——走る。走る。走る。ただがむしゃらに。目の前の光景を振り切るように。息が切れる。心臓が痛いほどに騒ぎ、汗が流れ落ちていく。赤は紫へ変わり、そのまま黒く染まっていく。
どれくらい走っただろうか。学校を飛び出し、行く当てもないまま走り続けた直希は道端の石に躓き派手に転んだ。電灯の明かりが影を纏ったオレンジを照らす。
「……なにやってんだろうな。俺」
直希はゆっくりと立ち上がった。情けなくて寂しくて苦しくて。どうしようもなく惨めで。涙よりも先に笑みがこぼれた。自分を蔑むような暗い笑みが。
制服についた砂をはらい空を見上げた。どうしていいかわからなくて。ただ現実から目を背けたかった。見上げた夜空には煩わしいほどに星が煌々と輝いている。
「大丈夫ですか?」
背後から突然声が響いた。柔らかくて優しい、心を吸い寄せるような声が。
直希が振り向くとそこには巫女服を着た女性が立っていた。褐色の肌に月明りで照らされた漆黒の長い髪がふわりと揺れている。直希が視線を奪われたのは、彼女の瞳だった。星が瞬くようなきらめきとそれを包み込むような夜の暗闇が共にある。
「……大丈夫です」
「そうですか? ここで佇んでいたからお悩みでも抱えているのかと思って」
「ここ?」
「はい。ほら、鳥居があるでしょ?」
女性に案内されるように直希が視線の向きを少し変えると、そこには確かに鳥居があった。
「えっ……?」
直希の口から困惑を帯びた声が漏れる。がむしゃらに走ってきた。方向もなにも考えず。それは確かだ。しかし、だからといって町の外れにある
「あらあら、制服も汚れてますよ。とりあえず、神社で少し休んでいったらどうですか? あっ、まだ名乗ってませんでしたね。わたしはこの神社で巫女をしております
直希に向けて邪神は嗤う。心の隙間へ滑り込むように。今の直希にとって、都合のいい味方を演じながら。
「……真辺直希です」
「直希さん、素敵なお名前ですね。ほら、こちらへ。足元、気をつけてくださいね」
柔らかい微笑みを浮かべた神那は、直希を先導しながら神社の本殿に続く階段を上っていく。その後ろ姿を直希は自然と追っていった。その先に待ち受けることなど知らぬまま。
「それで、直希さん。いったいなにがあったんですか? こんな時間に学生が一人でうろつくものじゃありませんよ。いや、私も人のことは言えないんですけど」
先導していたはずの神那がいつのまにか直希の隣に並んで心配そうに直希を見つめていた。直希にとっては、初めて会った自分を心配してくれる優しい巫女さんである。歳もあまり変わらないようで、直希は親近感を覚えていた。それも全て仕組まれたことだと気づけるはずもなく、直希はぽろぽろとこぼしていく。片思いの女の子に呼び出されたこと、その女の子が親友とキスをしていたこと、学校から逃げてきたこと。気づいたときにはもう直希は階段を上りきっていた。
「それは辛かったですね」
神那が瞳を潤ませながら直希を優しく抱きしめる。身長差からか神那が抱き着くような形になっていた。冷えた直希の体を熱が這う。心地よく優しい微睡みのような温もり。それが直希の心を蝕んでいく。
「可哀そうな人。親友に裏切られるなんて。そんな酷い人いなくなればいいのに」
怒りを滲ませた神那の言葉が直希の脳を揺らした。思考にノイズが混じる。本来なら出てくるはずの透哉をかばう言葉が、今だけは出てこなかった。直希の思考が黒く塗りつぶされていく。透哉なんていなくなればいいのに、と。
「ほら、直希さん。着きましたよ。神社の本殿。どんな願いも叶えてくれる神様がいる場所。直希さんにも願いはあるんじゃないですか?」
蠱惑的な声が直希の思考を狂わせる。夜空に浮かんでいた三日月も厚い雲に覆われて姿を消した。
「……ねがい」
「そうです。ここの神様はどんな『願い』も叶えてくれる。大きなことも小さなことも。人は欲深い生き物ですから。誰だって願いを内に秘めている。それが普通なんですよ、直希くん」
神那が嗤う。誰よりも優しくまるで天使のように。その悪辣な本性を隠して。輝く太陽を曇らせるために。
「……おれは」
「俺は?」
直希の口が開く。まるで操られた人形のようにゆっくりと。
「とうやにいなくなってほしい」
直希の後ろで神那が嗤う、哂う、笑う。どこまでも無邪気な悪意にまみれて。
「……そうですよね。自分を裏切った人なんて消えて欲しいですよね。わかりますよ、それも普通です」
神那は一度直希から離れ、今度は絡めとるように優しく後ろから抱きしめ耳元でささやく。直希の思考を甘く溶かすように。
「大丈夫ですよ。直希さん。神様はあなたの
その神那の言葉を最後に直希の目の前は黒く染まった。まるで赤子が母親に抱かれるような、そんな心地よさにおぼれながら。直希がもう一度目を覚ましたとき、目にする世界は果たしてどう映るのだろうか。
「くふふっ。さぁ、舞台は整った!」
巫女の姿から本来の邪神の姿へと戻った神那が月明りをスポットライトのように浴びながら満面の笑みで両手を広げる。
「主演は君、真辺直希くん! 演出はボク! はじめよう最高の舞台を!」
楽しそうに両手を広げたままくるくると回る神那。その姿はまるでダンスを踊っているかのようであった。月明りが照らす境内で邪神の笑い声だけが響いている。
「直希くぅん! 君はどんな選択を見せてくれるんだい? ハッピーエンドもバッドエンドもボクは好きだよ。君が悩んで選んだその先で
神那は恍惚とした表情で夜空を見上げる。まるで恋をする乙女のように。勇者を待ち望む魔王のように。その瞳はどこまでも深淵を映している。
「真辺直希、これはあくまで君の物語だ。どんなエンディングも君次第。でもね、少しばかり手は出すよ?」
舞台の幕が上がる。邪神が演出家を務める舞台が。試練を超えた先で喜劇になるのか、悲劇で終わるのか。それはまだ誰も知らない。
——ピピピッ!
直希の耳元でスマホのアラームが鳴る。いつもどおり布団をかぶったまま、もぞもぞとスマホに手を伸ばした直希は画面をぼんやりと見つめた。表示された時刻は7時30分。急がないと遅刻する時間だ。直希は布団を弾き飛ばす勢いで飛び起きると部屋の扉をその勢いのまま開け放ち、一階へと駆け下りていく。
「直希、やっと起きたの? もう来ちゃうわよ」
「わかってる!」
母親に呆れられながら直希は洗面所へ駆け込むと朝の身支度を済ませる。そして、またすぐに階段を駆け上り自室へと飛び込んだ。クローゼットを開けて制服を取り出して着替え、鞄をひっつかむとバタバタと階段を下りてリビングへと向かう。リビングのテーブルには絶妙な加減で焼かれたトーストにハムエッグ、野菜ジュースが準備されていた。
「いただきます!」
直希は席につき両手を合わせてから、トーストの上にハムエッグを乗せ口に詰め込み、野菜ジュースで流し込む。
「またそんな食べ方して。胃に悪いわよ」
「ごめんって。でも、時間ないし。ご馳走様!」
「ほんとにこの子は……誰に似たのかしら」
母親の小言を聞き流しながら朝食を食べ終えた直希は食器をキッチンに片付け、その瞬間。
——ピンポーン!
いつものようにインターホンが鳴った。誰かを確認することもなく、直希はリビングに置いた鞄を掴んで玄関まで走ってドアを開ける。
「おは……」
「おはよう! 直希!」
ドアを開けた先で待っていたのはいつもの透哉ではなく、向日葵のような明るい笑顔ではにかんだ亜久沢心愛だった。
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