「まさか、後宮であんなものが見つかるとはな」
彼の執務室に呼び出され、途端のこれである。その反応がもう答えを物語っているような気はするが、それでも一応念のため、猫猫は尋ねた。
「下女が吸っていたあの毒
「……宮廷医官に調べさせたが、そうらしい。少なくとも、それに類する薬物だろうという見解が返ってきた」
案の定だった。
そうではないかと直感し、その足で壬氏へと報告を上げて、その後の今。薬屋とはいえ
『
落ち着いてから、もし無駄に想像力を働かせただけの思い違いだったらどうしよう、なんて不安に襲われることになった猫猫だったが、幸いなことに無暗に後宮を騒がせた罪で処刑されることにはならなさそうだ。
いやはや、本当によかった。
(――いや、よくねぇよ)
そうだ、全くもってよくはない。これならば猫猫が壬氏に一つ二つのお小言をもらったほうが何倍もよかった。
一服すれば天にも昇るほどの多幸感を得ることができるという一方、大きすぎる多幸感は同時に
酒や
有用な面ももちろん存在する。そもそもが
がしかし、薬とするにはあまりにも毒の面が強すぎる。故に当然、後宮に持ち込んでいいものではありえない。
だというのに、後宮で
加えて猫猫の目の前で顔色を悪くしている壬氏は、後宮の管理を任されている立場にあるのだ。彼の現在の内心は、想像するに余りある。
今ならばどんな値の胃薬でも飛びつくように買い求めるだろう。そのくらいに深刻な状況だった。
「……あの下女は、どうやって
猫猫は自分から口を開いた。普段は壬氏が言って猫猫を使う、というような間柄であるのだが……さすがにこの状態の彼にそれを求めるのは酷だ。
それにまあ、少なからず情だってあるわけで。その負担を多少なりとも軽くできるならぜひどうぞと、自ら頭を差し出した。
が、残念ながら壬氏にはそれに応じる元気も残っていないようだった。男性ながら傾国の美女もかくやという端正なその顔を歪ませ、執務机に眼を落とす彼は無言のまま、答えない。
代わりにそのお付き、主を労わるような眼をした
「残念ながら。少し前に意識を取り戻しましたが、
「……まあ、当てになりませんね」
なにせ
間違ってもその辺に落ちていたりするものではありえないのだ。
「ただ、かといってあの下女が自分で買い求めることができたかといえば、そちらも怪しいところですね」
「……そういう伝手があるような人間ではなかったと?」
「ええ。調べましたが出身は農村部。貧しい農家の生まれであり、名家や商家といったものとの繋がりはありません。当然、下女の身分では金子の手持ちもさして多くない。そもそも下女が私物を手に入れられる機会といえばこの間の
「
いよいよ謎である。下女はどうやってそれを手にしたのだろうか。
「……いずれにせよ、流入経路は早急に特定せねばならん」
と、その時ようやく壬氏が蘇った。張り詰めた顔色のまま背を伸ばし、猫猫を見つめる。
「
「ええ、そうなるでしょう」
「だから薬屋。……お前を、使わせてもらうぞ」
「ええ、どうぞ」
いつもならば渋るところだが、今回、その気はない。一人その重圧を背負わされた壬氏への憐れみと、薬屋として第一発見者としての義務感。そして後はやっぱり一つまみの好奇心で以って、猫猫は壬氏の視線を見つめ返し、しっかりと頷いてみせた。
「下女は喫煙道具の一式と共に
「……後宮に怪しい者がいないか調べろ、と。ご期待に沿えるかはわかりませんが、わかりました」
「頼む。それと、お前なら大丈夫だろうが、今は後宮内で大きな騒ぎを起こしたくない。調べるにしても、
「騒ぎを……ああ、はい。わかりました」
少し考え、気が付いた。それはきっと後宮に住まう妃たちのためだろう。
上級妃、
予測不能の障害を恐れるくらいなら、最初から秘密にしておくのが定石だろう。もちろん猫猫に異論はなかった。
それに、もしかしたら調査の役にも立つかもしれない。あの下女が
何なら後宮の女官全員にカマかけをして、その結果下手人が見つかる、なんてことも――
「……あ」
「! どうした。何か気になることが?」
ふと思い出した。早速何かに気付いたのかと、壬氏が期待の眼を向けてくる。
それを裏切ってしまうようで心苦しいが、
「いえ、あの。
「そ、それを早く言わんか! 高順、今すぐ口止めしに行ってこい!」
「は、はい!」
厄介事に巻き込まないようにと洗濯籠を押し付けたことが、どうやら裏目に出たようだ。ガタンと机を揺らした壬氏の一声に、高順は慌てて執務室を飛び出して行った。
幸いなことに、
壬氏や猫猫と違って
したがって、口止めにも素直に応じたという。その理由や目的などを伝えることはできなかったが、まあ元が素直な子だ。後宮を取り仕切る壬氏からの命でもあるのだから、背くこともないだろう。
こうして少々の問題はあったものの、壬氏の目論見通りに
が、しかしその一方、
猫猫は知らなかったが、それは洗濯場以前から下女の間では広く知られていた噂話だったのだ。それが今回、小蘭と猫猫に泣きついてきた下女の目撃情報を皮切りに、さらにあの
彼女は猫猫が壬氏への報告を行った直後、ひそかに後宮から運び出されているのだが――恐らくその時、異様なその容体を誰かに見られでもしたのだろう。
あながち間違っているとも言い難いのがいかんともしがたいところではある。
もっとも、
しかし勘のいい者であれば、
例えば妃やそのお付きの侍女たちならば、それを身の危険と捉えるだろう。毒殺暗殺の類は悲しいことにこの女の花園に於いては珍しくはないのだし、彼女らの警戒心が上がるのは自然なことだ。そんな彼女らに怪しい人物を知らないかと尋ねたとして、まともな返事が返ってくるとは思えない。どころか、あらぬ誤解まで受けかねない。
つまり現状として、猫猫が命じられた不審者調査を行うにはずいぶん厳しい状況になってしまっているのである。
(……さて、どうしようかな)
早速先行きが暗い中、だから猫猫は一人、ぼんやりと空を見上げるしかなかったのだった。
一応、聞き込みの効果が薄いならばまず現場検証をと、
猫猫も調べたが、やはり新たな手掛かりは何もなかった。
(結局、こっちの手元にある手掛かりはあの喫煙道具だけってわけだ)
下女が持っていた安物の
猫猫は夢想の視線を空から地へ移す。小枝を拾って記憶に浮かぶ印章をガリガリと土の地面に描きながら、改めてその
(……やっぱり、ただの落書きなんかじゃないよな。それにしてはこの
直線と曲線を組み合わせ、見知らぬ象形文字のように何かを
つまり、大店なんか出している店の顔。その店の品であることを示す
そのままに考えれば、
実際、壬氏もその可能性にたどり着いているはずだった。であるなら、発見は時間の問題。事件解決にさほど時間はかからない。
が、しかし。
(どうなんだかなぁ……)
壬氏当人がどれほどの確信を持っているかは知らないが、猫猫からすればそんな展開には疑問符がついてしまう。これで事態が解決するとは思えない。
なんというか、座りが悪いのだ。ガリガリと、描いた印章ずっとなぞり続けながら、猫猫はそこに沸く疑念をこねくり回す。
まず、あり得るのだろうか。真犯人がそんなにもわかりやすい証拠を残すなど。
それもあの印章は、粗末な小袋に似つかわしくないほど丁寧に描かれたものだった。念入りに、間違っても消えたり滲んだりしないように塗り重ねられ、描かれていたもの。
まるで調べて見つけてくださいと、そう言っているようなものだ。
つまりそれは、“罠”なのではないのだろうか。しかし罠だとして、真犯人の目的はいったい何なのだろう。
(印章の大店を潰すこと? いや、ならわざわざ後宮で騒ぎを起こす必要がない。直接店を告発するなりなんなりすればいい。……妃の誰かへの悪意だとしても、実際に
それとも本当に下女の証言通り、こっそり持ち込んだものをうっかり落としてしまっただけなのだろうか。
「……ふむ」
やはり、状況証拠だけで真実を手繰り寄せるのは無理がある。
「駄目だ。これだけじゃ、さっぱりだ」
猫猫は結局、手にした枝を放り投げた。
そして――
「何がさっぱりなの?」
「そりゃ、
と、脱力で緩んだ口を塞ぐのが、一瞬だけ遅かった。
両手で口を覆ったまま、恐る恐るに振り返る。もしかして都合よく風の音か何かで聞き逃してくれたかもしれない、というゴマ粒のような望みに期待をかけて、そして案の定、裏切られてしまう。
「
「……や、やあ子翠。この間ぶり」
「うん、
悪あがきに誤魔化すも、意味はなし。それに「久しぶり」だなんて、もしかして嫌味か何かなのだろうか。
ともかく、彼女は誤魔化されるつもりなどないようだった。猫猫へとずいっと詰め寄り、その真剣の眼差しは猫猫の眼を捉えて離さない。
絶対にしゃべってもらうと、明らかにそう言っていた。
(……こりゃ、とぼけたって無理だろうなぁ)
子翠は虫好きという変わった趣向を持ちつつ、薬にも堪能である。
当然だ。だから猫猫はもう逃げられない。
このところ失態続きな自分の口を恨みつつ、猫猫は観念してため息を吐き出した。
「……騒ぎにするなって言われてるんだ。だから、子翠――」
「わかった。誰にも言わない」
口約束でしかない。が、子翠とはそこそこの仲だ。その首肯は信じられる。
……そう。騒ぎにさえならなければいいのだ。だからまあ、大丈夫だろう。
壬氏からの指示をそう再解釈することでどうにか己を納得させて、猫猫は諦めのため息を吐いたのだった。
「――なるほど、なるほど。そういうことか……。しかし、まさか後宮で
事の詳細をかいつまんで説明すると、聞き終えた子翠は少し考えこむような様子を見せた後、猫猫にそんなふうに聞いてきた。さすがの彼女も
ならばそのままでいてほしいところだが、この流れで黙るわけにもいかず、猫猫は頷いてみせる。
「一応、薬として生まれたものなんだけどね。でも少しでも扱いを誤れば、人をおかしくしてしまう。薬の知識がない人間には間違いなく毒だ」
「そっか。それじゃあ確かに、大っぴらにはできないね。そんなものが持ち込まれたなんて世間に知れたら、朝廷の威信が地に落ちる」
「……そうだね」
だから壬氏は小蘭に話が漏れているとわかった時、あそこまで取り乱すことになったのだ。
――『騒ぎにさえならなければいい』と曲げた解釈は、やっぱりちょっとまずかったのだろうか。……今更後悔しても仕方のないことだが。
「……あははは。猫猫ったら、そんな顔しなくてもほんとに誰にも言わないってば」
ぎくりと竦んだ内心が顔に出てしまっていたらしい。子翠が呆れたように笑っている。
「そうしてもらえると、本当に助かる。……下手したら本当に首が飛んじゃう気がしてきた」
「かもね。だから言わない。私、猫猫に死んでほしくないもん。
「……そうだね」
あるいは小蘭含めて三人の秘密かもしれないが。しかしもうこれ以上余計なことは言いたくない。猫猫は今度こそ、緩みっぱなしの己の口を引き締めた。
「それに猫猫のことがなくても、正直に言ってこの話題にはあんまり関わりたくないし」
「そうなんだ?」
小蘭ほどではないが、子翠もこの手の噂話は好きな方だと思っていたが。
しかし小屋の壁に背を預けた子翠は「そうなの」と些かげんなりした顔を見せ、そのまま猫猫の隣にずるずるとしゃがみこんだ。
「猫猫は知らないかもだけど、今の後宮は
「持ちきりっていうのは知ってるよ。……しかし改めて、ほんとにみんな好きなんだなぁ。まだ一日も経っていないのに、ここまで大流行するとはね」
さすが、女の噂は巡るのが早い。……それにしても少々異常な早さに思えるが、意図してそれを広めている者がいるのだろうか。まあ、いてもおかしくないことではある。
具体的に言うならば、恐らく、ガクガク震えて小蘭に洗濯籠を押し付けた、第一発見者たるあの下女なのだろう。そら見たことかとふれて回る姿は容易に想像ができた。
「しかもどうしてか、みんな私に詳しく教えてくれって聞きに来たんだよ。そんなの知るわけがないのに……はぁ、どうしてなんだかなぁ」
「どうしてなんだろうねぇ」
今度こそ、余計なことは口にはしない。
あの下女が泣きついた相手がまさに私たちだったからだろう、という言葉もまた飲み込む。別に言っても問題などなかっただろうが、うんざりしている彼女にそれと対峙する理由を与えてしまうのは少しばかり忍びない。なら相槌だけで十分だ。
今日の猫猫は口が緩み気味である。どう転ぶかわからない台詞はあまり口にしない方がいいだろう。
つまりはそういう意味合いで猫猫は口をつぐみ、そしてその代わり、改めて尋ねた。
「……それで、どういうことを聞かれたわけ?」
「? そりゃあ、『
「その中で気になる話とかは?」
「気になる話? ……ああ、
首をかしげていた子翠が、そういう意味かと気が付いた。
彼女の下に群がったといううんざりするほどの質問は、当然
そして
うっかり漏らしてしまった失態を、あるいはこれで挽回できれば――と、そんなあさましい思いも多少はあったりしたのだが。
しかし。
「うーん……でも、特にそれらしいことは聞かなかったような気がするなぁ。……注目されるのも嫌だから、下手に人のいるところに行かないようにもしてたし」
腕を組み、しばしの間、宙に視線をさまよた子翠。そうして記憶を探ってくれていた彼女は、やがて組んだ腕と視線を元に戻した後、申し訳なさそうな微笑を猫猫へと向けてきたのだった。
「……そっか」
残念だ。が、失望するほどでもない。元々あるかもわからない可能性なのだから、この展開の方が当然だ。
「そもそも朝廷に喧嘩を売るような肝の座った奴だしね。そうボロを出すはずもないか」
「そうなのかも。ごめんね、力になれなくて」
「いいよ。こっちこそ、困らせてごめん」
謝ってくる子翠に首を横に振る。こちらから巻き込んでしまったのだから、むしろ謝るのは猫猫の方だろう。本来これは、ただの下女である子翠が頭を悩ませる案件ではない。
これは猫猫に任された仕事なのだ。だから――うん、子翠のことはもう解放するべきだろう。
別に引き留めているわけでもないが、これ以上彼女を巻き込まないという意味でも、もうこの場から立ち去ってもらったほうがいい。
「ねえ、子翠――」
と、思うや否や、猫猫は子翠へと声をかけようとした。が、その言葉は口にしようとしたその直後、あえなく止まってしまう。
「
そう呟く子翠の表情が、思わず目を見張ってしまうほどに深く打ち沈んでいたからだ。
「どんな気分なんだろうね」
膝を抱えて座り込み、当てもなく宙を見つめるその瞳。考え込んでいるわけでもなく、ただぼんやりとしたそれはどこか諦念のようで――さっきまでとはまるで様子の違う有様に、猫猫はつい、身体をギクリとさせてしまった。
「……興味あるの?」
「え……? あ、いやいやいや! そういう意味じゃないよ! そうじゃなくってさ」
現世を忘れ、天上を覗くことができるという
その様子はいつも通りの子翠だ。が、そんな俗物的なボヤキなどではなかったのだから、その眼にはまだ諦念のような、あるいは悲しみのようなそれが正体不明のままで残っている。
猫猫としても気にならないわけがない。かといって口にはできず、ちらりちらりと迂遠に眼を送るばかり。
そんな猫猫に子翠は苦笑の後、肩を竦めて語り始めた。
「えーっと……なんて言ったらいいのかな。『よくわからない』んだよね」
「よくわからない?」
抽象的な言葉に眉を寄せる猫猫に、子翠は頷いた。
「後宮で妃の食事に毒が盛られるなんてことも、悲しい話だけれど珍しくないでしょ? そういうのは、理解できなくない。毒を盛った人も、実際はどうあれ、きっと生きるためにそうしたんだろうって思うから」
毒殺。それを仕方ないと言うことは猫猫にはできない。薬を扱う者として、頷けるはずもなかった。
でもしかし、子翠の言いたいことはわかる。他者を蹴落とさなければ自分が食われる。後宮という帝の寵を競う花園では、ある意味それは自然の摂理だ。
「けど、
そしてそう重々しく口にするその意味もまた、猫猫は理解した。
「
「……そうだね」
いうなれば、
「そんなものを使って、いったい犯人は何をするつもりなんだろう。……どうしてそんなことをするのかな。こんなにも悍ましい毒を撒き散らしたら、結局自分まで殺してしまうのに」
生き残るために他者を食う、自然の摂理。しかしこれはそれに反している。
――ただ相手を貶め、その堕落を楽しむような。
摂理に反した、悪意だった。
「
子翠は悲しみと諦めが滲んだ目で、零すようにそう呟いた。
そして猫猫は、そんな彼女に対してかける言葉を見つけられない。人の醜い悪意など、いかなる薬を以ってしても治せるものではありえないのだ。それに対する答えなど、持ち合わせているはずもなかった。
それに、子翠がなぜそうも思い詰めた目をするのかも、正直に言っていまいちよくわからない。確かに悲惨で悪辣だが、しかし所詮は他人事だろう。そう思ってしまうのは、猫猫の薄情な性格のせいなのか。
ともかく、猫猫は子翠の俯いた表情に、少々気まずく押し黙っているしかなかったのである。
「――なんてね!」
と。だから子翠が打って変わってにぃっと笑いかけてくれた時、猫猫は内心で安堵のため息を吐き出すことになったのだった。
「まあそういうわけで、私もこの事件に関してはすっごく興味があるからさ。……猫猫、犯人捜しを命令されてるんでしょ? 私もそれ、協力するよ」
そして次いで、子翠は猫猫へとそんな提案を持ちかけてきた。
ありがたい話だ。現状調査は行き詰っているだけに、噂好きの下女たちの人気者になっている彼女が手伝ってくれればそれは当然心強い。今までに当たりはなかったが、続ければ手掛かりの発見も夢ではないかもしれない。
が、しかし。
「いや、ありがたいけど一人でやるよ。気持ちだけ受け取っとく」
心強くとも、これ以上彼女をこの件に巻き込むわけにはいかなかった。これは壬氏から内密に頼まれた調査なのだ。
そもそも
だから子翠との協力はここまでだ。これは譲るわけにいかなかった。
「うーん、そう? なら仕方ないか」
子翠の方も、猫猫のそんな事情を持ち前の察しの良さでくみ取ってくれたらしい。というかそもそも提案からして冗談のつもりだったのか、あっさりと身を引いた。
これ見よがしに肩をすくめて、腰を起こす。立ち上がり、尻の汚れを払うと、子翠はもう一度、空を見上げた。
「私も、そろそろ忙しくなりそうだしね」
「そうなんだ? ……何か催しでもあったっけ」
「ううん、個人的なこと。……そろそろ虫が鳴き始める頃なんだよ」
何かと思えば、仕事ではなく虫好きの事情らしい。猫猫とて薬になる虫ならば喜んで捕獲を手伝うところだが――いずれにせよ、しばらくは一緒につるむ時間も減るだろう。
少々の名残惜しさは胸に仕舞って、猫猫は子翠へ挨拶の手を上げた。
「そっか。それじゃあまた今度、珍しい虫でも捕まえたら教えてよ。それか薬になりそうなやつ」
「うん、わかった。それじゃあ猫猫――」
またね――と。
微笑みと共に続く言葉は、何でもない別れの挨拶であったはずだ。猫猫も、恐らく子翠当人も、それ以外を想定などしていなかった。
だが、しかし。
「……子翠?」
その瞬間、子翠は挨拶の言葉の最中、突然ピタリと固まって、何かに唖然としてしまったのだ。
何に――いや、何を見ているのか。その視線は猫猫へと向けられようとしていたが、その途中で止まっている。
猫猫はその視線を辿り、振り返る。立ち上がって見下ろす彼女の視座から降り注ぐそれは、じっと地面を凝視していた。
――猫猫が思案の最中、地面に描いた唯一の手掛かり。小袋の印章を、彼女は信じられないものを見る眼で見つめていたのだ。
「子翠……?」
どうしたのだろう。思考が回るより先に、猫猫はまた彼女の方へと顔を戻す。問い詰めようとして――しかし。
「――またね」
と、子翠はそれだけ言って、あっけなく身をひるがえし、小走りで去って行った。
その顔にはさっき眼にしたものが幻か何かだったかのような、きれいな微笑が浮かんでいた。