神祖スメラギは、世界を救っている。少なくとも、誰もがそう思っていた。侵略種によって故郷を失った者へ住居を与え、傷ついた者へ医療を与え、仕事を失った者へ職を与え、戦う力を失った国家へ技術を与える。
多目的企業カンタベリーが与える恩恵はあまりに巨大で、その裏側で何が行われているのかを問える者などいなかった。
世界は二つの脅威に晒されていた。外なる世界から現れ、原生生物を捕食し文明を解体する「侵略種」。そして、裏社会に解き放たれ、犯罪と生体兵器を生み出し続ける劇薬「魔人化薬」。
普通ならば、薬の流出を止めるべきだろう。だが、スメラギは止めなかった。
「……また、お前のお手製か?」
カンタベリー最上階、夜景を見下ろす執務室。エイジは呆れたように、机の上に置かれた湯気の立つマグカップを見つめた。
「おや、嫌いだったかい? 疲れには甘いホットミルクが一番だよ。マナの分にはハチミツを多めに入れておいた」
「ん。おいしい」
マナは受け取るやいなや口をつけ、小さく頬をゆるめた。聖堂の長でありながら、夜食の準備まで自ら買って出る男。
このどこにでもいる穏やかな青年の顔こそが、スメラギの一面だった。
「エイジ、君は働きすぎだ。助け合いはカンタベリーの美徳だが、君が倒れては元も子もない」
「誰のせいで仕事が増えていると思っているんだ、クソめ」
エイジは溜息をつきながらも、差し出されたマグカップを手に取った。スメラギは二人の様子を嬉しそうに観察し、満足げに微笑む。しかし、その眼差しが窓の外――光り輝く街並みへと向けられた瞬間、温度がふっと切り替わった。
「不思議かい? 僕がこの地位にいるのが」
静かな声だった。
「僕たちは世界を救うために、世界へ危険な力を流している。魔人化薬は人を狂わせ、生体兵器は都市を破壊する。倫理という言葉では到底許容できない研究データもある」
エイジはカップを置き、静かにスメラギの背中を見つめた。マナもまた、飲む手を止める。
「効果は高いがリスクが高い。それでも、僕はそれを止めない。むしろ推奨するし、それを受け入れる」
「ああ、謎だね。ぜひ教えて欲しいよ」
「理由は簡単。僕が、それ以上の利益を先に払っているからだ」
復興支援、医療、食料、住宅、技術、防衛戦力、そして――ゾディアック。
「一の不利益を許してもらうために、僕は千の利益を先に渡す。それが僕のやり方だ。利益を受け取った人間は僕を憎むことができるが、否定はできない。僕を否定した瞬間、受け取った千の利益まで失われ、その煽りを食うのは彼らの大切な『誰か』なのだから」
「……人質を取るよりタチが悪いな」
エイジの呟きに、スメラギは「ひどい言い草だな」と悪びれもせずに笑った。
「賢い被害者ほど反抗しない。自分が傷ついていると理解していても、怒りを実行に移せば関係のない人々まで巻き込むと知っているからね。優しく賢しい人ほど戦えない」
「……ふぅーん。よくわからないけど、神祖くんらしいね」
「そうだね、マナ。だからこそ強い」
スメラギは自分自身を犠牲にしている。少なくとも、周囲にはそう見えるように振る舞う。損失を引き受け、批判を浴び、憎まれてもなお利益を与え続ける。
ただし――自分を倒したときに、世界まで道連れに倒れる構造だけは完璧に作り上げて。
「もちろん、僕だって本気で損をしているよ。カンタベリーが払う巨額の資金も資源も人材も、全部本物だ。だからこそ誰も『お前は何もしていない』とは言えない。僕が一番損をしているからね」
それは神祖の免罪符であり、最も強汚な鎖だった。
「……なら、もし」
エイジが、暗闇の混じる声で尋ねる。
「その鎖すら理解せず、ただ破壊を楽しむ奴が現れたら? 他人の損害など知ったことかと、世界を壊しに来る怪物が現れたらどうする?」
スメラギは振り返り、神父としての穏やかな笑みを深めた。
「簡単だよ。我々全員の『敵』として処理する」
言葉の重みに、部屋の空気が張り詰める。
「僕を憎むのも、思想を否定するのも自由だ。だけど、関係のない人まで道連れにする自由なんて誰にもない。そういう空っぽの復讐者は無辜の市民達と共に社会正義が下される……優しさだけで文明は守れない。だから僕は、嫌われる役目も、汚れる役目も、そしてすべてをぶち壊す存在からの憎しみ、それらを全部引き受けるのさ」
表で救済し、裏で利用する。善を与えながら悪を管理し、その両方から得た成果で文明という巨大な生命体を活かし続ける。
「だからね」
スメラギは一口、自分のミルクを飲んで微笑んだ。
「僕は善人である必要なんてないんだ。僕が千を与えることで一を我慢してもらえるなら、僕は何度でも千を払おう」
本当の責任とは、綺麗な手を保つことではない。自分が汚れることで、他人が汚れる必要のない世界を維持することだ。
「……相変わらず、最低な論理だな」
エイジが呆れたように鼻を鳴らすと、スメラギは「おや、酷いな」と年相応の困り顔を作ってみせた。
「せっかく夜食やミルクを作ってあげたのに。マナ、エイジが意地悪を言うよ」
「……エイジくん、神祖くんミルク美味しいから、怒っちゃだめだよ〜」
「どういう理屈だ。ミルクが美味しいのと関係ないだろう。それに怒ってない。……ただ、この人の顔を見ていると胃が痛むだけだ」
二人のやり取りを見つめながら、スメラギは心底楽しそうに目を細めた。彼らの日常を守り、明日を迎えさせること。そのために必要な犠牲なら、いくらでも背負ってみせる。
「さあ、明日も忙しくなる。早く飲んで寝るといい」
窓の外では、ゾディアックの部隊が夜の街へと出撃していく。神の如き慈愛と老獪な管理者の冷徹さをその瞳に宿しながら、神祖スメラギは静かに笑っていた。
「さあ、共に春を迎えよう」