寺坂信行は帰宅後、自室のPCで
現代では珍しい姓である。
時代が、悪と戦う力を強く求めなくなると、恐怖を象徴する文字は不吉だと感じられ、積極的に塗りつぶされるという説がある。
だったら21世紀なんてもっと荒々しい名前で溢れていなきゃおかしいよ。
というわけで、鬼庭姓が廃れたのはおそらく江戸期か昭和中期以降であると考えられる。すなわち、大衆がぬくぬく飼われることこそ至福だと何もかも手放した時代に、消え去ったのだ。
それはさておき幼い頃から貞山公の武勇伝を刷りこまれて育った者にとって、鬼庭といえば左月斎だ。
大石良雄がその名を口にしたとき、寺坂は、かつて左月斎を演じた幾人もの老優たちを思い浮かべた。
序盤で華々しく死んでみせるので印象にのこりやすいという理由もあるが、軍人や役者ならずとも、ある種の男だったら彼のような人物に憧れるものである。
若き王を厳しく諭し導いてくれた大先達として。
あるいは、圧倒的多勢の敵に追われる味方の殿をつとめ、わざと目立つ装束で攻撃を惹きつけ、自らの死と引き換えに国を救った英雄として。
平和な時代には、こんなロマンを語っても、退屈されてしまうらしい。たしかにそんな連中を征服するのに左月斎の出番は無さそうである。
天正年間は、左月斎が老骨に鞭打ち、目を血走らせるほど、敵もまた強かったのだ。甘えてなんかいられなかった。
退屈も甘えも、支配されることを喜び尊ぶ者だけが抱く情動だから。
鬼庭左月斎はやっぱり、ある種の男だけが憧れる、永遠のヒーローなのだ。
寺坂自身もこの日初めて知ったのだが、左月斎の居城は
若い頃、
ちなみに当時、あらゆる軍事拠点は大小問わず城と呼ばれていたので、川井城といっても天守閣を備えた要塞がドスンと建っていたわけではない。
おそらく村の中心部に位置する、ちょっと立派なお屋敷程度の建物だったであろう。
そこは物資の集積所であるとともに、村民から持ちこまれるあらゆる相談事の受付窓口であり、村の外からの情報が一番入手しやすい連絡中継点だった。お役所のようなものだ。
左月斎はそんな村の領主様だったわけである。
中世の日本では、人物名が、昇進するたびにコロコロ変わる。
古文書では年月日をすべて記入されるケースが珍しく、さらに近代の学者は月齢を基準とする和暦と日周運動に基づく洋暦を混在させたまま勘を頼りに並べ解釈してみせるという悪習を伝統として墨守する。
このため語り手の数だけ無限にパラレルワールドが生成できるというワンダホーな国であるわけだけれど、そのひとつだと了解しながら聞いてほしい。
左月斎が55歳の年、伊達16世に息子が生まれた。
王家への忠誠を誓う左月斎は、他の家臣たちと共に、この王子を慈しんで見守った。
5年ほど後、王子は感染症に罹り、右目を失う。
顔にひどい痘痕が残ったという証言もある。
王子は暗い性格となり、家族や使用人たちとの関係も悪化していった。
弟がいたらしく、そちらを後継者にして長兄の方は仏門へ進ませるのが最善策であるといった意見も出たが、なかなかまとまらない。
左月斎は長兄に王位を継がせるべきと考えていたようである。
不遇に見舞われはしたが、それでも芯に秘められた強い意志を認める。
これを惹き出し、伸ばしてやりたい。
そんな心情が想像できよう。
16世も、長兄の方に期待していたらしい。
その子が11歳になると成人式を執り行い、実務を教え始めた。
18歳でとうとう領主の座を譲る。
伊達17世の誕生だ。
16世は引退するには早すぎたが、グズグズ言う周囲にはっきりと決断を示したのではないか。見事なほどに新王を突き放し「父を頼るな、おまえが決めろ」と口を出さない姿勢を貫く。
このとき左月斎72歳。
さすがにヨボヨボである。
こちらも、とっくに川井領主の座を息子に譲っていた。
ということは隠居の身であり、17世の傍でしっかり助言ができたということだ。
厳しい老師であったにちがいない。
17世は強い精神力を磨かれて育ち、周辺領主との抗争に決して弱気を見せなかった。
1年後、左月斎73歳。
人取橋で力果てる。
その死は、伊達一門の結束を、ますます強くした。