――時は少し遡る。
猫猫の行方不明を知った直後、自分の足まで使ってあちこちを探し回り、その足取りを尋ねて調べて追いかけて、その果てに突き止めたのがここだった。
彼女が消息を絶ったのはまさにこの場所。だから彼女はこのどこかに潜んでいるか、あるいは囚われているに違いないと、壬氏はそんな推論にたどり着いたのである。
故にそれを根拠として部下を引き連れ訪れた。建物とその周囲の捜索を半ば無理矢理敢行し――そしてもちろん猫猫は見つからず、その美麗な天女の相貌を歪める結果になったのは言うまでもないだろう。
だが話はそこで終わらない。
ただし深緑は当初、自分がその事件に関わっていることなどおくびにも出さなかった。その素知らぬ顔の仮面は、日頃から妃たちの権謀術数に揉まれている壬氏にも見破れないほどの完成度。
現に唐突な立ち入り調査に不満を述べた彼女に対し、壬氏は何の疑問も抱かず謝意を述べていた。不満に思うのも当然だろうと罪悪感すらその身に抱え、内心の渋面を押し隠したほどだったのだ。
何もなければ誰にも見破られることなく、捜索はふりだしに戻っていただろう。だが、しかし。
互いに顔を向かい合わせた、その直後のことだ。
結論から言って、壬氏は彼女が何かを知っていると、そう確信するに至った。恐らくは彼女が誘拐の実行犯の一人であり、もはや猫猫は後宮にはいないのだろうと、そこまで察した。
そしてそれは、同時にそれをつい忘れてしまいそうになるほどの、身を穿たれるような悲しみと恨みによる痛撃を伴った。
深緑の仮面が、見破るまでもなく自ら壊れたからだった。
「――急いで医局へ! その女は此度の真相を知っているやもしれん! 決して死なすな!」
「ははっ!」
己の臣である
担架に揺られる深緑に意識はない。壬氏の気付きを察し、毒を煽ったのだ。
あぶくを吹き、顔はすっかり土気色。毒はすぐに吐き出させたが、それでもこの有様だ。
処置をしても“死”が拭えないほどの、確実に自死するための毒。深緑がそれを煽る直前、壬氏に向けた眼が、壬氏の頭から離れない。
己が生まれながらに背負わされた
(……先帝の呪縛、か)
未だに残る、この国が負った負債。深緑は、まさにそれだ。
(薬屋が攫われたのも、俺のせいなのか……?)
奈落に落ちるような罪悪感は、如何ともしがたいものだった。
「――氏様……壬氏様! しっかりなさいませ!」
「ッ! が、高順……」
肩をゆすられ、壬氏はハッと我に返った。後を引く罪悪感の余韻と共に振り返れば、高順が声を上げている。
普段温厚な彼には珍しい、厳しい目つきでの叱責だ。つい息を呑んでしまう。
「呆けている場合ではないでしょう! 猫猫を助け出すのではなかったのですか!?」
「薬屋……そう、そうだな」
返す言葉もない。その通りだ、呑まれている暇などない。
後宮に縛られ続けた深緑のことは確かに気の毒であるし、その憎悪や怒りも真っ当と言えるだろうが、だからといって許容できるわけもない。
それに何より、猫猫は無関係ではないか。そんな者たちに心を移すわけにはいかなかった。
一つ、壬氏は深呼吸をして頭に残る余韻を捨て去る。乱された内心を切り替え、診療所の建物へと目をやった。
「だが結局、薬屋の行方はわからずじまいだ。深緑が助かったとしても、あの様子ではしゃべるかどうかはわからない」
「はい。それに、仮にも先帝のお手付きとなった人物です。無理矢理吐かせるということも難しい」
「……もう一度、初めから考え直そう。何か他に、見落とした手掛かりがあるかもしれない」
そう、あるはずだ。深緑は碌に語らなかったが、彼女が診療所に残っていた以上、猫猫を連れ出した者が他にいないわけがない。
間違いなく他に協力者がいる。もしかすれば、後宮内にも。
壬氏はそう仮定して、そして視線を、今度は下方へと差し向けた。
「念のため、もう一度確認しておきたい。薬屋は確かに診療所へと向かったのだな? ――
「は、はいっ」
と、声を向けられた小蘭は、跳ねるように返事した。
彼女――小蘭は本来、壬氏の傍に侍るはずもない洗濯係のただの下女だ。だがしかし、同時に彼女は猫猫と仲の良い友人で、且つ猫猫と最後に話をした重要な証人でもあった。
今現在の状況では、壬氏にとって銀の山よりも価値がある。診療所に行きついたのも彼女の証言あってのことなのだ。
結局その方向では猫猫の発見には至らなかったが――ならば今度は別の角度からそれを見つめてみればいい。糸口は他にもあると、そんな思いで壬氏は小蘭の緊張しきった顔を見下ろし、そして、
「洗濯物を運んでいる途中に会って……それで、子翠を探してるから知らないかって聞かれたんです。診療所でよく見かけるって教えてあげたら、すぐに行っちゃいました!」
「ふむ。そしてその診療所へと向かった目的は、
「は、はい。そうですっ」
小蘭は見るからに緊張で固くなった面持ちで、こくこくと頷いた。
診療所へと向かったはずの猫猫は、しかしもう後宮にはいなかった。であるなら、だ。視点を向けるべきはそのもう一人、子翠とやらの方だろう。
そこまでは自明の利。この部分に関してはわかっている。だが、しかし。
「……高順。それでその子翠については……やはり、か?」
「はい。何度も名簿を確認させましたが、後宮にそのような名前の下女は存在しません。何者かのなりすましかと」
別角度の手掛かりとなり得るその人物の情報が、皆無に近しいほどに少ないのだ。
「人相から調べることもできるが……」
「時間がかかりますし、確実とも言えません。それに、その子翠という者が後宮に残っている保証もありません。診療所にいたのなら猫猫と共に攫われたということもありますし、それどころか……」
「深緑と共謀した誘拐の当事者だった可能性も、否定できん」
「っ……」
小蘭がまた身を強張らせる様子が、壬氏の視界の端に映った。
子翠もまた、小蘭にとっては大切な友なのだという。彼女もまた行方不明――どころか、正体を隠した悪人であったという可能性すらあるとされてしまったのだから、無理もない。
できることなら否定したいだろう。だが正体を隠して後宮をうろついていたというその一点だけでも、子翠とやらはあまりに怪しすぎるのだ。
(……あるいは、
そしてその不審さは、猫猫の誘拐だけでなくそこへも繋がる。
加えて、そもそもなぜ猫猫は子翠に会いに行ったのかという話である。
「やはり、
「え……?」
「薬屋には
「そ、そんな! そんなことは、猫猫、一言も……」
推察を口に出すと、途端に小蘭が否定した。思わず、というふうで、その声はすぐに下女服の背中と共に萎んでしまったが――しかし、壬氏の眼にはよくわかる。
(どうやら、思い当たる節があるらしい)
とはいえそこに滲んだ驚きも嘘ではない。つまり猫猫が子翠を疑ったかは微妙だが、それは別として、
そしてその結果、後宮から姿を消した。
(なら――決まりだ)
ほんの一瞬の逡巡。その後に、壬氏は心の中で決心した。
「どちらに?」
行動の指針を定め、壬氏がそっちに顔を向けたその途端。目敏く気付いて高順が訪ねてくる。
壬氏は、背後に控えた彼に振り返らぬまま、歩き出した。
「柘榴宮、
――楼蘭妃、子の一族の姫。今回の一件が全て
もっとも、その根拠は例の小袋の印章だけだ。故に怪しいといってもあくまで『他と比較すれば』という程度のもの。
それを抜きにすれば、それらはそれぞれ別個の問題でしかないのだ。
(だが……一見、無関係の事件に思えても、それによって動いたモノ、変わったコト、それらが重なり、一つに通じることもある)
壬氏にそれを教えたのは猫猫だ。ならば探りを入れない選択肢はない。
以前にあったその一件が、壬氏の歩みから迷いを消していた。
(
そう祈るように思考しながら、壬氏は足早に歩みを進めた。
そしてほどなく、目的の柘榴宮にたどり着いた。
派手好きな楼蘭妃の趣味を反映した、異国情緒あふれる絢爛な外観だ。その周囲で仕事をしていた下女たちから、黄色い声と視線が壬氏へと降り注ぐ。
いつも通りの平和な光景だった。壬氏が想定した“繋がり”の気配など欠片もしない。
だが、
(楼蘭妃。何をどこまで知っているかはまるで未知だが、無関係ということはあり得ない。印章、子翠、あるいはこの事件の真犯人……)
なんであれ、何かを知っているはず。それを知ることが、真実を手繰る材料になるはずだ。
碌な証拠がない中で、有力な子の一族の姫君を相手にそれを引き出す。政治的にも難しい聴取になるだろうが、
(それでも、やり遂げる……!)
改めて覚悟を決めて、壬氏は扉を叩いた。
「失礼。突然のことで申し訳ないが、楼蘭妃にお会いできるか?」
「……申し訳ございません。楼蘭様は今、少々お疲れになっておいでなのです。日を改めていただけませんでしょうか」
「ああ……そうなのですか。それは重ねて申し訳ない」
意を決し、半開きの扉の奥から侍女の応えを待ったその結果。思いもよらぬことに、出だしから気になる返事が現れた。
事前に連絡もなしの訪問に良い顔をされないのは当然だ。方便で断るということもままある話。この対応にそうまでおかしな部分はない。
だが、扉の向こうから顔だけ出した侍女の態度は、明らかに変だった。
不満ではなく怯えが勝っての態度に見える。つまり、宮に壬氏を入れたくない
疑念通りである公算が一層高くなった。ならば引けない。押すのみだ。
「しかしこちらも急ぎの用なのです。どうか楼蘭妃に取り次いでいただきたい」
「急ぎ、ですか? それは本当に、今すぐでなければ……?」
「ええ、今すぐです」
「……わかりました。少々お待ちください」
引き下がる気は毛頭ない。壬氏がにこやかにそう示してみせると、侍女はこれ以上拒否するのは得策でないと感じたのだろう。ほんの僅かに顔を歪めつつそう言って、扉を閉じた。
壬氏に見られたくない
「――お待たせいたしました。どうぞ、こちらに」
と、同じ侍女が扉を開けて招き入れてくれたのは、壬氏が思っていたよりも時間が経ってからだった。
あるいは焦燥感がそう感じさせただけなのかもしれないが、ともかくようやく時が来た。一つ息を整えてから、壬氏は己の背後に声をかける。
「行くぞ、高順。小蘭も」
「え……わ、私もですか!?」
それまでともに静かに控えていた小蘭が、またも思わず声を上げた。
彼女からしてみれば、そもそもこうして柘榴宮まで同行していることすら恐れ多いのだ。妃の住まうその中にまでとなれば、さすがに足が竦んでしまうのだろう。
だがしかし。診療所に関しては彼女自身の決意によるものだったが、今回は壬氏からの命令だ。一緒に来てもらわなければこちらが困る。
「……子翠の顔を知っているのは、この中ではお前だけだ。もし侍女や下女の中にそれらしき人物がいたら、こっそり教えてほしい」
「あ……は、はい……!」
耳打ちをする。子翠の正体が楼蘭妃の侍女の誰かである、という可能性の話だ。
まあさすがにそううまい話はないだろうし、あったとしてもさっきの間で隠されて、この訪問で決定的な証拠を掴むことはきっと難しいだろう。
が、だからといって手を抜くのはただの間抜けだ。何であれ、確かめておかねばならない。
小蘭も納得してくれたようで、覚悟を決めたような顔で頷いた。高順はもちろん不満などない。
三人は壬氏を先頭に柘榴宮へと足を踏み入れた。
下女の小蘭のことで文句を言われることも想定していたが、それもなく、楼蘭妃とはすぐに対面が叶った。
「楼蘭妃、ご機嫌麗しゅう。……いえ、お疲れとのことでしたね。申し訳ない。そしてそれを押して面会のお許しをいただけたこと、誠に感謝に堪えません」
宮の外観同様の豪華さを誇る応接室。妃はそこで侍女たちと共に、気だるげに椅子に腰かけ待っていた。
壬氏はそんな彼女の目前で、にこやかに挨拶を述べる。宮の周囲で仕事をしていた下女たち然り、女人であればときめかずにはいられない美貌だが、しかしもちろんこの場で黄色い声は上がらない。侍女も妃も息を呑むほどに静かだった。
ただ――気のせいかもしれないが。
(いつもより、ぎこちない……か?)
内心が伺い知れない。それは柘榴宮の常だ。壬氏も後宮の管理者として今まで散々苦労してきた部分なのだが、それがどこかおかしい気がした。
なんとなく、皆そわそわしているように思える。
(私の目を気にしている……やはり、何かを隠しているのか)
ならそれは、本当に壬氏が求める手掛かりであるのかもしれない。
そうだったなら――
(是が非でも、引き出してやる……!)
そしてもし手掛かりだけに留まらず、楼蘭妃が直接手を下していたと明らかになったなら――
(………)
ぐ、と噛みしめた奥歯が軋む前に何とか緩め、壬氏はにこやかな微笑みを保ち続けた。
口と目は楼蘭妃に向けたまま、意識だけを己の斜め後ろに控える小蘭の方へと向ける。期待薄なのはわかっているが子翠の正体が見つかればと、縋るように確かめた。
同時だった。
「……ところで、その下女は何者なのでしょう」
楼蘭妃の傍で、侍女頭がとうとう小蘭に言及してきた。
その顔はいかにも不満ですというふうにしかめられている。それは自然な感情だろう。小蘭は着ている衣服でもわかるように、後宮では最も身分の低い洗濯下女だ。そんな人間を宮に入り、それどころか主人と相対しているのだから、壬氏の付き人という体裁があるとはいえ無礼と捉えるのは何もおかしくない。
だが、侍女頭は
壬氏もこれ幸いと、彼女に眼を向けた。適当な返事と共に、どくんと跳ねた内心を押し殺す。
「……申し訳ない。年季が開けた後に行く当てがないと知人に相談されましてね。少し適性を見てやっているのですよ。そうだろう?」
子翠を見つけたのか、と。壬氏は小蘭の顔を覗き込み、そして――
想像していた以上の驚愕に見舞われた。
小蘭の視線は、壬氏も、侍女頭も、他の侍女たちも捉えていない。
「その、あの……絶対にそうだってわけじゃないんですけど、そうかもって思って見ていたら、そんな気がして……」
まっすぐ部屋の奥、その静謐な表情に僅かな怯えが滲み出た楼蘭妃を、小蘭は見つめていた。
「
誰に、という注釈はこの場の誰にも必要なかっただろう。壬氏もまた、「まさか」と唖然に思考を呑まれながら、身体はすでに動いていた。
楼蘭妃の目の前に踏み出る。寸前ハッと我に返った侍女頭が止めようとしたが、容易く払い除けられた。拍子に楼蘭妃の口元を隠していた扇子も手から弾き飛ばされて、恐怖に歪んだその表情が露になる。
壬氏は間近でそれを見て。そして、ようやく気が付いた。
「……そういうことか」
二重の驚きだった。が、おかげですべて繋がった。
目の前で怯える
恐怖に眼を見開く娘の顔を掴んだまま、親指でこめかみの白粉を拭う。ほくろがあった。楼蘭妃にはないはずのほくろだった。
「
「ッ……!!」
跳ね、震え出す身体と、とうとう溢れだす涙。もはや語るに落ちている。この楼蘭妃は、偽物だ。
つまり、だ。
「子翠の正体は、楼蘭妃だったというわけだ」
そしてその楼蘭妃の不在を隠すために、侍女は楼蘭妃に化けていた。普段からの派手な化粧も、似た背格好の侍女ばかりを集めていることも、全ては最初からこのためのものだったに違いない。
それがこの場にある事実だった。
それすなわち。
「猫猫を、あの娘を攫ったのは
そこが確実に繋がった。
なにせ子翠――楼蘭も猫猫と同様に行方不明。後宮から自ら脱走している。
侍女の誘拐に関してはまだ弁解の余地がなくもないが、上級妃の後宮脱走はそうではない。重罪だ。決して許されることのない、朝廷への反逆なのだ。
そう確信してしまうほどに、壬氏の憤怒は自分でも気付かないうちに膨れ上がっていた。
「何をするつもりだ」
恐怖に固まる目の前の娘へ、壬氏は言葉を振り下ろす。冷たく鋭利な刃のようなそれは、しかしトドメを刺すも同然の声だった。
娘は目を見開いたまま答えない。その口からは不規則な、喘ぐような呼吸音しか聞こえない。
口を割ろうとしない女に、壬氏の
「
女は答えない。瞳孔の開き切った瞳が、壬氏の憤怒で焼けている。その激痛が魂までを侵しているのがよくわかった。
だが、女は答えない。壬氏にとってはそれだけだ。
「答えろ」
よりきつく、押し付ける。
「
今度こそ答えなければ、この細い首を引き抜いてやろうか。別にそんなことを考えたわけではなかったが、しかしそんな気分だった。
そして、女は答えない。そうか――と、壬氏は衝動に身を任せようとした。
その時だ。
「――私なら、ここにいます」
凍り付いた応接室に、凛と声が響いた。
偽楼蘭ではない。目の前の女の口は声なく震えるのみだ。
だが、とめどなく涙をあふれさせている見開かれたままの目は、初めて壬氏ではないものを映していた。壬氏はそれを追いかけて、そしてその、声の主へとたどり着く。
下女だった。小蘭と同じ格好をした――偽楼蘭と、よくよく見れば似た娘。
「子翠……?」
今度は後方で呟きの声。小蘭だ。彼女は呆然とした表情で、胸の前で手を握っていた。
突然現れた下女の娘――子翠は、そんな彼女に悲しそうに微笑んだ。
……いや。子翠ではなく、子翠に化けた楼蘭か。本来は壬氏の目の前で震えている娘の位置に座しているはずの娘を見つめ、壬氏はようやくそれを理解へと落とし込む。
だがしかし、彼女が壬氏の探していた人物だと理解はできても――いや、むしろだからこそ、だろう。
壬氏はそれを意外に感じた。
(なぜ――逃げていない?)
普通に考えて、彼女の立場ならとっくに後宮から脱出しているはずなのだ。
子翠の正体が侍女や下女だったならばまだおかしくはない。だが彼女は子の一族の姫君だ。下女や侍女とは、言ってしまえば
そして以前、上級妃を集めて催し事をしたこともあり、彼女は壬氏と猫猫が近しい関係にあること知っている。ならば猫猫を攫えば壬氏が動くことも想像がつくはずで、
なら、普通は壬氏の手が伸びる前に逃げるだろうし、子の一族も逃がすだろう。猫猫を攫い、後宮から運び出すそのついでに。
彼女は事件現場に置き去りにしていい人物ではないのだから。
(だが、実際彼女はここにいる。……今度こそ偽物ではない。どういうことだ……?)
今までの推理が根本的に間違っていたということか。わからない。判断つかず、壬氏は子翠を睨みつけているしかなかった。
「壬氏様。漣風は私の命で身代わりをしていただけで、事情は何も知らないのです。放してやってはいただけませんか?」
「……代わりにあなたが、私の疑問に答えてくださると?」
「ええ。……もう隠していても意味はないみたいですからね。全てお話しします」
壬氏の視線に、しかし子翠は小動もせず穏やかに言った。己の侍女を助けるために、曰く全てを話すらしい。
なら、観念したということなのか。壬氏は一瞬そう思ったが、しかしすぐにそうではないと理解した。壬氏を見る子翠の眼は、どう考えても諦めた人間のそれではない。何らかの決意に満ちていた。
だが、話すというなら是非もない。壬氏は言われた通り、偽楼蘭から手を離した。
ずっと己を捕らえていた恐怖から解き放たれて、へたり込む偽楼蘭の身体を代わりに侍女頭が抱き留める。張り詰めていたものがそこで緩み、娘はようやく幼子のように声を上げて泣きじゃくり始めた。
子翠はそんな彼女を気づかわしげな眼で見やり、しかし声をかけることはなく、再び壬氏へ向き直った。
「それで、どこから始めましょうか。やはり壬氏様からすれば、猫猫のことが気になって仕方ないというところかしら」
「っ、それは……」
そうだが……なんだろう。素直に頷き難い。あくまで穏やかに楼蘭妃としての顔を作っている彼女だが、その裏でニマニマと妙な顔をしているように見えるのは気のせいだろうか。
「そうだよ、子翠! 猫猫が……子翠が猫猫を誘拐したって、本当なの……?」
などと、壬氏が言葉に詰まっている間に小蘭が飛び出してきた。
声を上げたその様子は、どこか夢から覚めたようなふうだった。会話に割り込んできたことも含め、我を忘れているふうにも見える。
それを子翠は正面から受け止めた。彼女は小蘭を前に少しだけ表情を乱し、それから僅かに目を伏せた。
「……そうだよ。猫猫を連れて行くように仕向けたのは、私。それは否定しない」
「っ、そんな――」
「だが、実際に連れ去ったのは貴女ではない。貴女は、ここにいる。何故ですか」
頷く子翠にフラフラとよろめき、涙をにじませる小蘭の肩を支えつつ、壬氏もまた子翠へ一歩近づく。とにもかくにも、一番の疑問はこれなのだ。
「いったいなぜ、こんなことをしたのですか」
動機。目的。それらを求め、手を伸ばす。
全てを話すと約束した子翠は、しかしすぐには語らなかった。本当に語っていいのかと迷うような、躊躇いの間が数秒あった。
だがその後に、覚悟を決めたのだろう。一息吐いて、彼女はとうとう口を開いた。
「子の一族が、謀反を企てているからです」
「なっ……!?」
(謀反……朝廷に反旗を翻そうとしている!?)
備えていたつもりだったが、一語目から強烈な告白だった。
到底一息では呑み込めなかったが、それでもこれは真相のさわりでしかないはず。真に知りたいことはこの先にあるのだと、なんとか割り切り、噛みしめる。
「……それは、本気で言っているのですか?」
「ええ。そのための戦の準備もかなり前から続いています。数字に強い文官がいたなら、少し調べればそれらしいものが見つかるでしょう。それに……事実、我が父
「……高順!」
「はい、急ぎ調べさせます」
真偽はこの場で判断できない。だが子翠の言う通り、特に子晶に関しては調べればすぐにはっきりするだろう。
そしてその程度のことで、子翠がわざわざ嘘を吐くとも思えない。故にひとまずは信用することに決め、高順に命じてから、壬氏は唸るように言った。
「これが本当なら、貴女はもう上級妃ではない。貴人ですらない。大罪を犯した子晶の娘として、連座で処刑されることになる」
「ええ、そうでしょうね」
子翠は実に軽い調子で頷いた。本当にわかっているのかと疑問になるほどだ。傍でそれを聞いた小蘭のほうがよほど正しく怯えている。
子翠の分まで命乞いをするように、涙を零して壬氏を見上げていた。おかげで壬氏の心苦しさは倍増しで、眉間にしわを寄せながら首を振った。
「……理解しているなら、なぜ逃げなかったのです。子晶もそうだ。娘を生贄にすればこちらが手心を加えるとでも?」
「あはは。父はそこまで愚かじゃありませんよ。……というか、たぶん、相手が上手だったんです。私だって思いもよらないことでしたから」
「……何の話です」
読み取れず、ますます眉が寄る。まさかここにきて話を煙に巻こうとか、そういうつもりではなかろうが。
ともかく説明しろという壬氏の視線に、子翠は苦笑していた。それが自嘲だということは、続いた台詞で明らかだった。
「実のところ、今のこの状況は私にも、私たちにも想定外なのです。本来なら壬氏様の言う通り、私ももう後宮からは脱出している手はずだったのですが……」
「何があったのですか」
「何が、というか……単純に、置いて行かれてしまったのです」
「置いて……? どういう意味です」
「だから、そのままの意味ですよ。私が皆と一緒に後宮から脱出しようとした時には、もう既に皆が行ってしまった後だったのです」
「は……つまり、ただ置き去りにされた、と?」
頷く子翠。何か特別な思惑を持って残ったとかそういうわけでもなく、額面通りに
それが真実だったなら、つまり――
「裏切りだとは、思っていません。脱走の手引きをしてくれていた人物は、私が特別信頼を置く人間ですから」
想起した可能性は、先んじて子翠によって否定されてしまった。そしてその眼を見る限り、その信頼は強がりの類でもないようだ。
「ですが、なら、なぜ置いて行かれるなんてことが起きたのです。……先ほど『相手が上手だった』と言いましたね? つまり、貴女がこんな状態に陥ったのはその
子翠自身でも、脱走の手引きをした彼女の仲間でもないのだとすれば。その
知っているのなら早く答えろと、壬氏の眉間でしわが深くなる。しかしそんな圧にも動じず、子翠は自身の下女服をつまんで示して、さらに続けた。
「私たち子の一族に害意を抱く者がいることはわかってしました。例の、
「それで、わかったんだろう?」
壬氏が、子翠の声に半ば被せるような勢いで迫る。それに対し、子翠は一つ瞑目し、
「いえ」
首を横に振った。
「今《・》、ようやくわかりました」
「今……?」
首を振られたせいで彼女の襟首に伸びた壬氏の手が、続いたその台詞に半ばで止まる。またしても困惑に襲われる中、子翠はそんな壬氏から、小蘭の方へと眼を向けた。
そして涙を残してポカンとしている彼女の下で、子翠は壬氏の代わりにその身を支え、気安い口調で問いかけた。
「ねえ小蘭。最後に私と……子翠と話したの、いつだった?」
「え……?」
質問の意図がわからなかったのだろう、小蘭が唖然と呟いた。もちろん壬氏にもわからない。
しかし子翠はただ答えを待って、小蘭をじっと見つめるばかりだ。結局はその眼に負けることになり、小蘭の頭は問われた通りに過去の記憶を遡った。
「えっと……洗濯のお仕事を一緒にやった時、かな。猫猫も一緒に三人で
そして、答えた。それに対して、子翠は小さく「やっぱり」と息を吐いた。
完全に腑に落ちた、というふうだった。
「うんうん、そっか。でもね、小蘭――」
そして続けて一拍の間。子翠は
「私、その時そこにはいなかったよ」
「え……?」
小蘭の記憶の否定。それは二度、小蘭から唖然を引き出した。
記憶違いを指摘している、というわけではない。子翠は、純然たる事実の一つとして、その言葉を並べていた。
「たぶんそれって、ちょうど
「……で、でも、私、確かに子翠と……。た、確かに会ってお話ししたよ!? 子翠が忘れちゃってるだけだよ!」
「ううん。忘れたわけじゃないし、もちろん小蘭が記憶違いしてるわけでもない。でも
「わ……わかんないよ。子翠何を言ってるの……?」
全くだ。訳が分からない。子翠の言うことは、矛盾している。
小蘭の記憶も子翠の記憶も正しいということは、つまりその時、子翠は二人いたということになってしまうではないか。
単純な、子供でも分かる理屈だ。同じ人間は二人といない。子翠が二つの場所に――小蘭たちの傍と柘榴宮に、同時に存在することなどあり得ないのだ。
――いや。
「まさか、そういうことか……!?」
「お気付きになられましたか?」
子翠の微笑。ハッとなって目を見張った壬氏を捉えたそれに、重々しく顎を引く。
楼蘭が子翠に化け、侍女が楼蘭に化けていたという、その図式に囚われすぎていた。一度気付いてしまえば、どうして今までその発想にならなかったのかと自分が間抜けに思えてくる。
だが、自身に失望するのは後でいい。この気付きで、全てが理解できたからだ。
「えっ? な、なに? 気付いたって、どういうことなんですか、壬氏様?」
小蘭はまだわからないらしい。壬氏も今になってようやくであるためにえらそうな顔などできないが、しかし今更彼女にだけ説明しない理由もない。頷き、語って見せた。
「つまり、子翠……楼蘭が上級妃として振る舞っている間に、子翠として振る舞っていた者がいたということだ」
「し、子翠として、振る舞う……?」
「楼蘭が子翠に化けたように、別の者も子翠に化けていたんだ。
「その通り」
子翠が相槌を打つ。そして説明されてもなお中々呑み込めないでいる小蘭だけでなく、壬氏にも聞かせるように、子翠は台詞を引き継いだ。
「小蘭が会ったのは、私じゃないもう一人の子翠の方。そしてたぶん私が置き去りにされたのも、もう一人の子翠を私だと勘違いしたからなんだろうね。……小蘭でも気付かなかったほどよく似ているなら、あの人たちが気付かなくても不思議じゃない」
「でも……でもだよ! どうやってそんなにそっくりに……」
「元々、似た侍女を集めてたからね。小蘭も漣風のこと、偽物だとは気付かなかったでしょ?」
言われて小蘭は漣風の方へと眼を向けた。侍女頭の腕の中で幾らか落ち着きを取り戻し、壬氏たちのやり取りを見ていた彼女は、集まる注目に楼蘭妃そっくりの顔で小さく悲鳴を上げていた。
彼女だけではない。周囲の侍女たちも、そうだ。その顔も背格好も、子翠、楼蘭とよく似ている。
なら楼蘭だけでなく、子翠そっくりに化けることも十分に可能だ。
そして、壬氏は遅れて気付く。侍女の人数だ。数えてみれば、本来は七人いるはずが、漣風を入れても六人しかいない。
「少し前から姿が見えなくなっていたのです。まさかそんなはずはないと思っていたのですが、こうなってはもう疑いようもありませんね」
壬氏の視線を読み取り言う子翠に、壬氏も頷く。決定的だった。何十人もいる下女ならばいざ知らず、妃付きの侍女の顔と名前なら全て壬氏の頭に入っている。
足りない一人。小蘭たちに
それは――
「――
壬氏が呟いた名前に、子翠は泣きそうな顔をした。