俺の異能が中華ゲーだった ~34歳無職、ガチャで引いたキャラに変身して働きます~ 作:パラレル・ゲーマー
金曜日の朝。
時刻は午前九時を過ぎたところだ。
実家のダイニングでトーストとコーヒーの朝食を済ませた直哉は、自室のデスクチェアに深く腰掛け、スマートフォンの『能力者向け求人アプリ』を開いていた。
昨日の、何一つ異常が起きずただ時間を消費しただけの「施設警備」の仕事を経験してからというもの、直哉の求人を眺める目線はこれまでとは明らかに変わっている。
視界の端に展開させた《因果集結クロニクル》のステータス画面を、もう一度確認した。
『因果晶:3,200』
『《育成記録・初級》×16』
『クレジット:25,000』
現在の編成スロットはこうだ。
『FORMATION 01』
『SLOT 1:★★★★ 東雲セナ Lv.20 HP 3,430』
『SLOT 2:★★★★ 鳴海伊織 Lv.20 HP 3,130』
『SLOT 3:EMPTY』
そして、限定ガチャバナーの残り時間と天井カウント。
『開催期間残り:08日と18時間』
『★5キャラクター確定まで:70回以内』
天井まで、あと8,000石。十連ガチャ五回分。
直哉は3,200という石の数字を見つめても、もう衝動的に十連ボタンへ指を伸ばしたりはしなかった。
昨日、自分でスマホのメモ帳に書き込んだ仮説のテキストを思い返す。
有償の仕事をしたという事実だけでは石は出ない。それは昨日の警備で実証済みだ。かといって、戦闘行為そのものが絶対条件というわけでもない。初日のコンビニ強盗の時は、人を制圧したのに石は出なかったからだ。
(外部因果への積極的介入と、結果の変動。結局、これが一番有力なんだよな)
だから今日は、昨日みたいな平和な警備じゃなくて、ちゃんと「俺が何かを変える仕事」を探す。
もちろん、石が欲しいからといって自分の身の丈に合わない危険な討伐案件に飛びつくような真似はしない。自身の戦力で余裕を持って安全に対応でき、なおかつ『結果への介入』が業務の中心になっている案件。それを狙って探すのだ。
直哉はまず、戦闘・討伐のカテゴリから案件を眺め始めた。
『異界性生物の群れ駆除補助』
『怪異出現区域での現地対応』
『重要能力者の同行護衛』
『異界領域・危険個体の処理』
戦闘が発生しそうな案件はいくつも並んでいる。
だが、詳細を開いてみると、どれも絶妙に条件が噛み合わなかった。現場が東京都の端で遠すぎたり、開始時間が午後遅くからだったり、八時間以上の長丁場を要求されるものだったり。あるいは、あらかじめ組まれた固定チームの欠員補充で、新参者がポンと入りにくい空気のものもあった。
(石の期待値が高いからって、わざわざ条件の悪い仕事に無理して飛びつく必要はないよな。俺は自由なフリーランスなんだから)
直哉はため息をつきながら、画面を下にスクロールし続けた。
すると。
求人一覧の最上部に、赤い枠で囲まれた新しい表示がポンッと割り込んできた。つい先ほど、システムに更新されたばかりの案件だ。
『【緊急案件】』
直哉の指が止まる。
「ん?」
詳細タブを開く。そこには、これまでの定例業務とは全く違う、切迫した文面のUIが並んでいた。
『【緊急救助・異界領域内】』
『案件番号:TK-ER-0528』
『業務区分:異界救助/要救助者搬送』
『業務地域:東京都・異界領域《風裂谷(かぜさきだに)》』
『業務形態:単独』
『緊急度:高』
『要救助者:1名』
『要救助者状態:負傷/自力歩行困難』
『通信:確保済み』
『現在位置:概算特定済み』
『受注条件:登録Tier3以上』
『推奨適性:高速移動/高身体能力』
『戦闘適性:必須ではない』
『想定戦闘:低』
『業務内容:要救助者のもとへの到達、および安全区域までの搬送』
『制限時間:次回の大規模地形変動まで 01:47:32』
『想定拘束時間:約3時間』
『報酬:100,000円』
『備考:医療班は異界の帰還地点にて待機。現場へ急行できる方を最優先します』
直哉の目が、画面の文字に釘付けになった。
「救助……?」
戦闘が目的の依頼ではない。
だが、昨日のただ待機しているだけの警備とは決定的に違う。
すでに現場には、負傷して動けなくなっている人間が存在している。そして、直哉がそこへ急行して助け出さなければ、この仕事は絶対に完了しない。
直哉の頭に、昨夜導き出した仮説が強く閃いた。
(これ……めちゃくちゃ分かりやすい「結果を変える仕事」じゃないか?)
直哉は冷静に、案件の背景情報のテキストを読み込んだ。
現場となる《風裂谷》は、既知の安定した異界領域の一つだ。決して未知の超危険ダンジョンというわけではなく、普段から八咫烏の許可を得た民間業者が、異界資源の調査や採取に利用している場所らしい。
特徴は、乾燥した岩山と深い峡谷が延々と連なる険しい地形。
そして、この異界の最大のギミックは、数時間おきに内部で『大規模な地形の再配置』が発生することだった。
岩壁の位置、谷間の幅、通路、足場。それらがまるで巨大なルービックキューブのようにゴリゴリと組み替わってしまうのだ。
ただし、その変動の周期そのものは外部のセンサーで正確に観測できる。だから通常は、変動の時刻が来る前に安全区域へ戻るという運用ルールが徹底されている。
今回、その採取作業中だった作業員一名が、不運にも落石事故に巻き込まれて脚を負傷してしまった。
同行していた別の作業員は、内部では通信が通じにくいため、救援を要請するために先に安全区画へと走って戻った。取り残された本人は、岩陰の簡易避難地点に退避しており、辛うじて通信だけは繋がっている。
だが、怪我のせいで自力では歩けない。
このまま次の『大規模地形変動』が起きてしまえば、現在管理側が把握している救助経路のマップそのものが使い物にならなくなる可能性が高い。そうなれば、変動後に一から再測量を行わなければならず、救助の到着が絶望的に遅れることになる。
要救助者の状態は。
『意識清明』
『生命兆候:安定』
『右脚負傷』
『自力歩行:困難』
今すぐ命を落とすような致命傷ではない。
だが、あの得体の知れない異界の中に、脚を負傷した人間を長時間取り残していいはずもない。
(人一人を助けて、タイムリミットまでに連れて帰る……)
戦闘はほぼない。でも、俺がここで行かなければ、少なくとも予定通りの時間には救助できない。
昨日の平和な警備業務とは対照的な、明確な『介入』の余地がある。これは、《因クロ》の報酬条件を検証するには、これ以上ないほど打ってつけの現場だった。
(石が出そうだから助けに行く、なんて偽善者ぶるつもりはないけどな)
報酬は十万円と高額。仕事の内容も、高機動を誇るセナの能力に完璧に合致している。そして何より、現場は今この瞬間にも助けを求めている『緊急案件』だ。
直哉は迷いを振り切り、青いボタンをタップした。
「……これにするか」
『応募を受理しました』
今回は緊急を要する案件だったため、システム側の人員選考も一瞬だった。
数秒後。
『受注確定』
『現場へ直行してください』
直哉は弾かれたように椅子から立ち上がり、クローゼットから上着を引っ張り出した。
家を出る直前。直哉は姿見の前に立ち、編成画面を開いた。
今回選択するのは、迷うことなく『東雲セナ』だ。
(これはどう考えてもセナだな)
要求されているのは、タイムリミットに間に合わせるための圧倒的な『移動速度』と、険しい悪路を走破するための『高身体能力』。そして、成人男性一人を背負って崖を登り降りできるだけのパワーだ。
せっかく育てた伊織も使いたいが、狭い岩場が続く峡谷で長いライフルを構える機会などない。今回はどう考えてもセナの方が向いている。
『【CHARACTER CHANGE】』
青白い閃光が弾け、視界の高さが下がる。
身体が羽毛のように軽くなり、バネのような筋力が全身を満たしていく。
直哉は玄関でショートヘアを軽く揺らし、セナの明るい声で呟いた。
「よし、急ぐよ!」
◆
午前十時過ぎ。
東京都の郊外の山際に設置された、異界管理施設。
そこが《風裂谷》への安定した異界接続口だった。
施設内は、いつもの落ち着いた行政施設の空気とは違い、どこか慌ただしい空気に包まれていた。救急車のサイレンは鳴っていないが、医療班のスタッフや異界管理の職員たちがトランシーバーを片手に早足で行き交っている。
直哉は《ナオ》の業務画面を提示し、足早に受付を済ませた。
「お待ちしておりました! こちらへ!」
現地担当の職員に案内され、ブリーフィング用のモニターの前へと通される。
担当者が手渡してきたタブレット端末には、現在分かっている峡谷の地形図、要救助者の概算位置、そこへ至るまでの最短の帰還経路、そして画面の隅で赤く点滅する『地形変動までの残時間』が表示されていた。
『次回大規模地形変動まで:01:29:18』
(あくまで、これは現地側が用意してくれた情報端末か)
《因果集結クロニクル》のシステムが、親切に救助対象の場所を光るマーカーで教えてくれるわけではない。頼りになるのは現実のデータだけだ。
「要救助者は、藤村和也さん。三十二歳。異界資源の採取会社に所属するベテランの作業員です」
「その人も能力者なの?」
「はい。ただ、彼の固有能力は『鉱物検知系』の微弱なもので、戦闘や自己回復の適性はありません。落石で右脚を痛め、自力での帰還が不能になりました」
能力者だからといって、全員が化け物と戦えるわけではない。その現実感に直哉は少しだけ納得した。
担当者がタブレットの赤い数字を指さした。
「次の地形変動まで、あと一時間三十分ほどです。変動が起きれば、この地図のルートはほぼ使えなくなります。再測量後に別ルートからの救助を再開することになりますが、再測量だけでも最低数時間はかかります。地形次第では、その日のうちに再進入できない可能性もあります」
担当者は少しだけ言葉を濁した。
「数時間で済む場合もありますが……済まない場合もあります」
それは脅しではない。異界という人智の及ばない空間のリアルだ。
直哉はタブレットをポーチにしまい、力強く頷いた。
「分かった。地形が変わる前に、私が連れて帰ってくればいいんだね」
「どうか、よろしくお願いします」
管理ゲートの分厚い扉が開き、空間の歪みへと飛び込む。
景色が一変した。
乾いた青白い空。視界を遮るようにそびえ立つ、赤茶けた無数の岩山と、底の見えない深い峡谷。
耳を劈くような強風が吹き荒れ、浮遊する砂埃が容赦なく顔を打ち付けてくる。
だが、この《風裂谷》は怪物が大量に押し寄せてくるような危険なダンジョンではない。管理されている領域であるため、主要ルート上の危険な生物は定期的に排除されている。
今日の敵は、怪物ではない。
『険しい地形』と『時間』だ。
直哉はタブレットの現在地を確認し、風に向かって駆け出した。
「行くよ!」
セナの肉体が持つ並外れた身体能力が、ここで完全に火を噴いた。
単なる直線のスプリント速度だけではない。
ゴツゴツとした岩場、人一人分しかない細い足場、崩れやすい急斜面。普通の人間ならロープを使って数十分かけて降りるような場所を、セナの足はほとんど速度を落とすことなく、パルクールのように滑らかに駆け抜けていく。
直哉の内心は、驚きと高揚感で満たされていた。
(すげえ……! こういう使い方もできるのか!)
これまで、セナの高速機動は主に『敵との間合いを詰めるため』や『攻撃を避けるため』といった、戦闘目的でしか使っていなかった。
だが今日は違う。
一秒でも早く、助けを待つ人間の元へ辿り着くため。
その明確な目的のために、この超常の力が完璧に機能している。
途中、落石の影響で通常ルートの一部が大きく崩落している箇所に突き当たった。
谷の向こう側の足場まで、距離にして数メートル以上はある。下は底の見えない暗闇だ。
迂回ルートを探せば、数分のロスになる。
普通なら絶対に引き返すような危険な場所だ。だが、直哉は一瞬だけ立ち止まり、考えた。
(これ……《瞬雷》のスキルで行けるんじゃないか?)
もちろん、壁をすり抜けるようなテレポート魔法ではない。あくまで超高速の突進ステップだ。
だが、向こう側にしっかりとした着地点さえあれば。
直哉は向こう岸の平らな岩肌を視界の中心に捉えた。
「――遅い!」
スキルの自動ボイスと共に、青白い雷光が空中で弾けた。
セナの体が重力を無視したかのように虚空を一直線に駆け抜け、崩落した谷間を一気に飛び越える。
『タンッ!』
向こう岸の岩場に、音もなく完璧な着地を決めた。
「おおお……!」
直哉自身が、思わず感嘆の声を上げた。
(戦闘以外でも、普通に移動スキルとしてめちゃくちゃ便利だなこれ!)
アクションゲームのショートカット技を現実で成功させたような快感。直哉はそのままの勢いで、岩場をさらに奥へと駆け上がっていった。
指定された地点の近くまで到達した時、直哉の耳につけた無線用イヤホンからノイズ混じりの声が聞こえた。
『……こちら藤村。聞こえますか。誰か……』
「聞こえるよ! 今、そっちに向かってるから!」
直哉は声を頼りに、崩れた岩壁の陰へと回り込んだ。
そこに、オレンジ色の簡易避難シートに包まり、岩に背中を預けて座り込んでいる男性の姿があった。
右脚に添え木をして固定している。顔色は青白く、寒さと痛みで震えているが、意識ははっきりとしていた。
直哉が目の前に飛び降りる。
「お待たせ! 八咫烏からの依頼で救助に来たよ!」
藤村は、目の前に現れた若い女性の姿を見て一瞬呆気にとられたが、すぐに安堵の表情を浮かべて息を吐き出した。
「……助かった」
その一言に、大げさな感動劇や涙は必要なかった。仕事として到着し、相手が安堵した。それだけで十分すぎるほどの報酬だ。
直哉は医療の専門知識を持っているわけではない。だから、勝手に患部を触ったりはしない。
すぐに無線を繋ぎ、外で待機している医療班へ状況を報告した。
「対象者確保。右脚は固定してある。出血は外から見る限りほとんどないみたい」
医療班からの指示に従い、現場での簡単な状態確認を終えると、直哉は持参した救助用の頑丈なハーネスを取り出した。
「歩くのは、無理そうだよね?」
藤村は苦笑いして首を振った。
「申し訳ないです。ちょっと体重をかけるだけで激痛が走って……自力じゃ無理だと思います」
「じゃあ、私が背負っていくよ。しっかり捕まってて」
「え?」
藤村は目を丸くした。
彼は三十二歳の成人男性だ。体格もそれなりにがっしりしている。
対するセナは、身長164センチの小柄で細身な若い女性だ。どう見ても、藤村を背負ってこの険しい岩場を帰れるような体格ではない。
藤村が戸惑っているのが分かり、直哉は笑ってハーネスを差し出した。
「大丈夫だから! 私、これでもTier3だからね!」
その外見と能力等級のギャップに、藤村は少しだけ笑い、大人しく背中へと身を預けた。
直哉が立ち上がる。
(……軽いな)
もちろん、物理的に六十キロ以上の重量が背中に乗っているのは分かる。だが、セナの驚異的な筋力と体幹のバランスからすれば、まるで空っぽのリュックを背負っている程度の負荷にしか感じられなかった。
直哉は内心で(人一人ってこんなに軽かったっけ?)と錯覚しそうになったが、すぐに(いや違う、俺のこの身体が異常に強くなってるだけだ)と自己完結した。
藤村が申し訳なさそうに肩越しに声をかける。
「……本当に、大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫! しっかり捕まっててね!」
だが、帰路は往路のように簡単にはいかなかった。
負傷者を背負っている以上、行きのように《瞬雷》で谷を飛び越えたり、無茶なパルクールで岩場を跳ね回ったりすることはできない。
急加速や急停止をすれば、背中の藤村の痛めた脚に深刻な負担がかかってしまう。
直哉は、セナの基本身体能力と並外れたバランス感覚だけを頼りに、ひたすら『安全優先』で確実な足場を選んで進んでいった。
(俺一人ならもっとガンガン飛ばせるけど、今日の仕事は『速ければいい』ってもんじゃないな)
ただ自分の能力を見せつけるのではなく、要救助者の命と安全を最優先に運ぶ。ここにも、直哉の仕事としての成熟が現れていた。
帰還のルートを半分ほど消化した頃だった。
ズズン……。
足元の岩盤が、不気味な地鳴りと共に微かに揺れた。
岩壁の上の方から、パラパラと乾いた砂と小石が落ちてくる。
周囲の地形の継ぎ目が、まるで生き物のようにギリギリと音を立てて軋み始めていた。
直哉の無線に、現地管理側からの緊迫した声が入る。
『ナオさん! 地形変動の予兆が、予定よりも早まっています!』
これは未来予測のシステムではない。現地のセンサーが捉えたリアルな観測データだ。
直哉のタブレットの残り時間表示が、強制的に更新された。
『推定大規模変動開始まで:00:31:40』
予定より十数分も早い。
直哉は舌打ちした。
(マジかよ!)
だが、絶望するような時間ではない。焦らずに進めば、まだ十分に間に合う。ここでスピードを上げて藤村を落とす方がよっぽど危険だ。
背中の藤村が、揺れに怯えて小さな声を出した。
「すみません……重いですよね。俺のせいで……」
直哉は前を向いたまま、セナの明るいトーンで即座に返した。
「全然! こんなの羽みたいに軽いから気にしないで!」
内心では(いやまあ、物理的な重さは普通にあるけど、走るのには全く影響ないな)と冷静に計算している。
「救助の人が来てくれるまで……正直、かなり不安でした。このまま地形が変わって、誰にも見つけられずに死ぬんじゃないかって」
「もう大丈夫。ちゃんと一緒に帰るよ!」
そこに、ヒーロー的な大仰な気負いはなかった。ただ、仕事として必ず送り届けるという確かな意思があった。
地形変動の予兆による小さな崩落が発生し、往路で使った狭い通路の一部が土砂で塞がれてしまった。
だが、八咫烏のサポートは優秀だった。
『ナオさん、現在のルートが閉塞しました。南側の補助通路へ迂回してください。タイムロスは三分程度です』
「了解!」
《因果集結クロニクル》のシステムは、帰り道のナビゲーションなどしてくれない。全ては現場の人間同士の連携と運用でカバーしていく。
安全区域のゲートが見える手前、最後の難所が立ちはだかった。
斜度五十度近い、急な岩場の斜面。
ここを、大人一人を背負ったまま降りなければならない。
直哉は極端に速度を落とした。
足裏の感覚を研ぎ澄ませ、崩れやすい浮き石を一つずつ確認しながら、慎重に足を下ろしていく。
藤村の体を絶対に揺らさない。転がる小石を的確に避ける。
怪物が襲ってくるわけではない。だが、これは間違いなく命を懸けたアクションだった。
直哉自身も、額に汗を滲ませながら内心で叫んでいた。
(一回も戦ってないのに、前の五時間警備よりよっぽど疲れるぞこれ!)
ついに、斜面を降りきった。
前方数百メートルの位置に、歪んだ空間の接続口が見える。
その手前で待機していたスタッフと医療班が、直哉たちの姿を認めて大きく手を振った。
「来た! ナオさんだ!」
直哉は藤村を背負ったまま、最後は小走りで駆け抜け、現実世界へのゲートを潜り抜けた。
「お疲れ様です! こちらへ!」
待機していた医療班がすぐにストレッチャーを運び出し、直哉の背中から藤村を慎重に下ろして医療チェックを開始する。
現場の担当者が、トランシーバーに向かって叫んだ。
「要救助者、確保! 救助完了です!」
その報告が響いた直後。
異界側の監視モニターで、激しいレッドアラートが鳴り響いた。地形変動の限界警告だ。あと数分もすれば、あの内部の岩山は原型を留めないほどに完全に再配置されるだろう。
直哉は膝に手をつき、大きく息を吐き出した。
(間に合った……)
もし地形変動に間に合わなければ、救助は大幅に遅れていた。低体温や脱水、負傷の悪化といった危険も、それだけ大きくなっていたはずだ。
「ナオさん、本当にありがとうございました」
ストレッチャーの上で応急処置を受けていた藤村が、顔を向けて深く頭を下げた。
直哉はセナの顔で、ニカッと明るく笑ってピースサインを返した。
(……間に合ってよかったな)
現場の待機テントで、直哉のスマートフォンに業務アプリからの通知が届いた。
『【業務完了】』
『要救助者:1 / 1』
『要救助者確保:完了』
『安全区域搬送:完了』
『二次被害:なし』
『救助者負傷:なし』
『業務時間:1時間42分』
『報酬:100,000円』
『支払処理:確定(明日付振込)』
直哉は表示された金額を見て、内心でガッツポーズをした。
(十万円!)
これで、能力者の仕事を始めてからの累計収入は、390,000円。
戦闘は一度もなかったが、この金額だけでも普通に嬉しくてたまらなかった。
◆
現場の施設を離れ、最寄り駅へ向かう人通りの少ない道を歩きながら。
直哉の心臓は、少しだけドクドクと早く脈打っていた。
(……さて)
昨日の警備業務の後は、銀色の『活動記録更新』のウィンドウしか出ず、因果晶はゼロだった。
今日はどうなる?
ピロリン。
視界の端で、澄んだ通知音が鳴った。
展開されたウィンドウの色を見る。
直哉の目に飛び込んできたのは、眩しい『黄金色』だった。
(――金!!)
昨日の落胆を経験しているからこそ、今回は文章を読むより先に、その色を見ただけでガッツポーズが出た。
「来た!」
いつもの表示が流れる。
『【因果変動記録】』
『外部因果への有意な干渉を確認しました』
『集結者の介入によって成立結果が変動しました』
『活動記録を更新します』
『評価処理完了』
『活動報酬を獲得しました』
直哉は深く頷いた。
(やっぱりだ!)
今日は一回も戦闘をしていない。怪異も異界生物も、一匹たりとも倒していない。
それでも、金の因果変動記録が出た。
つまり、『戦闘行為そのものは、因果晶獲得の必須条件ではない』ということが、これで完全に実証されたのだ。
続いて、育成報酬のアイコンが飛び出してくる。
『《育成記録・初級》×10』
『《クレジット》×15,000』
これで育成素材もまた少し潤った。だが、今の直哉にとってそれはオマケでしかない。
そして。
最後に、待ち望んでいた因果晶のアイコンが現れた。
直哉は待ってましたとばかりに身構えた。
(よし、いつも通りの1,600石――)
だが、表示されたテキストは、直哉の予想を完全に裏切った。
『《因果晶》×3,200』
直哉の足が、その場でピタリと止まった。
一瞬、自分の見間違いかと思った。
「…………」
目をこすって、もう一度見る。
『《因果晶》×3,200』
直哉の口から、間の抜けた声が漏れた。
「三千二百……?」
十連ガチャ、二回分。
脳の処理が追いつき、その意味を完全に理解した瞬間。
「倍!?」
直哉は誰もいない道端で、両手を天に突き上げて飛び上がった。
「やったぁぁぁぁぁっ!!!」
理屈も分析も後回しだ。ただ純粋に、ゲーマーとしての歓喜が爆発した。
「十連二回分じゃん!! マジかよ!!」
昨日がゼロで落胆していた分、その反動の喜びは凄まじかった。
急いで右上のステータス残高を確認する。
『因果晶:6,400』
3,200から、一気に倍に跳ね上がった。
「六千四百……!」
限定バナーの天井までに必要な総額は、11,200。
そこから現在の6,400を差し引くと。
残り、4,800石。
つまり、十連ガチャ『あと3回分』だ。
昨日の朝の時点では、「あと5回分」で足踏みしていた。
それが今日一日で、一気に「あと3回分」まで縮んだのだ。
「一気に二十連分も進んだぞ!」
直哉は興奮のあまり、その場で小さくステップを踏んだ。
ひとしきり喜んだ後、直哉の頭に冷静な『ゲーマー脳』が戻ってきた。
歩きながら、顎に手を当てて思考を巡らせる。
(待てよ。以前までの仕事では、最高でも1,600しか出なかった。でも今日は3,200。この違いはなんだ?)
直哉は過去のデータを頭の中で並べた。
青灰回廊でのダンジョン探索。1,600。
灰甲猪の駆除。1,600。
山岸の制圧。1,600。
そして今日の、救助案件。3,200。
直哉の導き出した最初の推論は、極めて単純なものだった。
(……人助けか?)
「もしかして、人の命を助けたりすると、ボーナスで報酬が増えるのか!?」
彼はその仮説に飛びつきそうになった。だが、すぐに初日の『コンビニ強盗』の記憶がストップをかけた。
「あ」
コンビニ強盗の時も、直哉は明らかに『人助け』をしている。
店員や客が刃物で傷つけられるかもしれないという危険な結果を、自らの介入で変えたはずだ。
でも、あの時の因果晶は『0』だった。
「……違うのか?」
直哉は、コンビニ強盗と今日の救助の違いを深く考えた。
コンビニ強盗。
事件の規模そのものが小さかった?
直哉が介入しなくても、結果の差はそれほど大きくなかった?
因果が変動した『規模』が、石を配る閾値に達していなかった?
あるいは、有償の仕事として受注していなかったから?
今日の救助。
要救助者はすでに異界の奥深くで動けなくなっていた。
地形変動という明確なタイムリミットが迫っていた。
直哉自身が現地へ入り、本人を直接背負って連れ帰った。
結果の違いが、極めて明確だった。
直哉は一つ頷いた。
(単純な『善行ポイント』が溜まったから石が出た、ってわけじゃなさそうだ)
(でも、人の安全とか命に関わるような大きな結果を変えれば、システムからの評価も大きくなる……?)
さらに、もっと根本的な可能性に思い至る。
金色のUIの文面。
『集結者の介入によって成立結果が変動しました』
(つまり、システムは『俺が何をしたか』より、『介入によってどれだけ結果が変わったか』を見ている……?)
(これまでに出たのは1,600だった。今日は3,200)
(じゃあ……因果の変化の度合いが大きいほど、もらえる石の数も増えるってことか?)
新しい、そして有力な仮説だ。だが、まだサンプルは一件だけ。断定は避けた。
直哉はスマホの自分用メモ帳を開き、テキストを更新した。
『《因クロ》報酬仮説・更新』
『確定度高』
『戦闘行為は、因果晶獲得の必須条件ではない』
(今日、戦闘ゼロで3,200石が出たことで、これはかなり強く言える事実となった)
『仮説』
『人命救助は高評価になりやすい?』
『因果変動の重要度や規模によって、支給される因果晶の量が変化する?』
さらに、直哉はもう一つの重要な事実に気づき、メモに追記した。
『1,600固定説 → 否定』
昨日まで、因果晶の支給パターンは『0』か『1,600』しか存在しなかった。
だが今日、『3,200』という新しい数字が追加された。
だから、「石が出る時は必ず1,600固定である」という説は完全に消滅した。
だが、直哉はある妙な共通点に気づいてニヤリと笑った。
(1,600。3,200)
十連、一回分。
十連、二回分。
「……やっぱり、完全にガチャの十連単位じゃねえか」
100石とか300石といった端数でチマチマと配られる気配が全くない。
今のところ完全に、十連ガチャを回すための単位でしか支給されていないのだ。
直哉は苦笑した。
(何なんだよ、本当にこのシステム)
だが、くれるというなら文句はない。
一瞬、直哉の頭に甘い考えがよぎった。
(じゃあ、次から救助案件を優先して拾うのはありか?)
ただ、救助案件というのは、どこかで誰かが事故に遭い、怪我をして、助けを必要として初めて発生する仕事だ。
(発生するのを待ち望むのは違うよな)
すでに発生している仕事の中から、救助案件を優先して選ぶ。
それなら、困っている人を助けられる。現金も入る。そして大量の石も期待できる。
(出てる仕事のリストの中から、救助を優先して選ぶくらいなら、普通だよな)
直哉は求人アプリのリストを開き、救助カテゴリのタグで絞り込み検索をかけてみた。
『該当案件:0件』
さっき彼が受けた緊急案件が、今日唯一のものだったようだ。
直哉は肩をすくめた。
「まあ、そりゃそうだよな」
毎日都合よく、誰かが近所で遭難しているわけではない。
だから今後も、石を稼ぐためには討伐、回収、制圧、調査などをバランスよく組み合わせて仕事をしていく必要があるだろう。
◆
帰宅後。
自室に戻った直哉は、ドアの鍵を閉めて変身を解除し、三十四歳の森川直哉の姿へと戻った。
椅子に座り、改めて《因クロ》の画面を確認する。
『因果晶:6,400』
『《育成記録・初級》×26』
『クレジット:40,000』
そして、限定バナーの天井カウント。
『★5キャラクター確定まで:70回以内』
最大で必要な石は11,200。
所持しているのが6,400。
追加で必要なのは、4,800。十連三回分。
直哉は静かに呟いた。
「あと三十連……」
手の届くところまで、確実に来ている。
6,400石。今すぐ十連ボタンを押せば、四十連も回すことができる。星4キャラの確定枠を四回も引けるのだ。誘惑は、これまでよりも遥かに強くなっている。
だが、直哉の心は揺らがなかった。
(ここまで来たら、逆に絶対回せないだろ)
彼は今、完全に『天井を見据えた貯蓄戦略』のフェーズに入っている。
直哉は限定バナーの華やかなイラストを一度だけ見つめ、静かにタブを閉じた。
直哉は、今日自分が更新したメモのテキストを見直した。
『警備:0』
『救助:3,200』
その差が、あまりにも極端すぎる。
「昨日はゼロで、今日はいきなり三千二百か……」
直哉は声を立てて笑った。
「波がありすぎだろ、このゲーム」
でも。
視界の右上にある『6,400』という数字を見れば、自然と笑みがこぼれてしまう。
「まあ……倍になったのは嬉しいけど」
少し間を置いて、直哉は天井を仰ぎ見た。
「いや、めちゃくちゃ嬉しいけどさ!」
三十四歳の男は、自室で一人、少年のようにテンションを上げていた。
そして最後に、もう一度だけ残り時間を計算する。
(あと、三十連分)
限定バナーの期限は、残り八日あまり。
「……いけるか?」
直哉は静かに闘志を燃やし、明日の求人リストを開くためにスマートフォンの画面をタップした。
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