その宴は、投資契約を取り交わすための冷徹な会食ではなかった。
少なくとも、彼にとっては。
多目的企業カンタベリー最高権威――神祖スメラギ。
彼が所有する最高級ホテルの最上階サロン。床から天井までを覆うガラス窓の向こうには、どこまでも広がる夜の街並みがあった。
無数の灯りが燦然と眩み、人間という小さな生物たちが今日も必死に生きている証のように瞬いている。
その一室で、スメラギは優雅にワイングラスを傾け、エイジと食卓を囲んでいた。
豪奢な料理を前にお世辞にも上品とは言えない手つきで肉を口へ運ぶエイジの様子を、スメラギは琥珀色の瞳で静かに観察する。
フォークの持ち方、咀嚼の癖、そして僅かに身にまとった硝煙と血の匂い。
「……随分と派手にやっているね、エイジ」
スメラギが静かに切り出すと、エイジは肉を噛みちぎりながら、どこか他人事のように淡々と答えた。
「まぁな。いろいろと、死にかけるような目にも遭った」
「だろうね。少し痩せたみたいだ。……僕としては、あんまり危険なことに関わってほしくないな。大切な友達だからね」
「心配はいらない、たぶん平気だ」
「へぇ? その根拠のない自信はどこから来るのかな?」
スメラギが少しだけ悪戯っぽく眉をひそめると、エイジはフッと口元を緩め、どこか誇らしげに鼻を鳴らした。
「最近、一緒にいるようになったヤツがいてな。これが笑っちゃうくらい馬鹿みたいに強い。……まあ、口は悪いし、大食いだし、油断すると俺の飯まで奪おうとするんだが、アイツが背中を守ってくれる」
「ふうん。君がそこまで買い被るなんて珍しい。……なら、いいか」
スメラギはクスクスと楽しそうに笑い、それ以上は踏み込まなかった。
人間には、人間の選択がある。それを無理やり奪うことは管理ではなく『支配』だ。支配と統治は似て非なるもの――千年以上生きてきた彼が、身をもって知っている絶対の理だった。
「で? そんな強大なボディガードを得た君が、わざわざ僕を呼び出した理由は?」
スメラギが問いかけると、エイジの手がピタリと止まった。
フォークが皿に触れ、カチャンと小さな音を立てる。先ほどまでの軽妙な空気が一変し、エイジの瞳に重く切実な光が宿った。
「助けたい人がいる」
「……うん」
「そのためには、個人じゃどうにもならない金と人脈、それと強力な後ろ盾が必要だ。俺に、投資してほしい」
「何をする気だい?」
「魔人化薬関係だ。基本的な仕組みと計画書は昨日送った。……見ただろう?」
スメラギはすぐには答えず、ワイングラスのふちを指先でなぞった。
頭の中に、昨日受け取ったデータが鮮明に浮かび上がる。薬品の製造工程、隠蔽用の研究施設、人員配置、物流ルート、資金繰り、そして想定される莫大な損失。
すべて記憶している。神祖である彼にとって、数式や数値を暗記することなど造作もない。だが――本当に難しいのは、その冷たい数字の向こう側に蠢く『人間』の存在を読むことだった。
「……僕の見た限り、あの計画には一つ大きな問題がある」
「不完全だったか? 計算ミスでも……」
「いや」
スメラギは静かに首を横に振った。
「計画そのものは、見事な出来栄えだよ。間違いなく上手くいく。……だけどね、維持できてせいぜい三十年が限界だ」
エイジは驚いたように目を見開いた。
「三十年……? 短いな。システムとしての欠陥か? それとも資金不足か?」
「ううん。原因はもっと根本的なことさ」
スメラギは少しだけ思案するように天井を仰ぎ、クスリと微笑んだ。
「――『人間の可能性』だよ」
「……本気で言ってるのか?」
「大真面目さ」
スメラギの瞳には冗談の色はなかった。そこにあるのは、人類の歴史を特等席で観賞し続けてきた者だけが持つ、深く、恐ろしいほどの愛着だった。
「人間を使うというのは、いつだって最高にハイリスクなんだよ、エイジ」
スメラギは立ち上がり、静かに窓辺へと歩み寄る。下界で蠢く無数の光を見下ろしながら言葉を紡いだ。
「制度を作る。人を適材適所に配置する。利益を設定し、損失を予測する。無用な争いが起きないようにルールで縛る……そこまでは完璧に計算できる。……でもね」
くるりと振り返り、スメラギは胸元に手を当てた。
「人間という生き物は、土壇場でその美しく組み上げた計算表を破り捨てるんだ。絶望的な状況から何度も何度も這い上がり、そのたびに予期せぬ『奇跡』を起こしてみせる。……まったく、恐ろしい化け物たちだよ」
エイジはしばらく絶句し、やがて呆れたように長く息を吐き出した。
「……お前がそこまで言うなら、まあ、事実なんだろうな」
エイジは立ち上がり、スメラギの正面へと歩み寄った。その足取りには一筋の迷いもなかった。
「それでも、俺に力を貸してほしい。……お前の言う計算表が破れるのが運命だとしても、俺はアイツを助けたいんだ。そのためなら、世界を敵に回したって構わない」
スメラギはエイジの目をじっと見つめた。
世界を救いたいわけではない。文明を改革したいわけでもない。ただ、目の前の男は『たった一人』を救うために、神祖たる自分に挑もうとしている。
千年間、膨大な人類の営みを見続けてきたスメラギにとって、それはあまりにも矮小で、青くさい理由だった。だからこそ――何よりも愛おしく、無視できなかった。
「……わかった。君に乗ろう」
「本当か……!?」
「うん。だけど、君の計画書は全面的な修正が必要だね」
「どう変える?」
「社会というものはね、表と裏が等しく揃って初めて機能するんだ」
スメラギは再び窓の外、闇の中に輝く街並みを指さした。
「光だけでは眩しすぎて目が眩む。闇だけでは暗すぎて何も見えない。……そして何より悲劇的なのは、ほっておけば光は簡単に闇に喰われるし、悪は善によっていともあっさりと潰されてしまうということだ」
「……」
「だから、表の光と裏の闇、その双方を僕たちがコントロールする」
エイジは頭を抱え、苦笑いを浮かべた。
「……正直、お前の言ってるスケールがでかすぎて、よくわからないところもある」
「そこはもう少し疑って、突っ込んでほしいなぁ」
「お前を信用してるよ、神祖様だからな」
「はは、それは実に困ったね」
楽しそうに笑いながらも、スメラギの瞳の奥には深い真摯さが宿っていた。
「だからこそ、君自身の手と頭で考えてほしいんだ。僕は君に『完成された答え』を与えるためにここにいるんじゃない。君が足掻いて選んだ答えを、少しでも長く、この世界に残せる形にするためにいるんだからね」
「……ああ。分かった」
その夜、二人は高級ワインを傾けながら、朝を迎えるまで幾度も計画を練り直した。途中でエイジが睡魔に負けて高級ソファで情けない寝息を立て始め、スメラギが苦笑しながら毛布をかけてやる一幕も含めて、それはかけがえのない時間だった。
翌日。
神祖スメラギが率いる多目的企業カンタベリーは、急速に拡大する『侵略種』の災害に対する大規模な対抗策を電撃発表した。
◼️
諸君、私は平和が好きだ
諸君、私は平和が大好きだ
対話が好きだ。
復興が好きだ。
支援が好きだ。
愛が好きだ。
勇気が好きだ。
正義が好きだ。
救済が好きだ。
慈悲が好きだ。
傷ついた街を立て直すことが好きだ。
絶望した人に手を差し伸べることが好きだ。
争っていた者たちが、再び同じ場所で笑うことが好きだ。
諸君、私は地獄のような戦争の後にこそ、
地獄ではない明日を望んでいる。
更なる復興を望むか?
情け容赦なく人を救う、
そんな善行を望むか?
愛と勇気をもって、誰一人見捨てない未来を望むか?
平和! 平和! 平和!
よろしい。ならば平和だ。
我々は今、未来へ向かって差し出す手だ。
長い苦難に耐えてきた者たちよ。
もう一度、立ち上がろう。
忘れられた人々を思い出そう。
壊れた街を蘇らせよう。
失われた絆を取り戻そう。
そして、この世界に思い知らせてやろう。
絶望の中にも希望はある。
憎しみの中にも愛はある。
暗闇の中にも、進むべき道はある。
我々は一人ではない。
一人の力は小さくとも、
一人、また一人と手を取り合えばいい。
さあ、始めよう。
世界を燃やすのではない。
世界を――もう一度、照らしてやろう。
◼️
圧倒的な資金力に物を言わせた戦力の増強。
大規模な復興支援プロジェクト。
対侵略種用に最適化された民間傭兵派遣システム。
最先端研究機関への無制限の資金提供。
表向き、それは人類の希望を担う輝かしい公共事業として世界中に報じられた。
しかし、その光が強くなればなるほど、足元には濃密な『影』が生まれる。
巨大企業の巨大な事業の陰で、静かに、だが確実に別の歯車が回り始めていた。
エイジ、そして彼と手を組んだマナを中心とする裏社会組織。スメラギから密かに流し込まれる潤沢な裏資金、政財界の人間脈、秘密の物流網、そして政治的な不可侵権。
古く腐敗していた裏社会のネットワークは、エイジたちの手によって瞬く間に塗り替えられていった。
やがて、表と裏の交差点に、一つの異様な『技術研究都市』が誕生する。
最新鋭の設備による研究と開発。
密やかな製造と、張り巡らされたルートによる流通。
魔人化薬の臨床データ。
新技術の実験。
無数の倫理的失敗と、それを超える無数の成果。
エイジが生み出した歪で危険な技術は、表面上、マナの底なしの欲望を満たすために使われた。だが、その裏で蓄積された膨大なデータは、刻一刻とスメラギの元へと転送されていたのだ。
裏社会で得られた研究成果は、表の医療技術へと転用される。生み出された新技術は、新しい産業と雇用の波を起こす。
そこで得られた知見は、やがて侵略種に対する強力な兵器へと姿を変える――。
たった一人を救うために始まったエゴイスティックな研究が、いつしか千人の命を救う技術となり。
千人を救う技術が、やがて国家そのものを支える強固な制度へと昇華していく。
それこそが、スメラギが千年の時の中で繰り返してきた『歴史の紡ぎ方』だった。
人間は、決して誰かの計画通りには動かない。だからこそ文明とは、完璧な計画だけで完成させてはならないのだ。
予定外の愚かな人間。
予定外の突出した才能。
予定外の凄惨な裏切り。
そして――予定外の美しい奇跡。
そのすべてを呑み込み、泥をすすりながらも前へ進めるだけの『余白』を、社会そのものに残しておくこと。
スメラギが信じていたのは、完璧で冷徹なシステムではない。
いつだってシステムを食い破り、計画を裏切っていく、人間という泥臭い生き物の可能性だった。
「……三十年しか持たない、か」
後日。完成した巨大な研究都市の全景を見下ろす丘の上で、エイジがふと呟いた。その隣で、風に髪をなびかせながらスメラギが優しく微笑む。
「うん。だから、まずは三十年先のことだけを真剣に考えればいいのさ」
「随分と気楽に言ってくれるな。俺たちにとっちゃ一生モノだぞ」
「ふふ、千年生きているとね」
スメラギは眩しそうにどこまでも青い空を見上げた。
「三十年なんて、分厚い本の本文を次のページへめくるくらいの時間でしかないんだよ」
そして、エイジの肩をぽんと叩き、深く静かな声で続けた。
「大事なのはね、エイジ。その三十年という猶予の間に、君たちが次に何を始めるかだ」
文明とは、固いコンクリートで完成された静止した建物ではない。
絶えず崩れかけながらも、未来の世代へ向けて投げ渡される『未完成の意志』そのものだ。
そして、神祖スメラギは誰よりもよく知っている。
この世界で最も恐ろしく、そして最高に美しいのは――計画通りに進まないことなどではない。
人間という気まぐれな存在が、自分たちの作った計画など遥かに超える『何か』を作り上げてしまう瞬間なのだということを。