電巧堂の終業時刻は17:20。
田村清顕は5分前から片付けを始め、定刻になると挨拶を一言だけして、退社した。
吉田課長:まったく大した度胸だよ。
あらゆる意味において、こちらの思う通りに動いてもらうのは難しそうだねえ。
わざと聞こえよがしに寺坂へ向けてつぶやく。
室内の空気も緊張がほぐれたところなので、寺坂もゆっくりと、周囲にも聞かせるように返答する。
寺坂:課長。でもやっぱり彼の能力は恐るべきですよ。
うろ覚えのキーワードで検索して、100件の履歴が抽出されたとします。
マクロがそれを、2つか3つのグループに分類してくれます。
人間は、確実に違う方の一群を除外する。
これを繰り返せば、探しているカルテへすぐに辿りつける。
助成金支給制度の申請番号や、支払履歴まで紐付いてます。
いままでこれらを探すのにどれだけ手間がかかっていたと思うんですか。
事務員たちが目を丸くする。
急に潮目が変わった。
「田村君は尊大で変人だと思っていたが、そんな人なら辞めさせないで。
もう少し業務改善を手伝ってもらいましょうよ」
と吉田課長への圧が強まっていく。
そこへ来客。
派遣会社の担当だ。
吉田は寺坂も連れて、会議室へ移動する。
寺坂が朝見かけた老人だ。
彼は、
岩城:遅くなって大変申し訳ありません。
お電話では、田村の言動にずいぶんと問題がある、とのことでしたが。
吉田:はい、そのう。午前中の段階では、まるで過激派かと思うような敵意を向けられたようにも感じたものですから。
ちなみに……彼は他の会社で、そのようなトラブルを起こしたことはありますか?
岩城:合う合わないはどこででも常に起き得ますね。
たとえば田村は接客業に向きません。
ただ、こちらではITスキルを再重視されているとのことでした。専任の指導員が就くというお話でしたので、それならばとご紹介した次第なのですが。
寺坂:あの、よろしいですか?
私は今日、田村さんの仕事ぶりを見て、本音をいえばかなり惚れこんでいるんです。
気にしているのは、守秘義務を求めるについて、彼をどれだけ信用してよいものだろう。ということでして。
いかがですか?
岩城:彼、特定分野については饒舌ですよねえ。相手が聞いていようがいまいが、喋りたおす。
ただ、リテラシー意識も高いですよ。
気になられるような発言がありましたか?
寺坂:彼は、シースリー社で働いていた経験がありますか。
岩城:シースリーですか。ありません。
あの会社は系列企業が人材派遣も手掛けているので、うちに依頼してくること自体、無いですよ。
そして田村は人材派遣の登録を、ウチでしかしていないと言ってますから。
寺坂:なるほど。
妙に詳しかったんですけど、あれは他所で仕入れてきた情報だったということなんでしょうね。
岩城:シースリーさんに限ってであれば、ネットで検索していただければ凄まじいほどのクレームや内部告発を拾うことができます。
それを話題にしたからといって、守秘義務を侵したという解釈にはならないと考えるのですが。
田村については明日以降も様子見で、と話がまとまる。
岩城は退出し、それからほどなく寺坂も帰路についた。
同日夜19時すぎ。
N市に隣接する、県都S市のバス停にて。
小学生男児がひとり、ベンチに座ってバスを待っていた。
時刻をたしかめ、ランドセルからゲーム機を取り出して、無音のまま興じている。
ベンチの反対端には、スーツ姿の男性が座っていた。
その手から小銭のようなものが落ちてコロコロと転がる。
少年はそれを拾って、スーツの男に差し出した。
男、ニコッと笑い、左手を少年の顔面に近付ける。
スポイトのようなものを掴んでいた。
その先端から、液体が、少年の右目へ向けて噴射される。
「ぎゃあああああああああああぁっ!!」
周囲の大人たちが驚いて駆け寄る。
スーツの男は素早く逃げ、すでに姿を消していた。
通報により、救急車とパトカーが到着した。
現場周辺には規制が敷かれ、鑑識係が足形や遺留品を採取する。
警察犬も犯罪者の行方を追った。
だが即日逮捕には至らなかった。