「
「たぶん……
打ち沈んだ声音で呟く隣の
同時に彼女の方へと振り向くが、その顔はあまりよく見えない。膝を抱えて座り込み、俯いているせいでもあるが、それ以上に今いるこの空間が薄暗いのだ。
掃除はされ、簡易な寝台なんかの家具も運び込まれているものの、恐らく本来は納屋か何かであるのだろう。四方は壁で窓はなく、辛うじて高い位置に風を取り入れる小さな穴が開いているばかり。外は昼間だが、そうとは思えないほどの暗さだった。
誘拐されて、挙句の果てに薄闇の中での幽閉である。ただでさえ不安でならない状況なのに、これでは気持ちも暗くなっていく一方だ。
猫猫は元来の気質のおかげか、あるいはずっと昔に人買いにかどわかされて後宮に売り飛ばされたという経験があるためか、さほどの憔悴もなく済んでいるが、子翠に関しては見ての通り。いつもの元気で明るい気性は鳴りを潜め、すっかり参ってしまった彼女はずっとこんな調子だ。
かわいそうでならない。少しでも気を紛らわせるために、猫猫はまた少し考えてからさらに言葉を繋げていった。
「……少なくとも、都から北のどこかだとは思う。後宮を出てからずっと籠に押し込まれていたけれど、馬車と船、移動の日数を考えると……まあたぶん、そうじゃないかなって」
「でも……それにしては、ちょっと温かくない……? 子北州はこの季節、もう雪が降り始めるところも多いのに」
「そうなんだ?」
子翠がおずおず零した胡乱気な声に、猫猫は肯定も否定もできない。話を振っておいてなんだが、さして地理に詳しいわけではないのだ。元々興味のある分野、薬学医学以外のものには、猫猫はてんで疎い。
が、しかし。雪とは程遠いほど温かく、湿ったこの空気がらしくないのだとしても、その点に関しては説明できる。
子翠の隣からそっと腰を持ち上げて、数日ぶりに拘束から解放されたばかりの手首を改めてほぐしつつ、「気付かなかった?」と続けた。
「ここに連れて来られる道中、硫黄臭……卵が腐ったみたいな臭いがしてたでしょ。あんな臭いがしたってことは、つまりこのあたりには温泉が湧いているんだよ。気温と湿度はきっと地熱のおかげだね」
言いながら、猫猫はやたらしっかりした作りの卓を引きずって運び、壁際まで持ってくるとそれに乗る。おまけに精一杯の背伸びをして、小さな風取り穴から外の様子を覗き見た。
見える風景のほとんどは丸太の壁だ。いやに物々しい市壁に囲まれ、その外は見通せない。しかし僅かに見える地面には冬どころか秋の気配もまだ遠そうな青々とした下草が伸びており――そしてやはり、特徴的な温泉の臭いがはっきりと感じられた。
湯気も建物も見えないが、やはり猫猫たちが連れてこられたここは温泉地なのだ。
「もしかしたら、湯治場だったりするのかな。翠苓も今頃はそっちで羽を伸ばしてるのかもね」
「温泉、かぁ……。そうなのかな」
翠苓はここに来るまでの道中、猫猫と子翠が押し込められた籠に張り付くくらいの距離で見張っていたにもかかわらず、ここにたどり着いた途端に姿を消してしまった。温泉の臭いがすることを鑑みれば、長旅と誘拐と見張りと、もろもろの疲れを癒しに行っていると考えるのが自然だろう。
だから、猫猫としては正直なところ、翠苓のことが恨めしかった。猫猫は風呂のある娼館で育ったために比較的に風呂好きなのだ。
数日間ものお預けは少々きつく、なのに翠苓は、と思えば込み上げるものは無視できない。
まあこの嫌味も推理の正誤も、翠苓がこの場にいない以上、言うも聞くもできようがないのだが。
――それはともかく。
「……心当たり、ないの?」
「え……?」
もしここが子北州の中であり、名の知れた湯の里であったなら。子翠はそれを知っているのではないだろうか。
「子翠って……
彼女は妃の入内と共に後宮にやって来た。ならばおのずと、子翠自身も子北州の生まれであるはずだ。子翠が猫猫のように地理の類に疎かったとしても、地元であれば少なくとも猫猫よりは詳しかろう。
「……うん、そうだね」
果たして。
猫猫がかねてから内に秘めていた疑惑に対し、子翠は一瞬迷った様子を見せたがしっかりと頷いた。
「もう隠していたってしょうがないしね」
薄闇の中でよく見えないが、たぶん彼女は苦笑を浮かべたのだろう。空っ風のような諦念の音が猫猫の下まで聞こえた。
事実、彼女が今までずっと隠し続けてきたその秘密は、もはや秘密にしておく意味がない。
なくなってしまったのだ。彼女は恐らく己が主人の眼を憚って口をつぐんでいたはずなのに、結果こうして誘拐されて、監禁なんていう目に遭わされているのだから。
「……私たちを攫ったあの人は、やっぱり子の一族なのかな」
実際、引き結んだ唇から絞り出すように零れたそれは、不安と疑念、そして主人に対する失望が大いに滲んだ声だった。
子翠が憔悴している理由に関しても、その凡そは実のところこれなのだろう。
仕えた主人の裏切り。主人が悪事に手を染めて、挙句に尽くしてきた自分をこんな目に遭わせたのだと考えれば、それはもう顔を覆いたくもなるはずだ。
猫猫に置き換えてみれば、
(そうなら……悲惨だな)
正直、憐憫を覚えずにはいられない。
気付けば内心は、尋問から憐れみへとすっかり傾いてしまっていた。抱えた膝に顔をうずめてしまった子翠の様子に、踏み込み過ぎたという後悔の念が滲み出る。
(でも、だからってこのままじゃ、何もわからないままだ)
内心に満ちる『慰めてやりたい』という衝動を、猫猫は辛うじてねじ伏せた。かわいそうだが、しかしやはり状況が状況なのだ。そっとしておいてあげるわけにはいかない。
壬氏に命じられた事件解決のためだけでなく、猫猫たちの命のためにも現状を把握しなければ。そしてそのために、やはり
子翠が楼蘭妃の下女であるという秘密と同様に、もはや隠し続ける必要はないはずだ。そしてここがわかれば事件の推理も随分進むと、そんな気もする。
だから猫猫は、子翠の前に膝をついてその両肩を捕まえた。少々心苦しいが是が非でも答えてもらわねばならないと、彼女の顔を持ち上げて。
「子翠――」
と、眼を合わせた――その直後だ。
「おい、姉ちゃん。そこにいるのか?」
不意に幼い子供の声が納屋の中に響いた。
驚き、猫猫は反射的に背後と周囲を見回した。だが何も見つからない。
唯一の出入り口である扉は固く閉ざされたままで、もちろん外から誰かが入ってきた様子はない。心なしか前よりも暗くなったような気がするが、納屋にいるのは相変わらず猫猫と子翠の二人だけだ。
じゃあ、誰の声なのか。驚きと困惑の只中で、猫猫の口は閉じる他ない。子翠へ向けるはずだった台詞も忘れてきょろきょろと、もはや物の輪郭くらいしか見通せない暗がりを見回す。
どこかに誰かが隠れているのかと思ったのだが……やっぱりいない。結局何が何やらさっぱりだったのだが、その代わり。子翠がそれを発見した。
「猫猫、あそこだよ」
「あそこ……?」
「ほら、あれ」
目をこすりながら子翠が伸ばした指先を、猫猫は辿って上を向く。風取り穴だった。外の空気と、そして明かりを取り込むその場所が、少年の顔で塞がれていた。
その顔立ちは、まだまだ幼さの残る子供といったふうだった。まだ声変わりも迎えていない中性的な風貌が、明るい陽の下から眼を細め、こちらの暗がりをのぞき込んでいる。
(なんでそんなとこから……)
驚くやら呆れるやらだ。そして、そうしているうちにやがて眼も慣れたのだろう。ぎゅっと眉間に力を込めていた彼は、ふとその時、ハッとなってそれを解き、見張った眼に嬉しそうな表情を浮かべた。
「やっぱり! そっちの鳥ガラみたいなソバカスは知らないけど、座り込んでるのは子翠姉ちゃんだろ!」
ただでさえ小さな穴に顔をぐいぐい押し込んで、僅かな逆光に照らされた男児はにかっと歯を剥き笑う。ついでに猫猫に対してしれっと失礼なことを言い放ったその口は前歯が一本欠けていて、少々間抜けな感じに見えた。
が、そんな事よりも。
(子翠姉ちゃん、だと……?)
この甘ったれたクソガキは、子翠と知り合いなのか。
猫猫は子翠の方を振り返る。だが当の子翠はクソガキの方を見上げたまま、怪訝そうに首をかしげていた。
「えっと……だれ? どこかで会ったことあったっけ?」
「ええっ!? 姉ちゃん、おれのこと忘れちゃったのか!? おれだよ!
「響迂? うーん……」
いかにも親しげなふうなクソガキ、響迂に対し、子翠はその名前にも心当たりがないらしい。頭に指を当て記憶を探っているようではあるが、その口元は困惑の形のまま動かなかった。
響迂が期待する反応は、いくら待っても出てくるまい。
「嘘だろ……本当に忘れちゃったのかよ! ひでぇよ姉ちゃん……! あんなに遊んでくれたじゃんか!」
「え、えーっと……ごめんね? 思い出そうとはしてるんだけど……」
「頑張って思い出してくれ! もうここには戻ってこないって言われてたから、また会えておれすっごくうれしかったんだぞ! まだもうちょっと先だけど、一緒に祭りにだって行きたいよ!」
「待て。……そもそもお前、どうやって子翠がここにいるって知ったんだ。私たちは一応、誘拐されて閉じ込められているわけなんだが」
と、気まずさが隠せない子翠へ届かないのに手を伸ばす響迂の必死さに、猫猫は割って入った。他にも聞きたいことは山ほどあったが、まずこれだ。
「……翠苓に聞いたのか?」
人攫いを公言するようなバカはいない。ならば響迂は他人ではなく翠苓の手先であり、何かの目的があって子翠に馴れ馴れしい態度を取っているのだ――ということも考えられなくない。
警戒心は、こんな相手にも保たざるを得ない。子翠も一瞬遅れて猫猫の態度の意図に気付いたらしく、ビクリと身体を竦ませた。
だが、一方。
「……翠苓姉ちゃんは、むしろ子翠姉ちゃんはいないなんて言ってたよ。翠苓姉ちゃんが戻って来たのに子翠姉ちゃんが一緒じゃないなんて、そんなの絶対あり得ないのにな!」
風取り穴から覗く響迂の顔は、全く動揺していなかった。
その声には翠苓の思惑など欠片も見えず、それどころかいかにも不満そうだ。
加えて、言っていること自体はさらなる疑問を呼び込むばかりのものだったが、ともかくその台詞を読み解くに、彼はこの誘拐事件に関りなどないらしい。
ならば響迂は本当に子翠の知り合いで、子翠は本当に響迂のことを忘れているだけなのだろうか。……いや、そんな取ってつけたような話がそうあるとは思えない。
「っていうか、誘拐? おいソバカス、それってどういうことだ? ……お前も子翠姉ちゃんも、翠苓姉ちゃんに攫われてここまで来たって言いたいのか?」
「そうだよクソガキ。私たちはあの女とその仲間に刀で脅されて連れてこられたんだ。だからそんな相手を姉ちゃん呼ばわりしてるお前のことは、どうにも信じられなくってね」
「刀……? 何言ってんだ。ソバカスが脅されるのはまだしも、子翠姉ちゃんが翠苓姉ちゃんにそんな事されるわけないだろ! ……っていうか、そうだよ! 子翠姉ちゃん、なんでこんなところに閉じ込められてるんだ!?」
話はやはり、作為的な何かが滲んでいた。
ならば響迂は嘘をついているか、そうでなければ嘘を
ちょっとした勘違いやすれ違いなどではない。もはや響迂当人にすら明らかだった。
「わけがわからねぇ……。どういうことなんだよ、子翠姉ちゃん!」
「そんなの、こっちが知りたいよ」
喉を鳴らす響迂に、子翠がため息を吐くように首を振った。
猫猫ももちろんのこと、響迂が満足するような答えなど持ち合わせていない。口は閉ざす他なく、故に響迂の口もまた、しばしの間、沈黙した。
その頭の中で何を考えているのか、絶え間ない疑問符で茹った表情が苦々しげになったり悩ましげになったりと、次々に移り変わる。
そして、その末。響迂は何か決心をしたように、「よし」と呟き子翠の方をまっすぐ見やった。
「わかった。おれ、翠苓姉ちゃんに話を聞いてくる。今の翠苓姉ちゃん、なんかすっごいおっかない雰囲気がして怖いけど……子翠姉ちゃんのことならきっと教えてくれると思うから」
「えっと……まあ、そうだね」
「うん! だからちょっと待っててくれよ。すぐだから!」
響迂はそれを子翠への励ましとして言ったのだろうが、こちらの立場からすればやはり曖昧に応じるしかない。仮にこの不整合の真相を翠苓が話したとして、それが虜囚たる猫猫たちの耳にまで届く道理はないのだ。
だからはっきり言って、響迂の決意はどうでもいい。そうとも知らず、恐らく猫猫たちに託されたと意気込んだ響迂は一つ頷いて、それから風取り窓に突っ込んでいた頭を引き抜いた。
己の足元――窓は高い位置にあるのだから、そこを覗き込むため諸々を踏み台にしているのだろう――をちらりと確かめ、そして最後に子翠へともう一度、どこか誇らしげにきりっと引き締めた眼を向けた。
「安心してくれ子翠姉ちゃん! 何があったか知らないけど、翠苓姉ちゃんが姉ちゃんに酷いことをするなんてありえないんだからな! だって子翠姉ちゃんは――」
「――響迂」
と、その時。
響迂の言葉に子翠の声が
「響迂!!」
それより一層激烈な怒声が、それをすべて掻き消した。
「っ! う、うわぁッ!!」
途端、怒声に驚いた響迂がたぶん、転げ落ちた。風取り窓から一瞬にしてその顔が消え、がらがらどしゃんと喧しい騒音が鳴り響く。
その後、壁越しにくぐもってわかりづらいが、恐らく響迂は怒声の主にお説教を喰らったようだ。低めた怒りの声色とそれに対する謝罪の言葉がうっすらと聞こえてくる。そしてそれが止むと、今度は足音がその場をすごすごと立ち去って行った。
「……役に立たねぇ」
思わず、呆れてしまう。啖呵を切ったその直後のこれである。助けるどころか、奴がもたらしたのはこちらへの迷惑ばかりだ。
そして実際、怒声の主――翠苓は、締め切られた扉越しに不機嫌そうな声を発した。
「……響迂と何を話していた」
「別に、何でも。……ただ、あなたがどうして私たちを攫って閉じ込めているのか、不思議がっていただけですよ」
子翠が、響迂を心配しているようなそぶりをしながらそう答えた。
「……そうか」
翠苓扉越しに、それで納得したらしい。唸るようにため息を吐き、それから一言いい捨てた。
「直に食事を持ってくる。うまいものが食いたかったら、おとなしくしていろ」
――夜になった。
納屋の中は相変わらず猫猫と子翠の二人だけだ。少し前に翠苓が約束通りに食事を持ってきてくれたが――実にありがたいことにすごくおいしい御膳だった――猫猫達が食べ終わると、食器類と一緒にまたどこかへ行ってしまった。
これまで馬車や船でそうしてきたように、猫猫たちを見張って夜を明かす気はもうないらしい。せっかく頑丈な檻に閉じ込めたのだから、久しぶりに寝台でゆっくりと身体を休めたいということなのだろう。なにせここは恐らく湯治場なのだから。
……あるいは、だ。
「ねえ、子翠」
「うん? なぁに? 猫猫」
対面の子翠に声をかける。応えが返るが、しかしその表情は今や全く見えない。ただでさえ薄暗かった納屋の中は、夜闇によって完全なる暗黒と化している。
だが見えなくても、納屋は再び猫猫と子翠の二人っきりになったのだ。であるなら、躊躇する要素は何もない。
「子翠は、何を隠しているの?」
三度目の質問を、猫猫は子翠へと投げかけた。
後宮で見つかった印章について、知っていながら知らんぷりをしたその理由。響迂の乱入で聞きそびれたさっきの続きだ。
元より無視できない疑念を孕んでいた問題だったが、ついさっきの響迂と翠苓の到来でその疑念はより強くなっている。子翠を見つけた響迂の反応に、それを咎めた子翠自身のあの態度。あれはもう、
彼女はもう確実に、猫猫に隠し事をしているのだ。それも今のこの状況にも関わるほどの、特大の秘密を。
これを放置する選択肢はもはやあり得なかった。
「子翠は……響迂や翠苓、子の一族と、いったいどういう関係なんだ……?」
妃付きのただの下女、なんていう程度ではありえない。それはもう確実だ。しかしただの下女でなければ、何なのか。自身のためにも、
今度こそ、答えを聞くまで引き下がらない。その強い思いで猫猫は子翠の方をじっと見つめ、逃さぬようにと迫った。
もちろん完全な暗闇の中では何も見えなかったのだが。しかし、それでもしばしの無言があった後、「ふぅ」と吐いた吐息の声ははっきり聞こえた。
「どういう関係、かぁ……」
「……楼蘭妃の下女だってことも教えてくれたんだ。なら、一つも二つも同じでしょ」
軽口を叩きながら、しかしその内で猫猫は息を詰めた。子翠そのため息には、驚きも困惑もなかったからだ。
それすなわち、猫猫の疑問に子翠は道理を感じているということ。隠し事の存在を、彼女自身がとうとう認めたのだ。
「子翠」
自分でも気付かぬ間に、猫猫は子翠に詰め寄っていた。互いの呼気が互いの顔を撫でる距離。それでも尚、その表情は闇に溶けて伺えないが――しかし。
一瞬、猫猫は見えないはずの子翠の瞳に、ちかっと光がよぎったようなそんな気がした。
見間違いだ。そもそも見えていないのだから、光など気のせいであるに違いない。
しかし、その幻視はどういうわけか気になって頭から離れない。何かとても大切なような、手放し難いものであるような感じがして――だがしかし、だった。
「秘密」
沈黙の末に、子翠は短く一語だけを口にした。
「猫猫には教えない。……そのほうが、たぶん都合がいいから」
「都合……? 都合って、いったい何の都合だよ……!」
平静でいようとするも、しかしどうしても語調が荒くなる。訳の分からぬ事情を持ち出され、猫猫は思わず子翠の胸倉をつかんだ。
だが暗闇の中で伸ばした手だ。しっかり捕えることなど叶わず、子翠の手の一払いで容易く解かれてしまう。
猫猫の追及を押し退けると、恐らく、子翠はその場から腰を上げた。衣擦れの音が猫猫の頭上へ上がっていって、そして同じく声が、突き放すような響きを帯びて猫猫へと浴びせられた。
「猫猫はそういうのを推理するのが好きなんでしょ? なら、今回もそうやって考えてみてよ。私が……
「……別に、好きじゃない。事情があって、そういうことに使われることが多いだけだ。答えがそこにあるのにわざわざ頭を悩ませたがるような変人じゃない」
「そう? まあ、でも、頑張ってみてよ。私も……そう、興味あるからさ」
「っ……!」
猫猫の推理に、と、子翠はそう続けようとしたのだろうか。わからない。しかしとにかく、子翠に何かを教える気がないことは明らかだった。
知りたいのなら自分で見つけてみせろと、彼女は猫猫との協力をはっきり拒否したのである。
信じ難い衝撃だった。
猫猫は言葉が継げない。怒り、悲しみ、疑問、そのどれもが喉元まで込み上げるのに、出ては来ない。
(まさか、子翠は……)
関係者、どころではない。もっと
よぎり、そして暗闇の中で自身に向けられているはずの子翠の視線が、さっきと打って変わって酷く冷たいように見えて――
「――おい、いるか、子翠姉ちゃん。あとソバカス」
「っ!?」
その時。静寂の中に既視感のある声が囁いて、猫猫はハッと我に返った。
とっさに風取り窓の方を見やるが、しかしそこには誰もいない。町明かりの微かな残滓と、暗い夜空に淡く光る星々が覗くだけだ。
声はそっちではなく反対側で、もっと下のほう。納屋の扉からだった。
「……響迂、だっけ。何やってるんだ、お前」
「何って、決まってるだろ! 子翠姉ちゃんを助けに来たんだ!」
「かちゃがちゃん」と金属が擦れる音が鳴り、次いで「ぎい」と扉が軋みを上げる。つい先ほどのクソガキが、幼い身には重い扉を必死になって押し開けていた。
その手に携えた提灯の暖色光が納屋の中に差し込んできて、暗闇に慣れた猫猫たちの目が眩む。眩しいそれにまた目を慣らしている間に、響迂は扉を人一人分押し退けることに成功していた。
そして中にたたずむ猫猫と子翠へ、思い詰めたふうな声音で言った。
「……翠苓姉ちゃんはなんにも話してくれなかった。お前は知る必要のないことだって、子翠姉ちゃんのことは、ほっとけって……」
「だからって、お前……『助けに来た』だって?」
「そうだ! こんなところに閉じ込めて、おれにも子翠姉ちゃんにも説明しないなんて、そんなの絶対おかしいだろ!? だから、俺は姉ちゃんを逃がしに来たんだ! ソバカス、お前もついでに逃がしてやるよ!」
ようやく目が光に慣れて、猫猫は響迂の顔を見やった。……いかにも不機嫌ですといったふうだ。そこには確かに「おかしい」という正義感もあるのだろうが、同時に自分が蚊帳の外であることへの不満も存分に含まれているのだろう。
それでもまあ、説教を食らった相手にもう一度意見しに行くその度胸は立派と言えるが。しかしいずれにせよ、衝動的で考えなしと言う他ない。
「今の時間なら翠苓姉ちゃんも眠ってるはずだ! 子翠姉ちゃん、今のうちに逃げろ!」
「逃げろったって、どこにどうやって逃げんだよ」
響迂を追いかけ納屋の外に出て、それで改めて知ったのだが――猫猫たちが連れてこられたこの場所は、やはり周囲に厳重な防壁を築いた物々しい里の中だった。
高い丸太の市壁に見張り台。外には堀だってあるだろう。里から出るのは困難を極め、かといって内側も、里であるがゆえに当然ながら多くの人が暮らしている。
確かに夜の内は身を隠せるかもしれないが、日が出れば発見されるのは必至。逃げ出してもすぐ連れ戻されるに決まっている。
納屋の閂を開けてもらえたところで、猫猫たちはこの里という檻に閉じ込められたままなのだ。
「……それでも、このままこんなところに閉じ込められたままなんて嫌だろ? 特にソバカス! 子翠姉ちゃんはともかく、お前なんかは簡単に殺されちゃうかもしれないんだからな!」
「じゃあ脱走がバレても殺されるな」
間違いない。幽閉された挙句に殺害という可能性より、むしろそっちの方が高いだろう。バレないはずがないのだから。
……というか、今この時点でバレているのではないだろうか。
「そういえば、見張りはどこだ?」
ふと気付き、周囲を見回し猫猫は怪訝とする。響迂が明かりを灯し、しかもこうして喋っているのに、辺りには猫猫たち三人以外の人影はない。
捕まえた人間が檻の外に出てきているのだ。すっ飛んでこないわけがないのだが、いったいどうしたのだろうか。
というかそもそもの話。
響迂はどうやって納屋の扉を開けられたのだろう。普通、開ける前に見張りに止められるのではないだろうか。
不可解だ。どういうことかと思い悩むが――しかし気付く。これは悩むまでもないことだ。
聞けばいいのだ、当人たる響迂がいるのだから。
(それに……そうだ。子翠のこともこいつに聞けばいいじゃないか)
猫猫は暗闇の中での息苦しさも思い出す。思えば響迂はこちらに於いても無関係でない。子翠が嘘をつき、何かを隠しているならば、逆説的に響迂が言う「子翠姉ちゃん」が真実だということになる。
響迂は子翠が隠す真実を知っている。ならば猫猫の手は推理するより直接それへと伸びる。
子翠の前で吐いた言葉の通りに、気付いてしまった猫猫は直後、すぐさま響迂の方へと目をやった。
「なあ、響迂――!?」
が、しかし。寸前までそこにいたはずの響迂は、猫猫が思考の海から顔を上げたその時には、もうその場にいなかった。
提灯の明かりはもう納屋からとっくに離れていた。眼で追いかけてみれば、辺りのほとんどが夜闇に沈む中、未だに明かりが灯る里の中心部へと駆けていく響迂の姿が見て取れた。こちらへ提灯を振り回しながら、別れの挨拶を叫んでいる。
「バレないように頑張って逃げろよ! 子翠姉ちゃん、ソバカスもな!」
「ちょ、おい、待てっ!」
バレないようにと言いながら大声で叫ぶ響迂は、そのまま駆け去って行く。門限があるのだと言わんばかりに大急ぎで、猫猫の声など聞こえていないらしい。
追いかけない選択肢は猫猫にはなかった。また真っ暗に戻ってしまった足元を、おっかなびっくり急いで走り出す。
子翠は、やはりそれに続かない。彼女に
けれどしかし、猫猫を止めるようなこともしない。彼女は無言のまま、そして猫猫も何も言わず、ただ一瞬だけ振り向いて。
月光に照らされその輪郭だけがぼんやりと佇んでいる子翠を目に収めてから、猫猫はその暗闇の顔から視線を振り切った。
「――響迂、待て! ……待てって!」
「うわっ! な、なんだよソバカス!」
そうして響迂を追いかけて、追いつくにはそれなりの時間がかかってしまった。子供の足だが、しかし提灯なしの猫猫とはさして速さが変わらない。
結局は明かりの灯った目抜き通りのすぐ手前、路地から飛び出るギリギリのところでようやく響迂を捕まえて、その陰に引っ張り込むことに成功した。
「逃げろって言ったのに、なんでおれを追いかけてきてるんだよ。言っとくけど、おれン家に匿ったりはできないぞ?」
「違う。……お前に聞きたいことがあるんだ」
掴まれた腕を振りほどき、通りと提灯の明かりの下で響迂が眉を疑問の形に寄せる。その口から言葉が終わるか終わらないかというところで、猫猫は食い気味にそれを否定した。
手早く済ませ、見つかる前にさっさと納屋へ戻る。そのために前置きをすることもなく、猫猫は単刀直入に響迂へと身を乗り出した。
「子翠は、誰なんだ?」
「……はぁ?」
何を言っているんだ、といういかにもな困惑が返ってきた。しかし猫猫は怯まない。響迂を路地の壁に押し付けるほどに詰め寄った。
「子翠姉ちゃんって言ってたろ。お前、あの子と親しいんだろ? ならあの子がただの下女じゃないってことも知ってるはずだ」
「っ……下女? 子翠姉ちゃんが? 何言ってんだ、姉ちゃんが下女なわけあるか!」
案の定、だった。詰め寄られて一瞬怯んだ様子だったが、響迂はしかし、瞬時に不快感を露に言い返す。下女、という職業は、本来の子翠に照らせばバカにしていると捉えることができるほどのものらしい。
それほど高位ということだ。掃除や洗濯、そういった雑務をさせるなどとんでもないと言えるほどに。
「姉ちゃんはなぁ……!」
いったい、どこの誰なのか。まさか、と、猫猫の中で想像が飛躍する中、響迂はどこか自慢げだ。息を吸い、口にしようとしたのだろうが――だがしかし。
「あらあ、こんなところにどぶ鼠」
「っ!!」
吸った息はまたも子翠に触れることなく、引き攣ったような悲鳴となって掻き消えた。
響迂の眼は一転して恐怖に染まり、猫猫の背後を凝視している。猫猫にもぞわりと背を撫でる悪寒があった。それに引きずられるようにして振り返り、そしてそれを目撃する。
初老の女が、ニタニタと笑っていた。
背に護衛らしき男たちと、彼らが手に持つ灯火を浴び、その身に纏った派手な装束が輝いている。小指と薬指の
響迂が怯えるのも無理はない。加齢によるしわの陰影が目立つその女は、明らかに響迂と、そして猫猫へ嗜虐心を向けていた。
「
と、その時。猫猫と響迂が動けずにいる中で、ふと聞き覚えのある声が、しかし聞き覚えのない怯えた声音で飛び出してきた。
翠苓だ。走って来たのか、あるいは恐怖のためか、蒼白の表情で息を弾ませていた彼女は初老の女に申し出る。
「こ、この女は怪しい者ではありません! 私たちが……連れてきた、薬師の女で……」
「あらそう。前に死んだ男の代わりというわけ? 気が利くじゃない」
(薬師? 死んだ男の代わり? ……まさか、薬を作らせるために攫われたのか?)
誘拐の真相の一端に図らずも触れることになったがしかし、それよりも今のこの状況だ。神美というらしい初老の女が、ひれ伏す翠苓の顎を捕まえ持ち上げていた。
微笑むその表情は、まさか雰囲気と違って褒める優しさがあるのかと一瞬錯覚しそうになるが、しかしすぐにその幻覚は砕かれる。
女は「それでも」と、片手の扇子を振りかぶった。
「私に黙って勝手をするなんて! 身の程をわきまえなさい、売女の娘風情が!」
「っ……!」
扇が翠苓の側頭部を打ち据える。翠苓は横倒しに倒されて、そのまま「申し訳ありません」と震えるだけになってしまった。
(随分、日常的にイジメられているらしい)
そういった反応だ。そして立ち向かってくれた彼女がそうなってしまったら、当然、女の悪意はこちらへと向けられる。
猫猫にも殴打が来るか、あるいはその暗器のような
(ただ子翠の正体を知ろうとしただけなのに……)
どうしてこんな覚悟をしなければならないのか。こんなことになるなら響迂を追いかけたりするんじゃなかった。後悔を噛み潰しながら、猫猫は神美の顔から底意地の悪い憤りが解けるのを見守った。
と、そんなふうに諦めと恐怖心に折り合いをつけるのに忙しかったためだろう。
「まあ、どうせ言い出したのは楼蘭なんでしょうけど」
出てきたその名前に、気付くのが遅れてしまった。
「このぶんじゃ、楼蘭に先んじて戻って来たっていう報告も嘘なんでしょう? その薬師の娘と一緒になって、いったい何をしていたのかしらねぇ」
「……え?」
楼蘭妃? いや、違う。猫猫が一緒にいたのは子翠だ。妃なんて位の高い人物ではなく、下女であるはずで――
(――ああ、そうか)
一瞬受け止められなかったが、しかし、猫猫は理解した。
子翠の秘密。それがつまり、楼蘭だ。子翠の正体は、楼蘭だったのだ。
思えば背格好も目も髪色も、両者はよく似ている。そして同時、それまで抱いていた様々な疑問が立て続けに氷解した。印章に対する反応も、響迂の態度も、あるいは納屋に見張りがいなかったことも、幽閉の待遇がいやによかったことも。
全ては子翠が下女ではなく、楼蘭という名の子の一族の姫君であったからなのだ、と。
正直、上級妃ともあろう人物が下女に扮して働いていた、という事実はこの期に及んでなお呑み込み難いものではあるが。
「翠苓、楼蘭を呼んでいらっしゃい。何故私に黙って勝手をしたのか、弁明を聞かねばならないわ」
「っ……は、はい」
冷たく命じる神美に、翠苓はビクリと身体を跳ねさせてから唯々諾々と駆けて行った。かわいそうだが、猫猫としてもどちらかといえば事情を聞きたい気持ちが勝る。
子翠は、いや楼蘭は、いったいどういうつもりで共に誘拐されるという形で猫猫を連れ出したのか。そしてどうしてそれを今になっても隠すのか。
彼女の言った“都合”とは、いったい何なのか。
あの神美は見る限り子の一族に於いてかなり上の地位。恐らく、楼蘭の母親だろうか。自らの親を前にすれば、楼蘭とて隠し事を隠したままではいられまい。
そんな思惑を内心で抱きつつ、猫猫は神美と、ついでに未だ震えたままの響迂と共に待つことになったのだった。
――しかし。
翠苓は一人で戻って来た。
そして怪訝を浮かべる猫猫たちの前で、死人もかくやといった顔色になりながら、悲鳴を上げるように叫んだのだ。
「楼蘭が……楼蘭が、
この場の誰しもが想像だにしなかった事態が起きていた。