第1話「失ったもの、変わる世界」
夕焼けが教室を赤く染め上げる。それはまるで、血で彩られたキャンバスのようだった。昼と夜の境界線をぬけて、一人の少年が教室の前へとたどり着く。少年の荒い息づかいとほのかに赤みを帯びた頬がどれだけ急いでこの場に来たのかを証明していた。少年のオレンジがかったくせのある茶髪が廊下の蛍光灯に照らされて、夕焼けに負けないくらい鮮やかに輝いている。
この少年の名は、
直希は教室のドアの前で大きく深呼吸をした。息を整えたかったのもあるが、どうしようもなく緊張している自分を少しでも落ち着かせたかった。片思いの女の子に呼び出されたのだ。少しでも体裁を取り繕い格好いい自分を見せたかった。
しかし、呼吸を整えた直希の目に飛び込んできたのはあまりにも残酷で衝撃的な光景だった。片思いの女の子と親友のキスシーン。夕焼けに照らされた教室で重なる影はさながら恋愛映画のクライマックスのようで。――息が止まった。
心臓が張り裂けそうなほどうるさく脈を打つが、指先から体の中心へ向かうように熱は消えていく。目の前の光景が直希には信じられなかった。悪い夢でも見ているのだろうか。
直希はまるで宙にでも浮かんでいるのか、どこかふわふわとした感覚に苛まれ硬直していた。そんな直希と親友の視線が交差する。その瞬間、直希は目の前の光景を拒み跳ね返るように廊下を駆けだした。
「お前、どういうつもりだ」
「あなたの大切なものを全部壊そうと思って」
「そこをどけ」
「いや」
透哉は弾けるように走りだした直希を追いかけたかったが、それを心愛が阻む。実力行使をすることも考えたが、まだ生徒は残っているし、先生たちもいる。下手に大声をあげられてしまえば、旗色が悪くなるのは明確だった。おそらくそこまで計算した上で行動に移したのだろう。人を嵌めることに関してだけは頭が回る女だ。反吐が出る。
「無理矢理突き飛ばしたりはしないんだ?」
「わかってて言ってるあたり、なおさらムカつくな」
「へぇ。透哉くんって、そんな顔もできたんだ。おー、こわこわ」
「もう一度言う。亜久沢、そこをどけ」
教室内の空気はどこまでも冷え切っている。対峙する二人の視線はバチバチと音を立てていた。直希を追いかけたい透哉、二人を苦しめたい心愛。二人の影は赤に照らされ、どこまでも続く平行線のように伸びている。
「……なんで、直希くんなの」
「……なにが言いたいんだ」
「透哉くんが直希くんを選んだ理由。それが知りたいの」
「……理由?」
「だって、男じゃん。そりゃ、今は同性愛だって認められるようになってきたよ。でも、男じゃん。なんで、私じゃなかったの」
心愛の体は震えていた。透哉を好きになった。でも、透哉の瞳には直希しか映っていなかった。どうしても自分を見て欲しかった。しかし、そうはならなかった。自分のものにならないなら、壊してしまおう。それが心愛の本音だった。どこまでも歪んだ真っ直ぐな愛。呪いと変わらないそれが三人の関係を大きく変えることになる。
「……直希は【太陽】なんだよ」
「なにそれ。意味わかんない」
「わかるよ。お前も。もし、僕じゃなくて直希を好きになっていたら、きっとわかってたはずだ。僕はお前が嫌いだ。でも、直希ならお前を救えるとも思っていた」
「意味わかんない。なにも知らないくせに」
心愛は拳を握りしめる。この世に救いなんてない。家族だって裏切るんだから。それでも、目の前にいる男は穏やかに笑った。直希の名前をだしてからずっと。それが理解できず、心愛の動きは止まった。その横を透哉が通り抜けていく。
心愛は紫に沈む世界で一人取り残された。
——ニタァ。
笑う、嗤う、哂う。
教室に一人取り残された心愛の前に、一人の女性が音もなく現れた。褐色の肌に、漆黒を思わせる癖のある長い髪、きらきらと輝く瞳はまるで宇宙を内包しているようだ。顔立ちに幼さは残りつつも、その美貌は魔性と称するのが相応しい。明らかに人間離れしたそれはゆったりと口を開いた。
「亜久沢心愛、お前の願いを叶えてやろう」
「……はっ?」
心愛は目の前で起きた不可思議な現象についていけない。この教室は学校の三階にある。階段を上ってくる音どころか、教室のドアを開ける音も聞こえなかった。しかし、目の前には少女のような姿をしたなにかがニタニタと不気味に笑いながら存在している。心愛は思わず自分の手の甲を爪でつまんだ。——痛みがある。夢じゃない。
もしかしたら、本当に願いを叶えてくれるかもしれない。心愛の口元が三日月のように歪んでいく。
「面白いことを言うのね、あなた」
「くふふっ、今の状況に物怖じしないとはセンスがいいな。君を選んで正解だった」
「『願い』って、なんでもいいの?」
「もちろん。どんな願いでも叶えてあげるよ。ボクは
どこか胡散臭いが、神様というのも納得はできる。いきなり目の前に現れたのだ。人間であることの方がおかしい。心愛の笑みが深まっていく。恍惚と歪みながら。
「私の願いはただ一つ。『真辺直希に苦しんでほしい』」
「へぇ? それはまたどうしてだい?」
「
「ふ~ん? まぁ、そういうことにしといてあげる」
神と名乗った少女はニタニタと笑いながら心愛を観察している。まるで本心を確かめるように。その態度が心愛には気に食わなかったが、得体の知れない存在に噛みついていいことはない。心愛は冷静なフリを必死に装っていた。
「それで? 叶えてくれるの?」
「もちろん。明日になれば、君の願いは叶う。楽しみにしておいてね? それじゃ、おやすみ」
目の前の少女が心愛の眼前に手をかざす。すると、心愛の意識は闇へとけるように暗転した。
「さて、次の仕込みをしようか」
心愛がゆっくりと教室の床に倒れこんだことを確認した少女は、にんまりと嗤い教室から姿を消した。透哉を追うために。
透哉は焦っていた。明らかに学校の様子がおかしい。直希を追いかけるために廊下を駆けだした透哉だったが、走っても走っても階段にたどり着かないのだ。他の生徒や教師とすれ違うこともなく、透哉だけが無限の迷宮にとらわれてしまったように思える。何度同じ廊下を走っただろうか。息を切らし立ち止まった透哉の前にそれは現れた。
「急いでいるところ申し訳ないが、少し君と話がしたくてね。細工をさせてもらったよ」
けたけたと笑いながら天井から女性のような何かが顔を出し、その視線につかまった透哉の息が詰まる。天井から顔を出した彼女は体を反転させ、ふわりと廊下へ舞い降りた。
「……あんた、誰だ?」
普段の透哉からは想像できないほど、その声は震えていた。
「初めまして『信楽 透哉』くん。ボクは神様だよ」
「妖怪の間違いじゃないか? 少なくとも神様なんて真っ当なものには思えないけど」
「君、やっぱりおもしろいなぁ~。ボクが怖いくせにそんなことを言うなんて。そもそも神様が真っ当? それはパフェみたいに甘い理想だねぇ。でも、ボクはそういう感性、嫌いじゃないよ?」
透哉の瞳を見つめながら、神と名乗ったそれはニヤニヤと笑っている。瞳を通して心の奥底まで覗かれているように思えて、透哉は目を逸らした。
「そんな邪険にしないでよ。ボクは君の『願い』を叶えに来たんだ。……ボクは君の味方だよ?」
微睡むような甘い声が徐々に透哉の理性を蝕んでいった。明らかに異常な状況にも関わらず、透哉の興味は神に収束していく。
「本当に僕の
「本当だとも! 最初からそう言っているじゃないか」
「それなら——」
「——いいよ。君の願いは叶う。明日を楽しみにしているといい」
信楽透哉は願ってしまった。ずっと心の奥底に秘めていたわがままを。それがどのような形で叶えられるか知らないまま。……透哉の意識は深い闇へ沈み続け、心地よい波に揺られ甘い誘惑へと溺れていく。そして、信楽透哉として浮上することはなかった。
「あとは仕上げだけだね。今行くよ、直希くん?」
——邪神は満月のように美しい魔性の笑みを浮かべて世界に溶けていった。
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