携帯の震えで反射的に目が覚めた。布団から手を伸ばして携帯を手に取る。
クドからのおはようメール。おまじないをした翌日から、クドはメールを送ってくれるようになった。直ぐに返信をして体を起こす。なんだか恋人っぽくてわくわくしてしまう。
「んっ……ふぁ」
背伸びとあくびを一緒にして起き上がる。今日もいい天気だった。
__
朝食を食べながらニュース番組を見る。こんな習慣は無かったが、テスト期間にクドがよく見ているのを一緒に眺めていたせいか、すっかり習慣になってしまった。きっとクドも見ているだろうから、話題にもなるだろうし。
と、そこで何やら聞き馴染みのある国の名前が出てきた。
『……では、次のニュースです。テヴア共和国航空宇宙局、TASA広報官は、予定されていた打ち上げの延期を発表しました』
それから色々、なんだか不安になるような……。
それに、テレビに出てきた墨色髪の女性が、英語で流暢に語っているのが見えた。……実験炉?
テレビの画面下部にはしゃべっていると思われる女性の名前が外国語で出ている。
『Ч.Ивановна Стругацкая』
読めないが、英語の字幕が被さっている。
『C. Ivanovna Strugatskaya』
C・イヴァ………ストルガツカヤ……?
女性は今度は英語ではない言葉で話し始めた。こすもなーふとがなんだとか。
……どうしてか、凄く気になってしまった。それに、ストルガツカヤって……。
『……以上、ノーヴィ・バイコヌール基地からでした。次のニュースです』
『……………国債のデフォルト宣言を検討中であるとの一部報道について……』
__
「あ、△△。ぐっどもーにんぐです」
今日も今日とて腕に抱きついてくる。もはや日課のようになってしまった。私はそれを受け止め、頭を撫でる。
と、ついでに今日の朝のニュースについて尋ねてみることにした。
「クド、ちょっといい?」
「……なんですか?」
「今朝のニュース、見た?」
雰囲気が少し変わる。甘々な空気から一転して、神妙な面持ちで、私の顔を見上げた。
「黒い髪の人、ストルガツカヤってあったんだけど」
「……私のお母さんです」
シンプルな答えだった。
「そっか、色んなところ飛び回っているって聞いてたけど」
「はい。……すごい久しぶりに見ましたー」
「そうなんだ」
「そうなの?」
「おかあさんはいつもお仕事忙しいですから。元気そうで何よりですー」
手紙、読んでくれたでしょうか。とても小さな声でそう聞こえた。
「とっても綺麗なひとだったね……クドによく似てて」
クドが似てる、というべきか。身長があまり変わらないような……。
「そうですか?……ちっとも似てないですよ」
クドは自虐が混じった苦笑を浮かべる。
「おかあさんはトライリンガルで、とても立派なお仕事してますけど。娘の私はあんまり出来は良くないのです……それより、△△」
「う、うん? 何?」
「授業、始まりますよっ」
そうして、クドは自分の席へと帰っていく。それで会話は終わってしまった。その場で、何か気の利いた事が言えればよかったのだが、クドの自己否定には、何か私と同じような、根強いものが張っている、そんな気がした。
__
放課後、クドといつものように部室に来ていた。ちゃぶ台には、ノートやルーズリーフが並んでいる。
クドは、目の前でぼーっとしていた。苦しくて何も言い出せないような形という訳では無いが、休み時間もお昼もずっとあさっての方向を向いていた。
「クド?」
「……はい、なんですか、△△」
「今日、ずっと元気なさそうだから……悩みがあったら私、力になるよ」
クドは、口を開こうとして、やっぱりやめて、また遠くを見ながら言う。
「……あの、△△」
「なぁに」
「ちょっと心の整理が付かないので、もう少し経ったら、お話します」
「そう。わかった。いつまでも待てるから」
私はクドの頭に手を当てる。
「私はいつでもクドの傍にいるからね」
「ありがとうです、△△……」
そのまま、頭を撫でると、クドは私の身体に体重を預けてくる。
「……△△」
「何? クド」
「キス、しても良いですか?」
「……いいよ」
私は目を閉じた。
__
「ちょっと、いいかしら。頼花○○」
廊下で呼び止められる。私のことをフルネームで呼ぶ人なんてそうそういないので、直ぐに誰かわかった。
「……なんですか」
「なぜそんな顔をするのよ」
「いや、別に」
「腰も引けてるじゃないの」
「い、いいよそんなの。なんの用?」
「特に用事は無いけど……」
なんで呼び止めたし。
「クドリャフカの、……ことなんだけど」
「クドについて何か知ってるの?」
食いつくように尋ねると、いつも無表情な二木さんの感情の影がちらり、とはしったようにみえた
「……あなたにも、わからないわよね」
「そ、っかぁ……」
あなたにも、と言うことは、私達が尋ねようとしている事は同じことなのだろう。
「ま、知ってるならいいわ。……知ってるなら、問題は無い」
そのまま立ち去ろうとする二木さんを、私は呼び止める。
「クドのこと、心配してくれてありがとう。ずっと、一緒にいられる訳じゃないから心強い」
「あなたに礼を言われる筋合いはないわよ」
「でも言うよ」
「……お人好しね」
鼻を鳴らして肩をすくめ、二木さんは廊下の角へ消えた。
しかし、寮でも同じ調子となると、やはり心配だ。
私に言ってくれるまで待つとは言ったが、それでも心配が消えることは無い。
__
昼休みの学食、クドはニュース番組を眺めている。
『・・・本日、テヴア共和国航空宇宙局、TASAは、有人宇宙船『C (エス)トゥーワナ』KTC(カー・テー・エス)-72D(デー) の打ち上げスケジュールを発表しました』
トレイを持ったまま、クドが画面に視線を送っている。クドの表情は強ばっていた。
「……クド?」
クドは小さく唇を動かした。
『どうして』と呟いたように見えた。
三年生の集団が通ろうとしていたので、慌ててクドの腕を引っ張る。
「……は、はい?」
「危ないよ。ぼーっとしてちゃ」
「……す、すみません……」
それからも、クドの視線はニュース番組に釘付けで、ニュース番組が終わるまで動こうとしなかった。
恭介や、理樹達の会話をよそに、クドは心ここに在らず、という感じでご飯を食べている。結局、昼休みの時間ギリギリまで昼食を取ることになった。
……心配が、不安に塗り変わっていくのを感じた。
__
家庭科部室にラジオの音声が流れる
国際ニュースのようだった。
『……天候不良のための打ち上げ延期は過去数回あり……』
クドはラジオを付けっぱなしにしたまま、俯いている。
あの日のニュースを境にクドはずっとぼーっとした様子でいた。
冷めてしまった緑茶。
皿に盛られたせんべいやあられといったお茶菓子は出されたときのままだった。
「……あの」
すっと伸びたクドの手が彷徨う。私はその小さな手を両手で捕まえ、ぎゅっと握った。クドの手からは不安が強く感じられた。
「どうしたの、クド」
クドが何を不安がっているのかわからないから、不安がっていることしかわからない私は、ただそばに居てやることしか出来ない。
「……夢を見ているんです」
「夢?」
「はい………夢です。ひどい、夢……」
「ひどいって、何が……」
「わかりません」
クドは首を振った。
「怖くて、恐ろしくて、辛くて、悲しくて……私、起きると呟いてるんです」
クドは一度息を吸って呟く。
「『ひどい』、って」
目線が繋いだ手に落ちる。
「何がなんだか私にはわからなくて…」
クドの手が震える。
「私、何か忘れている気がします……何を忘れているんだろう……それが、わからないんです」
自分でもよくわからない感情で溢れる寸前のクドは顔を手で覆った。
何も言わずに、私はクドを抱き寄せた。腕の中に収まったクドは子犬のように震えている。
「……大丈夫、大丈夫だから」
根拠も無い言葉。何かを忘れているという経験は、私にだって幾度となく存在する。それでも、今だけは虚勢を張って、この子を安心させてあげたかった。
それでも、震えが止まらない。
だったら、と。私はクドに呼びかける。
「クド」
クドが顔を上げる。不安が瞳にたゆたう。抱きしめながら、その頭を撫でて、私はあの日に教えてもらった詩
口ずさんだ。
エフトゥシェンコの詩。春の夜も夏の夜も自分のことを想って欲しい、昼も夜も自分を考えて欲しいと詠う。
抱きしめた手が、あの日、クドに書いた紋をなぞる。繋がりが確かであるように、何度も繰り返し、繰り返し。
秋も冬もまた同じ。昼も夜も。
クドが好きだった詩を。落ち着くまで、何度でも歌って。その頭を撫でた。
いつしか、クドは、とろんとした目を私に向ける。震えは止まっていた。
「……落ち着いた、クド?」
「……はい、△△」
「無理やり思い出そうとしなくても大丈夫だと思う。必要な時が来たら、きっと思い出せるから」
根拠は無いが、経験してきたことを伝える。
「はい……」
クドはうなづいて、私の胸に顔を埋める。
「あの、△△、お話、聞いてくれますか」
と、クドは言った。
「少し、長くなるかもしれません」
「いいよ。長くても全部聞くから。聞かせて」
クドは話し始める。クドのこれまでを、クドの母を。そして、母のように宇宙飛行士になりたかった夢を。
クドが、馬鹿にされてなお英語を使い続ける理由、おじい様が、おかあさんの仕事に反対だったこと、日本へと逃げてきたこと。
そして、日本でも上手くいかないままで、母から来た打ち上げ来て欲しいという誘いの手紙を断ったこと。
その実際のニュースを見て、思いが強くなったのだろう。夢もきっと、その罪悪感が増幅されたからか……抽象的な夢として現れたと考えられた。クドにとって、才能豊かな母の存在は眩しすぎるようだった。
「……電話くらいは、してもいいんじゃない?」
「え?」
「おかあさんを応援してあげてさ。クドは上手くいくことを願ってるんだよね」
「は、はい! それはもちろんですっ」
「なんとハイテクな今は電話なんて素敵な機械があるからね。居場所がわかってるなら繋がるはずだよ」
「……うう、でも手紙で私、あんなこと書いちゃったのに……」
「大丈夫。クド」
「そう……でしょうか」
「愛する娘から電話が掛かってきて喜ばない親はいないもの」
励ますようにして強く言う。実際はどうか分からないが、話を聞くに、クドのお母さんはクドの事を悪く思ってはいないはずだ。
「……わかりました。掛けてみます」
クドはこくり、と頷いた
「△△」
「なぁに、クド」
「ありがとです……」
ちゅ、とクドが私の頬に口をつける。
「傍にいてくれて、うれしいです。……だいすきです、△△」
「……私なんかが、クドの役に立てて嬉しいよ」
ただ、一人に恋しただけの普通の人が、こんなにも力になれたのなら、十分御の字だろう。と、考えていると、クドが少し力を入れて私の裾を掴む。
「……『私なんか』」
「え? な、何?」
「じゃあ、次は△△のお話聞かせてください」
「私の?」
「はい。ずっと気になってたんです。△△がどうしてそんなに自分をないがしろにするのか」
「特別な話は無いよ。私はそういう性格ってだけだから」
「嘘、です」
クドの視線が私を捉える。目が離せないまま、私はクドに手を掴まれる。
「……いつも、私のことを気にかけてくれているのも、私のことを傷つけないようにしてくれているのも、私はわかっています」
「く、クド……?」
「だから、△△はずっと、私の一歩後ろを歩いていました。私のことを大切だと思ってくれているから、そうしたってこともわかっています!」
手に力が込められる。絶対に離さないように、クドは強く、私の手を握る。
「だけど、私は、△△の隣を歩きたいです。△△が私のことを気にかけているように、私にも△△のことを気にかけさせてください」
強く、力のこもった言葉だった。それはきっと、私と過ごすようになってから、ずっと胸に秘めていた言葉だったんだろう。それ程に強く、固い思いだった。
私は、観念したように口を開いた。
「……さっきのクドの話に比べて、スケールは小さいし面白い話でも無いけど」
「大きさは関係ありません。△△が感じたことを、そのまま教えてください」
「そのまま、か。うん。じゃあ話してみる」
とてもちっぽけで、なのに自信だけはあって、それが空回りしたってだけの話。
__
小学、中学って。明るい子だとよく言われた。
委員会や面倒事をよく引き受けてくれる子だと。
昔から育ちは良かったと自負がある。やってはいけないことの区別は着いていて、喧嘩なんて以ての外だった。
クラスでは何時でも人気者! 学級委員長には推薦されて、先生達からの評価も高い。まさに模範的な生徒!
と、言われるだけ言われていた。私は別に要領が言い訳でも頭が良い訳でもない。ただ、育ちが良かったから『良い人』になろうと努力していた。
クラスに馴染めない子と良く話した。直ぐにその子は転校した。
喧嘩を止めた。その場では収まったけど、私の見ていないところで再燃していた。
備品を壊した子の代わりになってあげた。嘘が下手だったから直ぐに真犯人がわかった。
私は誰とでも仲良くなれた。どのグループにも混ざれた。どの学年にも仲のいい人が居た。
そう、思ってただけだった。
中学三年。街中で、見知った顔を見つけた。小学生の時に、特に仲が良かったグループだった。中学はサッカーの上手いところに皆で行ったため、私とは別の中学だった。
「よっ、久しぶり!」
そう気さくに声をかけて、帰ってきた言葉は__
「……誰?」
そこで、一つ気がついた。この子達は、私には何の話もせず、進学する先を決めていたんだ。
「あぁ。頼花じゃん。久しぶりーってかお前忘れんなよっ!」
「あー居たわ! 何してんのここで、家この辺?」
私の家に招いた事もある彼はそう言い放つ。
やっとわかったんだ。仲が良いと思っていたのは私だけで、彼らにとってはそのくらいの存在なのだと。
それから、彼らは私と仲が良かったことを何とか思い出すようにして話を続けた。彼らの言葉はほとんど耳に入っていなかった。程なくして別れたあと、彼らの連絡先さえ知らないことを思い出した。
誰も悪くない。ただ、私が誰とでも仲良くなれても、誰とも友達と呼べる関係になれなかっただけ。それだけの話だった。
悪意のない、むしろ善意でしかないような言葉で、人は傷つく事を知っている。その責任は、自分でしか取れないことも知っている。
だが、そんな悪意のない言葉でも、苦しみ自責の念で苦しむ人が居るのなら、その傷に寄り添うくらいはしてもバチが当たらないと私は思うんだ。
__
「理樹と出会えて、高校生活は充実したよ。二年に上がれば、直ぐに好きな人もできたし。……だから、クドを放っておけなかったのかもしれないけど」
私は少し気恥ずかしそうに目線を逸らした。クドは手を握って、何も言わずに話を聞いたあと、私の頭を抱きしめた。
「△△は、人の為に頑張りすぎちゃったんですね」
そう言って、クドは私の頭を撫でる。
「違うよ、全部私の為だった。だから誰も私のことを覚えてない」
「それは違いますよ、△△」
「違わない、私はただ、良い人になろうとしてなれなかっただけだよ」
「それでも、△△が手を差し伸べて助かった子は居ます」
クラスの隅に居て、ぼんやり外を眺めてるだけ。そんな子が居た。
良い人になりたかった私は、その子の手を引いて、遊びの輪に入れた。その子は直ぐに輪に馴染んで、数日、新しい友達と遊んだ後に転校した。別れの挨拶も言えずに、唐突に。
「その子は、元から社交性がある子だっただけ。今思えば、直ぐに転校するってわかってたから、友達を作らなかっただけだった。だから、私は余計なことをしただけだよ」
「どうして、そう思うんですか?」
「どうしてって……そんなの」
「その子は、友達と一緒に遊んでいて楽しくなさそうでしたか?」
……違う。あの子は、転校するその日まで、ずっと楽しそうで。
その輪に、私も、居たんだ。
陰っていた目が開く。ようやく見えた眼前には、微笑むクドの顔が見えた。
「△△が、良い人になりたいのは自分の為でも、それで救われた人が居ます。ほら、ここにも」
クドが私の手を持って、私の指を使って、クドを指差させる。
「忘れてしまった人は、どうにもなりませんけど」
クドが私の両手に、両手の指をからめる。
「忘れない。って、思った人はずっと忘れません。その子も、私も」
そして、そのまま互いのおでこを合わせた。
「ふふっ、私なんて紋でも繋がってますから。だから、そんなに泣きそうな顔をしないでください」
クドが目を閉じるのを見て、私も目を閉じた。
口に柔らかい感触がした。深い沈潜が浮かび上がって来るような感覚。程なくして、お互いの顔が離れる。
「クド」
「はぁい。なんですか」
「私のこと、忘れない?」
「いつまでも。ぜーったいに。忘れません」
「……ありがと」
お互いに照れくさくなって、小さく笑い合った。