③
世界は、酷く無様に傷ついていた。
侵略種は国境を知らない。
街を焼き、論理を断ち、生活という名のささやかな日常を奪う。昨日まで灯っていた温かな家屋が、今日には名もなき瓦礫の山へと変貌する。
故郷を追われた人々は、見知らぬ泥の上で睡り、明日という名の明日が訪れる保証もないまま絶望の朝を迎える。
国家は復興を急ぎ、研究者は新技術という名の福音をあがき求め、軍隊は死守すべき防衛線を維持する。
それでも、圧倒的に足りない。
世界はあまりにも広く。侵略種はあまりにも遍く。そして――人間が助けを求めて叫ぶ猶予は、あまりにも短すぎた。
そんな終末の匂いが満ちる世界に、一人の少年が姿を現した。
純白の司祭服。
澄み渡る青の髪。
静謐を湛えた碧眼。
その佇まいだけを見れば、泥泥とした戦場などとは永遠に無縁の少年にしか見えない。しかし彼こそが、多目的企業カンタベリーの最高権威。
千年の歳月を生き、人類の興亡を見届けてきた神祖――スメラギであった。
「皆さん」
彼は、画面の中から学院の教壇に立つ幼い教師のように語り始める。
「今、私たちの世界は酷く苦しんでいます」
声は静かだった。波風ひとつ立たぬ湖面のように。だからこそ、その声音は世界中のあらゆる人々の鼓膜へ、意識へ、直接浸透していく。
「故郷を失った者がいる。愛する家族を失った者がいる。明日の糧すら見出せぬ者もいる」
悲劇を煽るためではない。
あまりに凄惨な今、それをあるがままの現実として正視させるための儀式。
「多目的企業カンタベリーは、これまで復興支援、医療提供、技術供与といったあらゆる手を尽くしてきました」
スメラギは一度、言葉を置く。間を置く。
その静寂すらも、彼が設計した演出の一部。
「ですが――それだけでは、足りない」
一瞬にして、世界の空気が変質した。
穏やかな瞳の奥で、千年間で研ぎ澄まされた冷徹な計画が不穏に揺らめく。
「傷ついた者を救うだけでは、その傷を穿つ脅威から守り抜くことはできません、ゆえに私たちは、一線を踏み越えます」
少年の背後に、巨大なシンボルが投影された。
十二の天体。巡る円環。そして、その名は。
「多目的企業カンタベリーはこれより、独立防衛戦闘部隊《ゾディアック》の設立を宣言します」
各地へ即座に投下される絶対的戦力。
侵略種の駆逐。避難民の絶対護衛。都市の完全防衛。復興領域の永続警備。国家という既存の枠組みを嘲笑うかのように超越した、超法規的な救済機構。
「国連のような、国家間の不毛な協議を待つだけの緩慢な仕組みではありません」
それは国家を切り捨てる言葉ではなかった。国家というシステムが破綻した領域を、より強固なシステムで置換するという、静かなる支配宣言。
「国境の向こうで人が踏みにじられているのなら、我々が向かう。救援を待つ時間がないというのなら、こちらから絶望の渦中へ踏み込む! 誰かが助けを求めて叫ぶのなら――その声が潰れる前に、その手を掴み上げる!
スメラギは、聖母のように優しく微笑んだ。
「それが、ゾディアックです」
やがて画面の背景は、果てしない黄道十二星座の天球図へと切り替わる。
「ゾディアックとは、黄道帯……すなわち『星座の巡り』を意味します。星々は一見、永遠に同じ場所へ留まっているように見えるでしょう? しかし、季節が巡れば、夜空を彩る星々の形もまた変転していく。星座とは、すなわち『季節の変革』を告げるもの」
スメラギの声が、ほんの僅か、慈愛に満ちた柔らかさを帯びた。
「ゆえに私たちは、この名を与えました。いま、この世界は『地獄の季節』の中にあります」
誰もが知る、直視することを恐れている現実。戦火。流民。飢餓。喪失。そして根深い恐怖。
――それでも。
「冬の季節は、永遠には続きません」
スメラギは、虚空の天井を見上げる。その眼差しは、はるか先の明日を捉えている。
「冬が終われば、必ずや芽吹きの春が巡り来るように。凍てついた大地にも、いつの日か祝福の花が咲き誇る時が来る」
それは祈りではない。根拠なき希望でもない。希望を『絶対の現実』として定着させるために、必要な仕組みを組み上げる。そのためだけに構築された、絶対の暴力と救済のシステム。
「ゾディアックは、この地獄の季節を越えさせるために存在します。そしてその果てにある、豊潤なる春を人類に迎えてもらうために」
スメラギは深く、優雅に頭を下げる。
「戦うために殺すのではありません。勝利という名の虚栄のために争うのでもありません、
人々が、戦うことすら忘れて笑い合える明日を築くために――私たちは牙を振るうのです。我らを喰らう侵略者に向けて
最後に、少年は静かに、決定的な福音を告げた。
「――全ては、人々の安寧と平和のために」
その言葉は、電波に乗って世界中のあらゆる場所へと播種された。
傷つき倒れた人々には、暗闇を照らす『福音』として。
権力を抱く国家には、抗えぬ『圧倒的抑止力』として。
戦場の兵士には、疑いようのない『至高の使命』として。
巨大企業群には、世界を塗り替える『新秩序』として。
そして、スメラギ自身にとっては――千年の孤独の中で学び取った、無知なる人間という種(文明)を存続させるための、新たな盤上の一手だった。
人類は、放っておけばいつだって争う。だからこそ、争いそのものを無効化する『絶対的な力』が必要となる。
人類は、愚かにもいつだって失敗を繰り返す。だからこそ、何度破滅しようとも自動で立ち上がらせる『システム』が必要となる。そして――人類は、あまりにも容易く絶望へと屈する。
だからこそ、絶望の季節が必ず終わるのだという証明を、夜空に輝く永遠の星の名に託す。
《ゾディアック》。
それは単なる私設軍隊の名などではない。
『地獄の季節を終わらせ、我らが春をもたらす』という千年間、人類を愛し、導き、飼い慣らしてきた神祖による、文明そのもののデサインドの宣言であった。