困惑する直希に心愛は笑顔で話しかける。
それが直希にとって、この世界の始まりだった。
「……あ、亜久沢?」
「直希、どうしたの? 名字呼びなんて付き合う前以来じゃん。えっ、もっ、もしかしてそういうプレイ……みたいな? もう、急にやめてよ。ビックリするじゃん」
困惑する直希をよそに心愛はにこにこと機嫌よさそうに笑いながら、直希をこずいてくる。そんな距離感が当たり前のように。
「ちょっと、いつまで玄関にいるの? 心愛ちゃんが迎えに来てくれたんだから。さっさと学校に行きなさいよ。全く……ごめんなさいね」
「あっ、紬さん! おはようございます!」
「心愛ちゃん、おはよう。今日も可愛いわね。ほんとうちの息子にはもったいないわ」
「えぇー!? そっ、そんなことないですよぉ」
「ほら、直希。いつまでも可愛い彼女を待たせてるんじゃないわよ」
母親の紬に半ば追い出されるように直希は玄関を出る。混乱したまま母親に見送られ、通い慣れた道を歩き出した。紬が見えなくなった頃、心愛が直希に腕を絡める。
「へへっ。やっとできた。さすがに紬さんの前だと、ちょっとね?」
ペロッと可愛らしく舌を出して、直希を見上げる心愛。今の彼女にとっては当たり前のことなのだ。直希と腕を組むことも。直希の混乱は収まることもなく、そのまま引きずられるように心愛と二人で学校へ歩いていく。
「ねぇ、直希。やっぱり体調悪いの? 今日なんか変だよ?」
心配そうに直希の顔を覗き込む心愛。そんな心愛と視線を交わして直希には気づいたことがあった。心愛がタイツを履いていない。直希の知る心愛は一年中黒いタイツを履いていたはずだ。思わず視線を下げた直希は、心愛の太もものあたりに切られたような傷跡を見つけてしまった。
「直希? ……もう! 人が心配してるっていうのに足ばかり見て! えっち!」
直希の視線に気づいた心愛はわざとらしく反応してみせる。
「ちっ、ちがっ! そんなつもりじゃなくて……その、傷が」
「傷? もう。いまさら、なに言ってるの。この傷が直希とのきっかけをくれたんじゃん。……もっ、もしかして、きっ、記憶喪失とか!?」
直希の一言に心愛は大げさに驚いてみせた。直希に揶揄われていると思ったのだ。しかし、直希には心愛の言葉に思い当たる節はない。直希の表情が曇る。それを心愛は見逃さなかった。
「えっ、もしかして……本当に記憶喪失なの? だったら学校なんて行ってる場合じゃないよ! 病院行かなきゃ!」
「ちっ、違うよ。今日変な夢見てさ。まだちょっと寝ぼけてるみたいで。夢の内容とごっちゃになっててさ。ははっ」
直希は強がって笑ってみせる。ずっと好きだった心愛に心配をかけたくなかった。それは独りぼっちになった男のちっぽけなプライドだったのかもしれない。
「ほんと?」
「ほんとほんと」
「じゃあさ、どんな夢見たの?」
「あくっ……心愛が透哉と教室でキスしてる夢」
「なにそれ! 私は直希一筋なんですけど!」
心愛は直希の言葉に違和感を持ったのか、夢の内容まで追求する。そして、内容を聞いてあからさまに不機嫌になった。心外だと言わんばかりにプリプリしている。
「ってかさ、夢に出てきた透哉くんだっけ。その人って誰? うちの学校にそんな名前の子いたかな」
「えっ……」
心愛の言葉に直希は硬直してしまった。胸の奥がざわざわとさざめく。
「直希? やっぱり変だよ。学校休も?」
「……いっ、いや大丈夫だって。ちょっと夜更かししちゃっただけだからさ」
直希の顔を心愛は真剣な表情でのぞき込む。その瞳の奥に青ざめた自分の顔が映り、直希はなにも言えなくなった。それでもここで引き返すわけにはいかない。透哉のことを確かめるために。
「…………わかった。そのかわり今日はずっと私がそばにいるからね!」
少しの間、直希の顔を見つめていた心愛は彼に休む気がないことを悟ると、軽くため息を吐いてからにこっと笑った。直希を元気づけるために。
通い慣れたはずの通学路。透哉とよく買い食いをしたコンビニも、一緒に参考書を買いに行った本屋も変わらずに残っていた。何度も見たはずの景色に溶け込む明るい茶色。風になびくツインテールだけが直希にとっては非日常である。自分を支えるように寄り添う心愛の姿、熱を帯びた彼女の視線。それを向けられる度に直希の心は鈍く軋む。そんな目で見ないでくれと。
学校へ近づけば徐々に見知った顔が増えてくる。廊下ですれ違った隣のクラスの男子や同じクラスの女子。登校中に見かけた後輩たち。見慣れた顔が増える度に直希は透哉を探す。探して、探して、探して——透哉だけが見つからない。
直希の震える指先に心愛の指先が優しく絡む。大丈夫だよ、とそう囁くように。その柔らかくも暖かい温もりが夢じゃないと叫んでいた。
学校に近づくほど、直希の鼓動は早くなる。嫌な想像を、認めたくない現実を振り払うように自然と歩幅が広くなっていた。そんな彼の横を急ぎ足で心愛はついていく。離れてしまったら、そのまま直希がいなくなってしまうんじゃないか。そんな不安を抱えて。
慣れ親しんだ校門が見えて、直希はハッとした。漆黒の髪がふわりと黒猫のように横切って、校舎へと向かうのが見えたのだ。——あの女だ。直希は心愛を置いて駆けだした。
「——ちょ、直希!?」
心愛の声は確かに聞こえていた。しかし、今の直希にはそれどころではない。手がかりを見つけたかもしれないのだ。直希は黒猫の尻尾のようにゆらゆらと気ままに揺れる漆黒の髪を見失わないように全力で追いかける。人込みを避けながら下駄箱を抜け、廊下を走り、階段を上り、誘い込まれたようにたどり着いたのは校舎の屋上だった。
「やぁ、真辺直希くん。爽やかないい朝だね」
その女は直希が屋上に入ってきたことを確認するようにゆっくりと振り返った。光すらも飲み込みそうな漆黒の髪に、吸い込まれそうな宇宙を内包した瞳。巫女服ではなく、制服を着崩しているが間違いない。十月神那だ。
「おやおや、そんな怖い顔をしてどうしたんだい?」
「……わざとだろ。ここに来たの」
「ははっ、なんだ。ちゃんとわかってて追いかけてきたんだ」
「俺があんたを見失わないように一定の距離を保ってたんだろ。誘い込むようなことしやがって」
「いいねいいね、大正解だよ!」
直希の言葉に神那はからからと笑う。それはそれは楽しそうに。
「真辺直希くん、君は気づいているのだろう? いや、信じたくないから気づかないフリをしているのかな?」
「なにが言いたい」
「くふふっ。どれだけ探しても『信楽透哉』は見つからないよ。彼はこの世界にはいないからね」
「!?」
「あ~ぁ、顔真っ青にしちゃって。可愛いねぇ。もっと喜びなよ。『願い』が叶ったんだからさ?」
神那の言葉で直希の脳裏に神社での出来事が蘇る。それは泥水のように直希の心へこびりついた。罪悪感か、自己嫌悪か、目の前のものに対する憎しみか。ひどく濁ったそれは直希に拳を握らせる。
「おっと、待った待った。ボクは別に『二度と彼が戻らない』とは言ってないよ?」
「……どういうことだ」
奥歯を噛みしめた直希が拳を振るうよりも早く、神那は口を開く。
「ボクは神様だ。悪魔じゃない。真辺直希くん。君が試練を乗り越えられたなら、元の世界に戻すことも考えてあげよう」
神那は直希を見つめながら、にやぁと笑う。禍々しい三日月から溢れた言霊が直希の鼓膜を揺らした。
「この世界は複数人の願いが絡まって形作られている。その願いの内容と誰が願ったのか。それを君が探し出せたのなら試練はクリアだ。そのときには選ばせてあげよう。この世界か元の世界か、どちらで生きるかを……ね?」
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