ステッキを拾った。魔法少女になった(30代男性)。 作:稲荷竜
黒い触手が迫る。
(……また、この感覚っ……!)
頭にブゥゥゥゥゥン……という圧力がのしかかる。
ブゥゥゥ…………ンンン…………ンンン……………………。
その蜜蜂には実体がない──想像の中のものなのだから当然だ──けれど、羽音には実体と、細かなものが高速で震え続ける時特有の、震動、圧力のようなものが、確かにあるように感じられた。
重苦しい、と言っても違う。不快だ、という言葉では足りない。
異物感があった。でも、その異物感は、少しでも気を抜くと、骨身になじんで、自分の骨より体になじんで、自分の体を知らない間に、その異物を中心にしたものに作り替えてしまうような、そういうおぞましさがあった。
常識が書き換えられる。
何かが消える、この感覚。
渚いさみは思い出す。
かつて、なんの疑問もなかったころがあった。
そのあと、
でもそれよりずっとずっと前、確かに自分は、この世界の常識が日々書き換えられていることも、人々の認識がゆがめられていることも、気づいていた。気づいて、訴えていた。
訴えて、無視されていた。
大人の、子供の妄想を諭すような顔が嫌いだ。優しい笑顔の裏にある、はなからこちらを信じるつもりなんか欠片もない本音が垣間見える瞬間、つい、地団駄を踏みたくなるぐらい、悔しい気持ちになる。
自分は本当に世界が変わってしまっているのを認識していた。それを必死に訴えていた。
でも、誰も相手にしてくれなかった。必死に叫べば叫ぶほど、おかしい子として扱われて、『おかしい子』の目の前で大人たちは、さもずっとずっとはるか太古からそうしていたみたいに、彼らが『常識』と思う初めてすることを、毎日繰り返してた日課みたいに繰り返した。
そういう日々が続くうちに、いさみは、一度、折れた。
常識への違和感を無視しようと決めてしまった。話を聞いてもらえないこと、おかしな子だと思われることが嫌で、違和感を無視して、おかしさを飲み込んでしまった。
いさみは一度、異界からの侵略に負けたのだ。
そうして負け続けていたら、その変わり果てた常識は、知らないあいだに、いさみにとっても、『はるか太古からそうしていたみたいなもの』になっていた。
楽だった。
自分だけがわかっている『本当の常識』を訴えておかしな子扱いされるよりも、おかしな常識にどっぷりつかってしまった方が楽だった。
大人の醜さを見なくて済んだから。子供をまったく信じてない、子供の意見を意見とも思わない、子供の正しさを正しいとは決して認めない、大人の矮小さ。
『女の子』を『話を聞いてやる対象』とまったく認めない大人たちの醜さ。そういうものを感じさせられる日々が、感じさせられたうえでどうしようもない日々が嫌すぎて、『違和感』を無視してしまった。そして、楽になった。
くれあに、引き戻された。
最初は気に入らなかった。忘れていた傷跡を指さされて、痛みを思い出させられた気持ちにさせられた。
でも、くれあの強さに触れて、『誰にも理解されなくても、こんなにも真っすぐに生きられるんだ』と感動した。
くれあの真っすぐさに触れて、自分が、自分の嫌う、『人の言うことを頭から信じないつもりでいるくせに、優しい笑顔と柔らかい声音で、他者の意見を容れる気のない傲慢さを隠す大人』に、自分自身が近づいていることに気付かされた。
そして、そうなりたくないと思った。
かわいいものが好き。醜いものが嫌い。
大人が嫌い。かわいくないものが嫌い。
自分を信じてくれない世界が嫌い。
大人が嫌い。
大人は自分の世界を守るのに必死で、それをゆらがすものを容赦しない。攻撃性なんか表に出さずに、断固として排除しようとする。
くれあはそうやって排除されかけた。いさみはそうやって、一度は完全に排除された。
常識を疑うことは罪深いという圧力に負けて、『いさみ』だった純真なものは、周囲の大人のゆがみに染められて、ゆがみをゆがみだと認識することを放棄してしまった。
「一つ、疑問があります」
自分を守った大人の不可解さを、いさみは言語化する。
大人は右肩をおさえて荒い息をついていた。でも、引き下がる気も、逃げる気も、ないようだった。
たぶん、言葉に責任を持っている。……いや、そうじゃない。先に言葉があって、それを守るのに躍起なんじゃない。先に意思があって、それが言葉として出たから、逃げない。
自分が逃げるまでは、逃げない。
「私の知っている大人は、子供が何かをやらかそうとしたら、まず、保身に走ります。『俺は注意をしたんだよ』と、あきらめます。ついて行って、責任をとるだなんて言いません。私の知る大人なら、私をこの場所で見かけた時点で、一言注意だけして、去っていきます。おまわりさんぐらいは、呼ばれるかもしれませんけど」
大人はちらりと左手首を見ていた。
『なにもない』左手首を。まるで、時計でもそこにあるみたいに。
「大人は卑怯なものです。強いぶっていても、その強さが発揮される状況に身を置かないように立ち回るものです。口ではいくら立派なことを言っていても、口の通りには行動しません。連中は
大人はいさみの方を見ていなかった。
周囲を見ている。いさみの死角を見ている。
まるで、いさみが対応しきれない攻撃が来たら、また身を挺しようとしているみたいだった。
「あなたの『大人像』は、どこから来たんですか? 社会には、あなたの語るような大人なんか、一人もいないというのに」
理想の大人を遂行する、と彼は言った。
だが、そんな大人は今時、理想の中にさえ存在しない。
『小狡い』は『賢い』に変換され、『保身』は『慎重』に変換される。
子供の庇護者である自認のある大人は多い。でもそれは、『自分は子供より圧倒的に賢く、正しく、子供の意見なんぞ聞く価値もないとちゃんとわかっていて、子供は自分に逆らわず、素直に従うべきだ』という意味だ。それが『子供の庇護者の自認』で、『庇護』という言葉の意味は、辞書に載っているものと現実とで、あまりに違いすぎていた。
「いや、『一人もいない』は大げさですよ。きっと、どこかにはいると思います。『理想の大人』というやつが」
声がかすれている。右肩から血が止まっていない。
だから帰れと言ったのに。大人なんだから自分の身は自分で守れと言ったのに。
……身を挺して負われた怪我を、どういう気持ちで見つめればいいか、いさみにはまだ、わからない。
大人は語る。語りながら、言葉を探しているようだった。
「確かに生きてると、クソな大人に巡り合う機会は多いと思います。私も、割とそういう人生でした。……だから、悔しいと思いませんか?」
「なにが、ですか?」
「クソな大人にばかり出会ったことを言い訳にして、自分がクソであることを許すことがです」
「……」
「『現実的』と人の言う。でもそれは社会に負けただけだと思うんです。社会から少し離れて思うんですよ。あんな会社の、あんな大人たちに摺り減らされて、それで『まあ、こんなもんだよな』ってあきらめて、クソな大人になり下がるのは、あまりにも悔しい。だから、あいつらのなれなかった理想の大人になりたいと思うんですよ」
「…………」
「私は、怒っているだけです。……そうだ、俺は、怒ってるんだ。これが、『怒り』だったな、そういえば」
大人の言葉は難しい。
渚いさみは、大人の人生をまだ知らない。
でも、『みんながこう言っているから、自分も同じようにしよう』というのが、格好悪くて、『みんな』に対して、悔しくて、悲しくて、地団駄を踏みたいような気持ちになることだけは、本当によくわかったし……
負けたくない。そういう、『常識』を盾に、他者の意見を容れない『誰か』に。
その負けん気はあまりにも子供っぽくて、いさみにもよくわかるものだった。
「そうですね。私も、怒っています。ずっと、ずっと」
ふと、指先に力がみなぎった。
負荷が強い、と妖精は言った。
だから、注意を促された。
慣らしはまだ済んでいない。……思えば、あの負荷に耐えてまで戦う強いモチベーションを、いさみは己の中に発見できていなかった。
くれあみたいに、綺麗で強い気持ちを、ずっとずっと、自分の中に探していた。
でも、なかった。
なくても、よかった。
戦う理由は一つじゃない。
戦いに自分を借り出す気持ちだって、別に綺麗じゃなくていい。
渚いさみは、怒りによって戦う。
『常識』という圧力を盾に、こちらの話を聞こうともしない連中をわからせてやるために、世界を侵略者から守る。
「ふざけるんじゃないわよ。私は──私は、正しい。私は正しい……私は、正しい!」
「み、渚さん……?」
「常識が間違ってるのに気づけない大勢がおかしい! 私は正しかった! 誰に肯定される必要もなく、私は──ずっとずっと、正しかった! ……だから私は、間違いを正す」
いさみの全身が輝いた。
錫杖がサファイアのような輝きを放ち、形状が変化していく。
──恩寵、装填。
──加護、充溢。
──聖剣は今、勇者の手に。
「
剣は正しき姿を取り戻す。
勇者の資格は怒りにより満たされた。
頭の中の羽音はもう、ない。