「例の
少し前にも見たような光景である。となればその背後に控える事柄も、同じくとても厄介なものなのだろう。もはや一目瞭然だ。
故に猫猫は、まずこっそりと深呼吸した。一拍の間で身構えてから、覚悟を決めてそれを尋ねる。
「どこの誰のものだったんでしょう」
「……子の一族だ」
そして壬氏の口から深いため息とともに出てきた名前は、案の定、厄の塊のようなものだった。
「厳密にいえば、その分家の末端が興した問屋の印章でした。あくまで一般的な商売をしているだけの、ごく普通の商家だったようですが……」
しかし、子の一族が関わっているのだ。壬氏の代わりに
頭が痛くもなるだろう。子の一族は俗にいう名持ちの有力な一族の一つであり、そして何より、あの
以前の、壬氏が
もしかして、この
――そのように、想像が膨らんでしまうのは無理もないことだろう。
印章と商家、そして子の一族の関係は、どうやら確か。その文脈からなら、確かにこんな可能性に行きついてしまう。
だがしかし。それをさらに
「……罠かもしれませんよ」
「罠、ですか」
僅かに眉を顰める高順に、猫猫は神妙に頷いてみせる。それはかねてから猫猫が疑っていることだった。
あの印章は、あまりにもあからさま過ぎた。もし本当に子の一族が想像通りの謀反を企んでいたのなら、それに結び付く印章をわざわざ残していくものだろうか。
ありえない。くっきりと小袋に描かれていたそれは、むしろ確実に子の一族へとたどり着くようお膳立てされているかのようだった。
事件発生からほどなくして思い至ったその考えは今もなお変わっていない。それどころか子の一族の名前が出てきたことで、より強くなっていた。
「第三者が、帝と子の一族の対立を煽るために偽の証拠を残した、ということは十分に考えられると思います」
だから猫猫は半ば、そうであると確信していた。この推察が正しければ、この事件の意図に関してすんなり納得できてしまうのだ。
つまるところ、これは後宮や宮廷でも日夜行われている政争の類なのだろう、と。
それにしては繰り手も火傷しかねない危険な争いと言わざるを得ないが――ともかく。そうだった場合、問屋のことはいっそ忘れてしまったほうがいい。印章に拘り、子の一族に疑いの目を向け続ければ、それこそ本当に第三者の思惑通りになりかねない。
「いや、
「え……?」
と、猫猫が思ったのも束の間。俯く顔を少しだけ持ち上げて、壬氏がそれを否定した。
なぜ、と猫猫が問うまでもなく、続けてまた疲れたふうな息が言う。
「薬屋の言うように不和を煽ることを目的とした第三者がいたのなら、そのための偽の証拠はより決定的なものにするのではないか? 一族の末席が興した商家、などという縁の薄いものを利用する必要はない」
「それはまあ、確かに……」
言われてみればその通り。そこに合理性が欠片もないのは罠だと気付いた時と同じだ。
商家を使うにしても分家でなく直営の店とか、何ならいっそ子の一族そのものを示す証の方がいい。にもかかわらず縁遠い商家を選んだのは言われてみれば確かに奇妙で、そして何よりやはり迂遠が過ぎる。
「それに……その点に則れば、件の商家は証拠としては限りなく不適格だ。そうだろう高順」
「はい。……
「廃業、ですか……」
いつも通り
確かに、潰れた店に罪を擦り付けても何にもならない。
「さらに言うなら、店を興した当人も同時期に亡くなっていました。店の業績が悪かったためか、はたまた別の理由かはわかりませんでしたが……どうやら嫁も子もいなかったようです」
おまけに家も絶えているというならなおのこと、不合理どころか意味不明だ。
もはや誰にも使われていないはずの印章が使われているなら、それはもう、誰の目から見てもよからぬ企てごとが丸見え。第三者が子の一族の謀略を装うには、それはあまりに怪しすぎる。
『第三者の暗躍説』の説得力が格段に落ちてしまったことは認める他なかった。
けれど、しかし。かといって『子の一族の謀反説』が有力になったかといえば、それもまた違う。
まず、『第三者の暗躍説』以上に印章を残した理由がわからない。犯人と断定されない程度の距離で一族の名を出しすことで捜査の手を牽制しようとした、とか捻り出すことはできなくないが、あまりに弱い。
被害者がどことも繋がりのないただの下女だったという意味でも謎だ。国に喧嘩を売るならば、やはりもっと地位の高い上級官女あたりを狙うのが普通。
潰れた商家に独り身で故人の店主、そこから出てきた
(……わからん)
どちらの説が正しいのか。あるいはどちらも正しくないのか。想像と疑念が膨らみ続け、思いつく無数の可能性に、しかし猫猫は判断が付けられない。
確証がどこにも見つけられない。探すことももう叶わなかった、だって、それがあるはずだった商家や印章は、もはや潰れて何も残ってはいない。
だから――いわゆる、お手上げだ。
行き詰まった。だからこそ、壬氏もああしてずっと意気消沈しているのだ。
猫猫は遅ればせながら、壬氏の気持ちを理解した。
「……とはいえ、いつまでも嘆いているわけにはいかん」
しかしもちろん、猫猫がこれまで見てきた壬氏という男はこのまま蹲るようなタマではない。実際宦官かと思いきや
――そして。正面を向いたその顔が向けてきた視線に、猫猫はぐっと息を呑むように身体を強張らせることになった。
「元々、これ見よがしに残された印章だけで真実にたどり着けるとは思っていない。だからお前にも調べさせたんだ。なあ、薬屋」
「……そうですね」
「それで、どうだ。――何か新たにわかったことはないか?」
新たにわかったこと。は、ないこともない。
もちろん、
彼女が印章に反応した出来事は、明らかに報告すべき事案だろう。子の一族の話を聞いてから、いや、この執務室に呼び出される前からずっと、猫猫の頭の中でそれはぐるぐる巡り続けていた。
ついでに言えば彼女に
「………」
猫猫の口はそれを踏み止まった。
様々な考えが頭の中を駆け巡っている。もちろん一番大きかったのは保身だった。情報漏洩で処分を受けるのはごめんだし、子翠まで巻き込むことになるとなればなおのこと。
それに、そもそも
それに――と、猫猫はさらに頭で巡る
猫猫は少しばかりぎこちなく、首を横に振ったのだった。
「いえ、特には」
「……そうか」
本当に? という疑いの言葉はなかった。だがその言葉の前の間が少々気になってしまう。猫猫のこの内心を、もしかしてその疲れ切った眼で見抜いているんじゃなかろうか。
けれど実際はどうあれ何も言わないのだから、猫猫としても黙るだけだ。一応、成果を出せずに申し訳ないといったふうな顔をしておく。
「……いや、そもそもお前に命じてから数日しか経っていないんだ。そう都合よくいくとは思っていない」
「ええ、まあ……一応、今の後宮では
「ああ、聞いている。物でも人でも、不審な話があればまたすぐ聞かせてくれ」
真面目顔で告げる猫猫に頷いて、
「引き続き、頼んだぞ」
「……はい」
そうして変わらず向けられる壬氏の視線に対し、猫猫は少々の後ろめたさを感じながら、彼の執務室を後にした。
それからさらに一週間ほどが経過した。
その間、もちろん猫猫は頑張った。壬氏の言いつけ通りあまり目立たぬようにこっそりと、しかし後ろめたさの分まで必死になって後宮中を駆け回った。
あの洗濯場から始まり、浴場、調理場、宿舎、あるいは誰も立ち入りそうになり林の奥深くや、果ては上級女官や妃たちの住まいまで。道中見つけた珍しい薬草や茸なんかの誘惑にも耐えきって、後宮中のあらゆる場所と人間をひたすらに調べ続けた。
猫猫にしては珍しく、本当に頑張ったのである。
そして――その結果。
「びっくりするほどに進展がない……」
何の成果も得られずじまい。必死の頑張りが一つも報われない現実に、猫猫はすっかり打ちのめされていた。
精も根も尽き果てた。だって何も見つからないんだもの。
犯人の正体も目的も相変わらずわからないままであるし、おまけに新たな動きもない。後宮に
そのせいもあってか、後宮に於いて
もう彼女たちに後宮の異常を報告し合う警戒心は残っていない。きっと夜中に不審な物音を聞きつけたとしても、怖がるのに飽きてしまった彼女たちは例の宦官が見回りをしているのかもときゃあきゃあ囀るだけだろう。
猫猫が当てにしていた情報源は、ろくに活用できぬまま機能停止状態。ならば自分の足と頭を使う他ないが、広大な後宮から一人で真犯人の証拠を見つけ出す、なんてことがいかに無謀であるかなど、猫猫の数日間を見れば今更語るまでもない。
身体と頭に満ちるのは、ただただ徒労感のみだった。
「はあ……こんなの、もうどうしようもないだろ……」
このまま続けても意味がない。もういっそのこと投げ出したい。けどできるはずもない。
進展のない現状に壬氏のように頭を抱え、猫猫は渡り廊下の欄干にぐでっと身を投げるのだった。
「――あ、猫猫!」
もたれかかって、その直後。傾いた頭に聞き慣れた声がかけられた。
気怠く視線を持ち上げてみれば、思った通り。洗濯物で山盛りになった籠を抱えた
「……そんなところで何してるの? 酔っぱらった小父さんのマネ?」
「……いや、別に、何も」
そして、よりにもよって『酔っぱらった小父さん』などと。醜女と罵倒されようが気にならない猫猫だが、さすがにそれはイヤである。
すぐに身体を起こした。何でもないふうに取り繕って、歩く小蘭の隣へ赴く。
「小蘭、それ、今から洗濯? ちょっと分けてよ、手伝うから」
「え、いいの?」
「うん。暇だしね」
「やった! ありがとう猫猫!」
ついでに手伝いを申し出ると、小蘭はニコニコと微笑んだ。かわいらしいその笑顔に、釣られて猫猫の顔にも笑みが浮く。
そうやって喜んでくれたのは嬉しいが――しかし正直なところ、この申し出は少しばかり打算的だ。
猫猫は打ちのめされているものの、別に心が折れたわけではないのである。
壬氏からの指令もあるし、もちろんのこと暇でもない。そしてそれを明かせない故に仕えている
だから
「ところで小蘭。……子翠がどこにいるか、知らない?」
小蘭に続くもう一人の友人に、猫猫は会わねばならない。
犯人調査が暗礁に乗り上げて、現状はもう猫猫一人ではどうしようもないほどに行き詰っている。しかし投げ出すことは許されない。
なら、もはや人を頼る以外に事態を動かす方法はないだろう。
他人を巻き込みたくはなかったが、もはやそうも言っていられない。
加えて、
だから手を借りる相手として、子翠が最も適任だった。
さらに彼女は――今までも薄々そうではないかと思っていたが、恐らく
確信したのは印章を見られたあの時だ。あの時点では誰の証かわからなかった印章を、彼女は確かに知っていた。驚き、そしてその驚愕をひた隠しにしたあの反応は、自身が仕える楼蘭妃の子の一族が
もちろん妃付きとはいえ洗濯をする下女の身では、主の一族が謀略を企てていたとしても知る由もなかっただろう。だからいずれにせよ、子翠はこの事件には無関係。犯人には繋がっていない。
だから猫猫は壬氏に伝えず黙する決断ができたのだが、故にこそ――事情を知りつつ楼蘭妃に近く、しかし事件からは遠いところにいると断言できる彼女こそが、手を借りる相手として最善なのである。
(それに、子翠も『手伝おうか』って言ってくれてたし……)
頭のいい彼女のことだから、もし本当に子の一族が犯人だった場合、自身がどうなってしまうかはわかっているはずなのだ。
かつて猫猫もそうして後宮を追い出されてしまったように、連帯で罰を受けさせられる可能性は高い。その罰が、
ならば命乞いをするべきだ。その謀略を暴く手伝いをした、という手柄で以って。
――以上、締めて三つ。行き詰まった致し方のない状況と、子翠に対する信用。そして彼女を案じる友情が合わさって、彼女に頼ることを決めた猫猫は小蘭へと、その居場所を尋ねたのだった。
小蘭は友達も多い。彼女を頼れば、その伝手で子翠は容易く見つかるだろう。
だから明るい肯定が返ってくるものだと、猫猫はそう思い込んでいたのだが、しかし。
「……小蘭?」
いつまで経っても返事がない。どうしたのだろう。不思議に思って、猫猫は子翠のことばかりで考え込んでいた意識を引き戻す。
自動的に歩く足はそのままに、彼女の方を振り向こうとして――
「ま、猫猫っ!」
突然、焦った小声と共に背中を引っ張られた。
足が無理矢理止められて、引き戻される。いきなりなんだと、反射的に小蘭の無体に不満を抱き――しかしすぐに気が付いた。
正しくは、顔を上げたちょうどその先に、見つけたのだ。
「楼蘭妃……!」
「………」
子翠の主である柘榴宮の主人。いつものように派手な装いをした件の妃が、侍女を引き連れ猫猫の前に立ちはだかっていたのである。
いや、立ちはだかっているのは猫猫の方だ。ぶつかりに行く寸前だった。小蘭が止めてくれたおかげで未遂で済んだが、それでもそれが上級妃に対してどれほど礼を失した行いなのか、わからないはずもない。
気付いて数舜後、猫猫は慌ててその場を退いた。
「し、失礼いたしました……」
洗濯籠を置いて拱手している小蘭の隣で、猫猫もまた頭を下げる。同時にすらりと謝罪の言葉も述べてみせるが、しかし対して内心は未だ冷や汗がダラダラだ。
猫猫は一応、玉葉妃の侍女である。故に楼蘭妃からしてみれば、この状況は玉葉妃からの嫌がらせに見えなくない。
猫猫にとってそれは全く不本意なことだ。これで二者間の間によからぬ縁ができてしまえば目も当てられない。ただでさえ
楼蘭妃がこれを笑って流せるほどの器の広い人物であることを信じる他ない。彼女は最近入内してきたということもあり、猫猫も上級妃の中では最もその気心というものを知らない相手だったが、猫猫の立場ではもうそれを祈るしかなかった。
そして、果たして。
ちらりと、猫猫は下げた頭からこっそりと楼蘭妃の様子を伺い見た。
「………」
無言だった。派手な衣装に濃い化粧、評判通り派手好きらしい装いの彼女は、その高い上背から向日葵色をした無表情の瞳で猫猫をじっと見下ろしている。
背後の、揃いの化粧で統一された格好の侍女たちも何も言わない。僅かに眉を寄せ、細めた視線の無言の声は、いったい何と言っているのだろう。人の心の機微を見抜く能力に長けている者ならばわかったのかもしれないが、生憎猫猫にその手の力は備わっていない。
何も返せるわけもなく、結局ただ頭を下げていることしかできなかった。
やはりお怒りなのだろうか。冷や汗はもう足元で池でも作っていそうなくらい。無言の中を、猫猫は息が詰まりそうな心地で耐えて、そしてその時。
「………」
言葉はなかったが、じっと猫猫を見つめていた楼蘭妃が再び歩みを進め始めた。
猫猫の前を通り過ぎていく。侍女たちも続き、結局彼女たちも何も口にしないまま――何か言いたげな視線の気配は残ったものの、渡り廊下を去って行った。
足音が聞こえなくなって、それでもしばらく猫猫は頭を下げたままだった。視線の気配が消え去るまで待ち、そしてようやくそれが途切れた頃。楼蘭妃一行が完全にどこかに去ったことを確かめて、猫猫はようやく頭を上げた。
「はぁっ……! ああ、びっくりした」
「びっくりしたのはこっちだよ! お妃さまの姿が見えても猫猫止まらないんだもん!」
「いや、うん。ボーっとしてて……。とにかく、小蘭のおかげで命拾いしたよ」
ありがとう、と緊張で血色の引いた小蘭に礼を言いつつ、猫猫は内心の冷や汗のほうもなだめすかす。
許すも許さないも楼蘭妃は言わなかったが、しかし気に入らなければ一言、二言は言っていたはずなのだ。それがなかったのだから、つまり妃は今回の猫猫に見て見ぬふりをしてくれたということ。きっとそうに違いない。
そう思い込むことによってひとまずの冷静を取り戻す。すると、『というかなんで上級妃が
それよりもと、猫猫は洗濯籠を持ち上げる小蘭へ再び尋ねた。
「それで小蘭、子翠のことなんだけど……」
「ああ、子翠。子翠ね。うーん……」
今度こそ返事は返って来た。が、同時にそれはどうにもはっきりしない声色だ。
洗濯籠を抱えて歩き出す小蘭の眼は、何かに迷うように宙を漂っている。不思議に思いつつ、猫猫は彼女の後を追った。
うーんと唸る小蘭の後に続き、しばらく一緒に歩く。じっと答えを待っていると、ようやく宙に向いた彼女の眼が猫猫へと向けられた。
「猫猫それってさ、もしかして例の……
「……まあ、そう」
後半は声を低め、こっそりと耳打ちで伝えられた疑問に対し、猫猫は渋々頷いた。
その後に続くであろう言葉がわかったからだ。できれば気付かないでいてほしかったのだが、小蘭も子翠と同じくいい子なのである。思い至ってしまったのだろう。
「言ってくれれば、私も手伝うよ。何ができるかはわからないけど、猫猫のためなら頑張るから!」
なにせこの騒動を知ってしまった一人だから、と、そんな義務感が働いてしまったに違いない。
あるいは子翠もそうなら友達として自分も、なんて思ったのかも。その内心は定かでないが、ともかく彼女はそう言って、やる気で胸を張っていた。
けれどしかし、その友情には感謝しつつも、猫猫の答えは決まっている。
「ありがとう。でもごめん。危ないからさ」
「そりゃあ、そうだろうけど……」
小蘭は巻き込めない。首を横に振った。
小蘭はそんな猫猫の返答に少し不満そうに頬を膨らませていたが、それでも猫猫にその考えを変える気がないことはわかってしまったのだろう。ため息を吐くように頷いた。
「……わかった。そうだよね、猫猫はたぶん、壬氏さまに頼まれて調べているんだもんね。私が余計な事したら、猫猫が怒られちゃう」
「……小蘭のことは知られてるし、別に怒られることはないと思うけど……いや、まあ、うん。そうだね。ごめんね」
使えるものは何でも使う主義の壬氏のことだ。むしろ手勢が増えるなら願ったりだと歓迎されるような気がしなくもないが、黙る。どのみち猫猫には受け入れられない。
故に最後にもう一言謝ってから、猫猫は改めて小蘭へと向き直った。
「で、この流れでお願いするのはまた申し訳ないんだけど……」
不満そうな表情から少し寂しげなそれに変わった彼女へと、おずおずと返事をねだる。
そんな猫猫に、小蘭は仕方がないとでも言うようにため息を吐き出したのだった。
「うんうん、わかってるって。子翠だよね。私は最近見てないんだけど、友達が言うにはね――」
「――診療所でよく見かけるらしい、か」
そう教えてくれた小蘭に従い、猫猫はその診療所へと訪れていた。
診療所とは、女官の療養と隔離のための場所だ。猫猫がよく出入りしている医局と違い、医官はいない。女官だけで運営されており、薬の処方も怪我の治療も請け負ってはいないが、しかし掃除が行き届いており、風通しもよく、清潔だ。
後宮唯一の医官が
だから子翠は、ここならば
診療所での目撃情報があったのはきっとそのためだ。子翠はこう考えたに違いない。
あの時、印章を目にして
だがしかし――もちろんと言うべきか、手掛かりとなるその下女は診療所にはいない。猫猫も詳しくは聞いていないが、彼女は壬氏の手で厳重に隔離されているという。
皆が利用する公共施設に身柄を置いておくはずもないのだ。子翠もそれくらいのことは想像できていただろうが、しかし下女の身では他に手掛かりになるものの当てなどありはしない。だから僅かな望みに賭けて、彼女は診療所を探っていたのだろう。
(そうだったなら……)
碌な当ても伝手もなく、
……むしろ少々
(まあそのために、まずは当の子翠を見つけなければならないわけだが)
しかし先は明るくなりはしても、現在地はまだ暗いままだ。猫猫は息を吐き、ざっと辺りを見回してみる。
診療所の建物と少し離れた洗濯場。敷地にいるのは白い服装をした診療所の女官たちばかりだ。下女服の子翠は、やはりどこにも見つからない。
目撃情報があったとしても、今、この時に子翠がこの場にいるとは限らない。それに彼女は最後に会った時、忙しくなりそうだなんて言っていた。彼女の少ない自由時間と猫猫のそれがかみ合わないのは、むしろ当然のことだった。
だから、まあ、十中八九無駄だろうが、
(一応、全部調べてみるか)
内心で呟き、猫猫が見やるのは診療所の建物だ。その内部は、当然ながら外からでは見通せない。
それに猫猫の想像が正しければ、
――ただし。
(勝手に入ったのがバレたら、怒られるだけじゃすまなそうだが)
病人が療養する場所に無暗に立ち入っていいはずがない。理由がなければ、あるいは話せなければ、厳しい叱責が飛ぶことになるだろう。巡り巡って玉葉妃の迷惑にもなりかねない。
だから侵入するなら、バレないようにこっそりと、だ。
(……よし)
猫猫は覚悟を決めた。
もう一度、周囲を見渡す。忙しく働く女官たちは主に洗濯場と建物とを行き来している。普通に侵入しようとすれば、猫猫はそこを突っ切ることになるだろう。
そうしたならば注目が集まってしまうのは避けられない。正面から建物に立ち入ることは不可能だ。
(なら、裏からだ)
何も建物への入り口が正面だけとは限らない。探せば人気のない裏口くらいはあるはずだ。そう信じ、猫猫はこそこそと移動を開始した。
診療所の女官は皆働き者だ。自身の仕事に集中している彼女たちは、幸いなことに不審な動きをする猫猫に気付かなかった。誰の目にも留まることなく猫猫は診療所の建物の裏に回ることに成功し、そして目論見通りに誰も使っていない裏口を発見した。
廊下に上る階段を上り、質素な床板を踏みしめる。そこでようやく、猫猫はそれまで詰めていた息を吐き出した。
けれどしかし、もちろん気を抜くわけにはいかない。外で働く女官たちに見つかる恐れはもうないが、当然、建物内にも女官はいる。そういう意味で、むしろここからが本番と言えた。
(もし、万が一見つかった時は……)
懐をまさぐり、小瓶を一つ引っ張り出す。猫猫が普段使いしている消毒用の
バレないように細心の注意を払うつもりではあるが、しかし猫猫は当然ながら密偵や暗殺者などではない。見つからずに目的を達成できる保証があるわけもなく、ならば
(これのおすそ分けに来た、ってことでどうにかするか)
……どうにかなればいいのだが。不安が拭えないが、しかしこの診療所では薬が使えない分、消毒用
そしてそんなイチかバチかが起こる前に、さっさと子翠がいるかいないか確かめてしまおう。不安が満ちる内心をそう落ち着けて締めくくり、気持ちを切り替えるのだった。
そうしてまずは手始めにと、階段を上った手前の部屋を確かめるべく戸の隙間から中の様子を窺おうと覗き込み――
「何をしている」
「っ!!」
その時、背に響いた低い女の声に、猫猫は一瞬のうちに
「あ、怪しい者ではありません! 私の同僚が以前ここでお世話になったので、そのお礼をさせていただきたく思い……!」
相手を見もしないまま反射的に頭を下げて、さらにそのまま
……だが、相手はいったいいつから猫猫に気が付いていたのだろう。もし裏口から侵入していたところを目撃され、そして声をかけてきたのだとすれば、きっとそれはすこぶるまずい。
(何をどう言いつくろっても不審者じゃねーか……!)
せっかくの保険がそもそも機能していないかも。そうであったならと考えると下げた頭を上げることも恐ろしい。
果たして信じてもらえたか、それとも見破られてしまったか。猫猫は首を垂れたまま、処刑を待つ罪人のように沙汰の時を待つしかなかった。
そして――
「……ふふふ。猫猫それ、もしかして
普通はお菓子とかじゃない? と、そんな声。さっきの低い女の声とは違う――耳慣れた声が、猫猫の頭上でクスクス笑った。
困惑。親しみのあるその笑声に
「……子翠?」
「うん、子翠だよ。猫猫が私のこと探してるって聞いたから、急いでお仕事片付けてきちゃった!」
ニコニコといつも通りに朗らかに、子翠が猫猫の前で微笑んでいた。
それを認めて、猫猫は数舜後に遅れて気付く。つまり彼女にからかわれたのだ、と。
「……それはまた、お手数をおかけしたようで」
「ううん、全然。猫猫のためなら仕事の一つや二つ、何のそのだよ」
小瓶を再び懐にしまいつつ、猫猫は引き攣った笑いを誤魔化す。それに気付いているのかいないのか、子翠は機嫌よさげな表情をまるで崩さず胸を張り、ニコニコ微笑むままだった。
そしてそのまま、彼女は猫猫へと迫って来た。
「それで……私にどんなご用件?」
微笑むその眼が、一瞬だけ鋭く光ったような気がした。
僅かに見えたその光に、猫猫もまた我に返る。そうだ、彼女が察していないはずがない。そもそも最後の別れ際からの、この普段と変わらぬ朗らかさ。あの時その背に噴き出しかけた
だから前置きはいらないだろう。猫猫は一息吐いてから、端的且つ率直に要請を投げかけた。
「例の
「……うん、いいよ」
さすがに一瞬の間はあったが。しかし子翠は微笑みを保ってあっさりと頷いた。
やはり彼女は猫猫の想像通り、
「ありがとう、助かるよ。それに……よかった。前はこっちから断っちゃったし、気を悪くしてるんじゃないかってちょっと心配だったんだ」
「あはは……。まあ、猫猫の気持ちもわかってるつもりだからさ。むしろ嬉しかったよ、猫猫の優しさだって。……でもそれを押してのこの状況ってことは、結構行き詰まってる感じなの?」
「まあ……そうだね。手掛かりはあったんだけど、途中で潰えちゃってさ」
「そうなんだ……。でも二人で協力すればきっと新しい手掛かりも見つかるよ。がんばろう!」
猫猫が肩をすくめてみせると、子翠は臆することなく威勢よく、胸の前で拳を握る。やる気満々といった雰囲気だ。
二人で新たな手掛かりを見つけ出そう。その決意の言葉は、猫猫と子翠二人の協力体制に対する宣誓だ。猫猫も当然それに頷いてみせて、ならば早速、お互いの持つ情報のすり合わせと行きたいところではあるが――その前に。
どうせなら、やはり聞いておきたかった。
「ところで、子翠。聞いてもいいかな」
「うん。なぁに?」
「一応、情報共有って意味合いもあるんだけど――」
尋ねる理由としては、私情の比率の方が高い。だからこっちは前置いて、猫猫はそれを口にした。
「あの時、あんなにも驚いたのは、なぜ?」
「……あの時?」
子翠が怪訝そうに首をひねる。が、思い当たらないはずがない。
ならば同じく
だが今回は思い切って、そこからもう一歩先へと踏み出す。子翠は嫌がるかもしれないが、猫猫とてこれから共に調べを進める以上、気になる気持ちを抑え込み続けるのはちと辛い。
抗えぬ好奇心のままに、猫猫の口は止まらずそのまま、疑問を口にし続けた。
「ほら、最後に会った時。あの時に印章を見て、子翠、それが子の一族に関係するものだって気付いたんでしょ? ……どうしてそれを隠したんだ?」
生じた驚愕を取り繕ったその反応。そんなことをする意味が、猫猫は気になって仕方がないのだ。
印章と子の一族の関係を隠そうとする心情は、わかる。それはここに来る途中にも考えを巡らせた通りのことだ。
けれどしかし、ああまで徹底的に動揺を押し殺せた、その根幹が不可解だった。
子翠は下女の身に似合わぬほどの教養があり、頭の巡りも早い。故に動揺を――印章に心当たりがあることを隠そうと考えるのが道理であるのと同時、隠すことによって事件の解決に出る影響のことにもちゃんと思い至れたはずなのだ。
唖然の直後、瞬時に取り繕えた理由がわからない。その間に少しくらい
だから、そんな迷いも押し潰してしまえるくらいの大きな
大きな隠し事だ。今後一緒に調べを進めるのなら、そんなささくれは除いておきたい。そう思うのが当然だろう。
だから知りたい。つまりそういう意味合いの質問だった。
その秘密がこの
だからもし子翠が明かしたくないというのであれば、猫猫は素直に退くつもりだった。無理に聞き出そうとして、結果関係が悪くなったのでは本末転倒。そのつもりで、猫猫は子翠の返事を期待した。
答えてくれるのか。それとも拒絶か。果たして――と、猫猫は子翠の様子を伺い見やり――
「……?」
しかし、応えはなかった。
反応が、そもそもない。子翠は猫猫が尋ねたその瞬間から、まるで時間を切り取ったかのように固まって動かない。
――いや、
(笑ってる……?)
怪訝な表情のままで止まったその口元に、ほんの一瞬、笑みが浮いたような。
そんな、現実かも定かでない僅かな表情だけがあって、数舜後。さらに追及するような間もなく、
「こんなところで何をしているの」
と、さっきも効いたような台詞が猫猫の背に投げかけられた。
ただし今度は子翠のそれではない。彼女は猫猫の正面だ。
だから当然、今度のそれは悪戯などではありえない。
「あっ……い、いえ、私は……いや、私たちは怪しい者ではなく……!」
慌てて振り向き、猫猫が相対したのは中年の女官。以前、同僚の付き添いで世話になった、確か
子翠と少々ゆっくりしすぎたらしい。認識し、再びせり上がる危機感が笑みらしきものに対して抱いた疑念を押し退ける。今度こそ
「前にお世話になったので、そのお礼にと思いまして! これ、どうぞ!」
「……
とりあえず、受け取ってはもらえた。しかし小瓶を手にした彼女の様子に、猫猫は全く安心できない。
その眼は猫猫を通り越し、子翠のことを見つめていた。内心の窺い知れないその静かな視線は、どうであれ子翠を捉え、離す様子が見られない。
道理だ。猫猫の場合はお礼ということで納得できても、子翠がこの場にいる理由は説明できない。それに小蘭から聞いた噂通りに子翠が診療所に入り浸っていたのなら、きっと彼女は警戒されていたに違いない。
よくない事態だ。どうしたものか。
――しかし、それを考えるような時間はなかった。また、考えたとてどうにもならなかったことだろう。
深緑はそのまましばらく見つめた後に、有無を言わさず猫猫たちをとある一室へと連れて行った。そこでお説教でもされるのかと、てっきりそう思っていたのだが。
それ以上の事態が、部屋の戸を開けた瞬間に同時に起きたのである。
まず、深緑が暗器のような鋭い針を子翠の首筋に突き付けた。訳も分からず呆ける中で、さらに猫猫の正面にはもう一つ。
「おとなしくしろ。そして私たちの言葉に従え」
そんな、実に唐突な脅しで以って。
驚くべきことに、猫猫たちは後宮内で誘拐されてしまったのだった。