灰色だった景色が、少しずつ色を取り戻していく。
地面を這っていた白い霧はいつの間にか消え、足元にはまばらながら草が生えていた。振り返れば、遠くには今も厚い雲に覆われた灰色の平原が広がっている。
青年はしばらくその光景を眺めてから、前へ向き直った。
「もう外していいぞ。カティ」
青年が言う。外見の年齢は二十代後半、黒髪黒目で凛々しい顔立ちをしている。外套を羽織り、背中には大きな背嚢を背負っている。肩にはボルトアクション式の古い狙撃銃を掛けている。腰には大きなナイフシースとホルスターを吊っていた。ホルスターの中には四十五口径の自動拳銃が収まっている。
「ほんと?シュウ」
カティと呼ばれた少女が、ガスマスクを外す。外見の年齢は十代前半、長い金髪の癖っ毛を背中まで伸ばしている。同じく外套を羽織り、大きな背嚢を背負っている。肩には水平二連散弾銃を掛けている。腰にはナイフシースとホルスターを吊っている。ホルスターの中には小型の三十八口径回転式拳銃が収まっている。
「ああ。汚染地帯は抜けた」
シュウと呼ばれた青年が言う。その言葉を聞いた瞬間、カティが大きく息を吐いた。
「あー……やっと終わったぁ」
背負っていた背嚢を地面へ放り出すように置くと、その場に座り込む。
「もう注射しなくていい?」
「今のところはな」
「ご飯は?」
「食べていい」
「水は?」
「飲んでいい」
「やった!」
先ほどまでの疲れはどこへ行ったのか。カティは勢いよく背嚢を開いた。
「待て」
「なに?」
「その食料は汚染地帯を通ってきた」
干し肉へ伸びていた手が止まった。
「……食べていいって言ったじゃん」
「ここで手に入れた物ならな」
「ないじゃん!」
「だから町へ行く」
シュウはそう言って歩き出す。背後から盛大なため息が聞こえた。
「もうやだ、この土地……」
二人は再び歩き始めた。目的の町までは、それほど遠くない。地図が正しければ、あと数時間も歩けば到着するはずだった。そこで食料と水を補給する。可能なら宿を取り、数日休む。汚染地帯を抜けたばかりのカティを休ませる必要もある。シュウ自身も弾薬や薬品を確認したかった。
予定では、そうなるはずだった。
♢
「……ここ?」
「ああ」
「町、だよね?」
「ああ」
カティは目の前の光景を見つめた。
「ないけど」
シュウは答えなかった。二人の前に広がっていたのは、町と呼べるものではなかった。
崩れた家々。屋根は落ち、壁だけになった建物が道の両側に並んでいる。道には背の高い雑草が生い茂り、ところどころ土に埋もれていた。人の姿はない。家畜もいない。煙突から煙が上がっている家もなかった。風が吹くたび、錆びた看板が軋んだ音を立てる。
「場所、間違えたんじゃない?」
「いや」
シュウは地図を広げた。周囲の地形と道を確認する。
「ここで合っている」
「じゃあ……」
カティがもう一度、町を見る。
「滅んじゃったの?」
「そうらしいな」
二人は町へ入った。
シュウは周囲を警戒しながら、ゆっくりと通りを進む。戦闘があった形跡はある。
壁には弾痕が残り、何軒かの建物は焼け落ちていた。道の端には壊れた荷車が転がっている。だが、どれも新しくはない。
シュウは一軒の家の前で足を止めた。
崩れかけた軒先。腐食した木材。室内まで入り込んだ植物。窓枠に指を這わせる。
「最近じゃないな」
「どれくらい?」
「正確には分からん」
シュウは周囲を見渡した。
「少なくとも数年は経っている」
「数年……」
カティは肩を落とした。
「じゃあ、ご飯は?」
「ないだろうな」
「水は?」
「井戸が生きていれば使える」
その言葉に、カティの顔が少し明るくなる。二人は町の中を探した。
だが、井戸は見つかったものの、中を覗いたシュウはすぐに首を振った。
「駄目だ」
「なんで?」
「枯れている」
「……ほかは?」
「探す」
食料品を扱っていたらしい店にも入った。棚は空だった。倉庫も調べた。何もない。残っていたのは、割れた瓶や空になった木箱ばかりだった。
使えそうな物資は、町が滅びる前に持ち出されたか、その後ここを訪れた誰かに回収されたのだろう。
日が傾き始めたころ。二人は町外れを歩いていた。
「お腹すいた……」
「知っている」
「喉も渇いた」
「それも知っている」
「もう歩けない」
「さっきも聞いた」
「シュウ」
「なんだ」
「なんか出して」
「何をだ」
「ご飯」
「ない」
「水」
「ない」
「役に立たない」
「そうか」
カティが恨めしそうにシュウの背中を見る。だが、シュウも状況が良くないことは理解していた。特に水だ。食料なら数日は我慢できる。しかし水はそうはいかない。汚染地帯を抜けるまで、摂取を最低限に抑えていた。今日中に安全な水源を確保したかった。
「……ん?」
シュウが足を止めた。
「どうしたの?」
返事はない。シュウは道から外れ、草むらへ入っていく。
「ちょっと、どこ行くの?」
「これだ」
カティも後を追った。そしてシュウの隣へ立つ。
「……なにこれ?」
草木に覆われたコンクリートの壁があった。最初は崖の一部にも見えた。だが違う。明らかな人工物だ。地面へ潜り込むように、巨大なコンクリート構造物が造られている。その中央には、金属製の巨大な扉。人が出入りするためだけとは思えないほど大きい。扉の脇には、錆びて読めなくなった文字と、かすかに残った紋章があった。
シュウが近づく。
「帝国の施設だ」
「軍の?」
「いや」
表面の汚れを手で払う。消えかけた文字が姿を現した。
「民間用だ」
「何の施設?」
シュウは巨大な扉を見上げた。
「シェルターだ」
「シェルター?」
「大戦時の避難施設だ。空襲や毒ガス、汚染物質から住民を守るために造られた」
カティが扉を見る。巨大なゲートは半分ほど開いていた。その向こうには暗闇が続いている。
「中にあるかな?」
「何がだ」
カティは背嚢を指差した。
「食べ物」
「……備蓄施設はあるはずだ」
「水は?」
「貯水槽か浄水設備がある」
「入ろう」
即答だった。
「待て。ガスマスクを着けろ」
「また?」
「内部の空気が安全とは限らん」
「あー……」
そう言うとカティは渋々ガスマスクを着けた。
ライトを点けたシュウが先頭に立つ。拳銃を構え、開いたゲートの隙間から内部を照らす。コンクリート製の通路。壁には太い配管が何本も走っている。床には埃が積もっていた。人が出入りした形跡はない。
「行くぞ」
「うん」
二人は巨大なゲートを通過した。カティが後ろを振り返る。外の光が遠ざかっていく。
「食べ物残ってるかな」
「期待するな」
「缶詰なら残ってるんじゃない?」
「まあ、あるかもしれんが保存状態はよくなさそうだ」
「お腹すいてるもん。問題ないよ」
「腹を壊すぞ」
「人造人間ってお腹壊さないの?」
「壊さない」
「じゃあ毒見役はできないね」
「腐っているかどうかは流石にはわかる」
そんな会話をしながら数十メートル進んだ、その時だった。
低い機械音が響いた。シュウが振り返る。
「……まずい」
「え?」
巨大なゲートが動いていた。数百年間動いていなかったとは思えないほどゆっくりと、しかし確実に扉が閉じていく。
「ちょっ……!」
カティが走り出そうとする。
「待て!」
シュウが腕を掴んだ。
「閉じちゃう!」
「間に合わん!」
巨大な扉が閉じる。最後に残っていた外の光が細くなり――消えた。
ズンと重い音が地下施設全体へ響いた。暗闇だ。シュウとカティのライトだけが通路を照らしている。
「……」
「……」
直後。天井のどこかから、ノイズ混じりの音声が流れた。
『外部環境の安全基準を確認できません』
カティがゆっくり天井を見る。
『シェルターを閉鎖します』
「……シュウ」
「なんだ」
『居住者の安全確保のため、外部への退出は禁止されています』
「閉じ込められた?」
「ああ」
「……どうするの?」
シュウは閉ざされた巨大な扉を見上げた。
「まずは水と食料を探す」
「そこ!?」
「腹が減っているんだろう」
「減ってるけど!」
シュウはライトを前方へ向けた。光の先には、地下深くへ続く長い通路が伸びていた。
♢
閉ざされたゲートを調べても、結果は変わらなかった。
扉の横には操作盤が設置されていたが、何度ボタンを押しても反応しない。非常用の開閉装置も同様だった。にもかかわらず、先ほどゲートは動いた。
シュウは操作盤から手を離した。
「駄目だな」
「開かない?」
「ああ」
ガスマスク越しに、カティが大きなため息をついた。
「どうするの?」
「さっき言っただろう。まず水と食料を探す」
「出る方法じゃなくて?」
「それも探す」
シュウはライトを通路の奥へ向けた。
「だが、出口を見つけても、その前にお前が倒れたら意味がない」
「……お腹も空いた」
「知っている」
二人は通路を進んだ。巨大なシェルターだけあって、内部は広かった。
壁や天井には無数の配管とケーブルが走っている。ところどころに案内板が設置され、居住区、医務室、食堂、機械室などの文字が並んでいた。
そのほとんどは錆や汚れに覆われている。シュウは案内板を確認すると、その一つへライトを向けた。
「セキュリティルームが近い」
「何かある?」
「施設の情報が残っているかもしれん」
通路を曲がると、すぐに小さな部屋が見つかった。
扉は開いている。シュウが先に中へ入り、カティが後に続いた。壁際には机が並び、その上には何台もの端末が置かれていた。正面の壁には大型のモニターがあった。別の壁にはシェルター内部を映していたらしい小さな画面が何十枚も並んでいる。だが、どれも真っ暗だった。
「動かないの?」
「電源が来ていない」
シュウが端末のスイッチを押す。反応はない。机の下や壁際も調べるが、使えそうなものは見つからなかった。
「さっき扉は動いたよね?」
「ああ」
「なのに電気はないの?」
「施設全体の電源が生きているとは限らん。ゲートだけ独立した非常電源で動いている可能性もある」
「ふーん……」
カティは分かったような、分かっていないような返事をした。
シュウは机の引き出しを開けていく。書類や筆記具。何かの古びた鍵。役に立ちそうなものはない。
壁に掛けられていた施設案内図だけを確認して、部屋を出た。
「次は?」
「食堂」
「食堂!」
急にカティの声が明るくなった。
「期待するな」
「まだ何も言ってないじゃん」
「顔を見れば分かる」
「ガスマスクしてるのに?」
「声で分かる」
「…………」
食堂はセキュリティルームからそれほど離れていなかった。
両開きの扉を押し開ける。ライトの光が広い室内を照らした。いくつもの長机と椅子が規則正しく並んでいる。奥には調理場がある。何百人もの人間が一度に食事を取れるほどの広さだった。
カティは真っ先に調理場へ向かった。棚を開ける。
「ない」
次の棚。
「ない」
さらに次。
「ない!」
「だから期待するなと言っただろう」
「食堂なのに!」
「数百年前の施設だぞ」
シュウも食料庫を調べた。棚はほとんど空になっていた。床には朽ちた木箱や包装材が残されているが、中身はない。シェルターが放棄される前に食べ尽くされたのだろう。
「なんにもない……」
カティが肩を落とす。
「次に行くぞ」
「ちょっと待って」
カティは未練がましく棚を漁っている。
「絶対どっかにあるって」
「何が」
「食べ物」
「諦めろ」
「シュウはお腹空かないからそんなこと言えるんだよ」
「空腹は感じる」
「その辺の草でも食べられるくせに」
「食えることと食いたいことは別だ」
「贅沢」
シュウは無視した。そのまま調理場の奥を調べていると、ライトの光が棚の下で何かを照らした。
「ん?」
しゃがみ込む。
埃を被った金属製の容器がいくつか残っていた。手に取って表面を拭う。
「何かあった?」
カティがすぐに寄ってくる。
「水だ」
「水!?」
反応が早かった。シュウの手にあるのは、円筒形の小さな缶だった。
表面には帝国時代の文字で飲料水と記されている。
「それ、水なの?」
「ああ。非常備蓄用だ」
「飲める?」
「数百年前のものだぞ」
「でも水でしょ?」
「容器が劣化していれば中身も汚染されている」
カティの表情が露骨に曇った。シュウは残っていた缶を確認する。
全部で七本。錆びているものもあるが、目立った腐食のない缶もあった。そのうち一本を選ぶ。表面を拭い、封を開けた。
カティがじっと見ている。
「飲むの?」
「確認する」
シュウはまず匂いを確かめた。異常はない。少量を口に含む。
「…………」
「どう?」
飲み込む。しばらく待つ。内部センサーにも異常はない。
「問題ない」
「ほんと!?」
「ああ」
「ちょうだい!」
「待て」
シュウは周囲を見回した。
シェルターへ入ってから、それなりの時間が経っている。シュウ自身のセンサーにも、人体へ即座に害を及ぼすような物質は検出されていない。少なくとも、この区画の空気に問題はなさそうだった。
「ガスマスクを外していい」
「ほんと?」
「ああ。空気も問題ない」
その言葉を聞くなり、カティはガスマスクを外した。
「暑かったぁ……」
額に張り付いた金髪を払いながら、大きく息を吸う。シュウが先ほど開けた缶を差し出した。
「一気に飲むなよ」
「分かってる」
カティは缶を受け取った。口をつける。
「……!」
ごく、ごく、と喉が鳴った。
「おい」
ごくごくごく。
「一気に飲むなと言っただろう」
「ぷはぁっ!」
カティは缶から口を離した。大きく息を吐く。
「おいしい……!」
「ただの水だ」
「おいしい!」
再び缶へ口をつける。今度は止めなかった。カティは貪るように水を飲み続け、あっという間に一本を空にした。
「はぁ……」
空になった缶を両手で持ったまま、満足そうに息を吐く。
「生き返った……」
「大袈裟だ」
「シュウには分かんないよ」
「そうかもな」
シュウは残った缶を確認した。状態の悪いものを除いても、あと五本は持っていけそうだ。一本ずつ表面を拭い、背嚢へ入れていく。
十分とは言えない。食料もまだ見つかっていない。それでも、つい先ほどまでと比べれば状況はずっと良くなった。
「これで少しは余裕ができたな」
「うん」
カティはガスマスクを背嚢へしまった。
「じゃあ次はご飯だね」
「出口だ」
「ご飯」
「出口」
「ご飯!」
「……探しながら出口も探す」
「よし」
何が「よし」なのか。
シュウは何も言わず、食堂の出口へ向かった。
その背後を、少しだけ元気を取り戻したカティがついていった。
♢
食堂を出た二人は、再び薄暗い通路を歩き始めた。
水を確保できたことで、先ほどまでの焦りは多少薄れている。もっとも、状況そのものが改善したわけではない。巨大なゲートは閉ざされたまま。食料も見つかっていない。何より、このシェルターがどれほどの規模なのかすら分かっていなかった。
「次はどこ?」
少し元気を取り戻したカティが尋ねる。
「居住区だ」
「ご飯ありそう?」
「ないだろうな」
「なんで行くの?」
「この施設について調べるためだ」
「ご飯探そうよ」
「出口を探しているんだ」
シュウは壁に残された案内表示を確認した。矢印に従い、通路を進む。
やがて二人の前に、それまでとは違う光景が現れた。
「……広い」
カティが呟いた。
左右に無数の扉が並んでいる。一部屋ずつはそれほど大きくない。
シュウが最初の扉を開けた。ライトの光が室内を照らす。二つの二段ベッド。小さな机。壁際の棚。それだけで部屋のほとんどが埋まっていた。
「ここで暮らしてたの?」
「ああ」
「何人くらい?」
「この部屋なら四人だろう」
さらに奥へ進む。同じような部屋が延々と続いている。通路の先にも別の区画がある。まだ居住区が続くらしい。
「何人いたんだろ」
「少なくとも数百人規模だ」
「そんなに?」
「大戦時の民間シェルターだからな」
カティは近くの部屋へ入った。棚を開ける。
「何もない」
「勝手に離れるな」
「見えるところにいるじゃん」
別の棚を開ける。中には古びた衣類が残っていた。触れただけで崩れてしまいそうなほど劣化している。
「服だけかぁ」
「食料を部屋に持ち込むことは禁止されていた可能性が高い」
「なんで?」
「限られた物資を公平に分配するためだ」
「ケチ」
「そういう問題じゃない」
カティは頬を膨らませながら部屋を出た。
そのときだった。
「あ」
カティが足を止める。
「シュウ」
「なんだ」
「これ」
壁を指差した。シュウがライトを向ける。そこには色褪せた絵が残っていた。青い空。赤い太陽。緑色の草原。そして、その中央に立つ何人かの人間。子供が描いたものだろう。隣には、何かの動物らしきものまで描かれている。
「落書き?」
「そうらしい」
「怒られなかったのかな」
「さあな」
カティはしばらく絵を眺めていた。
「空、青かったんだね」
「今でも晴れれば青い」
「そうじゃなくて」
カティは絵を指差した。
「この子、外に出たかったのかなって」
シュウは答えなかった。再び歩き始める。カティも一度だけ絵を振り返ってから、その後を追った。
♢
居住区を一通り調べても、食料は見つからなかった。代わりに、ここで大勢の人間が生活していた痕跡だけが次々と見つかった。食事の配給表。清掃当番。医務室の利用時間。共同浴場の使用時間。子供たちに勉強を教えていたらしい教室まであった。
ここは単なる避難場所ではない。長期間、人間が生活することを想定して造られた施設だった。だが――。
「変だな」
シュウが足を止めた。
「何が?」
「死体がない」
カティが黙った。シュウは周囲を見る。
「数百人が生活していた。食料は完全になくなっている。それなのに、ここまで人骨を一つも見ていない」
「みんな外に出たんじゃない?」
「ゲートは?」
「あ……」
カティも気付いた。先ほどの放送。
『外部環境の安全基準を確認できません』
『居住者の安全確保のため、外部への退出は禁止されています』
同じ状態が大戦当時にも起きていたとすれば。
「閉じ込められてた?」
「可能性はある」
「じゃあ、どうやって……」
「それを調べる」
二人はさらに奥へ進んだ。居住区を抜ける。その先にあったのは管理区画だった。
これまでよりも扉が頑丈になっている。そして、その一つが大きく歪んでいた。
シュウが立ち止まる。
「下がれ」
拳銃を構える。カティも背中の散弾銃へ手を伸ばした。
シュウが扉を押す。錆びた金属音を響かせながら、扉が開いた。ライトを向ける。
「……あ」
カティの声が小さくなった。
部屋の奥。机にもたれかかるように、人骨が座っていた。ぼろぼろになった衣服を身につけている。胸元には、腐食した金属製の徽章。
シュウはゆっくり近付いた。
「ここにいたんだ……」
「ああ」
このシェルターへ入ってから初めて見つけた死体だった。
シュウはしゃがみ込む。骨の状態を確認する。頭蓋骨の側面が大きく陥没していた。床には錆びた金属棒が転がっている。
「殺された?」
「おそらくな」
「誰に?」
「ここの住民だろう」
カティが顔をしかめる。
「なんで……」
シュウは答えず、机の上へライトを向けた。紙の記録はほとんど朽ちている。だが、金属製の保管箱の中に何冊かの記録簿が残っていた。慎重に開く。
文字の多くは読めなくなっていた。それでも、断片的には残っている。
『外部環境測定装置との通信途絶』
『安全基準確認不能』
『シェルター閉鎖継続』
ページをめくる。
『備蓄食料残量――』
数字は消えている。
さらに次。
『居住者よりゲート開放要求』
『却下』
その次。
『食料配給量を再度削減』
『一日二食から一食へ変更』
カティが横から覗き込んでいた。
「食べ物、なくなったんだ」
「ああ」
さらにページをめくる。
『外部環境の安全が確認されるまで、ゲート開放は認められない』
『規定に従い――』
そこから先は読めなかった。
「この人が開けなかったの?」
「そうらしい」
「食べ物なくなってるのに?」
「外が安全だという保証もなかった」
「でも、このままだったら……」
「中にいても死ぬ」
シュウは記録簿を閉じた。
「外に出れば死ぬかもしれない。ここに残れば、いずれ食料が尽きる」
カティは人骨を見る。
「じゃあ、この人はどうすればよかったの?」
「さあな」
シュウは立ち上がった。
「正解があったとは限らん」
部屋を見回す。倒された机に壊された棚。そして叩き壊された扉。そして一人だけ残された監督官。
何が起きたのかは想像できた。
食料が減る。配給量が減らされる。それでもゲートは開かない。外へ出せと要求する住民。安全が確認できない以上、開放できないと拒否する監督官。
そして――。
「反乱か」
シュウが呟いた。
「この人を殺して?」
「ああ」
「それでゲートを開けたの?」
「いや」
「なんで?」
「監督官を殺したところで、安全装置までは止まらなかったんだろう」
カティが目を丸くする。
「じゃあ意味ないじゃん」
「そうだな」
「じゃあ、みんなは?」
シュウは部屋の外へライトを向けた。
「別の方法を見つけたはずだ」
♢
二人はさらにシェルターの奥へ進んだ。
倉庫。医務室。発電設備。浄水施設。
どこにも死体はない。
しかし、奥へ進むほど奇妙なものが目につくようになった。
工具がない。
本来なら壁に掛けられていたはずのハンマーや大型レンチが、ほとんど持ち出されている。機械室では、削岩機までなくなっていた。
「泥棒?」
「違う」
「じゃあ何?」
「どこかで使ったんだ」
その答えは、シェルターの最深部で見つかった。
「……うわ」
カティが立ち止まった。
コンクリートの壁。そこに巨大な穴が開いていた。人が一人通れるなどという大きさではない。何十人もの人間が行き来できるほどの穴だ。鉄筋は切断され、分厚いコンクリートは削り取られている。床には大量の破片が残っていた。
シュウは穴へ近付いた。ライトを向ける。その先には、岩盤を掘り進めた狭い坑道が続いていた。
「これ……」
カティも隣へ来る。
「住民が掘ったの?」
「ああ」
「何人で?」
「さあな」
シュウは壁面を触った。荒々しい掘削跡。機械で削った場所や手作業で砕いた場所。途中から木材や金属で補強までされている。一日や二日で造れるものではない。
「ゲートが開かないから……」
「自分たちで出口を作ったんだろう」
カティは坑道の奥を見つめた。
「じゃあ、みんなここから逃げたんだ」
「おそらくな」
「助かったんだね」
「それは分からん」
「え?」
「外に出た後のことまでは分からない」
カティの表情が少し曇った。
シュウは坑道へライトを向けたまま続ける。
「だが、少なくともここで餓死はしなかった」
「……そっか」
カティはもう一度、巨大な穴を見る。
何百年も前。食料が尽きかけた地下。開かないゲート。外が安全なのかも分からない。それでも、ここにいた人々は壁を壊した。生きるために。
「人間ってすごいね」
カティが呟いた。
シュウは彼女を見る。
「そうだな」
短く答えた。そして背嚢を背負い直す。
「行くぞ」
「この穴から?」
「ああ。ゲートを開けるより早い」
カティも背嚢を背負った。
坑道へ入ろうとして、ふと足を止める。
「シュウ」
「なんだ」
「この人たち、出口があるなら印くらい書いておいてくれればよかったのに」
「数百年後に俺たちが閉じ込められるとは思わなかったんだろう」
「不親切」
「水は残してくれた」
「あ」
カティは背嚢の中に入れた水の缶詰を思い出したらしい。
「じゃあ許す」
「何様だ」
二人は坑道へ入った。シュウのライトが暗闇を照らす。
その光の先には、何百年も前に生きようとした人々が掘り抜いた道が、今も残っていた。