俺の異能が中華ゲーだった ~34歳無職、ガチャで引いたキャラに変身して働きます~ 作:パラレル・ゲーマー
地下駐車場。
ノア・ヴァレリウスの右手は、中空を掴んだまま完全に静止していた。
ほんの一瞬前まで、彼の手の中には標的である紅城院玲蘭の細い首が確かにあった。
手応えも、指先に伝わる体温もあった。
だが、今は空っぽだ。
ノアはキャンディの棒をくわえたまま、ゆっくりと視線を動かした。
数メートル先。
そこにはもう、ボロボロになった三十四歳の男の姿はなかった。
代わりに立っていたのは、クラシカルなメイド服を思わせる装いに身を包んだ、見知らぬ美しい女性だ。
そして。
その女性の腕の中には、さっきまで自分が首を掴んでいたはずの玲蘭が、しっかりと抱きかかえられていた。
ノアは、もう一度自分の右手を見た。
そして、玲蘭を見た。
最後に、エレノアを見た。
「…………は?」
静まり返った地下駐車場に、少年の間抜けな声だけが落ちた。
少しの沈黙。
ノアは、自分の右手のひらを何度も開閉して確認した。
間違いなく、掴んでいた。
だが、今はもういない。
そして、足元の床にも、数メートル先のエレノアの足元にも、移動した痕跡など何一つ残っていなかった。
風が起きたわけでもない。
雷光が走ったわけでもない。
何かが高速で駆け抜けた音も、足音すら、一切しなかった。
ノアの顔から、完全に笑みが消え去っていた。
「……あんた」
ノアの声が、一段階低くなった。これまでのふざけたような軽い調子とは、明らかに温度が違う。
「……あんた、何をした?」
エレノアは答えない。
ただ静かに、気絶しそうになっている玲蘭を両腕に抱いたまま、彫像のように立っている。
「何をした……?」
返事はない。
玲蘭の白い首元には、さっきノアの指が食い込んでいた赤い痕がくっきりと残っていた。
ノアの眉が、不快そうにピクリと寄った。
「おい」
エレノアは無言だ。
「聞いてんだけど」
それでも、彼女は答えない。
ノアの顔に、明確な苛立ちの色が浮かんだ。
ついに、彼は声を荒らげた。
「おい、おっさん!! 何か言えよ……!」
その怒声に反応するように。
ここで初めて、エレノアが静かに口を開いた。
「……失礼いたしました」
エレノアはノアへと視線を向けた。
その表情はあくまで穏やかで、声のトーンも冷たくなるほどに丁寧だった。
ノアが眉をひそめる。
「は?」
エレノアは、淡々と告げた。
「お嬢様を傷つけた輩と、話をする趣味はございませんので」
腕の中にいた玲蘭が、その言葉にハッとして息を呑んだ。
「お嬢様……?」
だが、エレノアはそれ以上説明しなかった。
ノアの顔が、怒りで微かに引きつった。
ガリッ
ノアの口の中で、キャンディが噛み砕かれる不快な音が響いた。
これまで。
プロの警護班を数十秒で全滅させても、余裕だった。
セナの最大火力の必殺技を全て紙一重で避けても、余裕だった。
伊織の精密射撃で頬に傷を負わされても、余裕だった。
直哉の変身が解けておっさんの姿に戻った時も、余裕だった。
だが今。
ノアの顔には、隠しきれない明確な『苛立ち』が浮かんでいた。
「……ムカつくな」
青白い雷が、ノアの全身をバチバチと這い回るように走り始めた。
さっきまでセナや伊織と戦っていた時よりも、明らかに強力で濃密な放電現象だ。
ノアの足元のコンクリートの埃が静電気で弾け飛び、周囲の駐車車両の金属ボディへと細い雷がいくつも走り抜ける。
ノアが、低い声で吐き捨てた。
「だったら――」
彼が床を爆発的に蹴る。
「ぶっ飛ばしてから聞く!!」
青白い雷光。
一瞬の出来事だった。
ノアの姿がブレたかと思うと、次の瞬間にはエレノアの目前へと肉薄していた。
玲蘭を抱いているエレノアの顔面だけを正確に打ち抜く、必殺の右ストレートの軌道。
雷を纏った拳が、エレノアの顔に迫る。
そして。
シュッ!
完全に、空を切った。
「――っ!?」
ノアの拳が通り抜けたその空間には。
もう、誰もいなかった。
ノアは勢いを殺し、素早く背後へと振り向いた。
エレノアも。玲蘭も。
そこにはいない。
地下駐車場の、かなり離れた位置。
コンクリートの太い柱を何本も挟んだ先の、安全な空間。
そこに。
エレノアが、玲蘭を抱きかかえたまま、何事もなかったかのように立っていた。
ノアの目には、エレノアが移動した過程が一切映っていなかった。
走った姿も、空間から消える瞬間も、何一つ捉えていない。
ノアが攻撃した。
次に見た時には、そこにいなかった。
ただ、それだけだ。
ノアは拳を下げたまま、目を見開いてその光景を見つめていた。
「…………」
数秒の沈黙の後。
ノアが信じられないというように呟いた。
「瞬間移動……?」
エレノアは答えない。
「空間転移か?」
その問いに対し、エレノアはほんの僅かに、余裕のある微笑みを浮かべた。
「さあ?」
そして、かつてノア自身が直哉へ向かって放った言葉を、そのままそっくり返してやった。
「種明かしは、いたしません」
エレノアは、腕の中の玲蘭を、すぐ近くの柱の陰の安全な位置へとそっと下ろした。
玲蘭はまだ、自分たちの身に何が起きているのか全く理解できていない様子で、目の前の美しいメイド服の女性を見上げた。
「ナオさん……なのですよね?」
少しの間。
「はい」
エレノアは、ただ短く肯定した。
「そのお姿は……」
玲蘭が問いかけようとしたが、エレノアはノアから視線を外さないまま、静かに言葉を遮った。
「お話は、後ほど」
そして、玲蘭に向かって深く一礼した。
「こちらで少々お待ちくださいませ、お嬢様」
玲蘭は一瞬だけ戸惑ったが、小さく頷いた。
「……分かりました」
エレノアが、再びノアへと正面から向き直る。
ノアはもう、笑っていなかった。
全身に青白い雷を纏い、明確な『敵』を排除するための臨戦態勢に入っている。
対するエレノアは。
何も構えなかった。
手に武器を持っているわけでもない。両手はほとんど体の側面に下ろしたままだ。
ノアが、低い声で威嚇した。
「……なめてんの?」
エレノアは返事もしない。
ただ、右手をほんの僅かに、胸の高さまで持ち上げた。
親指と、中指を合わせる。
そして。
パチン
軽く、乾いた指の音が、地下駐車場に響いた。
次の瞬間だった。
ノアの表情が、怪訝なものに変わった。
「……?」
エレノアの周囲の空間。
つい一秒前まで、何もなかったはずの無機質な空間に。
銀色の刃を持ったナイフが。
一本。
二本。
十本。
さらに。
数十本ものナイフが、いつの間にか、エレノアを取り囲むように中空へと浮かんでいたのだ。
光の粒子から出現したわけではない。
どこからか飛んできたわけでもない。
指を鳴らした。
その瞬間に、ただそこに『あった』。
それだけだ。
ノアの口から、間抜けな声が漏れた。
「……は?」
またしても、ノアの理解の範疇を超えた現象だった。
エレノアが、右手を軽く前へと振った。
宙に浮かんでいた数十本のナイフが、一斉にノアへと向かって発射される。
ノアは即座に反応した。
全身の《雷神》を活性化させ、青白い雷光となって高速で移動する。
一発目のナイフ。首の横を紙一重で避ける。
二発目。身体を捻って躱す。
三発目。雷を纏った手で弾き飛ばす。
四発目。空中で回し蹴りをして軌道を逸らす。
さすがはTier2の暗殺者だ。
彼自身の圧倒的な身体能力と反応速度で、四方八方から飛んでくるナイフの雨を次々と捌いていく。
「こんなの――!」
ノアは雷光となって、ナイフの弾幕の間を高速で通り抜けた。
「当たるかよ!!」
だが。
ノアは、自分の身体の異変に気づいた。
ノアの表情が、わずかに強張った。
ノアは、さっき飛んできたナイフを『確実に』右へ動いて避けた。
ナイフの刃は、間違いなく自分の左側の空間を通り抜けていった。
そのはずだった。
次の瞬間。
ザクッ
「――っ!?」
ノアは、思わず声を漏らした。
彼の右肩に、いつの間にか、一本の銀色のナイフが深々と突き刺さっていたのだ。
いつ刺さったのか。
全く分からない。
ノアは自分の右肩に刺さったナイフを見て、驚愕に目を見開いた。
「……なんで?」
別のナイフが飛んでくる。
ノアは再び、完璧なタイミングでそれを避けた。
確実に、避けた。
なのに。
次の瞬間。
右の太腿。
ザクッ
「ぐっ!」
ノアが痛みに顔を歪め、大きく飛び退く。
また一本。
今度は、左腕。
ザクッ
「っ……!」
ノアの顔に、かつてない『混乱』が浮かんでいた。
彼は、自分の腕に刺さったナイフの柄を掴み、乱暴に引き抜いた。
赤い血がツーッと滴り落ちる。
幻覚ではない。本物の物理的な刃物だ。
「……ナイフ」
そして、数メートル先のエレノアの周囲には、まだ大量のナイフが宙に浮いたままだ。
ノアは、絞り出すように口にした。
「物質創造……?」
一瞬、そう推測した。
だが、彼はすぐに首を強く横に振った。
「いや」
さっきまで自分が首を掴んでいた玲蘭が、一瞬にして手の中から消えた。
ノアが攻撃を仕掛けた時も、エレノアは一瞬で遥か遠くの柱まで移動していた。
そして今、この無数のナイフ。
「違う……」
ノアの苛立ちが、焦りへと変わっていく。
「瞬間移動なら、この避けたはずのナイフが刺さる現象は、なんなんだよ……!」
「だったら!」
ノアは、推測を打ち切るようにエレノアへと向き直った。
全身の雷が爆発的に膨れ上がり、彼はエレノアへと向かって一直線に高速接近した。
今度はフェイントを入れる。
正面から入ると見せかけて。
途中で凄まじい速度で方向を転換し、横の柱を蹴って宙へ跳ぶ。
上空から。エレノアの完全な死角となる頭上からの強襲。
雷を纏った拳が、エレノアの脳天へと振り下ろされる。
完全に捉えたかに見えた。
そのはずだった。
次の瞬間。
エレノアが、そこにいなかった。
ノアの拳が、空しくコンクリートの床を叩き割り、クレーターを作る。
「――!?」
ノアが周囲を見回す。
今度は横だ。
十メートル以上離れた場所。
エレノアが、まるで最初からそこに立っていたかのような涼しい顔で、ノアを見つめていた。
どうやってそこまで移動したのか。
ノアには、その過程をまったく捉えられなかった。
「なんなんだよ、あんた……!」
ノアが、完全に苛立ちを爆発させて叫んだ。
「瞬間移動じゃないのか!?」
エレノアは答えない。
「物質創造なのか!?」
答えない。
「じゃあなんなんだよ!」
ノアが、子供のように怒鳴り声を上げた。
「なんなんだよ、あんたのその能力……!」
エレノアは、少しだけ小首を傾げた。
「先ほど、申し上げましたでしょう?」
そして。
「種明かしは、いたしません」
エレノアが、再び右手を上げた。
パチン
二度目の、指を鳴らす音。
また。
ナイフが出現する。
ただし今度は。
エレノアの周囲だけではなかった。
ノアの右。左。
背後。頭上。
足元。車の屋根の上。柱の横。
いつの間にか。
文字通り、ノアの周囲のあらゆる空間を埋め尽くすように、数百本ものナイフが完全に包囲する形で配置されていたのだ。
「……っ!」
ノアが、戦闘が始まってから初めて、明確な恐怖で一歩後ずさった。
「いつ……!」
もちろん、エレノアがその問いに答えることはない。
エレノアが、指先を指揮者のように軽く動かした。
周囲の空間に固定されていたナイフが、一斉にノアへ向かって殺到する。
前、横、背後、上。あらゆる方向からの何十本もの軌道。
ノアは雷光となって、狂ったように回避行動を取り続けた。
一発。二発。十発。
彼はまだ避ける。
しかし。
正面から飛んできたあるナイフを避けるため、ノアが右へステップを踏んだ。
次の瞬間。
ザクッ
彼がステップを踏んで移動した『その先』の空間に、すでに別のナイフが配置されていた。
避けたはずなのに、自分からナイフの刃へ当たりにいったような形になる。
「は!?」
ノアは慌てて動きを止め、後ろへ飛ぼうとする。
そこにも。
ザクッ
「っ!」
上に飛ぶ。
頭上にも。
ザクッ
ノアが回避行動をとるたびに、その『避けた先の空間』に、あらかじめナイフが配置されているのだ。
いつ動かしたのか。
いつ配置したのか。
ノアの反射神経をしても、まったく感知することができない。
「ふざけるな……!」
ノアも本気だった。
彼は《雷神》の能力を全開にし、全身から爆発的な電撃を周囲へ放った。
青白いプラズマが駐車場全体へ広がり、飛んでくるナイフの軌道をまとめて強引に弾き飛ばす。
何本ものナイフが弾かれ、包囲網に一瞬だけ隙間ができた。
ノアは、その隙間へと飛び込んだ。
突破。
できた。
一瞬、包囲網を突破したかに見えた。
次の瞬間。
突破したはずの彼の目の前に。
再び、数十本のナイフの壁が立ちはだかっていた。
「馬鹿な……!」
ノアが急停止する。
だが、遅い。
ザクッ
右肩。
ザクッ
左の脇腹。
ザクッ
右脚。
次々と、銀色の刃がノアの身体へと突き刺さっていく。
それでも、ノアは粘った。
ここで一方的に終わるほど、Tier2の暗殺者はヤワではない。
身体能力強化による圧倒的なタフネスと、《雷神》による強制的な筋肉の駆動。
数え切れないほどの修羅場を潜り抜けてきた、暗殺者としての技術。
ノアは、身体に刺さったナイフを痛みに耐えて引き抜きながら、必死に回避と防御を続けた。
電撃で刃を弾き、血を流しながらも、なんとかしてエレノアの懐へ近づこうとする。
だが。
ただの一度も、エレノアの服の裾にすら触れることができない。
それどころか。
ようやく近づいたと思った次の瞬間には、エレノアはすでに彼から遥か遠くの位置へと移動している。
何度やっても。
結果は同じだった。
パチン
三度目の、指を鳴らす音。
ノアは、肩で激しく息をしていた。
全身は無数のナイフによる切り傷と刺し傷で血に染まっている。
それでも、彼はまだ両足で立っていた。
「クソ……!」
エレノアは、静かに右手を上げた。
ノアの周囲。
今度は、逃げ道すら全く見えないほどの、圧倒的な数のナイフの群れだった。
前、後、左右、上下。
視界の全てが、銀色の刃で埋め尽くされている。
ノアの顔が、絶望に引きつった。
「……嘘だろ」
エレノアは、何も言わずに手を振り下ろした。
ナイフが一斉に動く。
ノアも同時に動いた。
雷を纏い、限界を超えた高速移動でナイフの壁を突破しようとする。
一本を避ける。
二本を弾く。
三本を腕で折る。
四本目が、肩に刺さる。
五本目が、腕を貫く。
六本目が、脚を縫い留める。
七本目。
八本目。
次々と、ノアの身体に刃が突き刺さっていく。
ただし、その全ての刃は、心臓や脳といった『即死の急所』だけは完全に外れていた。
エレノアは彼を殺してはいない。ただ、完全に動けなくしているだけだ。
最終的に。
ノアの身体は限界を迎え、重い音を立ててコンクリートの床へ膝をついた。
全身。腕。肩。脚。衣服。
数え切れないほどの無数のナイフが突き刺さった、文字通りの『ハリネズミ』の状態だった。
ノアが、震える足に力を入れて再び立ち上がろうとする。
だが、脚の筋肉が完全に破壊されており、言うことを聞かない。
彼は無理やり《雷神》の能力を発動させようと、右手に電撃を集中させた。
その瞬間。
エレノアが、少し離れた場所から指を僅かに動かした。
シュッ!
一本のナイフが、ノアの頬の数ミリ横を恐ろしい速度で通過し、彼の背後のコンクリートの柱へ深々と突き刺さった。
明確な、警告だった。
ノアの動きが、完全に止まった。
「…………」
しばらくの沈黙。
やがて、ノアの口から、血の混じった小さな声が漏れた。
「……クソ」
彼は、悔しさに歯を強く食いしばった。
「勝てない……」
セナと戦った時にも。
伊織に傷をつけられた時にも。
警護員たちを全滅させた時にも。
彼が一度も口にしなかった、完全な敗北の言葉だった。
ノアは、血走った目でエレノアを力無く睨み上げた。
「なんなんだよ……あんた……」
エレノアは。
その問いに対して、一切の返答をしなかった。
全身を貫いたナイフはそのまま残り、少なくともノアが自力で追ってこられる状態ではなかった。
彼女は、ノアから完全に視線を切り、そのまま静かに踵を返した。
もはや、戦闘不能になったノアへの興味そのものが、彼女には一ミリも残っていなかった。
戦闘不能になったノアを一瞥もしないその態度が、圧倒的な格の差を何より雄弁に示していた。
エレノアは、コツ、コツ、と静かな足音を立てて、玲蘭の隠れている柱の方へと歩いていった。
玲蘭は、目の前で繰り広げられた理解不能な戦闘の光景に、まだ呆然としていた。
エレノアが目の前まで来ると、玲蘭の視線の高さに合わせて少しだけ腰を落とした。
「お嬢様」
玲蘭はハッとして我に返った。
「……はい」
「大丈夫ですか?」
玲蘭は、震える手で自分の首元へそっと触れた。
ノアに掴まれていた時の痛みが、まだ少しだけ残っている。
「はい……」
そして、玲蘭は目の前の美しいメイド服の女性の顔を、じっと見つめた。
「本当に、ナオさん……なのですよね?」
エレノアは、即答した。
「はい」
玲蘭は、不思議そうに首を傾げた。
「そのお姿は……?」
エレノアの口から、淡々とした声が紡がれる。
「お嬢様をお守りするために、ガチャで引き当てました」
玲蘭が、完全に固まった。
「…………」
十秒ほどの、長い沈黙。
「……ガチャ?」
地下駐車場のシリアスな空気の中で、お嬢様の口から出たその単語の響きが、少しだけシュールで笑えた。
だが、直哉――エレノアは、それ以上そのシステムについて詳しく説明するつもりはなかった。
「詳しいお話は、また後ほど」
それよりも、彼女が気にかけたのは玲蘭の身体のことだった。
「本当にお怪我はございませんか?」
玲蘭は、首を横に振った。
「怪我は……大丈夫です」
首には赤い痕が残っているし、少し咳き込んではいるが、大きな外傷はない。
そこで。
玲蘭は少しの間、俯いて黙り込んだ。
彼女の、膝の上で握りしめられている両手が、小さく震えているのが分かった。
「……でも」
声が、どんどん小さくなっていく。
「怖かったです」
エレノアは何も言わず、ただ静かに彼女の言葉を待った。
玲蘭が、ポツリと続ける。
「本当に……死ぬのだと、思いました」
玲蘭が、ゆっくりと顔を上げてエレノアを見た。
「ナオさん」
「はい」
玲蘭の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「……抱きしめて、下さい」
一瞬の間。
そして。
エレノアは、少しだけ口元に優しい笑みを浮かべた。
「はい」
エレノアは、震える玲蘭の身体を、その細い両腕で優しく、しっかりと抱きしめた。
「お嬢様」
玲蘭も、エレノアのメイド服の胸元に顔を埋め、その服の生地を両手でギュッと掴んで身体を預けた。
もう、誰も彼女を脅かす者はいない。
薄暗い地下駐車場で、しばらくの間、二人は無言のまま抱き合っていた。
やがて。
カラン……
少し離れた場所から、金属の何かが床へ落ちる音が響いた。
エレノアが、スッと顔を上げて音のした方向へ振り向く。
そこは、無数のナイフが刺さったノアが、血まみれで倒れ伏していたはずの場所だ。
「……」
誰もいない。
玲蘭も顔を上げ、不思議そうにその空間を見た。
「……あの少年は?」
床には、大量の血だまりと、エレノアが放った何本かのナイフが転がっている。
だが、ノア本人の姿だけが、まるで最初から存在しなかったかのように完全に消え去っていた。
エレノアは、周囲の空間を静かに見回した。
「恐らく」
「先ほどこの駐車場の空間を閉鎖していた何者かが、あの少年を回収したのでしょう」
直哉の推測だ。
出口を抜けてもここへ戻されるというあの奇妙なループ空間は、ノア自身の《雷神》の能力ではない可能性が高いと直哉は見ていた。別の協力者が、裏で空間を操作していたのだ。
「すでに、撤退したものと思われます」
玲蘭が不安そうに聞いた。
「追うのですか?」
「いいえ」
エレノアは即答した。
「皆様の安否確認が先です。追跡は、八咫烏を通じて然るべき機関に任せます」
エレノアは、地下駐車場に倒れている警護員たちの状態を素早く確認して回った。
全員が意識を失い、重傷を負っている。
だが。
呼吸はある。脈も、弱いが確かに打っている。
「……生存されています」
エレノアがそう報告すると、玲蘭は明らかに全身から力を抜いて安堵した。
「……よかった」
ノアが戦いの前に言っていた、「最初から、あんた以外は殺す気ないし」という言葉。あれは強がりでも嘘でもなく、事実だったのだ。邪魔だったから無力化しただけで、初めから命まで奪うつもりはなかったのだろう。
ただし、怪我が重いことには変わりない。すぐに救急隊へ引き渡す必要があった。
そして、玲蘭に向き直った。
「私たちも、ここから撤収いたしましょう」
玲蘭は、力強く頷いた。
「はい!」
二人が非常階段の扉を開け、スロープを登っていくと。
今度は空間の揺らぎもなく、普通に地上の外の光とアスファルトの道へと繋がっていた。
同時に、直哉のスマートフォンに通信のアンテナマークが復活した。
駐車場の警備設備も、一部が復旧したらしい音が聞こえてくる。
ノア側の撤収と同時に、空間の閉鎖も解除されたようだ。
直哉はすぐにスマホで、八咫烏の霧島、紅城院家の本部、そして救急へと緊急の連絡を入れた。
地上の安全区域へ到着すると、数分もしないうちに八咫烏の救援部隊と救急車がサイレンを鳴らして到着した。
周囲が一気に慌ただしくなり、安全確保のブルーシートが張られていく。
ここで、エレノアが玲蘭の方へ向き直った。
「お嬢様」
「はい?」
「一つ、お願いがございます」
玲蘭は不思議そうに小首を傾げた。
「なんでしょう?」
エレノアは、極めて平坦な声で告げた。
「この姿の変身を解除しましたら、恐らく私は、その場で倒れます」
玲蘭の顔が、ハッと強張った。
「……え?」
「先ほど、私が元の身体で受けた重傷が、この変身で魔法のように消えてなくなったわけではございませんので」
直哉はそれ以上、詳しいシステム仕様の深掘りはしなかった。
ただ、生身の身体でノアに投げ飛ばされ、コンクリートへ叩きつけられた傷は、一秒たりとも治っていない。今はエレノアへ変身したことで感じていないだけだ。
玲蘭の顔色が一瞬で青ざめる。
だが。
玲蘭は、一歩だけエレノアの方へ近づいた。
「……でしたら、大丈夫です」
エレノアは少しだけ目を丸くした。
「……?」
玲蘭は、直哉という中身の男性に向けてではなく、今目の前にいるナオ――エレノアへ向かって、真っ直ぐな瞳で力強く言った。
「今度は、私が守ります」
その言葉には、強い決意が込められていた。
この三日間、玲蘭はずっとナオに守られてきた。
そして今度は、玲蘭が倒れようとしているナオの前に立っていた。
「ですから」
「安心して、戻ってください」
周囲には、救急要員たちがストレッチャーを用意して待機している。
八咫烏の警護班も駆けつけ、安全は完全に確保されている。
エレノアは、その玲蘭の顔を見て、僅かに口元を緩めて頷いた。
「では……お願いいたします、お嬢様」
直哉は、意識の奥で変身の解除コマンドを選択した。
青白い光が弾ける。
エレノアの優雅な姿が空間からフッと消え去った。
そこに現れたのは、ボロボロになった三十四歳の森川直哉だった。
そして。
元の肉体に戻った瞬間。
「……っ」
直哉の身体から、完全に力が抜け落ちた。
玲蘭が叫んだ。
「ナオさん!」
直哉が崩れ落ちる。玲蘭が慌ててその身体を支えようと抱きとめた。
だが、当然のことながら、小柄な十七歳の少女一人の力で、気絶した成人男性の体重を支えきれるはずがない。
すぐに周囲の警護員と救急要員が駆け寄り、直哉の身体をストレッチャーへと乗せた。
◆
病院の一室。
直哉は、ゆっくりと目を覚ました。
白い天井。
鼻を突く消毒液の匂い。
腕に繋がれた点滴の管。
そして、全身を駆け巡る鈍い痛み。
直哉は、自分が生きていることを確認し、ゆっくりと首を横へ動かした。
ベッドの脇。
そこには、パイプ椅子に座ったままの玲蘭がいた。
彼女は、ボロボロになった三十四歳の男の顔を見ても。
「……ナオさん」
迷うことなく、そう呼んだ。
直哉は、少しだけ目を見開いた。
玲蘭は、安堵の涙を浮かべながら、優しく微笑んだ。
「おはようございます」
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!