スメラギ、エイジ、マナ――怪異と神意が交差するこの技研都市は、本質的に相反する二つの思想が混ざり合うことで誕生していた。
一つは、人間という存在を慈しみ、育て、本人の強い意志に委ねて力を与える――神祖スメラギの『導きの思想』。
もう一つは、人間をただの生体資源として捉え、最短距離で結果だけを暴虐に搾り出す――マナの『掠奪の思想』。
そしてその二つの巨大な歪みの狭間で、ただ一人、技術としての精度と倫理の破綻に苦心し続けるエイジ。
奇妙なことに、水と油であるはずの異質な思想は反発し合わなかった。むしろ、互いの決定的な欠落を埋める絶妙なピースとして、カチリと恐ろしい音を立てて噛み合い始めていた。
◇
「……ここが実験区画だ」
無機質でどこか消毒液の匂いが漂う、白い壁で囲まれた研究棟。
エイジの先導に従い、スメラギはゆっくりと奥へと足を踏み入れた。強化ガラスの向こうでは、まさに魔人化薬の投与実験が行われている最中だった。
隣の区画では、変質していく肉体のスペックや精神状態のブレを精密に測定する巨大な機械アームが、不気味な駆動音を立てて作動している。
「こっちは開発部門。薬剤の安定化と、適合率をコンマ一パーセントでも上げる作業をやってる。奥が製造ラインだ。まだ試験運用だが、大量生産の目処は立っている」
「随分と大きくなったね」
スメラギは純粋に感心した様子で、整然と並ぶ最新鋭の機器を見渡した。
「最初に君と会ったときは、地下のカビ臭い研究室ひとつだったのに」
「……マナが無茶ばかり言うからな。そのスピードに追いつくのに、必死で手を動かしていただけだ」
エイジが吐き捨てるように言ったその瞬間、目の前の空間がまるで紙を破くように裂けた。
「だって、欲しいんだもん!」
裂け目からひょっこりと現れた少女――マナが、無邪気にケラケラと笑う。
「もっと強くて絶対に壊れない魔人! もっと効率のいいお薬! もっと面白い能力! 欲しかったら、エイジくんに作ってもらうしかないじゃん?」
「……そういう大雑把すぎる注文に、毎晩頭を抱えるのが俺の仕事なんだよ」
「でも、文句言いながら全部やってくれるところ、私大~好き」
「そういう約束だからな。文句を言う気はない」
エイジが深々と溜め息をつくと、スメラギはくすりと微笑み、興味深そうにマナへ視線を向けた。
「なるほど。君がエイジの言っていた、馬鹿みたいに強いお友達かい?」
「そうだよ! そういう貴方は、エイジくんが言ってた『スメラギ』?」
マナは物怖じひとつせず、スメラギの顔を指先でつつきそうなほど至近距離からじろじろと覗き込んだ。
「……う~ん。思ってたよりちっちゃいね。もっと威圧感のある、髭の生えたおじいさんかと思ってた」
「ふふ、よく言われるよ。千年以上生きているとね、かえって威厳を保ち続けるのが面倒になってね。まあ、効果的な場面ではやるけど、普段はこんなものさ」
「へえ。神様って聞いたから、もっとドカンと怖いのかと思ってた」
「神様は怖くない方がいいんじゃないかな。『優しい神様ありがとう』って思ってもらうのが、僕の推奨する教育理念だからね」
「あはっ! なにそれ、ウケる! おもしろーい!」
マナが鈴を転がすように弾けて笑う。だが次の瞬間、ピタリと足をとめ、ガラスの向こうの拘束台へと視線を向けた。
「でもさぁ……あっちの人たち、全然優しそうじゃないよ?」
視線の先では、分厚い金属の拘束具に固定された被験体が、黒ずんだ劇薬を注入されて全身を折り曲げ、のたうち回っていた。
肉体が不気味に肥大化し、皮膚を突き破らんとする骨のきしむ音が、防音ガラスを隔てても微かな振動として床から伝わってくる。
「……嫌になるな、ああいうのは」
「同情かい? エイジ。僕なら、あの人たちを無理やり実験台にはしないよ」
マナが退屈そうに首を傾げる。
「じゃあどうするの? お花でも渡して『実験台になって~』って説得でもするわけ?」
「自分から『実験台になりたいです』と言ってもらうように育てるのさ」
「えー……何それ、面倒じゃん」
「うん、すごく面倒だよ。だけど、その面倒には絶大な意味がある」
スメラギの澄み切った琥珀色の瞳が、苦悶に満ちた被験体を静かに観察する。
「本人が目的を理解し、己の意思で参加する。失敗すれば本人がそのリスクを受け入れ、成功すればその成果を自分自身の誇りとする。……これで何が変わるか分かるかい、マナ君?」
「……さあ? 精神論? 愛と勇気とか?」
「リスク管理だよ」
スメラギは美しい指を一本立てた。
「力づくで強制された人間は、どこかで必ず壊れる。逃げる、裏切る、隙を見て復讐する。従っているフリをして影で牙を研ぐ。……だが、自分で選んだ人間は違う。彼らは己の選択に意味を与えようと、最後の最後、土壇場で踏みとどまるんだ」
「忠誠心、ってやつ?」
「そう。僕の箱庭ではね、力を与える前に、まず『力を持つ理由』を育てるんだ」
「うわぁ……」
マナは露骨に嫌そうな顔をして、自身の腕を抱え込んで身震いしてみせた。
「まどろっこしい! 薬を打って強制的に強くすれば一発じゃん。欲しい結果が出るなら、過程なんてどうだっていいでしょ」
「その結果が『明日』も使えるならね」
「使えないの?」
「使えないことが多い。君たちのやり方はあまりにも『速い』。だが、速いということは、崩壊する速度も同じくらい速いということさ」
重い沈黙が落ちた。実験室の機械音だけが虚しく響く。エイジはきつく拳を握り締め、ぽつりと絞り出すように呟いた。
「……分かってるよ。そんなことは」
「エイジ?」
「俺だって、最初からこんな倫理を捨てた方法を選びたかったわけじゃないさ。だけど、できたなら、やるだろう?」
マナはエイジの横顔を見上げ、どこか誇らしげにへへっと笑った。
「私が薬を作って」
「俺がそれを整えて、形にした。それがベストだった。少なくとも当時の俺たちにとってはな」
スメラギは二人を深く、深く見つめた。
その瞳に責める色は一切ない。神祖の眼差しにあったのは、泥を這いずり回り、互いの背中を預け合ってきた泥臭い人間たちへの、確固たる敬意だった。
「なるほど……だからこそ、君たちはここまで速く到達できたのか」
「すごいでしょ? 私とエイジくんは最強のコンビなんだから」
「うん。そこは素直に素晴らしいと思う。しかし君たちには絶対に埋められないものが一つだけある」
「何よ?」
「時間」
スメラギが静かに手をかざすと、研究都市の地下最深く――カンタベリー直轄の特別極秘区画の重厚な隔壁が音を立てて開いた。
セキュリティの向こうに整然と並んでいたのは、スメラギの管理下で正しく育成」 された魔人たちだった。
研ぎ澄まされた肉体、穏やかで一切の乱れがない安定した精神。そして何より、自らの強い意志でスメラギという思想に忠誠を誓った、美しき強者たち。
マナの目が、肉食獣のように爛々と妖しい光を放った。
「へえ……すごいじゃん。綺麗で、頑丈そうな兵隊さんたち」
マナはくるりと振り返り、スメラギにニッと口の端を上げて笑いかけた。
「でもね、神祖くん。あなたにも足りないものが一つあるよ〜」
「何かな?」
マナは棚にうずたかく積まれた、危険な黒い光沢を放つ魔人化薬のケースを指さした。
「速さだよ」
スメラギは少しだけ目を細め、心底可笑しそうに口元を緩めた。
「……ふふ、痛いところをつかれたね」
人間を理念から正しく育てるには、途方もない時間がかかる。人間を破壊し、力だけを力づくで抽出すれば、時間は必要ない。だが、壊れた力は刹那の徒花として潰える。ならば――速さを持つ『悪徳』と、持続性を持つ『秩序』をひとつに組み込めばどうなるか。
スメラギの持つ「育まれた忠誠と、完成された魔人」。
エイジとマナの持つ「最速の魔人化薬と、生体兵器製造技術」。
単体では歪でしかなかった二つの邪念と理念が、パズルのピースのように完璧に噛み合っていく。
「エイジ」
「なんだ?」
「君のその素晴らしい技術を、僕の教育施設へ提供してくれないか」
「……どう使う気だ?」
「自ら望み、過酷な試練を乗り越えようとする者に使わせるのさ。君たちの作ってしまったその『毒薬』を、僕の箱庭で誇り高き『聖約』として昇華させる」
マナがパンと楽しそうに手を叩いた。
「いいんじゃない? すごくいいと思うよ、エイジくん。そっちの箱庭で上手に育った美味しい魔人、たまに私にも食べさせてくれる?」
「それは実に困るね。彼らは僕の大切で可愛い子供たちだからね」
「ケチ! おじいちゃんのケチケチケチ!」
無邪気で、どこか微笑ましくすらある会話。
しかしその背後では、人類の文明の形が、誰にも気づかれぬまま破滅的な変貌を遂げようとしていた。
情けや優しさだけでは、過酷な世界を生き抜く力は生まれない。冷酷や残酷さだけでは、獲得した力は歴史に根付かない。
育てる者、スメラギ。
奪う者、マナ。
その正反対の二つを恐ろしい精度で繋ぎ止める者、エイジ。
本来ならば決して相容れぬはずの方法論が、互いの致命的な欠陥を補い合う『助け合い』として機能し始めていた。
三人は、まだ気づいていない。
人間を守り育てるための温床と、人間を資源として弄ぶ残酷な実験場。
その二つが完全に融合したとき――本当に恐ろしいのは、惨劇の実験が失敗することなどではないのだということに。
その狂気と惨劇に、永遠に止まることのない『持続性』が与えられてしまうことなのだということに。