彼女は順調に回復を続けている。未だに記憶ははっきりしていないものの、食事は重湯からちゃんとした固形物を口にできるようになり、肌の血の気とこけた頬の肉も徐々に元に戻りつつある。
当初は何をするにも必要だった
万一また症状が悪化してしまったら、という不安はもはやない。彼女の完全回復は、もう時間の問題であるだろう。
いつになったら楼蘭は治るのかと、
だがしかし、毎日続いたいびりが減ったその代わり、神美は実に厄介なことを言い出した。
楼蘭が歩けるようになった、と報告してきたついさっき。それに気をよくしたのか何なのか、神美は猫猫に楼蘭を連れてくるように命じてきたのである。
神美の常在の場所である、妙な混ぜ物がされた香を焚きしめた部屋に。
そこでは彼女のぬめるような笑みの下、数組の男女――恐らく男のほうは男娼か何かだろう――が絡み合っている。趣味が悪ければ教育にも、身体にもよろしくないことは明らかだ。
まだまだ本調子でない楼蘭には、当然ながらもっての外。そう、言葉を選んで理詰めで説いてやったのだが、しかし神美は「ならば明日までに問題ないよう治せ」と無理難題を突き付けるのみだった。
正直、正気を疑った。娘が
治ったならばそれでいい、というような、娘どころか同じ人間としてすら見ていないような扱い。そもそも自分以外の全ては自身の我欲を満たす道具だと言わんばかりの女だったが、本当に筋金入りだ。
結局神美は、その怒りや恐怖すら利己的だった。
たぶん謀反もそうなのだろう。子の一族の長である
そのために間者のようなことをさせられた翠苓も、そして楼蘭すら、本質的には眼中にない。
大事にしていたお人形を壊された癇癪。それは、言ってしまえばそんな程度の憤りだったのだ。
そんなのと心中など、そりゃあ誰だってごめんだろう。
楼蘭がその内に秘めていたはずの、謀反を止める策。それを一刻も早く把握せねばと、翠苓が必死に手を尽くしたのもよくわかるというものだ。
故に神美の意に沿うわけではないが、猫猫のやることは変わらない。
楼蘭の回復を祈りつつ、またそれの助けとするために、
(それに……せっかく医局と遜色ない環境を自由にできるんだ。使わないのはもったいない)
という、ついでに書物の時のように、欲に濡れた本心も心の中で含めつつ――猫猫は手元の薬研に追加の材料を投入した。
今、作ろうとしている薬は、猫猫をしても手掛けたことがない薬だ。次々放り込んでいく材料もまた、その多くが初めて触れるもの。薬棚の奥に大切にしまわれていた、高価だったり希少だったり、そもそも知識になかったりする生薬の数々で、本来猫猫程度の者が軽々に扱えるものではない。
が、今の猫猫の手の中には例の
そこに載っていた秘蔵の薬の
それに――何より、『蘇りの薬』すら作り出してしまったほどの優秀な薬師の足跡を追うような作業なのだ。楽しくないわけがない。
だから猫猫は使命に加えて好奇心と、さらには受けた
「さて、これで良し。後は……残りの材料ごと鍋に入れ、水を加えて一煮立ち、か」
そうして、ゴリゴリと薬研で材料をすり潰す小気味良い音で気力を回復させると、猫猫は一息と共に身体に残っていた気怠さの残滓を追い出した。
ちらりと
小鍋の中身は濃い褐色の液体になった。暫くするととろみと共にポコポコと泡が出てくるようになったので、その時点で火を止める。後は生薬の出し殻を取り除き、おしまい。これで一応、完成らしい。
「においは……刺激臭が強めだな。つんと来る。まあ、強壮剤みたいなものらしいし、当然か」
立ち上る湯気に鼻を近づけ、一人ごちる。初めて扱う材料ばかりを用いた薬だが、案外覚えのない臭いではない。少しだけ拍子抜けだ。
けれどしかし、効果は確かであるはずだった。手順も量も寸分たがわず
ただしもちろん、記憶に直接作用するような薬ではないので、肝心のそこに関しては何とも言えないところだが。
「まあ、元気になればきっと全部思い出すだろう。ともかく、早いところ持っていってあげないと……いや、その前に問題ないか私の身体で確認……いやいや、それ以前に少し冷まさないと火傷するな、これ」
小鍋の薬はまだポコポコと煮えている。口に入れれば毒見どころでないのは一目瞭然だ。好奇心のまま木匙を手に取った瞬間に、猫猫はギリギリそのことに気が付いた。
焦らされるような心地だが、致し方なしである。
猫猫は小鍋を火鉢から降ろすと、そのまま窓の方へと持っていった。冷たい外気に当てれば少しは早く冷えるだろう。
……せせこましいなと我ながら思ってしまうが、早く味見がしたいのだ。仕方ない。
片手のみで、閉じ切られた窓を引き開けた。
「……雪、降ってたんだ」
ご丁寧に鉄の格子がはめられた外を数刻ぶりに覗き込み、少し驚いた。
景色が一変していた。陽が沈み、夜が近付く薄暮の時間。薄暗い外の世界は、その暗さに反するように一面が真っ白だ。
兵舎らしき建物群の屋根も、そのさらに外側に広がる平原も、須らく雪に覆われている。音すら吸い込まれ、驚くほどに静か。全てを上から塗りつぶしたような情景に、猫猫はつい、呆けたようなため息を吐き出した。
白い吐息が小鍋の湯気に混じり、降りしきる雪の中に消えていく。その様子を眺めながら、ふと考えた。
(これで、本当に合ってるんだろうか……)
ふわりと漂い、ゆっくりと降っていく雪の粒。ぶ厚い雲間を縫って届く月光を受け無数に瞬くそれらを見つめながら、猫猫は納屋での楼蘭を――あの時、暗闇の中で幻視した瞳の光を思い出していた。
いいや、合っているも何もない。それはもうわかっている。
楼蘭が当初何を目論んでいたにせよ、今は状況がまるで違うのだ。彼女を臥せったままで放置して、いいことなど何もない。
彼女が回復しなければ、子の一族の謀反による破滅は回避できないのだ。
(それは正しい。けど……)
その他はどうだろうか。
例えば
だが、
腑に落ちない。瞬く雪片を眺めていると、どうしてもそんな思いが強くなる。
彼女が本当に求めているものを、
(……
猫猫に、いったい何を推理してほしかったのだろう。
今なお、この期に及んではっきりしないそれ。しかしそのままではいけないという、焦燥感のようなもどかしい感覚。
降りしきる雪を眺めながら、猫猫はその最後の謎を頭の中で転がしていた。
――しかし。
「……うん?」
時が止まったように静かな銀世界に、その時ふと妙な音が混じった。
視線をそっちへ向けてみる。真下、砦の一角だ。恐らく見張り台なのだろう背の高いそこを見やってみるも、しかし、特に目につくものは何もない。
吹き込む雪の寒さで見張りも砦に引っ込んだのか、からっぽのそこには
「……いや」
おかしくないか? と、猫猫が怪訝を浮かべた、その時だった。
「――ッ!?」
どさっ、と。部屋の中で物音がした。眼下の怪訝が順当に警戒心へと繋がる前に、別方向から乱暴に接続される。
思わずビクリと背が跳ねた猫猫は、勢いよくそっちへ振り返った。
壁に積まれた荷の一角が、少しばかり崩れていた。書類の束が雪崩を起こし、床に広がっている。なんだたまたま崩れただけか、と一安心――とはいかない。
その一角で、また別のものが動いたのだ。しかも今度は書類ではない。木箱が、中身が詰まった重い木箱が、内側へと押されている。
(何が……いや、隠し通路!?)
ここは本来、戦いのための砦なのだ。そういうものの一つや二つ、あっても何も不思議はない。
不思議はないが、なぜ今、そんなものが使われている? なぜ猫猫のいる部屋に? いったい誰が、何の目的で?
(まさか――)
さっき認めた消えた見張りのことも合わさって、猫猫の背にじわりと嫌な汗が浮く。しかし隠し扉は猫猫の緊張などもちろん関せず、ゆっくりと開いていった。
そしてとうとう露になる向こう側の暗闇と、そこに見える複数人の人の影。果たして話が通じる人間だろうか。
猫猫はすっかり冷えた小鍋を卓に置き、ひりつく咽喉で息をしながら、膝ほどの高さもない扉から人影が這い出てくるのを見守った。そして燭台の明かりの下に現れたその人物に、一世一代の命乞いを――
しようとしたのだが。
「は……し、
「猫猫……! やっぱりここにいたっ」
途端、猫猫は緊張に代わって、驚愕と困惑に見舞われた。
隠し通路から飛び出し、猫猫の頭を抱えるように抱き着いてきたのは、子翠――楼蘭だったのだ。
翠苓の手前、すっかり楼蘭呼びに慣れていたのについ子翠と呼んでしまったのは、彼女の恰好が原因だ。今の彼女の装いは、後宮にいた時と同じ下女のそれ。着ていた下女装束はボロボロになって既に捨てられてしまったはずなのに、いったいどうしたのだろう。子翠の腕に声も出せないくらいにぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、疑問が浮かぶ。
ただ、ほとんど現実逃避のようなそんな疑問は、そう長くは続かない。猫猫はすぐに我に返った。
「むぐ……ぷはっ! そ、そんなことより――! ……子翠、身体は大丈夫なの……?」
「身体? 別にどうもないけど」
抱き着く子翠の肩をぐいっと引き離し、声を潜めろと言うように人差し指を立てる子翠に従って、その弾けるような笑顔に小さな声で眉を寄せる。しかし、子翠はまるで何の話か分からないとでも言うように、同じく小声で訝しげに言うだけだ。
事実、猫猫の目にも異常は映らない。子翠は肌艶も肉付きも、健康体のそれだった。
それがますます猫猫の困惑を加速させる。
「いったい、どういう……」
正気も定かでないあの様子は、彼女の演技だったのだろうか。
いつの間にここまで回復できたのだろう。理解不能だった。
「……その娘のことは、今は置いておけ。それより薬屋、お前こそ無事なんだな?」
「じ、
そして、衝撃は子翠だけに留まらなかった。さらにもう一人――麗しき宦官、壬氏が、鎧と刀を携えた全身武装の恰好で隠し通路から現れた。
子翠の肩越しに、なぜか不満そうにした眼が猫猫を見つめている。そこも含めてもう何が何やらだ。
「……いや、そうか。壬氏様との繋がりが、子翠の策だったのですね。砦の中に手引することで、戦を止めようと……」
混乱の中で、辛うじて思考が形を成した。
隠し扉の向こうには、まだ多くの人の気配がしている。壬氏と子翠はそれらを使って神美や子晶といった首謀者を制圧するつもりだ。
つまりそれが猫猫たちにも隠され続けた、破滅から脱する策だったのだろうと。
「しかし……どうやって子翠とやり取りを? 今までずっと臥せっていたのに。いえ、それ以前に……」
これが策なら、どうして猫猫に隠す必要があるだろう。むしろ壬氏との繋がりを知る子翠なら、積極的に協力を求めていいはずだ。
まだ、何かがおかしいままだった。猫猫は救いを求めるように、子翠と壬氏の顔を見上げる。
だが二人は、そんな猫猫に複雑そうな顔をするだけだった。
「……悪いが、説明している暇がない。その……子翠も、私も、まだやらねばならないことが残っているからな」
「やらねばならないこと、ですか。それはもちろん、わかりますけど……」
「ごめんね、猫猫。終わったら全部話すから。それまではここで待っていて」
壬氏のみならず子翠にまでそう言われてしまっては、猫猫も引き下がるしかない。子供ではないのだ。のんびり語らっている場合ではないことだってわかっている。
退くと、二人は軽く頷き身をひるがえした。壬氏がさっさと隠し扉に引っ込んで、子翠もその後に続いていく。
四つん這いで狭い扉をくぐろうとして――その直前。
「猫猫」
彼女はふと振り返った。猫猫の方を、しかし直接は見ずに少し視線を逸らした状態で、いかにも胸を痛めているというふうに口にした。
「……ごめんね」
二度、彼女は謝って。そして壬氏や他の気配共々、隠し通路のさらに奥へと消えていった。
猫猫はぽつんと一人、残される。――と思いきや、気配が去った隠し通路から新たに一人、這い出てきた。
武装した兵の一人だ。何事かと僅かに緊張感が戻ってくるが、立ち上がったその顔を目にした途端、それもすぐに消え失せる。
猫猫の前で「ふう」と腰をさすった彼もまた、猫猫の顔見知りであったからだ。
「……
「おう。……で、そういうお前は嬢ちゃんか? 攫われた下女ってのはお前のことだったのかよ」
李白。以前後宮からの里帰りに協力してもらった縁から続く、知り合いの駄犬っぽい武官だ。彼も彼で猫猫がここにいることは知らなかったようで、目を丸くしている。
しかし、それはそれ。誰であろうが関係ないと、李白はすぐに驚きを消し、兵士としての顔をかぶり直した。
「まあとにかく、俺の仕事はここで嬢ちゃんを守ることだ。潜入部隊とあの娘っ子が指揮系統を押さえた後に本隊が砦攻めする手はずになってるから、脱出はそれからだな。まだちょっと待たせちまうだろうが、我慢してくれよ? 悪いけど」
「我慢……いえ、別に苦ではないですよ。案外と楽しくやれていましたし」
薬作りとか読書とか、薬作りとか。もちろん神美の尋問はきつかったが、しかし安否確認をし、護衛を残してもらえただけで十分にありがたいことだ。
待機に文句などあるはずもない。それどころか、だ。
「時間があるなら、ついでにお尋ねしたいのですが」
「……そう言えばさっき、あーだこーだと言ってたな。言っとくが、俺はただの兵士だぞ? あの二人以上の腹の内なんてわからんし……そもそも、お前にどこまで言っていいのかも判断できん」
「お尋ねしたいのはもっと単純なことです。まあもちろん、特に壬氏様に関しては詳しく知りたいところですけど……それはひとまず置いといて」
猫猫は難しそうに頬をかく李白を、まっすぐ見つめて問いかけた。
「子翠は、いつからあんなに元気だったんです?」
「元気……?」
どうしてもそこが気になった。やはりどう考えても、どれだけ思い返してみても、猫猫がその目で見た彼女の苦しみが偽物だったとは思えない。
やはり、何かが明らかにおかしいのだ。
そんな疑念を解くための第一歩。そうなるはず――だったがしかし。
「何のことか知らないが、
疑念は、解けるどころかむしろより深まった。
「後宮、から……? 李白様も、同行していたと……?」
「そうに決まってるだろ。それどころか、精鋭で周りを固めてきたくらいだ。なにせ……嬢ちゃんももう気付いてるんだろうが、重要人物だからな」
重要人物。つまり子の一族の姫という立場。それはどうでもいい。
(『精鋭で周りを固めてきた』だって?)
猫猫が体験してきた現実と、何もかもが噛み合わない。
「……どうした? 何か変なこと言ったか?」
「いえ……」
変。変だ。あるいは、嘘なのだろうか。しかしその奇妙さに言葉をなくす猫猫に対して、李白は全くそれを感じていない。
たったの一答で全てが行き詰まり、猫猫と李白はただ、お互いを見つめるばかりだった。
そこに、突然甲高い子供の声が響いた。
「ソバカス、いるか?」
「ッ!!」
しかし、身構える暇もなかった。スッ、と戸が開く音。猫猫の返答も待たずに部屋に踏み入って来た響迂が、後ろ手に戸を閉めて、薬棚の陰から顔を出す。
生意気そうなガキの顔が猫猫を見つけて、そして次いで、その向こうに李白の姿を捉えたのだろう。驚きに歪んだ。
そこにいるはずのない見知らぬ男、しかも全身武装。恐ろしくないはずがない。
驚きの顔はすぐ怯えたそれに一転し、悲鳴が上がる――その直前。
「――ごもッ!?」
李白が、その重装備に見合わぬ素早さと静かさで響迂の口を塞ぎ止めた。
手で口を塞がれて、響迂の悲鳴は一語も漏れることなく、くぐもったうめき声に変わってしまった。あの状況でよく間に合ったものだ、と猫猫は感心してしまう。
しかしホッとしてばかりいられない。李白の太い腕の中、涙目でもがく響迂の精神状態は猫猫とは対極だ。背の戦慄が落ち着いた後、猫猫はようやくそれに気が付いて響迂の傍にしゃがみこんだ。
半狂乱の涙目で猫猫に何やら訴えかけてくる響迂の頭に、猫猫は優しく手を置いてやった。
「響迂、大丈夫。この人は……子翠の味方だ。静かにしていれば酷いことにはならない。わかったか?」
「………」
子翠の名前がよく効いたのだろう。味方などと言われて仰天していた響迂だが、やがて拘束された中、ぎこちなく一度頷いた。
それを見届けると、猫猫は李白のほうにも視線を向ける。
「そういうことなので、離してやってください」
「……お前の知り合いだったのか。しかし――」
本当に信用できるのか、とでも言おうとしたのだろう。しかしその前に、またも外から声が入った。
「おい、大丈夫か? 何か音がした気がしたが」
今度は部屋に付いている見張りの兵だ。普段からサボり気味であり、事実さっきの子翠たちの時にも全く反応しなかった男だが、しかしここは扉のほど近く。さすがに違和感を感じたらしい。
(次から次へと……)
全く勘弁してほしい。さすがに響迂のように簡単に取り押さえられるということもないだろうし、どうにか口で誤魔化すしかない。
と、猫猫の眉が歪んだ時だった。
「大丈夫! ちょっと……躓いただけだから!」
猫猫の代わりに、響迂が答えた。口元を塞いでいた李白の手は外されている。
肩をすくめる李白に猫猫は一つ息を吐き出した。そう安堵しているうちに返事をもらった見張りも満足したようで、「そうか?」と幾分怪訝を残したものの、納得した声が返ってきた。
ひとまず、切り抜けられたわけだ。口に続いて李白の拘束から解放され、そそくさと李白から離れた響迂は、安全地帯とでも考えたのか猫猫のすぐ傍に陣取った。
目元に残る涙の痕を口をへの字にして拭い、虚勢を張ると、彼は赤みの残る目元で不機嫌な顔を作り、猫猫の方を見やってぼそぼそと言った。
「それで……こいつ、誰なんだよ。子翠姉ちゃんの味方ってどういうことだ?」
「……まあ、そうだな。時間もあるし、説明するとだな――」
と、ここにきて秘する意味もないので子翠の策と、そしてそのための討伐隊の存在を猫猫はつまびらかにしてみせた。
響迂はまだまだ子供だが、それでも子供なりに砦内に広がる戦の気運を感じ取っていたらしい。そこ自体に驚きはなく、それを挫くという目的も、さして苦も無く呑み込めたようだった。
ただし。子翠が今さっき隠し通路を通って本命を遂げに向かったという、その部分には“待て”が入った。
「――子翠姉ちゃんが……? おい、それ、嘘だろ。あり得ねぇよ」
「うん? いやいや、本当だ。俺たちは彼女の案内でここまで来られたんだからな。……そういや、嬢ちゃんもそこに引っ掛かってたみたいだったが……結局なんなんだ?」
ムッとして警戒心を強める響迂。李白は首を横に振るが、同時に怪訝にも傾げて猫猫を見やってくる。
子翠の動向は、猫猫としても謎な部分だ。だから当然、疑問を呈するという意味で、立場としては響迂の側にある。
だが響迂の場合、猫猫以上に強い確信があるようだった。確信を持って、子翠が壬氏たちと共にいたことはおかしいと、そう言っている。
なぜなのか。考えて――猫猫ははたと思い至った。
「……そういえば」
と。じわりと再び背に滲む妙な予感と共に、尋ねた。
「響迂、お前……私に何の用事だったんだ……?」
「? そりゃもちろん……」
猫猫が作った薬を、子翠の下へと運ぶため。
明らかにおかしい――矛盾の確証が、そこにあった。
卓の上の小鍋を示して言った響迂のその言葉で、猫猫の中でくすぶり続けたその疑念に火が付いた。
その時だった。
「おい……本当に大丈夫なのか? 薬を運ぶだけなのに、何をそんなにもたもたしてる? それとも、まだ完成してなかったのか?」
またなんとも間が悪く、見張りがそんなことを言い出してしまった。
「あっ、はい! ちょっとてこずってしまいまして……!」
「ふぅん……なあ、念のため中を改めるぞ。いいな?」
時間はあるなどと思っていたが、実際はそうではなかったのだ。不審なことが二度続き、とうとう怪しまれてしまったらしい。
(壬氏たちには全然気が付かなかったくせに……鈍いのか鋭いのか、どっちかにしろよ……ッ)
内心で舌打ち。しかし、見張りの決心を止める手立てを、猫猫も響迂も持っていない。なにせ二人とも彼の監視対象だ。
今度こそどうしたものだろう。
「……中に招き入れろ。二人で注意を引いて、その隙に俺が片付ける」
「っ! ……わかりました」
猫猫と響迂が顔を見合わせ息を呑む中、李白は汗一つなく冷静だった。抜き身の刃のような眼差しを戸へと向け、短く言うと薬棚の陰に身を潜める。
もはや問答の時間もない。猫猫も覚悟を決めて、小鍋の薬を手に取った。
直後、戸が開かれる。眠そうな顔をした男が中に入ってきた。すぐに猫猫が手にしている小鍋を見つけ、なんだというような顔をした。
「それが薬か? 完成してるように見えるが」
「ええ、はい。今ちょうどできたところで――」
と、猫猫は小鍋を持って振り向いた。不審がられぬように自然を意識し装いながら、中身を確認してくれと男のほうに足を向けて――
わざと、響迂の足に足を引っかけ、体勢を崩した。
「わっ、ああっ」
「なッ――うおッ!」
貴重な強壮剤が入った小鍋が、猫猫の手を離れて宙を舞う。見張りの男は自身の足元へ落ちていくそれに、反射的に手を伸ばした。
絶対届かないと思ったのだが。しかし男は案外反射神経がよかったらしい。小鍋が床に落ちる前に拾い上げることに成功していた。中身も僅かにこぼれたが、大部分は無事だ。
だが別に、薬が無事かどうかは今、ほとんど関係ない。
見張りの男は腰を落とした無理な体勢で両手に鍋を捕まえて、ほっと安堵の息を吐いている。つまり、李白が求めた以上の大きな隙を彼は晒していた。
後は一瞬だった。
「――騒げば殺す」
「ッ――!!?」
痛いほどに冷酷な声と、男の首筋に突き付けられた鋭い刃。飛び出し、瞬きの間もなく背後を取った李白に、見張りの男は一瞬のうちに凍り付いた。
抵抗はなかった。その気力すら凍り付いてしまったのか、そもそもそんなものなどなかったのか、あるいは事態が呑み込めていないのか。男は起き上がる猫猫と開きっぱなしの戸を閉める響迂を交互に眼で追い、ぱくぱくと口を動かすだけだ。
そしてその口も、やがて李白が布を噛ませて塞いでしまう。それから手足も手早く縛り上げられて、あっという間に男の拘束は完了した。
(……てっきり、トドメを刺して確実に無力化すものだと思ったけど)
そうしなかったのは、それが作戦だったからなのだろうか。
子翠のことだ。作戦に噛んでいるなら、なるべく生け捕りにしろとかそういう条件を出していてもおかしくない。
(もし、そうなら……)
この状況は使えるかもしれない。
拘束の具合を再確認している李白を見ながら、猫猫は硬い唾を呑み込んだ。それまでとは別種の緊張に汗を一筋垂らしながら、壁に積まれた荷の中から麻縄を手に取った。
「――念には念を入れて、縛り付けておきますか?」
「うん? ああ、そうだな。そこの鉄格子なんかいい感じだな」
押し付けるように手渡し、ついでに眼で示してやると、李白は納得したように頷いた。開けっ放しの窓に嵌った鉄格子は、人間を繋いでおく杭としてもちょうどいい。もし万が一のことがあっても、そうしておけば安心だ。
とはいえそこまでする必要はあるのか、という話ではあるのだが、幸いなことに李白は何ら疑うことはなく食いついた。さすがは駄犬。
その単純ぷりに感謝しつつ――見張りの男にさらに縄をかけていく李白から、猫猫はゆっくり静かに後退った。
「ソバカス……? 何してんだ?」
後退は李白には気付かれなかったが、それを見守っていた響迂には気付かれた。自然に振舞ったつもりだったのだが、緊張は猫猫が知らないうちに身体にも出てしまっていたらしい。
だがしかし、幸いなことにもう目的は達していた。李白からはある程度離れ――そして、隠し扉はもうすぐ傍だ。
猫猫はそこで最後に残った迷いを振り切り、響迂の怪訝に振り返った李白に背を向けた。
「……すみません、李白様」
「嬢ちゃん……!?」
最後に慰めのような謝罪を入れて。猫猫は猫猫を守護する任務を負った彼の手を離れ、隠し通路へとその身を投げ込んだのだった。
生け捕りを指示されているなら、李白はすぐさま猫猫を追うことはできない。見張りの男を完全に格子窓に繋ぐまで、少しくらいの猶予は生まれるはずだった。その隙に、猫猫は先へと進む。
後に彼は処罰を受けることになるだろう。それは本当に申し訳なく思う。だが、やはりどうしても無視できない。
己の内で火が付いてしまった疑念を、猫猫はどうしても放っておけない。子翠――楼蘭の真実を、この目で確かめなければ気が済まないのだ。
(壬氏様たちは全部を知ってる。なら、そこに行けばきっと全部がわかるはずだ……!)
だから行きたい。もとい、行かねばならないという強迫観念めいた思いもが合わさって、猫猫の背中を突き動かしていた。
暗く狭い隠し通路を、時折ぽつぽつと灯っている明かりを頼りにひた走る。李白はもう追ってきているのだろうか。しかし確かめることもせず、ひたすら先へ。
やがて薄い線のような光が漏れる壁の前へと行きついた。顔を寄せると、その奥からは騒乱の気配もが感じられる。
ここだ、間違いない。猫猫は光の線を押し広げ、そこから外に出る。……物置らしき薄暗い部屋の、棚の中であるようだった。隠されていた出入り口から這い出ると、さらに先に半開きになった扉が見えた。騒乱の気配と眩い光は、そこからここまで伸びている。
(あそこに……)
答えがある。猫猫は弾む心臓を押さえながら一歩ずつ歩を進め、扉を押し開けた。
「――ッ!? 薬屋!?」
開かれた扉に、その先にいた壬氏が真っ先に反応して振り向いた。見張られた眼が猫猫を捉え、そして続いて周囲を固める他の武官たちの視線もまた、猫猫に集中する。
だが、猫猫当人の意識にそれらの視線は届かなかった。
経過報告のために何度か訪れたことのある神美の常在部屋。そこに溢れる香に混じった血のにおいも、血だまりの中にこと切れた子晶の亡骸も、恐怖と怒りがないまぜになった形相を浮かべる神美も、部屋の隅から呆然と目の前のことを見つめている翠苓も、猫猫は全く見えていなかった。
猫猫の眼が捉え、その意識を縫い留められていたのはただ一人。――いや、二人。
「猫猫……待っててって言ったのに」
と悲しそうな横顔を見せる
「ろう、らん……!?」
神美に