ステッキを拾った。魔法少女になった(30代男性)。 作:稲荷竜
ファンタジー系のRPGで出てきそうなモンスター、という共通点だ。
目の前の化け物もきっと、くれあがよく知らないけで、そういうのが出てくるゲームもあるのかもしれない。
でも……
一言で言うならば。
目の前のそれは、『ジャンル』が違った。
ヌメヌメとした、夜の闇の中でも存在感を放つ粘液を全身にまとった化け物。
全体的なシルエットは蛇を思わせた。それも、蛇を何本も何本も束ねたような、いびつな姿。
無数の『蛇』が粘液をまとってそれぞれに鎌首をもたげる、十、二十……もっと多くの『頭』を持った、胴体と尻尾が融合して奇妙にふくらんだ化け物。
魔法少女の暗視力により捉えたその『蛇』の色は、毒々しい青灰色。
どう呼んでいいかもわからないそいつはしかも、全長が、くれあたちの五倍以上もあった。
そいつが、声なき声で吠える。
すると、くれあの頭に、『ジジジジジッ』というノイズが走る。
横を見ると、いさみも不快そうに頭を押さえていた。
この現象は──
(常識の、改変……!)
──この世界の常識は、異界から発せられた『何か』によって書き換えられている。
たとえば最初は、習慣の変化だった。
昨日までは車で通勤していたお父さんが、電車通勤になった。
仕事についてそこまで細かいことを知らないくれあは、深く疑問に思わなかった。父が家を出たあとにいつものエンジン音がなかったのが少し気になっただけで、朝食を食べていた。
外に出たら、いつも車がある場所に車がなくて、代わりにガーデニングされたと思しき庭があった。
母に聞いた。『お父さんの車、どこにあるの?』と。
そうしたら母は言った。『車なんて、運送の人ぐらいしか乗らないでしょう』と。
どうしてそう変わったのかはわからない。
ただ、自分が『常識』と思っていることと、人が『常識』と思うことが、少しずつ少しずつ変わり、ずれている。
気持ち悪かった。くれあは最初、わかってもらおうとして、母に、友達に訴えた。
でも、わかってもらえなかった。それどころか、変な子扱いされて、友達を失った。
さらにまた別の日。
今度は、『お父さん』という存在そのものが、消えていた。
最初からなかったみたいだった。母に聞いた。『お父さん』という言葉そのものに聞き覚えがないみたいに、よくわからないという反応をされた。
常識が変わっている。
いたはずの人が、いなくなっている。
それまであった物がなくなって、つじつまを合わせるみたいに『最初からなかった』ことにされている。
その『最初からなかった』ことに何かがしようとする時に発せられる、音とも、衝撃とも言えない、奇妙な圧力。
それが、くれあの頭に、負荷を与えていた。
これまでにないほど強い負荷を。
(あ、れ、わた、し……)
視界がゆがむ。
目の前の、あんなに大きな化け物が、消えたり、現れたりを繰り返した。
点滅している。化け物が点滅している。一瞬、気を抜くと、化け物が目の前にいた事実を忘れそうになる。
体を見下ろす。
魔法少女の衣装。ピンク色のドレス。宝石のはまった剣。気を抜くと、普通の服装に戻る。魔法少女が『なかったこと』にされる。
これまでも常識・認識の改変はあった。
でも、それが『魔法少女』に及ぶことはなかった。この世界の人類は、『魔法少女』という対抗手段を『なかったこと』にされることだけは、なかった。
今、それが『なかったこと』にされかけているのを、くれあは理解した。
(消える)
お父さんが最初から『なかったこと』になっていく。
クラスメイトのあの子が『なかったこと』になっていく。
これまではあったのに、いつの間にか消えて、最初から消えていたみたいに扱われていた、くれあといさみだけが認識できていたあらゆることが、頭の中で『なかったこと』にされようとしている。
くれあは不快感で膝をついた。
隣でいさみも、同じように膝をついていた。
苦しさから、くれあは目を閉じた。
目を開いた。
一瞬、いさみが、消えていた。
「いさみ、ちゃ……!」
意識をたもつ。
いさみは、そこにいる。
でも、気を抜くと、いなくなりそうだった。
『なかったこと』に、されそうだった。
頭が重い。平衡感覚が壊されている。うまく立てない。
認識が改変される。この世に異常があるという意識が阻害される。常識が書き換えられる。侵略される。
化け物がゆっくり動き出した。
くれあは、立つこともできない。
化け物が鎌首をもたげ、くれあをすぐ目の前で観察する。
遠目に見れば細そうだった『蛇』は、一本一本がくれあの脚ほどの太さだった。
そいつがつるりとした顔をくれあに近づけ、おぞましい粘液をボタボタ垂らしながら、まじまじと観察してくる。
本能的、生理的な嫌悪感があった。
でも、気を抜くと、目の前のそれは、最初から何もいなかったかのように消えてしまう。認識できなくなる。
(戦わないと……!)
くれあは力をいっぱいに込めて立ち上がろうとした。
でも、途中で膝が折れて、立ち上がれなくなった。
片膝をつくどころか、そのまま、上からのしかかられるみたいに、地面にうつぶせになる。
重い。体が重い。何より、頭が重い。
消える。魔法少女の衣装が。魔法少女だという認識が。目の前の化け物の存在が、頭から、消える。
常識が変わり、いるはずの人がまた、『なかったこと』になる──
「だから、言ったのに」
──ざん、という音が絶ったのは、化け物そのものではなかった。
くれあを襲っていた重苦しさ。『なかったこと』にさせようという重圧。
この世界を侵略しようとする異界の圧。そのものが……
黒い、大きな鎌によって、絶たれていた。
くれあはよろよろと立ち上がる。
痛みと重さの残滓が残る視界の中、廃病院の崩れた屋根から差し込む月光を受けて、一人の女の子が立っている。
小さな体。長い黒髪。
大きな鎌を持った、魔法少女。
まだ名前を知らない彼女は、くれあたちを振り返って、言葉を続けた。
「力が足りない自覚があるなら、大人しくしていたらいい。あなたたちみたいな子供が、命懸けで世界のために戦う必要はない。あなたたちには普通に生きる権利がある」
突き放すように。
力の足りない自分たちをそっと『非日常』から押し返すように。
化け物と自分たちの間に一筋の線を引くように──
──黒い魔法少女が、そこにいた。