薬屋のひとりごと ~毒虫回遊変転録~   作:もちごめさん

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第五話

 子翠(シスイ)は結局、翠苓(スイレイ)たちがどれだけ必死に探しても見つからなかった。

 猫猫(マオマオ)たちが元居た納屋から始まって、夜でも賑わう目抜き通りに反対側の田畑まで、里の隅々までくまなく探したにもかかわらず、彼女の姿は影も形もなかったのだという。

 

 夜が明け、もたらされたその現実が、翠苓や神美(シェンメイ)にどれほどの衝撃を与えたのかは言うまでもないだろう。

 なにせ楼蘭(ロウラン)妃である子翠が、自ら姿を眩ませるはずもない。その理由も必要も、どこにもないはずなのだ。

 

 猫猫たちが連れてこられたここは、やはり子北州(シホクシュウ)だった。その全域を支配する()の一族の姫である彼女にとって、これはいわば里帰り。しかもかなりの危険を冒した里帰りだ。

 後宮に入った女がそこから勝手に出ることは禁じられており、上級妃の場合は特に重罪が課せられる。つまり世間的には彼女はもはや大罪人で、身を置く当てなど実家である子の一族以外にあり得ない。

 故にこの失踪を本当の誘拐であると、彼女たちが捉えるのは当然のこと。

 

 ……そしてその容疑者として、直前まで子翠と共に過ごし、何よりよそ者である猫猫が疑われるのもまた、当然のことだった。

 

「――私の楼蘭をどこへやったッ!!? いい加減に答えなさい!!」

 

 神美のけたたましい癇癪が耳を打つのと同時、その手の団扇が猫猫のこめかみをしたたかに打ち据えた。

 血が飛ぶほどの打撃に思わず身体が跳ねて、後ろ手に縛られた手首に縄が食い込む。チクチクと毛羽立つ荒縄はヤスリのように皮膚を削って、たぶん、こっちもまた出血しただろう。肉を直接削り始めた痛みと共に、血を吸った荒縄が冷たくなっていく感覚があった。

 それに加え、それ以前に首から胸へと刻まれた護指(ネイルキャップ)による傷もある。赤い線から滲むさび臭い熱は、その一滴ごとに猫猫の身体を重く、冷たくしていくようだった。

 

 引っ立てられ、地熱で温かかった里から冷たい山麓にそびえる砦に連れてこられた猫猫は、そこで拷問のような尋問を受けていた。

 

 今日でちょうど三日目だ。初日は水責め。二日目は蠆盆(たいぼん)――毒虫や毒蛇などと共に閉じ込める刑――と、既に相当な目に遭わせられている。

 まあ、正真正銘冬が近い北国での水責めはともかくとして、蠆盆(たいぼん)はむしろおいしくいただけた(・・・・・・・・・)ので体力回復になったのだが。しかしもちろん、それだけで水責めの影響がチャラになるわけもない。

 むしろ切り抜けてしまった分、猫猫が虫の息となるのを期待していた神美の機嫌を損ねてしまったらしく、子翠のことも合わさって怒り心頭となってしまったのが現状だ。

 業を煮やした彼女自身が、水責め、蠆盆(たいぼん)に続く三日目の尋問として、直接猫猫を弄っているのである。

 

「さあ、どうしたの!? いつまでだんまりを決め込むつもり!? これで足りないのなら……次は目玉でも潰した方がいいかしら!?」

 

 叩き、切り裂いたその末に、神美は今度は護指(ネイルキャップ)の鋭い切っ先を猫猫の右目へと突き付けた。それまでの仕打ちに耐えぬいてきた猫猫も、さすがに身が竦んでしまう。

 手首や首筋の傷は薬を付ければきれいに治るが、目の傷はそうもいかない。取り返しのつかない損壊はさすがに許容できるものではない。

 

「……私は、子翠……楼蘭を攫ってなどいません。彼女を攫った者がいるとして、その仲間でもありません……!」

 

「嘘をおっしゃい!! お前でなければいったい誰だというの!!」

 

 呼吸だけでも苦しい中、猫猫はなんとか声を絞り出した。既に何度も口にした尋問への回答だが、しかしもちろん、神美はそれを信じない。

 

 ……いや、きっと彼女はどっちでもいいのだ。猫猫が犯人だろうとそうでなかろうと、そんなことはこの仕打ちには関係ない。

 ただの八つ当たり。あるいは、他者が苦しむ姿を見たいという嗜虐心。

 

 目抜き通りでも見せたあの加虐的な性根が、娘の誘拐というこの事態に際して暴走しているのである。

 

「……ああ。ええ、そうね。あなたの言うことも一理あるのかもしれないわ。怪しい人間は、もう一人いたわねぇ……!」

 

 だからその牙は前触れもなしにもう一方、猫猫と同じく生傷まみれの翠苓へと向けられた。

 

「楼蘭を消し、子の一族の姫に成り代わろうというのでしょう? 卑しく、狡猾な、お前の母親のように!!」

 

「神美様……私は、そのようなことは決して……!」

 

 猫猫と同様に後ろ手に縛り上げられた翠苓が、弱々しく首を振った。

 顔を伏せたその様子は明らかに疲れ果て、怯え切り、そしてこの言葉が神美に届くはずがないと諦めきっている。猫猫が責め苦を受けた今日までの二日間、彼女は彼女でずっと神美に(なぶ)られ続けていたのだろう。それがありありとわかる顔だった。

 

 故にもちろん、神美は翠苓の言葉に聞く耳を持たない。団扇を投げ捨てた左手で、彼女の髪を捻り上げる。

 顔を無理矢理起こさせると、神美は捉えたその瞳にまた目潰しの脅しを向けた。

 

「楼蘭を攫ったのがこっちのどぶ鼠だったとしてもよ。楼蘭から眼を離し、むざむざ攫われるなんて失態を演じたのはあなたでしょう。見守ることすら碌にできない目玉なんて、そんなものは必要ないわ」

 

「し、神美様……! ど、どうか……!」

 

 窓の隙間から空風が吹き込む牢代わりの部屋の中、それよりもさらに冷たく輝く護指(ネイルキャップ)の切っ先が今度は翠苓の目に迫る。怯えに見開かれた彼女の眼が涙を滲ませ後退ろうとするものの、髪を鷲掴みにされた状況ではそれも叶わない。

 猫猫の背にも思わず冷たいものが伝っていった。すぐ隣で起きようとしている惨劇への恐怖は、いくら他人とはいえどうしようもない。

 それに、彼女が終われば次は自分だ。

 

「も、もう、しわけ……っ。お、お許しを、神美様……っ!」

 

 命乞いの声の中、冷たい鼈甲(べっこう)の輝きがゆっくりと迫っていく。

 二寸、一寸――あと、一分。猫猫も翠苓も、恐ろしいのに目が離せない。その瞬間(・・・・)を、ただ見つめているしかなく――しかし。

 

「……ふん」

 

 目に触れる、その寸前。護指(ネイルキャップ)はふと止まり、そして鼻を鳴らしたような小さな音が神美から鳴った。

 

 いや――実際、神美は嗤っていた。生粋のものであるらしい嗜虐の喜びが、そこにあった怒りをとうとう押し退けてしまったらしい。

 恐怖する翠苓を見つめる神美は、満足そうに手を引いた。

 

「やっぱり、やめておくわ。目玉を抉るなんて気持ち悪いし……それに、高貴な血ですら贖えない下賤の血なんかで汚れたくはないもの」

 

 満足して、しかしそれでも翠苓を弄さずにはいられないらしい神美は、投げ捨てるようにして翠苓の髪を放した。いかにも汚らしいというふうに手を拭い、挙句にそんなことを言う。

 『成り代わる』だとか『母親』だとか、さっきと同じ意味心な調子の嘲弄。そんな台詞を浴びせられても、当然翠苓は何も言わない。へたり込み、丸めた背を尾を引く恐怖に震わせて、ゼイゼイと荒い息を吐くばかりだ。

 あまりに哀れ。そしてそれこそが神美の口角を歪める悪循環を作り出しており、神美の醜悪な笑みはどんどん深くなっていった。

 

「だからその代わり、他のことで贖ってもらいましょうか」

 

「他、の……?」

 

「ええ。……ちょうど気が立っている子たちが多い時期だもの」

 

 恐る恐るに顔を上げた翠苓。猫猫も嫌な予感を噛みしめながら眼を向けると、案の定だった。

 神美はクツクツ嗤い、そして言った。

 

「役に立たない醜女でも、慰み者くらいにはなるでしょう?」

 

「……ッ!」

 

 ぜひとも拒否したい提案だった。

 猫猫は花街育ちだが、しかし一応生娘だ。『気が立っている子たち』の相手など、それこそ水責め以上に身体が持たない。

 

 ……まあ、生娘でなかったとしても慰み者などごめんだが。

 翠苓とて同じだろう。神美が猫猫たちを使い潰す気であるのはもう明らかで、それを悟ったが故の彼女の表情もまた、絶望的なそれへと変わっている。

 ただ殺されるよりも、よほどの責め苦だ。

 

「さあ、行くわよ。……ほら、ぐずぐずしないで! さっさと立ちなさい!」

 

「……は、い……」

 

 しかし翠苓に抵抗する気力など残っているわけがない。半ば呆然としながら立ち上がった。

 猫猫もそれに続き、そしてそれまでじっと背後で猫猫たちの手枷の綱を握っていた兵の男も、ひどく気まずそうな顔をしながら猫猫たちを促した。

 

(誰も彼も、神美に逆らえないってか)

 

 子の一族の長の正妻という立場で、且つこんな性格ならばさもありなん。

 ならばやはり、彼らに手加減を求めることも不可能だろう。このままでは本当に責め殺されてしまう。どうにかしなければならない。

 しかし、果たしてどうしよう。従順に歩み始めた翠苓を横目に、猫猫は一人焦燥感の中で悩むしかなかった。

 

 その時だった。

 

「……あら。何をしているの、そんなところで」

 

 神美が開けた扉の正面に、壮年の太った男がじっと佇んでいた。狸のような隈ができたその顔に、猫猫はすぐ思い当たる。

 以前、壬氏(ジンシ)の鷹狩に同行した際に、猫猫はその顔を見かけたことがある。神美の夫、子晶(シショウ)だった。

 

 状況を鑑みれば、彼がこの砦にいることはおかしくない。むしろ当然と言える。が、とにかくいきなりのことで驚かざるを得なかった。

 そしてそれは、あちらにしても同じことだったようだ。立ち尽くす子晶の眼はほんの僅かに見開かれ、何を感じているのか正面の神美と猫猫たちとで視線を行ったり来たりさせるばかり。言葉はない。

 「ねえ、聞こえていないのかしら?」という神美の苛立ち交じりの声音が聞こえたその時になってようやく我に返ったようで、ゆっくり視線を戻した子晶は重々しく、吐き出した。

 

「……楼蘭が見つかった」

 

「……!?」

 

 またも“突然”だった。立て続けに叩きつけられた衝撃で、脳味噌が一瞬滞る。

 しかし、猫猫たちがその報告にすぐさま反応できなかったのは、今度は驚きだけが原因ではない。それはどちらかといえば、それを伝えに来た子晶が歓喜ではなく、苦悩を秘めていたせいだ。

 

「見つかりは、したのだが……。様子がおかしいらしいのだ」

 

「様子が……? どういうことなの」

 

「わからん。報告してきた者によれば、意識はあるが眼が虚ろ。足取りは幽鬼のようで……何か、妙な臭い(・・)を纏っていたと――」

 

 まさか、と。語られるその様子によって、猫猫の脳裏に少し前の過去が蘇る。それとこれとが結び付いて、ちょうどその瞬間だった。

 

 無駄に甘美な神美の衣装と、そして子晶の肩口を越えた部屋の外。廊下を歩く人の塊の中に、まさにその、子翠――楼蘭を運ぶ担架がちらりと一瞬見えた。

 

「あっ!! お、おいッ!!」

 

 認めた途端、猫猫は自分でも気付かぬ間に駆けだしていた。兵の男の手からするりと抜け出し、神美と子晶の脇もすり抜け子翠の下へ一直線。

 たどり着く直前、猫猫に気付いた一団の男たちに取り押さえられてしまったが、しかしそれでも十分だった。知るべきものには、もう既に手が届いた。

 ――いや、鼻が(・・)か。

 

 担架の上でぼんやりと宙を見つめる子翠。乱れた髪と、汚れとほつれができた彼女の着物から漂う、特徴的なその臭い。

 

阿片(アヘン)……ッ!!」

 

 僵尸(キョンシー)の噂を聞いて調べに行ったあの時、燻る紫煙に滲んでいたそれと、間違いなく同じ臭いだった。

 

「どうして……!?」

 

 猫猫の頭の中で阿片(アヘン)と子の一族の関係性がすさまじい勢いでねじくれていく。確かに二つが関係しているというのは既にわかっていたのだが、しかしあくまで子の一族は何かを企む容疑者側だったはずだ。

 それがなぜ、子翠がその毒牙にかかっているのか。容疑者ではなく被害者だったのか。彼女を攫ったのは阿片(アヘン)事件の犯人だったのか。何のためにこんなことをしたのか。

 何もわからない。あるいは、何かが間違っている(・・・・・・・・・)。三度目の衝撃――しかも前の二度も比にならないほどの驚愕と困惑に、猫猫は自身が兵の男たちに無理矢理引っ立てられたことにも気付かなかった。

 

 運ばれていく子翠を背に、神美の前に跪かせられたことに気付いたのは、彼女がそれまでに聞いたことがない声音を叫んだ時だった。

 

阿片(アヘン)、ですって……!? どういうこと!? なぜ楼蘭が……!?」

 

 神美は、怒るように怯えていた。

 ハッとなって見上げたその顔にはもう愉悦など残っていない。明らかに阿片(アヘン)の危険性を認識しているその反応は、己の娘がその毒を受けたことに理解が及ばないといったふう。

 

 しかし、それは楼蘭を心配するものではない。

 明らかだった。彼女のその身はそれが忌むべきものであるかのように、運ばれていく楼蘭から後退っていたのだから。

 

 つまり、神美は猫猫のように楼蘭の身の心配をしていないにもかかわらず、猫猫以上にこの現状に危機感を感じていた。

 猫猫が把握できていない隠し事(・・・)が、そこに存在している所作だった。

 

「……違う。嘘よ。でたらめに決まっているわ!! どぶ鼠、お前だろう!? お前が楼蘭に得体の知れない毒を盛ったんだ!!」

 

「ぐっ、う……!」

 

 阿片(アヘン)が自分の目の前に存在していることを認めたくない、ということか。そこから逃げ出した神美の矛先は、当然の如くこちらへと向けられた。ほとんど八つ当たりで伸びた両手が猫猫の首を締め上げる。

 

 酸欠と出血の二連撃(ダブルパンチ)。さすがに命の危機を間近に感じる。抗いようのない本能が神美の腕を掴んで抵抗するも、神美の力はそれに応じてさらに強くなる。

 年齢の割に不気味なほど滑らかな腕に血管が盛り上がり、脈動する。気道と頸動脈が潰される。猫猫の身を押さえる兵たちは、その迫力に声もない。

 恐怖心を憎悪に置き換えたが故の彼女のそれは、もはや猫猫の細腕では抗いようがなかった。

 

(いし、き、が――)

 

 落ちる――寸前だった。

 

「あ、阿片(アヘン)を用いて暗躍する何者かは、実際に存在しています……!」

 

「なんですって!?」

 

 首を締め上げていた手が、その瞬間にパッと離れた。瀬戸際まで追い込まれていた猫猫の身体がすかさず大きく息を吸う。なりふり構わず、必死になって呼吸を繰り返し、窒息感を追い出した。

 ぜえぜえと乱れた息をどうにか整えようと努めながら、同時、猫猫の意識は神美の向こう側に向く。

 見やれば、恩人の翠苓が神美へとさらなる訴えを続けていた。

 

「後宮で、阿片(アヘン)の吸煙によって倒れた者が出たのです。この薬師は、その腕を買われて事件の対処を命じられていた者で……ろ、楼蘭様を害した側の人間ではありません……!」

 

「は……何を言うかと思えば!! 『事件の対処を命じられていた』!? 『だから楼蘭を害した人間ではない』!? それが何の証明になるのよ!! 後宮の暗愚共がこのどぶ鼠に謀られていただけでしょう!!」

 

「し、しかし楼蘭様もこの者を気に入っておいででした! それに事実、楼蘭様はこの者が捕らえられているうちにあのような目に遭われたのです! やはり、楼蘭様を害したのはこの者では――ッ」

 

「お黙りなさい!! そんなこと、他に仲間がいるというだけでしょう!? 汚らしいどぶ鼠だもの。何匹だって潜んでいるに違いないわ!!」

 

 下に見ている翠苓に言い縋られて、とうとう我慢を越したのだろう。猫猫を示して身を乗り出した彼女の側頭部を、神美の手が打ち払った。

 漏れなく護指(ネイルキャップ)の鋭利な切り口も刻まれて、こめかみから右目の上までがざっくり切れる。またひやりとすることになったが、幸い目玉は無事らしい。

 

 が、ともかく垂れる血に右目を塞がれ、そして身体まで薙ぎ倒されてしまった翠苓はもう限界だ。震える身体はもう訴えを紡げない。

 猫猫を擁護してくれる者はもういない。神美の憎悪で隠した恐怖の視線が、再び猫猫へと向けられた。

 ――しかし。

 

「だが、能力があることには違いない」

 

 血の滴る護指(ネイルキャップ)が、猫猫に向きかけたところで止められる。子晶が、何を考えているのかわからない茫洋とした面持ちを猫猫へと向けていた。

 

阿片(アヘン)がどうかは知らないが、楼蘭のあの容体はこの砦の者には手に負えん。前の薬師は死んでしまっただろう? 楼蘭を治すためには、この者を使うしかない」

 

「あなた……! けれど、こんなどぶ鼠など――」

 

「無論、おかしなことができぬように見張らせる。翠苓にも手伝わせればいいだろう。薬の知識がある」

 

 神美が押し黙る。どうやらこの砦は医官不足であるらしい。

 その事実を、神美はギリと歯を食いしばりながら渋々認め、

 

「……必ず、楼蘭を治しなさい!! できなければ両目を抉り慰み者にしてやるわ!!」

 

 吐き捨てるように言い、そのまま去って行ったのだった。

 

 

 

 

 

「――とは言われたものの、だなぁ……」

 

「……なんだって?」

 

 と、翠苓から返って来た怪訝な反応に、猫猫は自身の内心が口から漏れ出てしまったことに気が付いた。

 

 悪い癖だ。何かに熱中するとすぐに他への注意が散漫になる。何度注意されても治らない緩い口にため息が出てしまうが……しかしまあ、今回のこれは別に話してはいけないようなことではない。

 むしろいい機会だ。そう切り替えて、猫猫は翠苓の目の上の傷に血止めの薬を塗りながら、同時に耳に口元を寄せた。

 

「いや、何というか……治せと言われましても、たぶん私にできることなんてほとんどありませんよ? 阿片(アヘン)中毒の患者は今までにも診たことがありませんし、それに……」

 

 経験だけでなく、知識の面でも彼らの期待には応えられそうにない。恐らく、子晶たちは猫猫に阿片(アヘン)に対する解毒薬のようなものを求めているのだろうが、しかし残念ながら猫猫はそれを作れない。

 

 そもそも、『阿片(アヘン)中毒を治す薬』というものは存在していないのだ。

 中毒症状は、基本的に当人の自然治癒力に任せるしかない。だから治療に必要なのは気長な看病と、そして当人の気力体力忍耐力だけ。猫猫の手は必要ない。

 正直、『蘇りの薬』なんてものを扱えた翠苓さえいれば十分だと思う。

 

 そういう意味での気まずさ、だったのだが。

 

「ああ……さすがのお前も阿片(アヘン)には詳しくないのか」

 

 翠苓は猫猫が半分含んだその意味を、少々手前で解釈してしまったらしい。薬を塗り終わり、自分で手際よく包帯を巻いた彼女は立ち上がると、ふとその身をひるがえす。

 いや詳しくないというか――と猫猫がかぶりを振る前に、翠苓は壁に沿った棚の傍、積まれた籠の一つを猫猫の前に持ってきた。どさ、と重量感がありつつも軽い音を立てたその中身を確かめる。

 

「書物、ですか?」

 

「どれかに、阿片(アヘン)について書かれたものがあると思う」

 

「はあ、なるほど――!?」

 

 つまり、薬についての書物だというのか!? これ全部!?

 

 うっひょーっと、喉元まで出かかった歓喜はギリギリのところで塞ぎ止めることに成功した。両手で口を覆って押し留め、しかしそれでも猫猫は目の前の籠にぎっしり詰まった宝物に眼を輝かせざるを得ない。

 

「こ、これ……亡くなってしまったと言っていた、前の薬師の……!?」

 

「そうだ。だから丁寧に扱ってくれ。……私の祖父のものだから」

 

「祖父……」

 

 と、最後にぼそりと付け加えた翠苓の単語を口の中で呟きながら、猫猫は言われるまでもなく丁寧な手つきで書物を手に取った。所々を虫に食われたそれを一(ページ)ずつ慎重にめくっていく。

 

 感嘆した。無作為に手に取ったそれは阿片(アヘン)についてのものではなかったが、しかし書き手の知性の高さが一冊だ。記述は丁寧かつ詳細。時折挿絵なども挟まれており、読んでいて楽しい図録となっていた。

 先任の薬師は中々の人物であったらしい。所々にある異国の文字は、この人物が異国への留学経験すら持っていたという証だろう。猫猫は猫猫が敬愛するおやじの他に、そんな人間がいたことに驚かざるを得ない。

 

(できるなら、会って話してみたかったな)

 

 そんな無念すら感じるほどだ。だが、それはさておき。

 

「こんな立派な医術書があるなら、なおさら私の力は必要ないと思うのですが。身体を張って私を庇ってくれた意味、ありましたか?」

 

 猫猫はとうとう、本題を口にした。気持ちを切り替え、問おうとした疑問はこれだった。

 翠苓が目玉を潰されそうな危機に陥りながらも猫猫を庇った、その理由がいまいちよくわからない。そうまでする価値が己のどこにあるのだろうか。阿片(アヘン)中毒の治療のためと呑み込むには、目の前の医術書があまりに邪魔だ。

 

 書物から思い切って眼を離し、翠苓へと向ける。するとそのまっすぐ突き付けられた質問に、彼女は少しだけ眉根を寄せた。

 僅かに滲み出た憤りを払い除けるようにして、彼女は鋭く、しかし小さく息を吐いた。

 

「子晶様はともかく、私があなたを助けたのはあなたの薬の知識が目当てじゃない。あの子の……楼蘭の話を聞くためだ」

 

「楼蘭の話……?」

 

 何のことだ。まさか後宮で子翠に化けていた頃の思い出話が目的なわけはないだろう。

 しかし楼蘭について聞かせろと言われれば、猫猫としてはそれ以外に話題を持ち合わせていない。他の心当たりなどさっぱりだ。

 

 怪訝。それが嘘偽りない本心だったのだが、そんな態度は翠苓の勘に触れてしまったらしい。彼女はその眉間にしわを刻んで、それからさらにぐいっと猫猫に顔を寄せた。

 

「楼蘭と二人で、神美様が朝廷に仕掛けようとしている戦を止めようとしていたのだろう……!?」

 

 そして苛立ちながら、しかし外の耳を気にして小さな声で、そんなことを言ってきたのだった。

 

「朝廷と戦……? 私が、それを止めようと……?」

 

 当然、猫猫にそんな壮大な計画を企んだ覚えはない。あまりに大それたこと過ぎて現実感もわかなかった。

 

「……何かの冗談で?」

 

「冗談が過ぎるのはお前の方だ。この期に及んでまだとぼける気か?」

 

「いや、そう言われても……」

 

 困ってしまう。知らないものは知らないのだ。

 

「というかそもそも、あの奥方が謀反って……そこからして初耳なんですが」

 

「そんなわけがあるか。お前は知っているはずだ。……楼蘭が何の理由もなしに後宮を抜け出したと思うのか?」

 

「それは、まあ……」

 

 後宮脱走の重罪を背負わせるだけの理由は確かにあって然るべき。そして朝廷への謀反という大仰すぎる事情は、その理由にはぴったりだ。

 後宮で壬氏と共に考えていた可能性でもある。それもあり、そこは認める他ない。ないのだが……しかしやっぱり、それだけではどうにも呑み込み辛いというか何というか。大仰すぎて釈然としない感じである。

 

 という猫猫の内心を、翠苓は読み取ったのだろう。彼女は唸るように咽喉を鳴らしてかぶりを振った。

 

「……『蘇りの薬』」

 

「えっ……!?」

 

 一言目にとてもとても魅力的な単語が飛び出してきた。こんな時でも猫猫の好奇心は反応して疼いてしまうが、鎌首をもたげたそれを翠苓は相手にしない。

 ほんの少しだけ呆れの息を漏らしてから、言葉は続いた。

 

「私があれを使った一件、その全容をあなたは見抜いているはずだ。暗躍して、最後に私が求めた結果は何だった?」

 

「………」

 

 それは、壬氏の暗殺だった。他にも様々な企てが重なり合って、結果的に壬氏の頭に人を殺すに十分な重量物が降って来た。

 

 鷹狩の一件もそうだった。飛発(じゅう)を使って壬氏を亡き者にしようと企んだ首謀者。その正体など知りようがないが、あの催しが子の一族の長、子晶の主催と招待であったという事実は捨て置けない。

 ……なぜよりによって後宮の管理者でしかない壬氏を、という疑問がないわけではないが。翠苓たちと、その背後にいた神美が朝廷に害をなそうとしていたことは確かだった。

 

 神美は謀反を企てている。その話には、確かに筋が通っているようだ。

 

「けれど……それでどうして楼蘭がそれを止めようとしているなんて話になるんです? しかも私なんかと一緒になってって」

 

「……それが一番納得がいく。聡明なあの子が、神美様に隠れてお前を連れてきたんだぞ? それ以外にどんな理由があるというんだ」

 

 翠苓はぎゅっと唇を噛んで絞り出した。それは理屈というか、楼蘭の人となりから来る感情由来の言葉に思えたが、しかし猫猫にもそれに対する反論は見つけられない。

 

「最新式の飛発や砲を用意しているらしいが、それだけで官軍に勝てるわけがない。楼蘭にそのことがわからないはずもないし、その後のことだって……。あの子が、神美様の戦に賛同するはずがない。あの子は……神美様とは違うんだ」

 

 猫猫が知る楼蘭――子翠も、翠苓が語る彼女と同じく聡明で、好奇心旺盛で、明るく優しい子であった。他者を甚振り愉悦する神美とは、確かに似ても似つかない。

 

 翠苓はそこで一息を入れるように、籠の中の書物に手を伸ばした。雑多な中から虫の図録らしきそれを手に取り、そっと表紙を撫でながら、再び意を決したように厳しい目つきが猫猫へと向けられた。

 

「……響迂(キョウウ)がお前たちを外に出してしまったあの夜、納屋の見張りがいなかったろう。あれは食事を届けに行った時、楼蘭にそうするように言われたからだった」

 

「楼蘭が、見張りを?」

 

「ああ。理由は聞かなかった。聞かずとも明らかだと思ったからな。……二人きりで、お前に役割(・・)を告げるつもりなのだろうと」

 

「役割、ですか」

 

 神美の戦を止めるための、密談。あの暗い納屋の中で、翠苓はそれが行われたものと考えている。

 つまりそれこそが、彼女が猫猫を助けてまで聞き出したかったことだった。

 

「はっきりと事情を伝えられたわけではないのだろう。だがそれでも、楼蘭はあなたに何かを伝えたはずだ。でなければおかしい」

 

「そ、それはそうなのかもしれませんが……」

 

「どんな小さなことでも構わない。あの子がやろうとしていたことの、ほんの一端でも知れたなら……。知れなければ、楼蘭は破滅するしかない……!」

 

 翠苓の手の中で、貴重な書物がぎゅっと擦れる音を鳴らした。

 力がこもってしまうのも無理はないだろう。事実、朝廷に反旗を翻したとなれば一族郎党、処刑は免れない。

 どうにかできるのなら、どうにかしてやりたい。さすがに友人の危機に見て見ぬふりをすることは猫猫には不可能だ。

 

 だが、やはり(・・・)なのだ。

 楼蘭は猫猫に、戦の()の字も聞かされていない。翠苓の必死な眼差しに、応えたくても応えられないのである。

 

 猫猫の口は動かない。その様子に、翠苓の顔は徐々に歪んでいった。

 

「……これでもだんまりなのか。なぜだ? あなたのことは楼蘭からもよく聞いていた。仲が良かったのではないのか? それとも……やはり私のような端女には語れないということか……?」

 

「いや、そんなことは……」

 

 もちろんない。しかしそうは言っても、翠苓は信じないだろう。彼女からすれば、猫猫が自身を――ただの使用人でしかない女(・・・・・・・・・・・・)を信用できないから口を閉ざしているのだと、そう見えて仕方がない。

 だから猫猫は、まずそこに首を振った。

 

「あなたは端女なんかではないでしょう」

 

「……そうだな。官女として潜入し、その後今度は宦官として再び後宮に足を踏み入れた者などそうはいまい」

 

「宦官……!? あ、いえ、そうではなく」

 

 気になる新事実は今は呑み込み、猫猫は咳払いを一つする。怪訝な翠苓へ、突き付けた。

 

「あなたは本来端女でも、間者をさせられるような身分でもないのでは? あなたは――楼蘭の異母姉妹だ。そうでしょう?」

 

「っ!? なぜ……!?」

 

 それを知っているのかと、言葉にするまでもなくその眼が訴えかけてきた。あるいは驚愕をたたえて猫猫を凝視するその視線は、やはり猫猫は楼蘭に全てを知らされているのでは、と疑っているのかもしれない。

 でもしかし、実際はそのような欺瞞など存在しない。単純に、今まで見聞きしたものからそうだと推測しただけだ。

 

「神美様が色々とおっしゃっていたではないですか。『成り代わろうとした』だの、『母親のように』だの、『高貴な血ですら贖えない下賤の血』だの。あなたが辛く扱われていることも鑑みれば、誰だってこう行きつきますよ」

 

 さらに言うなら猫猫の場合、あのガキ、響迂の態度も理由に入る。納屋でのあいつは楼蘭と翠苓を一組で捉えているふうだった。

 だから姉妹であり、正妻である神美に憎まれている妾の子。そうなのだろうと猫猫は考えた。

 

 もちろん推測は推測であり、確たる証はない話だった。が、当の翠苓の反応は、もう肯定と捉えてしまっていいだろう。

 猫猫の推察は、実際に真実を見抜いていたよだった。

 

「……そう、か」

 

 翠苓もそれを理解したようだ。肩を怒らせ猫猫へと身を乗り出していた彼女は、呆然と呟くと同時にその内心の高ぶりを押し下げる。どかりと元の位置へ腰を落とし、頭痛を堪えるように己の額へ手をやった。

 

「はい。そういうわけで……私は本当に楼蘭から何も聞かされていないのです。戦や、それを止めようとしているという話も、知ったのは本当に今が初めてでして……」

 

「………」

 

 猫猫は改めて、己の事実を主張する。それを聞かされながら、しかしもはや翠苓に反応はなかった。彼女は俯き、落胆にくれている。

 

 無理もない。自分たちの破滅を回避するカギと思った猫猫が、しかし実際は全くそんなことがなかったのだ。それを認めてしまった今、彼女の中にある徒労感は相当なものだろう。期待して、神美の魔の手に触れながらも庇った結果がこれなのだから、なおのこと。

 そう考えると、猫猫としても大変にいたたまれない。それまでの翠苓の必死な様子も合わせて、罪悪感まで滲み出る。

 だから、だろう。

 

「……まあ、あの納屋での夜に何も話さなかった、ってわけではありませんが」

 

 気付いた時には、逃げるようにそんなことを呟いてしまっていた。

 

 すぐにハッと我に返って口を塞ぐも、一度口から零れてしまった言葉はもう呑み込めない。翠苓が勢いよく顔を上げ、再び詰め寄るのを止めることなど不可能で、たちまち猫猫はその両肩を揺すられた。

 

「なんだ!? 何を話した!? 教えろ、薬屋!!」

 

「うっ……お、教えますから! ……やはり、どう取っても戦を止める手立てにはつながらないと思いますが……」

 

(ただの雑談じゃないか、とか言って怒らないでくれよ……)

 

 猫猫は己の口の緩さに辟易としながらも観念するしかない。言葉の代わりにため息を呑み込んで、記憶の中から当時の楼蘭の言葉を引き出した。

 

「私が楼蘭に、その正体を尋ねた時の言葉です。あの子は答えず、ただ『そのほうが都合がいい』と、そんなことを言っていましたよ」

 

「都合……?」

 

「ええ。私は無知であった方がいい、という意味だったんでしょうかね。子翠が何をしようとしているのか、自分で考えてみろと言われましたよ」

 

「考えろ、と……」

 

 つまり猫猫たちが求める答え(・・)ではない。だから今まで猫猫も伝えなかったのだ。

 わかるのは、それらを鑑みやはり楼蘭には何かしらの思惑があったという、それだけだ。その内容はさっぱりわからない。

 

「戦を止めることと、猫猫に何も語らないことに、いったい何の関係が……?」

 

 翠苓にも、やはりその意図は読み取れないようだった。今度は落胆ではなく思索で俯いてしまったが、その顔は不可解以外を示さない。

 神美のように手掛かりを添えてくれるでもなし、姉妹であれど他人の内心など読めないのが当たり前だ。どうしようもない。

 楼蘭の思惑がわかるのは、それを知っている楼蘭だけだ。彼女の回復を待つ以外、事態を動かす方法はないのだろう。

 

(……知っている、といえば)

 

 結局の結論に猫猫は何となく書物の籠へ目を落とし、ふと思い出す。

 

 そういえば、阿片(アヘン)の件は結局どうなのだろう、と。

 つまり後宮で騒ぎを起こした犯人。そして恐らくこの子北州でも楼蘭を襲った者たちについてだ。

 

 連中の印章が子の一族に関わるものであることはわかっている。神美のあの反応も然りだ。であるならば、こんな状況である以上、猫猫が知るよりも幾らか深く、それについて語れるのではないだろうか。

 思い付きのまま、猫猫は対面の翠苓の方を見やる。彼女も彼女で同じ結論に至ったか、また落胆と徒労の色が濃くなっていたが、書物を持つ手はもうそこまで取り乱してはいないらしい。

 

(散々答えてやったんだ。なら、今度はあっちが答える番だろ)

 

 そんな思いも手伝って。猫猫は肩を落とす翠苓に、こっちの番だと詰め寄った。

 声をかけようとして――その時だった。

 

「翠苓姉ちゃん!! ソバカス!! いるか!?」

 

「っ! 響迂……!?」

 

 部屋の戸を勢いよく開け、あのクソガキが飛び込んできた。突然の乱入に猫猫も翠苓も目を瞬かせる。部屋の前で見張りをしていた兵も、その勢いにあっけに取られているようだ。

 だが猫猫としては、邪魔をされたということも込みでその前に、こっちの方が気になった。

 

「ガキんちょお前……よく無事だったな」

 

 響迂は楼蘭が攫われることになった要因の一つだ。ならば猫猫たちのように砦まで連行され、折檻を受けていてもおかしくないはず。

 が、その身体には特に傷などは見当たらない。どういうことなのだろう。

 

「お前という見るからに怪しい容疑者がいたからな。神美様の目もあまり向かず、軽い罰で済んだんだ。これからしばらくは、砦で使い走りの仕事をさせられることになっている」

 

「なるほど」

 

 それで済んで何よりだ。ならば礼の一つでも寄こせという話である。

 

 しかし飛び込んできた響迂には、全くそんな気配がなかった。ただ焦りと不安でいっぱいで、不服を向ける猫猫にも気付いてすらいない。

 それを認めて、猫猫と翠苓も彼が纏う不穏に気が付いた。はあはあと息せき切って走って来た彼の呼吸音と共に、背中がひんやり冷えていく。

 脳裏に浮かんだのは当然楼蘭。今は別室の寝台の上で夢現にあるはずの彼女を思い浮かべて――そして、ようやく言葉にするだけの息を吸い込んだ響迂の必死の声が、それを貫いた。

 

「子翠姉ちゃん、楼蘭様が……急に苦しみ出したっ!!」

 

「!!」

 

 聞くや否や、猫猫と翠苓は棚にあった薬のいくつかをひっつかんで駆けだした。

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