったが、まあ大丈夫だろう。念のため、後で猫猫が確認しておけばいいだけだ。
そうしてありがたくも手を挙げてくれた子翠に任せると、猫猫は小蘭と共に件の場所へと向かった。
「……このあたり、だよね?」
「あの下女が言っていたことが確かなら、たぶん」
猫猫と小蘭は怯えた下女が
そこは後宮の端、少し外れた林の傍だった。使われている様子がない古びた建物がいくつか立ち並ぶのみであり、人気はなく、淀んだ空気はジメッと不快な湿気を湛えている。
木々に日を遮られた薄暗さも相俟って、確かに
「けど、やっぱりそれらしいものは見当たらないな」
肝心の
一応、一通りぐるりと探してはみたものの、影も形もありはしない。妖怪も人間も、それどころか生き物が息づく気配すら、ただの一つもしないのだ。
「きっと、木の影か何かを見間違えたんだろう」
「……そうなのかなぁ?」
結局、そう結論付けざるを得ない。
(まあ、怖がりな子だったってことだろう。恐怖心がおかしなものを見せたのかな)
天井の木目が顔に見えた、なんてこともよくある話。彼女の目撃証言もその類であるに違いない。
であるなら、もはやこの場に留まる理由は何もなかった。
「さ、行こう小蘭。さっさと仕事を片付けて、あの子に何もいなかったって報告してあげよう」
「いいや確かに見たんだ」といきり立つ未来が容易く浮かぶが、しかしいなかったのだから仕方ない。
(ていうか、怖がりのくせにどうしてわざわざこんなところを通ったんだか)
怖がりだけど怖いのが好きなのか。猫猫の同僚にもそんな人がいる。同じ人種なのだろうかと呆れつつ訝しみつつ、ともかく当初の通り、猫猫は下級妃の部屋の方へと身体を向けた。
そして――その時だった。
「……うん?」
ふと、風が吹いた。林の木々の梢を流れた風のほんの一部が流れ込んだ、弱々しいそよ風だ。
それが淀んでいた場の空気をかき混ぜる。緑の青臭さや湿った地面の生臭さ、そして外の空気の清涼さが流れを作り――
そしてとある
(焦げ臭い……これは……)
「
人の気配はしないのだが……もしかして、隠れてこっそり吸っている者がいるのだろうか。
おかしな話ではない。後宮では以前、
が――
「……なんだ、この臭い」
その臭いが、なんだか奇妙なのである。
何がどう奇妙なのかと問われたら、正直ちょっと言い表しようがない。ただ、確かに何かが変だった。
猫猫も知らない変わった
到底無視できない。してはならないという直感が、猫猫の意識を貫いていた。
そして、さらにそれと同時のことだ。
「ま、猫猫……っ! あ、あれ……!」
「小蘭……?」
突然、小蘭が猫猫の背に縋りついた。さらにその、恐怖に震えたか細い声音。振り向き見やれば、声と同じく怯え切った眼と指が、震えながらある一点を指している。
怯えながらも噂話に好奇心を疼かせていたさっきまでとは段違いの状態だ。深刻な空気が倍増し、猫猫も緊張せざるを得ない。
恐る恐るに、小蘭が示す先を眼で辿る。数ある建物のうちの一つだった。小さな格子窓、締め切られて碌に光が入っていない、暗闇に染まったその内部。
そこを示して、小蘭は悲鳴を上げるように囁いた。
「何か……中で動いた気が……!」
「……見てみよう」
猫猫は覚悟を決めて、その小屋の方へと近づいて行った。小蘭も一人取り残されるのが怖かったようで、洗濯籠を片手に、もう片方に猫猫の服の裾をつまみながら後に続く。
小屋の前にたどり着くと息を殺し、少し背伸びをして格子窓に僅かに空いた隙間を覗き込む。陽の下に慣れた目ではやはり中は暗すぎ、碌に見えないが、しかし同時、感じる
いよいよもってその正体を確かめなければならない。暗闇に目を凝らす。すると目は徐々に暗闇に慣れていった。中の光景がはっきりとしていくにつれ、猫猫の身の緊張と、予感と恐怖が同じく強くなっていく。
そして――
とうとう、その輪郭が露になった。
人影。佇む下半身と不自然な格好に折れたまま固まる上半身。垂れた髪の向こうには、半開きになった口からあぶくの混じったよだれと、そして呪言のような微かなうめき声が漏れていて――
光のないうつろな目が、一瞬こちらを見たような気がした。
「――ひっ……!」
恐ろしすぎると逆に悲鳴は出てこない、というのは本当だったらしい。目撃した小蘭が、短い息と共に後ろにひっくり返った。尻餅をつき、血の気の失せた顔が呆然と指をさし、恐怖に塗れて荒い息を吐いている。
「あっ……あ、あれ……っ! ま、猫猫……! あれっ……!」
あまりに衝撃的な恐怖体験。猫猫も悲鳴こそ上げなかったが、全身総毛立つ。本当に妖怪がと、背中に走る冷たい戦慄と共につい信じてしまいそうになるが――
(――いや、そんなわけないだろっ!)
すぐに我に返った。妖怪など存在しない。いつだかの呪い騒動と同じように、そんなものはただの幻想なのだ。
だからあれは
ならば放っておくことはできない。猫猫は気を整えると格子窓から身体を引きはがし、小蘭の下へ。彼女が後生大事に抱えている洗濯籠の中から、布切れを一枚引っ張り出した。
「っ!? ま、猫猫? それで何するつもりなの……?」
「中の煙を吸わないように。念のため」
「ね、念のため? なんで……まさか、中に入るつもり!? ダメだよ、
「大丈夫。
恐怖で惑乱している小蘭を強引に誤魔化して、頭の後ろで口覆いの布を結ぶと、猫猫は戸の取っ手に手をかけた。
古びた戸は、湿気にやられて建付けが悪くなっているらしい。軽く引いてもガタンと音が鳴るばかり。あるいは中の妖気が――などと、尚も浮かんでしまう考えを頭を振って振り払い、意を決し、猫猫は力いっぱい戸を引き開けた。
「っ……!」
途端、もわっと溢れだす紫煙。口覆いをしていたにもかかわらず、一瞬くらりとしてしまう。
本当に妖気のようだと、同じく強く感じる奇妙な感覚。最後に一度だけ身を震わせて、いよいよ中に足を踏み入れる。
目も随分闇に慣れ、そして開け放たれた戸からは少々頼りないものの陽光も差し込んで、そこに佇む人影の姿はもうはっきりと見えていた。
やはり、人間だ。鋭い爪が生えているわけでも、額に札を張っているわけでもない。見える肌には血の色もあり、不規則だが口元に垂れた髪の毛は呼吸で揺れている。
そしてどうやら小蘭や子翠と同じ下女らしい。異様な状態の中で拾い上げた顔の特徴にこそ見覚えはないが、その服装は猫猫も見慣れたものだ。
「おい! 大丈夫か!? しっかりしろ!」
ただし、そうして顔を覗き込み、その背を揺すって声をかけても、下女はやはり全く反応しなかった。身体も立ったまま、腰を折った体勢から凍ったように動かない。
(意識低下と筋肉の硬直。かなり酷いな……)
重篤だ。一刻も早い処置が必要なほど。
猫猫はそれだけ確かめると、すぐに腕を下女の胴へと回した。
「ま、猫猫、また何を……!」
「小屋から出す。こんな空気の悪いとこじゃ助けられない」
「た、助けるって!? その子は
「危なくない。そもそも
胴と一緒に取った腕を確かめれば、弱っているが脈はある。それを示し、だからこそ助けねばと猫猫は下女を抱えた腕に力を込める。
――が、そんな猫猫の言葉も意思も、意識がうつろな下女がくみ取ってくれることはない。硬直した身体は重心も取り辛く、のしかかる人間一人分以上の体重は猫猫の痩躯には中々きついものがある。
必死に支えて引きずって、あるいはこのまま続けていたならば、逆に下女の身体に圧し潰されてしまっていたかもしれない。
「生きてる……! 猫猫、手伝う!」
「小蘭! ……気をつけて」
しかし猫猫の筋力が限界を迎える前に、小蘭が立ち上がった。猫猫の言葉と、実際反応がない様子に信じてくれたようで、恐怖を呑み込み小屋に足を踏み入れる。
途端に小屋に満ちる紫煙が彼女の身を呑み込むが、その口元には猫猫のマネをした口覆いが付けてある。まあ、大丈夫だろう。
そうして小蘭の助けも借りて、猫猫はどうにか女を外へと運び出した。動かぬ体を横倒しに寝かせ、小蘭共々口覆いを外すと疲れた息を吐き出した。
「ふぅ、ふぅ……。そ、それで、次はどうしよう? やっぱり医局に連れて行ってあげた方がいいのかな?」
「……いや、先にちょっと調べさせて」
短く応えて息を整えながら、猫猫は改めて診察を開始した。
(……やっぱり、病じゃなくて中毒症状だよな。なら吐かせるか、水か炭でも飲ませるのが常道だけど……)
恐らく意味はないだろう。零れたあぶくに毒物らしきものは見られない。
ならばつまり、だ。
(まず間違いない。毒は、あの妙な臭いの紫煙だ)
薬屋として培ってきた知識と経験が、目の前の症状をそう結論付けた。
そもそもからしてあからさまに疑わしかったわけではあるが、改めて確信する。そうであるなら、やはりこうして外の空気を吸わせることが今できる最良の処置だろう。
胸元を緩めてあぶくをふき取り、呼吸がしやすいように整える。ゆっくりと息をし始めたなら、これでひとまずは大丈夫だろう。
がしかし、それで胸をなでおろすには、まだ確証が足りていなかった。
確実な証拠がないうちは先走って決め付けない。猫猫に薬の知識を与えてくれた養父の教えだ。だからまずは何にせよ、
そして
だから猫猫は、すぐさま下女の服を改め始めた。
「ひゃあっ! 猫猫、今度は何!?」
と、小蘭が顔を赤らめる姿が猫猫の横眼に映る。しかし手を止めるわけにはいかない。無視してあちこちまさぐっていった。
……意識のない若い女の全身をくまなくまさぐるという、猫猫の雇い主たる壬氏が知ればどこの卑劣漢だと怒りそうなことを続け――そしてほどなく、目当ての“確証”は見つかった。
「……あった」
「えっと……それって、
「うん、そうだね。彼女がこうなったのはたぶんこれのせいだ」
その手と袖口の中に隠れていた、末端に少々錆びた金属部品がはめられた細く小さな竹の筒。そしてもう一つ。懐から出てきた、何かが入った小さな袋。
喫煙道具の一式だ。そしてそれは一目で安物とわかるような作りの一品。下女が必死に背伸びをし、なんとか手に入れた最低級の嗜好品。そう見える。
「大方、予算不足で粗悪品を掴まされたんだろう。
ならばそれは、いったいどんな毒草なのだろう。
腰が折れ、全身が硬直し、血走る眼に意識はうつろ。こんな特異な症状をもたらす毒草は、猫猫の知識になかった。
猫猫はそれが生業だったというだけでなく、天職が薬屋だ。薬と名のつくものに対する熱意は人並み外れ、その知識も同じく大抵の人間よりも深く広い。
そして薬に詳しいのなら、毒にもまた詳しいのは当然だ。毒と薬は表裏一体。一般的に毒とされるものであっても、時と場合と量次第で薬となるものはいくらでもある。
故に猫猫は、少なくとも国内で採取ができるような毒物ならばその凡そ全てを知っている。だがそんな猫猫の知識をしても、この毒物にはまるで見当が付けられない。
それは、つまり――
(もしかして、私も知らない未知の毒……?)
そうである可能性を否定できない。それを認識した、その途端。
(そうなら……ぜひとも調べたい!)
猫猫の内心で、胸がざわつくような歓喜が噴出した。
「ねえ、この子、やっぱり医局に連れて行ったほうがいいんじゃない? あそこになら薬もあるし、それがダメなら診療所でも……猫猫? 聞いてる?」
聞いてはいない。下女がどうやら小康状態に入ったことも相俟って、もう既に猫猫の注意は夢想の薬に釘付けだ。
未知の毒。すなわち未知の薬。これに興奮しない薬屋などいるはずがない。新たな薬――ともすれば、それこそ伝説にあるような秘薬すらも作り出せるかもしれないのだ。
(さすがにそれは、飛躍しすぎかもしれないが……)
しかし一方、あり得なくはないのではないか、と思ってしまう。
翠苓という名の女官に関する一件だ。命を絶った彼女の亡骸が、棺から跡形もなく消え去ってしまったあの一件。自らの足で姿を消したとしか思えない状況で、しかもその直前に彼女と交わした会話の内容がまさに、蘇りの薬についてのものだった。
この未知の毒があの未知の薬に通じているということは、全くあり得ない話ではない。なにせどちらも同じく、ここ数ヶ月で猫猫の前に現れた“未知”なのである。
(……いっそ、一回吸ってみるか)
となれば、これまで新薬開発でもしてきたように、自分の身体で人体実験してみるのが手っ取り早い。無論危険なことはわかりきっているが、しかし量に気をつければ問題はないはずだ。
そもそも猫猫は人体実験のおかげで毒に強いし、件の下女本人もあれほど紫煙に満ちた小屋にいながら死んではいない。
それこそ
肺を病まない程度ならば、それは薬と言えるのである。
毒は薬であり、薬は毒である。その境は用法と用量によってどちらにも傾き得る。だからこそ、この毒もまた薬となる余地があり――
――いや、待て。
「――薬で、毒……」
ふと、何かが猫猫の思考を掠めた。
「ま、猫猫……?」
どうしたのかと、小蘭が向ける心配に応える余裕はない。猫猫は必死に掠めたものを手繰り寄せる。
幾度も重ね塗りして染めたのか、特徴的な模様の印章が描かれた粗末なそれ。導かれるようにして、猫猫はその口を開け――中身を目撃した。
「……小蘭、すぐここを離れた方がいい。洗濯ものを持って行って。一人でも、場所はわかるでしょ?」
「う、うん。でも……猫猫、どうしたの? 一人でって、猫猫は何をするつもり……?」
「壬氏様に報告しなくちゃならない。かなりヤバい代物だから、ここにいたら小蘭も巻き込まれる。だから、早く行って」
顔に出てしまっていたのだろうか。小蘭は不審ではなく、心配そうな眼を向けてきた。
けれども仕方がない。目にしたことにより、猫猫の頭によぎった
思い違いであってほしい。でもしかし、万が一、本当にそうであったなら――これは以前に起きた毒白粉や堕胎剤の事件に勝るとも劣らない、
「これ……たぶん、
袋に少量が入っていた