俺の異能が中華ゲーだった ~34歳無職、ガチャで引いたキャラに変身して働きます~   作:パラレル・ゲーマー

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第16話 治療費一千万円って高すぎませんか?

 白い天井だった。

 

 鼻腔を突く微かな薬品の匂いと、規則正しく空気を送るような機械の駆動音。

 直哉は、ゆっくりと重い目蓋を開けた。

 

「…………」

 

 視界が少しぼやけている。

 身体を動かそうとした瞬間、全身の筋肉と骨格から、鈍器で数十分殴り続けられたような鈍く強烈な痛みが一斉に駆け巡った。

 

「いっ……!」

 

 思わず呻き声を漏らす。

 

 その声に反応して、ベッドのすぐ横から慌てたような声が飛んできた。

 

「ナオさん! 動かないでください!」

 

 直哉が首だけを僅かに動かしてそちらを見ると、パイプ椅子から立ち上がった玲蘭が、心配そうにこちらを覗き込んでいるところだった。

 

 いつもの完璧なお嬢様の落ち着きはどこへやら、彼女の目元には少し疲労の色が浮かび、声には隠しきれない動揺が混じっていた。

 

 直哉は、ひび割れた声で応えた。

 

「……おはよう」

 

「おはようございます、ではありません。まだ無理をなさらないでください」

 

 玲蘭がナースコールのようなボタンを急いで押した。

 

 直哉は自分が運び込まれたのが、八咫烏が管轄する能力者案件専門の秘匿医療施設であることを、入室してきた白衣の医師からの簡単な説明で理解した。

 

 表向きは一般の総合病院の一部だが、裏側では超常的なトラブルや負傷の処置を専門に行うための設備が整えられているらしい。

 

 医師がタブレットのカルテを見ながら淡々と告げる。

 

「ナオさんの現在のご状態ですが、変身を解除された後のご本人の生身の肉体が受けた物理的な実傷が問題となっています」

 

 直哉は、コンクリートの柱に激突した時の衝撃を思い出した。

 

「全身打撲、肋骨周辺の亀裂骨折、広範な筋肉の損傷、および軽度の内臓へのダメージが確認されています。幸い、頭部への致命傷はなく命に別状はありません。このまま当院で安静にし、現代の一般的な医療技術と自然治癒を合わせれば、数ヶ月の入院とリハビリで社会復帰は可能でしょう」

 

 直哉は天井を向いたまま、小さく息を吐いた。

 

(まあ、あのTier2の化け物にぶん投げられて、死ななかっただけでも御の字か……)

 

 東雲セナや鳴海伊織の姿で受けていたHPダメージは、あくまで因果の保護によって変換されたものだ。だが、解除後に受けたあの実傷だけは、当然ながら三十四歳・無職の生身の肉体に容赦なく刻まれていた。

 

「さて、状況の説明はここまでです」

 

 医師がカルテを閉じると、入れ替わるように一人の男性が病室へと入ってきた。

 白衣は着ておらず、少しラフな私服姿。首から八咫烏のIDカードだけを提げている。

 

 直哉が「え?」と怪訝な顔をしていると、その男性はベッドの横に立ち、気だるげに患部の状態を視診し始めた。

 

 医師が補足する。

 

「彼は八咫烏と提携している、登録治癒能力者の一人です。今回のナオさんの外傷であれば、彼の能力で十分に対応が可能と判断しました」

 

 男性は直哉の顔を見て、軽く手を上げた。

 

「じゃ、さっさと治しますね」

 

「え、もう?」

 

 直哉が驚く間もなく、男性が直哉の胸のあたりに手をかざした。

 派手な光や魔法陣のようなエフェクトはない。ただ、手のひらから微弱な温かい波紋のようなものが広がり、直哉の身体の奥深くへと浸透していく感覚があった。

 

 その瞬間。

 全身を支配していたあの強烈な痛みが、まるで嘘のようにスッと引いていく。

 腫れが引き、内出血の痣が消え、折れていた骨が内側から急速に結合していく。

 

 数分後。

 治癒能力者が手を離し、「終わりました」と短く告げた。

 

 医師がすぐさま医療機器で再検査を行う。

 

「……はい、完全治癒ですね。内臓の損傷も骨の結合も全て正常化しています」

 

 直哉は、恐る恐る上体を起こしてみた。

 

 痛くない。

 腕を回してみる。深呼吸をしても、肋骨に全く響かない。

 ベッドから降りて床に立ってみる。普通に、いや、むしろ怪我をする前よりも調子が良いかもしれないくらいに歩ける。

 

「……すげえ」

 

 これまで数日間、能力者社会の様々な異常事象を見てきた直哉だったが、自分の身体が『治癒能力』というチートじみた力で一瞬にして回復する体験はこれが初めてだった。

 

 治癒能力者は、あくびを噛み殺しながら手元の専用端末を操作した。

 

「はい、お疲れ様でした。じゃあ、今回の治療費として一千万円ですね」

 

 直哉は、自分の身体の調子を確かめていた動きをピタリと止めた。

 

「…………」

 

 数秒間の、絶対的な沈黙。

 

「はい?」

 

 治癒能力者は、少しも悪びれる様子なく繰り返した。

 

「一千万円」

 

 直哉の口から、病室に響き渡るほどの絶叫が迸った。

 

「ええええええええっ!?」

 

「い、一千万!? 一千万円かかるの!?」

 

 完全回復の感動も、暗殺者から生き延びた余韻も、その一言で宇宙の彼方へ完全に吹っ飛んだ。

 

 直哉の三十四歳の元会社員としての強烈な庶民感覚が、ここで一気に警報を鳴らす。

 

「いやいやいや、ちょっと待ってくださいよ! さっきの先生、俺の怪我は『命に関わるものじゃないから、数ヶ月入院すればそのうち自然に治る』って言ってましたよね!?」

 

「まあ、自然治癒に任せればそうですね」

 

「だったら――!」

 

 直哉が激しく抗議しようとしたその時。

 ベッドの脇に立っていた玲蘭が、極めて平然とした顔で横から口を挟んだ。

 

「その治療費でしたら、すでに八咫烏の口座へ振り込みの手続きを済ませておきました」

 

 直哉は、完全に動きを止めた。

 

「…………え?」

 

 玲蘭は、スマートフォンの決済完了画面を見せながら涼しい顔をしている。

 

 直哉は慌てて玲蘭の肩を掴みそうになった手を空中で止めた。

 

「ちょ、待って待って待って!」

 

「はい?」

 

「一千万円だよ!? 君、一千万円って言ったんだよこの人!」

 

「はい。存じております」

 

 玲蘭の顔には、その金額の桁に対する驚きや戸惑いが微塵もなかった。

 

 直哉は頭を抱えた。

 

「いや、でもさ! 放っておけば、そのうちタダで自然に治った怪我なんだよ!?」

 

 玲蘭の表情が、その言葉を聞いて少しだけ固くなった。

 

「いいえ」

 

 彼女は、明確な意思を込めて言い切った。

 

「ナオさんのそのお怪我を、数ヶ月も自然回復に任せるような真似をする気はありません」

 

「……」

 

「私を守るために、あなたが盾となって負ってくださったお怪我なのです。それを、紅城院家の責任において、可能な限り早く、完全に治していただくのは当然のことです」

 

 さらに彼女は、有無を言わさぬトーンで付け加えた。

 

「そして、その費用について、ナオさんがご自身の財布を気になさる必要は一ミリもありません」

 

 直哉は、もうそれ以上何を言っても無駄だと悟った。

 本物のお嬢様の金銭感覚と恩義の通し方の前に、三十四歳無職の常識は完全に敗北したのだ。

 

「……ああ、そう。分かりました……」

 

 その後、病室に八咫烏の事務担当者が訪れ、今回の護衛契約に関する最終的な処理が行われた。

 

 三日間の護衛契約。

 最終日の今日、敵からの襲撃は確かに受けた。玲蘭も首を掴まれ、危険な状態には陥った。

 

 だが、結果として暗殺は阻止され、対象者は生存し、無事に安全圏への撤収が完了している。

 契約上は、完全なる『成功』だ。

 

 直哉のスマートフォンに、業務アプリから最終的な通知が届く。

 

『【依頼完了】』

『報酬:360,000円』

『支払処理:確定(明日付振込)』

 

 これで、直哉が能力者としての仕事を始めてから、六件目の業務完遂となった。

 

「よし、これで契約は終わりだね」

 

 直哉がホッと息をついたところで、玲蘭が真剣な顔で向き直った。

 

「ナオさん。それから、もう一つお伝えしておかなければならないことがあります」

 

 直哉の背筋に、極めて嫌な予感が走った。

 

「……まだ何かあるの?」

 

「はい。今回の追加の成功報酬につきましても、ナオさんの口座へ振り込みの手続きを進めておきますね」

 

 直哉は目を点にした。

 

「追加?」

 

「はい」

 

 玲蘭は、まるで「明日の天気は晴れですね」とでも言うような、至極普通の顔で続けた。

 

「東京へ戻ってから、父や祖父とも相談したのですが。今回の件について、私たち紅城院家としてナオさんへ正式な感謝をお伝えするために、十億円ほど用意しておりました」

 

 直哉の脳の処理機能が、完全にフリーズした。

 

「…………」

 

「じゅう……?」

 

「十億?」

 

 玲蘭はコクリと頷いた。

 

「はい」

 

 直哉は両手で顔を覆った。

 

「待って。待ってくれ。情報の処理が追いつかない」

 

 だが、玲蘭はそこで少しだけ残念そうな、申し訳なさそうな顔へと表情を曇らせた。

 

「ただ……八咫烏を通したこの依頼システムでは、あまりにも不自然な高額報酬の支払いは、資金洗浄や不正取引の防止システムに引っかかってしまうそうでして」

 

 能力者向けの求人システムを利用して、巨額の贈与や、裏取引、事実上の能力者本人の囲い込みや売買が行われることを防ぐため。契約後にクライアントが好き勝手な青天井の金額を上乗せすることは、厳しく制限されているのだという。

 

「そのため、今回システム上で『追加の成功報酬』として処理できた上限額は、一千万円まででした」

 

 直哉は、再び沈黙した。

 

「…………」

 

 玲蘭が、本当に申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「申し訳ありません。命を救っていただいた十分なお礼とは、とても言えない金額で――」

 

 直哉は、両手を激しく前に振って彼女の言葉を遮った。

 

「いやいやいやいや!!」

 

「十分だよ!! 十二分すぎるくらい十分だから!!」

 

 通常の契約報酬、三十六万円。

 そこに上乗せされた追加の成功報酬、一千万円。

 総額、一千三十六万円。

 

 しかも、あの目玉の飛び出るような一千万円の治療費は、玲蘭側が別途で全て負担してくれているのだ。

 

 直哉からすれば、完全に人生観が根底から揺さぶられるような異常な金額だった。

 

「たった三日間働いただけで、俺の通帳の残高が一千万超えちゃうからね!? これ以上もらったら俺の金銭感覚が完全にぶっ壊れて、二度と社会復帰できなくなるから!」

 

 直哉の必死のツッコミに、玲蘭は小さく笑った。

 

 だが、彼女の瞳の奥は真剣だった。

 

「私にとっては、自分の命を助けていただいたお礼ですから。決して高すぎる額だとは思っておりません」

 

 そう静かに言われてしまうと、直哉もそれ以上文句をつけることはできなかった。

 

 諸々の事情聴取や現場の確認については、「今回はお身体に負担がかかった直後ですので、詳細はまた後日改めて」ということで、直哉は今日のところはそのまま帰宅を許可された。

 

 霧島からも、ノア・ヴァレリウスや地下駐車場で発生した一連の事象については、後日改めて詳しく話を聞きたいという連絡が入っている。

 

 身体は治癒能力によって完璧に治っている。

 

「では、ナオさん。お家までお車でお送りいたしますね」

 

 玲蘭が当然のように提案したが、直哉は即座に両手でバツ印を作った。

 

「いやいやいや! それは絶対にお断り!」

 

 玲蘭が不思議そうに小首を傾げる。

 

「?」

 

 直哉は、病院の外で待機しているであろう紅城院側の送迎車を思い浮かべた。

 どう見ても一般市民が乗るようなものではない、黒塗りの超高級車に、運転手付きだ。

 

「その車で、うちの普通の住宅街の実家の前まで乗り付けるのはちょっと勘弁してほしい!」

 

「なぜです?」

 

「三十四歳でずっと無職やってた息子が、急にそんなどえらい高級車から降りてきたら、親に何を疑われるか分かったもんじゃないから!」

 

 玲蘭は少し考え込み、「……そうなのですか?」と呟いた。

 

「そうなんです! ご近所の目とか色々あるんですよ!」

 

 玲蘭は少しだけしょんぼりとした顔になったが、すぐに提案を変えた。

 

「そうですか……では、ご自宅から少し離れたところまででも」

 

「……まあ、それくらいなら」

 

 そこまで言われて、完全に拒否し続けるのも大人気ない気がして、直哉は折れた。

 

 病院の地下駐車場へ向かい、車に乗り込む前。

 

 玲蘭が、不意に立ち止まって直哉を呼び止めた。

 

「森川さん」

 

 今まではずっと、業務上の名前である『ナオさん』と呼んでいた彼女が。ここで初めて、彼の本名である『森川さん』という名前を口にした。

 

 直哉は振り返った。

 

「はい?」

 

 玲蘭は、少しだけ躊躇するような素振りを見せた後、真っ直ぐに直哉の目を見た。

 

「もし、ご迷惑でなければ……また、依頼をさせていただいてもよろしいでしょうか」

 

 直哉は少し驚いた。

 

「依頼?」

 

「はい。今後も、私の護衛として」

 

 それは、今回の三日間限定だった契約を、玲蘭の側から個人的に継続・指名したいという明確な意志表示だった。

 

 だが、直哉はそこですぐに「はい」と返事をすることができなかった。

 

「えーと……」

 

 直哉は気まずそうに頭を掻いた。

 

「俺、その……さっきの変身が解けた時の姿を見てもらって分かったと思うんですけど。実は、中身はただの男でしたけど」

 

「はい。存じております」

 

「……そこは、気にしてないんですか?」

 

 これまで玲蘭は、ずっとナオのことを「女性の護衛」だと思い込んでいた。女子更衣室にも一緒に入ったし、恋愛対象が女性だという苦しい嘘にも付き合ってくれた。

 彼女のような年頃の令嬢にとって、ずっとそばにいた人間が実は男性だったというのは、かなり大きな問題のはずだ。

 

 直哉としては、そこをウヤムヤにしたまま関係を続けるわけにはいかなかった。

 

 玲蘭は、迷うことなく即答した。

 

「全く、気にしていません」

 

「そうなの?」

 

 玲蘭は少し考えてから、正直に認めた。

 

「あの状況で突然男性の姿に戻られた時は、さすがに驚きはしましたけれど」

 

 だが、彼女の瞳には、一切の嫌悪感も不信感もなかった。

 

「私を守ってくださった方が、ただ男性だったというだけです。ナオさんが私にかけてくださった言葉も、私を守るために命を懸けてくださった行動も、全て本物でしたから」

 

 玲蘭は少しだけ俯き、自嘲するように笑った。

 

「むしろ……最近は、男性という存在そのものに、少し幻滅しておりましたので」

 

 直哉は何も言わなかった。彼女が拒絶した相手が、逆恨みで暗殺依頼を出したという背景を、わざわざ言葉にして蒸し返す必要はない。

 

 玲蘭は再び顔を上げ、直哉を見た。

 

「ですが。自分の命を懸けてでも、こんな私のことを最後まで守ろうとしてくださる男性もいるのだと、知ることができました」

 

 直哉は、言葉に詰まった。

 

「本当に、感謝しています」

 

 それは決して、劇的な恋愛の告白などではない。

 ただ、彼女の中で完全に壊れかけていた『男性という存在への信頼』を、直哉がほんの少しだけ修復してあげられた。それだけのことだ。

 

 直哉は少し照れくさそうに顔を背け、咳払いをした。

 

「……じゃあ。ええと」

 

 そして、玲蘭に向かって正式に頭を下げた。

 

「今後とも、よろしくお願いします」

 

 玲蘭も、ふっと柔らかく笑い、同じように頭を下げた。

 

「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします。ナオさん」

 

 その呼び方は、偽りの女性としての名前ではなく、彼女が心から信頼する一人の護衛に対する、親愛を込めた呼び名だった。

 

 結局、直哉は黒塗りの高級車の後部座席に、玲蘭と並んで乗ることになった。

 

(結局乗るんだよな……)

 

 ただし、約束通り自宅の前までは行かず、実家の住宅街から数ブロック離れた、少し広めのコンビニの近くで降ろしてもらった。

 

「本当に、ここでおよろしいのですか?」

 

「ここでいいです! ありがとうございました!」

 

 直哉は手を振って車を見送り、紙袋を提げて実家への道を歩き出した。

 

 その紙袋の中には、沖縄の空港でバタバタと買った紅芋タルトやちんすこうといった、ごく普通の沖縄土産が入っている。

 つい数時間前まで、地下駐車場で数百本のナイフが飛び交い、暗殺者と命懸けの死闘を繰り広げていた人間の荷物とは、到底思えなかった。

 

 家には、この三日間は知人と沖縄へ旅行に出るとだけ伝えてある。

 能力者として女子高生の護衛をしていたなどと、説明できるはずもない。

 

 玄関のドアを開ける。

 

「ただいまー」

 

 リビングから、母親がエプロン姿で顔を出した。

 

「おかえり。旅行、どうだったの?」

 

 直哉は、一瞬だけ言葉に詰まった。

 ノアの不気味な笑顔。地下駐車場のループ。HPがゼロになった瞬間の絶望感。エレノアというチートメイド。そして、一千万円の治療費。

 

 その全てを頭の中で高速で処理し、直哉は笑って答えた。

 

「……うん。有意義だったよ」

 

 嘘ではない。人生で一番、有意義な三日間だった。

 

「これ、沖縄のお土産」

 

「あら、ありがとうね」

 

 母親は紙袋を受け取り、中身を見て嬉しそうに微笑んだ。

 一気に、平和で退屈な日常の空気が直哉を包み込む。

 

 直哉は靴を脱ぎながら、ふと思い出したように言った。

 

「ああ、そうだ。母さん」

 

「何?」

 

「俺、最近さ。まだ不定期の単発バイトみたいな感じだけど、ちょっとずつ仕事を始めててさ」

 

 それは、この数日間の不在を誤魔化すための口実でもあり、少しずつ社会復帰へ向かっているという彼なりの報告でもあった。

 

「また少し収入があったから、来月分から家にお金入れるよ」

 

 具体的な一千万という金額は伏せておいた。言えば確実に親が卒倒する。

 

 母親は少し驚いた顔をして、すぐに首を振った。

 

「いいわよ、そんなの。あんた自分の生活立て直す方が先でしょ」

 

「いや、でもさ」

 

「……って、親としてはカッコつけて言いたいところだけど」

 

 母親は少しだけ意地悪く笑った。

 

「じゃあ、ありがたく貰っておくわ。あんたが将来結婚でもする時のために、こっちで貯金しといてあげるから」

 

 直哉は呆れた。

 

「それ、俺が家に金入れてる意味ある?」

 

 軽い家族の会話。

 だが母親にとっては、一年近く無職で引きこもりがちだった息子が、自分から「仕事をして金を入れる」と言ってくれたこと自体が、何よりの土産だった。

 

 湿っぽい空気にはせず、直哉はそのまま自室へと向かった。

 

 久しぶりの自室。

 

 ベッド。PCのモニター。ゲーム機。本棚。

 いつもと何一つ変わらない、自分の城の風景。

 

 直哉は荷物を床に置き、ドアを閉めた。

 

「…………」

 

 深く息を吐き出す。

 ようやく、本当に帰ってきたのだと実感する。

 

 普通なら、ここで泥のように眠るところだろう。

 だが、直哉が真っ先に向かったのは、ベッドの上ではなく。

 

 当然、《因果集結クロニクル》のシステム画面だった。

 

「さて……」

 

 確認しなければならないことが、山ほどある。

 

 新しい★5キャラクターのエレノアのこと。

 セナのこと。伊織のこと。

 そして、ガチャと報酬の全てについて。

 

 直哉は、まずキャラクター画面を開いた。

 

『★★★★ 東雲セナ Lv.20』

『HP:0 / 3,430』

『状態:《戦闘不能》』

 

『★★★★ 鳴海伊織 Lv.20』

『HP:0 / 3,130』

『状態:《戦闘不能》』

 

「……まだ駄目か」

 

 地下駐車場で二人が戦闘不能になってから、それほど長い時間は経っていない。

 少なくとも、病院で直哉自身の肉体を完全に治療して帰宅した程度では、二人のHPは一切回復していなかった。

 

 戦闘不能から何時間で復帰するのか。

 時間経過だけで本当に復帰するのか。

 それとも何か別の回復条件が存在するのか。

 

 そこは、まだ分からない。

 

 直哉はこの新しい未検証項目を頭の片隅に置き、緊急時に無我夢中で四十連を投入した、あの『限定キャラクター集結』のバナーを開いた。

 

 例の白髪の青年がピックアップされている、見慣れた画面。

 金曜日の夜に見た時には八日以上あった開催期間も、今では残り六日前後まで減っている。

 

 直哉は、画面の下部に表示されている天井カウントの数字を確認した。

 

 そして。

 完全に動きを止めた。

 

『★5キャラクター確定まで:30回以内』

 

「…………」

 

 直哉は目を擦り、もう一度数字を見た。

 30。

 

 四十連を回したのだ。開始前は70回以内だった。

 70から40を引いて、30。

 

 計算は合っている。

 

 だが、直哉はあの時、間違いなく最高レアリティである★★★★★の『エレノア・ヴァイス』を引き当てているのだ。

 

 それなのに。天井のカウントがリセットされて『80回以内』に戻っていない。

 

 直哉は、そのゲームの仕様の意味を正確に理解した。

 

「……天井、リセットされてない」

 

 エレノアは確かに★★★★★だった。

 だが、この限定バナーのピックアップ対象は、あの『白髪の青年』だ。

 

 つまり。

 

「俺が引いたエレノアは……ピックアップ外の『すり抜け』だったのか……!」

 

 普通のアクションRPGやガチャゲーであれば、ここでプレイヤーは発狂する。「せっかくの星5で、ピックアップの目玉キャラがすり抜けたのかよ! ふざけんな!」とスマホを叩き割るところだ。

 

 だが。

 直哉は少しだけ沈黙した。

 

 地下駐車場の光景を思い出す。

 圧倒的なTier2の暗殺者、ノア。

 死を覚悟した玲蘭。

 そして、何をしたのかすら分からないまま全てをひっくり返した、エレノアの圧倒的な力。

 

 直哉は、画面を見つめながらポツリと呟いた。

 

「……いや」

 

「でも、あの時引いたキャラがエレノアじゃなかったら、俺たち絶対にノアに勝てなかったかもしれないんだよな」

 

 少なくとも、今の直哉の手持ちのカードとプレイスキルでは、あの化け物には勝てなかった。エレノアが来てくれたからこそ、玲蘭を救い出すことができたのだ。

 

「今回は、このすり抜けに心から感謝だな」

 

 ガチャゲーマーとしては、極めて珍しく謙虚な台詞だった。

 

 さらに、直哉はガチャのルール詳細テキストを読み直した。

 

『ピックアップ対象外の★5キャラクターが出現した場合、次に出現する★5キャラクターはピックアップ対象確定』

 

 直哉の目が輝いた。

 

「おお……!」

 

 つまり。

 現在の天井カウントは『あと最大30連』で★★★★★が確定。

 しかもその星5は、『白髪のピックアップ青年』であることが完全に確定しているという、圧倒的に強い状態なのだ。

 

 開催期間も残り六日前後。

 今ならまだ十分に間に合う。

 

 ただ、問題は肝心の石がないことだが。

 

 ……と思った、その瞬間だった。

 

 ピロリン。

 

 直哉の視界の右上に、待ってましたとばかりに金色のウィンドウがポップアップした。

 

『【因果変動記録】』

『外部因果への有意な干渉を確認しました』

『集結者の介入によって成立結果が変動しました』

 

 直哉はニヤリと笑った。

 

「……来たな」

 

 今回、直哉が玲蘭をノアの暗殺から守り切り、生存させたという結果が生まれたことは間違いない。

 

 それだけではない。

 閉鎖された地下駐車場でノアの襲撃を退け、玲蘭だけでなく、倒れていた警護員たちも全員生存した状態で現場から脱出することができた。

 

 これまで直哉が関わってきた案件と比べても、成立した結果が大きく変わったことだけは確かだった。

 

『活動記録を更新します』

『評価処理完了』

『活動報酬を獲得しました』

 

 そして。

 今回の最大の注目である、因果晶のアイコンが飛び出してくる。

 

 直哉は、その増えた数字を見て固まった。

 

『因果晶:0 → 12,800』

 

「…………」

 

 直哉は、しばらく瞬きすらできなかった。

 

「……いちまん、にせんはっぴゃく?」

 

 もう一度、画面を見る。

 

『因果晶:12,800』

 

 間違いない。

 

 十連一回が、1,600石。

 

 1,600 × 8 = 12,800。

 

 つまり。

 

「八十連……」

 

 直哉の目が、ゆっくりと見開かれていく。

 

「八十連分!?」

 

 そして。

 

「天井一回分じゃねえかぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 

 ベッドの上で、三十四歳の男が歓喜の雄叫びを上げて飛び跳ねた。

 

 数時間前まで地下駐車場で命懸けの死闘を繰り広げ、内臓を痛めるほどの重傷を負っていたというのに。石が大量に入った瞬間に、全てを忘れて喜べるのがゲーマーの悲しい性だ。

 

「やったぁぁぁっ!! これでまたガチャが回せるぞ!!」

 

 完全に、いつもの直哉のテンションに戻っていた。

 

 ただし、今回なぜ「12,800」という過去最高の数字が出たのか、その原因分析は簡単に行っておく必要がある。

 

 過去に確認している因果晶の支給量は、0、1,600、3,200。

 

 今回は、そこから一気に12,800まで跳ね上がった。

 

 Tier2の暗殺者による襲撃。

 玲蘭の生存。

 警護員たちの生還。

 襲撃そのものを失敗させ、三日間の護衛契約を成功という結果で終わらせたこと。

 

 評価されそうな要素はいくらでもある。

 

 だが、そのうち何が、どの程度12,800という数字に影響したのかは分からない。

 

「人命を何人も救ったから12,800だ」とか、「Tier2の暗殺者を退けたから12,800だ」と、確定させるにはまだ早すぎる。

 

 直哉も、メモ帳に記録を残しながら。

 

「……また、とんでもない数字が出たな」

 

 と、ブラックボックスの仕様として一旦保留することにした。

 

『確認済みの支給量:0 / 1,600 / 3,200 / 12,800』

 

 現在、手元にある石。

 

『因果晶:12,800』

 

 八十連分だ。

 

 そして、キャラクター限定ガチャの天井は、

 

『★5キャラクター確定まで:30回以内(ピックアップ確定)』。

 

 直哉は腕を組んだ。

 

「…………」

 

 キャラクター画面を開く。

 

 セナ。

 戦闘不能。

 

 伊織。

 戦闘不能。

 

 そして、現在唯一使用可能なエレノア。

 

 編成スロットの三枠自体は全て埋まっている。

 だが、少なくとも今すぐ戦えるキャラクターは一人しかいない。

 

 そこで、直哉の視線が、今までほぼ触れてこなかった別タブへと向かった。

 

『武装集結』

 

 武器ガチャだ。

 今まではキャラクターを増やすことを優先していたため、完全にスルーしていた。

 

「メンバーも三人揃ったし……」

 

 セナと伊織には、最初の十連で出た灰色の★3武器を持たせている。

 

 そして、新しく引いたエレノア。

 直哉は彼女の武装欄を確認した。

 

『装備武装:未装備』

 

「…………」

 

 直哉は、地下駐車場での光景を思い出した。

 

 エレノアが指を鳴らした瞬間、空間を埋め尽くすように現れた数百本の銀色のナイフ。

 あのTier2の化け物をハリネズミにして制圧した、圧倒的な凶器の雨。

 

「……あれ?」

 

 直哉はもう一度、ステータス画面を見た。

 

『装備武装:未装備』

 

「あいつ……あの時、武器を何も装備してない状態であれやってたの!?」

 

 直哉の背筋に、ゾクリとした感覚が走った。

 エレノアのあのナイフの雨は、システム上の『武器』の力ではなく、彼女自身の能力に由来するものらしい。

 

 ただ、エレノアについてはまだ詳細プロフィールも、スキル説明もまともに読めていない。

 その確認と能力の検証については、ガチャ周りの整理を終えてから改めてじっくり行うことにした。

 

 直哉の意識は、再びガチャ画面へと戻った。

 

 キャラは三人揃っている。

 ただし、現在セナと伊織は戦闘不能。

 一方で、武装ももっと強力なものが欲しい。

 

 特に、もしここで★5の専用武装を引き当てることができれば、既存のセナや伊織、そしてエレノアの能力がさらに跳ね上がる可能性がある。

 

 直哉は、武器集結のタブを開いた。

 

「よし! ここは武器ガチャ、回そうかな!」

 

 手元には八十連分の石がある。

 

 かなり楽しい。

 

 いや。

 

 さっきまでより、さらに楽しい悩みだ。

 

 指が、武器の『10回集結』ボタンへと動きかける。

 

 だが。

 

 視界の端に、どうしてもあの限定キャラクター集結の文字がチラつくのだ。

 

『★5キャラクター確定まで:30回以内』

『次回★5:ピックアップ対象確定』

 

 直哉の指が止まった。

 

「…………」

 

 武器ガチャ。キャラガチャ。

 視線が行ったり来たりする。

 

 ゲーマーとしての理性が、彼に囁きかけた。

 

「いや待てよ」

 

 あと三十連で、キャラクターの天井だ。

 

 今の石は八十連分。

 

 つまり。

 

 ここでキャラの天井を叩いて、確実にもう一人の★5キャラクターを手に入れたとしても。

 

「……五十連残るじゃん」

 

 直哉は、真顔になった。

 

 しかも、次に出る★★★★★は、あの『白髪の青年』のピックアップが確定しているのだ。

 開催期間も残り六日前後しかない。

 まだ性能の詳細は分からないにしても、限定の★5キャラクターであることには間違いない。

 

 三十連。

 

 4,800石。

 

 それを使っても。

 

『因果晶:8,000』

 

 五十連分が残る。

 

 直哉は、武器ガチャの画面を見る。

 

 次に、限定キャラクター集結を見る。

 

 もう一度、武器ガチャ。

 

 そして。

 

「…………」

 

 頭を抱えた。

 

「いや、これもう先に天井叩いた方が絶対いいだろ……!」

 

 目の前に並ぶ、二つのボタン。

 

『期間限定キャラクター集結』

『武装集結』

 

 所持リソース。

 

『因果晶:12,800』

 

 キャラ天井カウント。

 

『★5キャラクター確定まで:30回以内』

 

 直哉は顎に手を当て、真剣な顔で虚空を睨みつけた。

 

「…………」

 

 そして、ポツリと呟いた。

 

「まずは一回、キャラの天井叩くか」

 

 天井を叩いてもまだ五十連残る。

 

 命懸けの極限の精神状態から解放された三十四歳の男は、いつもの『どのガチャを回そうかな』という最高に平和な悩みに、どっぷりと浸かり直していた。




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