俺の異能が中華ゲーだった ~34歳無職、ガチャで引いたキャラに変身して働きます~   作:パラレル・ゲーマー

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第20話 怪盗は、そこにいなかった

 華やかな弦楽四重奏の調べが、高い天井から吊るされた巨大なクリスタルシャンデリアに反射し、きらびやかな会場の隅々にまで響き渡っていた。

 

 認可特異物品競売会、通称『裏のオークション』。

 その開会前のレセプションパーティーは、直哉の想像を遥かに超える混沌と絢爛さを極めていた。

 

 世界中から集まった富豪、名門の能力者一族、あるいは完全に人間離れした特徴を持つ人外の存在たち。彼らが思い思いの高級なドレスやタキシード、あるいは母国の伝統衣装や魔術的な装束に身を包み、シャンパングラスを片手に談笑している。

 

 その会場の片隅で、クラシカルなメイド服に身を包んだエレノア・ヴァイス――直哉は、隣に立つ十四歳の少年暗殺者、ノア・ヴァレリウスと共に、静かに目を光らせていた。

 

「……この会場、怪しい奴しかいなくね?」

 

 ラフなジャケット姿のノアが、口の中でキャンディを転がしながら、心底呆れたように呟いた。

 

 エレノアは、完璧な姿勢を保ったまま、極めて上品な声で同意した。

 

「同感でございます。どの方も、一癖も二癖もありそうな面構えをしていらっしゃいますね」

 

 直哉の内心は、(いや本当に! 仮面つけてる奴とか、耳が尖ってる奴とか、どう見ても普通のカタギじゃない奴ばっかりで、誰が怪盗ノクターンだか全く絞り込める気がしないんだけど!)と、半分パニックになっていた。

 

 だが、二人がそうして人間観察ばかりを続けていられる時間は、長くは続かなかった。

 

 ふいに、会場全体を柔らかく照らしていた照明が、フッと一段階落とされた。

 代わりに、会場の中央に設置された特設の壇上へと、幾筋ものピンスポットライトが集束していく。

 

 弦楽の生演奏が静かに止み、代わりにドラムロールのような低く重厚な音楽が流れ始めた。

 ざわめいていた参加者たちの視線が、一斉に壇上へと向けられる。

 

「皆様、大変長らくお待たせいたしました」

 

 壇上の中央に、燕尾服を着た初老の司会者がマイクを手に進み出た。

 彼の声は、落ち着き払いながらも、会場全体に響き渡るようなよく通るバリトンボイスだった。

 

「本日の認可競売会、その輝かしい幕開けに先立ちまして……皆様に、今回出品される数多の品々の中でも、極めつけの『目玉』となる特別な一品を、先行してご披露させていただきたく存じます」

 

 司会者のその言葉に、会場の空気がピンと張り詰める。

 世界中から集まった超常のコレクターたちが、期待に目を輝かせた。

 

 直哉も、エレノアの視覚を通して壇上を注視した。

 

(目玉商品……。予告状を出してきた怪盗が狙うとしたら、どう考えてもこれだよな)

 

 舞台の袖から、数名の厳重な警備員たちに囲まれて、一つの分厚いガラスケースがゆっくりと運び込まれてきた。

 

 ケースには見るからに頑丈な物理ロックが取り付けられ、その周囲にも複数種類のセンサーや、封印処置に使われているらしい術具が配置されている。

 詳しい仕組みまでは分からない直哉にも、尋常ではない警備が施されていることだけは一目で分かった。

 

 司会者が、芝居がかった手振りでケースを指し示した。

 

「本日の目玉の一つ――《祝福されし宝石》でございます!」

 

 ケースを覆っていた黒いベルベットの布が、勢いよく引き払われる。

 

 その瞬間、会場中から「おお……」という感嘆の溜息が漏れた。

 

 ガラスケースの中に鎮座していたのは、拳ほどもある巨大な宝石だった。

 だが、ただのダイヤモンドやサファイアではない。

 

 その石は、青白く、あるいは見る角度によっては淡い金色に発光し、内部に液体が揺らめいているかのような不思議な輝きを放っていた。

 ただそこにあるだけで、どこか神聖なものを前にしているような、不思議な存在感が漂っている。

 

「この宝石は、とある歴史ある聖地にて、数百年にわたり高位の聖職者たちによる祈祷と祝福を受け続けた結果……その純粋な『祈り』の因果が、物理的な鉱石の内部に完全に定着したという、極めて希少な特異物品でございます」

 

 司会者の解説が続く。

 

「これを持つ者は、いかなる悪性の呪いや怪異からの干渉をも退け、常に最良の運命の選択を引き寄せる幸運の加護を得ると言われております。まさに、世界に二つとない至宝――」

 

 直哉は、その圧倒的な存在感にただただ目を奪われていた。

 

(でっか……。しかも、なんか見てるだけでめちゃくちゃご利益ありそうなんだけど。あれ、普通に現金で買おうとしたら何億、いや何十億するんだ?)

 

 直哉の庶民的な金銭感覚が悲鳴を上げている中、エレノアの口からは、あくまで冷静で上品な感想が漏れた。

 

「随分と見事な宝石ですね。あのような純度の高い因果定着物は、滅多にお目にかかれるものではございません」

 

 隣に立つノアは、ガラスケースの宝石をチラリと見た後、すぐに興味を失ったように視線を外した。

 

「そう? 俺、あんな石っころより、あっちのテーブルに並んでるケーキの方がいいんだけど」

 

 ノアの視線は、宝石ではなく、レセプション会場の端に並べられた豪華なデザートビュッフェのタワーに釘付けになっていた。すでに彼の手元の皿には、イチゴのショートケーキやマカロンが山のように積まれている。

 

 エレノアは、呆れたように小さくため息をついた。

 

「ノア。あなたは少々、甘いものを食べ過ぎでは? 先ほどから何度おかわりに行かれたか数え切れませんよ」

 

「別にいいだろ。俺はまだ十四歳なんだから、育ち盛りで成長期なんだよ。糖分が必要なの」

 

「……『成長期』。なるほど、随分と便利な言葉ですね」

 

「うるさいな。メイド長は小言が多いんだよ」

 

 そんな風に、二人は世界的な秘宝を前にしても、まるで休日の家族のような気の抜けた軽口を叩き合っていた。

 

(まあ、怪盗が出るならどう考えてもこのタイミングだろうな。でも……)

 

 直哉は、隣でケーキを頬張っている少年暗殺者を見た。

 ノアは、Tier2の化け物だ。そして直哉自身も、時間を止める能力を持つTier2相当のエレノアだ。

 

(いくら相手が、今まで一度も捕まったことのないTier3の怪盗だとしても。こっちにはTier2の能力者が、二人も並んで警戒してるんだ)

 

(万が一現れたとしても、最悪俺が時間を止めて、ノアが取り押さえれば一瞬で終わる。絶対に逃がすはずがない)

 

 直哉はそう考えていた。

 

 司会者が、《祝福されし宝石》のさらなる詳細な解説を始めようとマイクを握り直した、その時だった。

 

『バツンッ!』

 

 鈍い破裂音のような音と共に。

 会場全体を照らしていた豪華な照明が、一瞬にして全て消灯した。

 

「キャアッ!?」

「何だ!?」

「停電か!?」

 

 完全な暗闇。

 数百人の参加者たちが詰めかけた会場に、驚きの声と小さな悲鳴が次々と連鎖して広がり、パニックになりかけたざわめきが波を打つ。

 

 直哉の背筋に、強烈な電撃が走った。

 

(来た!!)

 

 直哉は即座に臨戦態勢に入り、暗闇の中でも目を凝らして壇上のガラスケースの方角を睨みつけた。

 

(この暗闇に乗じて、怪盗が動くはずだ。でも、俺には時間停止がある。少しでも不審な動きがあれば、即座に時間を止めて――)

 

 だが、直哉が《静刻歩》のスキルを発動させようと意識を集中させた、その瞬間。

 

『パッ』

 

 消えてから、わずか数秒。

 ホテル側の自家発電システムが作動したのか、会場のメイン照明が再び一斉に点灯した。

 

 眩しい光に、直哉は思わず目を細めた。

 

「復旧した……?」

 

 参加者たちも、明るさが戻ったことでホッと息を吐き出しかけた。

 

 だが。

 

 壇上を見た司会者の手から、マイクが滑り落ちた。

 

『ガーンッ!』というハウリング音が会場に響き渡る。

 

「あ……ああ……!」

 

 司会者が、震える指で壇上を指し示した。

 

 直哉も、ハッとしてそちらを見た。

 そして、自分の目を疑った。

 

 厳重な警備員たちに囲まれ、何重もの防護が施されていたはずの分厚いガラスケース。

 そのケースの鍵は開けられていない。ガラスが割られた形跡もない。周囲の警備員たちも、誰一人として倒されたり気絶したりしていない。

 

 だが。

 

 ケースの中央に鎮座していたはずの、あの青白く発光する《祝福されし宝石》だけが。

 

 忽然と、影も形もなく、跡形もなく消失していたのだ。

 

 数秒の沈黙の後。

 会場中から、爆発するような怒号と悲鳴が沸き上がった。

 

「盗まれた!!」

「宝石がないぞ!!」

「ノクターンの仕業だ!! 奴が現れたぞ!!」

 

 パニック。大混乱。

 参加者たちが我先にと出口へ向かおうとし、互いに押し合いへし合いになる。

 

 直哉の脳が、完全に思考を停止しかけていた。

 

(嘘だろ!? 暗闇になってから、たった数秒だぞ!?)

(警備員も倒されてない、ケースも割られてない。どうやって、あんな巨大な宝石を一瞬で盗み出したんだ!?)

 

 警備側のインカムから、怒号のような指示が飛び交う。

 

『目標物の消失を確認! 繰り返す、目標物が消失!』

『第一から第五までの全出入口を完全封鎖しろ! 誰一人として外に出すな!』

『固定警備班は持ち場を維持! 来場者の安全確保を最優先! 遊撃班は不審者の確認および追跡に備えろ!』

 

 直哉も、エレノアの姿のまま、周囲の混乱する客たちを壁際へと誘導しようと動き出した。

 隣のノアも、ケーキの皿を放り捨て、鋭い暗殺者の目つきに変わって周囲を索敵している。

 

 その直後だった。

 

 壇上のさらに奥。関係者しか入れない舞台裏へと続く通路の扉がバンッと開き、そこから一人の警備員が飛び出してきた。

 

 彼は、血相を変えてホールに向かって叫んだ。

 

「いたぞ!!」

 

「舞台裏だ! 奥のスタッフ通路に、怪盗がいる!!」

 

 その大音声に、直哉とノアが弾かれたように同時に振り返った。

 

 警備員が指差す舞台裏の薄暗い通路の奥。

 そこに、一人の人物の後ろ姿が見えた。

 

 黒を基調とした、上質で仕立ての良いクラシカルな礼装。

 手には真っ白な手袋。

 そして、身を翻した瞬間にひらりと舞う、裏地が真紅の漆黒のロングコート。

 

 顔は見えない。だが、そのシルエットと装いは、誰がどう見ても絵に描いたような『怪盗』そのものだった。

 

 その人物は、こちらを一瞥することもなく、優雅な身のこなしで通路の奥深くへと走り去っていった。

 

 ノアが、獲物を見つけた猛禽類のように目を輝かせた。

 

「いた!」

 

 エレノアも、即座にメイド服のスカートを翻した。

 

「追います!」

 

 ほぼ同時に、インカムから警備責任者の声が飛んだ。

 

『遊撃のナオさん! 舞台裏へ向かった対象を確認、追跡してください! 固定班はそのまま持ち場を維持!』

 

「承知いたしました!」

 

 直哉は、エレノアの姿でノアと共に舞台裏の通路へと飛び込んだ。

 だが、先ほど見えた怪盗の背中は、すでに通路のずっと先を曲がろうとしているところだった。

 

 直哉は内心で舌打ちをした。

 

(遠い!)

 

 《静刻歩》のスキルを使えば、時間を止めて移動することはできる。

 だが、今の距離は数十メートル以上離れている上、この先は入り組んだバックヤードだ。一回の時間停止で一気に相手の目の前へ回り込めるような、都合のいい距離と見通しの良さではない。

 

 しかも、エレノアの基礎的な走力は、決して遅くはないが、Tier2の中で突出しているわけではないのだ。

 

「ノア、参りますよ」

 

「分かってる! 俺が先に行く!」

 

 ノアが《雷神》の青白い放電を脚に纏わせ、爆発的な加速で通路を駆け抜ける。

 エレノアも、メイド服の裾を翻しながら、静かに、だが最速の歩法でその後を追った。

 

 だが、追跡を始めてすぐに、直哉は強い違和感を覚えた。

 

(……意外と、あいつ速いな)

 

 もちろん、Tier2の能力を全開にして走るノアに比べれば、純粋なスプリント速度は劣っている。

 だが、怪盗の『逃走経路の選択』が、あまりにも完璧すぎるのだ。

 

 迷路のようなホテルのスタッフ用通路。

 急な階段。

 リネン室を抜けるバックヤード。

 直角の角。

 防火扉。

 

 怪盗は、その複雑な経路を、まるで自分の庭のように一切の迷いなく、最も無駄のないルートで駆け抜けていく。

 ノアが直線で距離を詰めようとしても、絶妙なタイミングで角を曲がり、扉を閉め、射線を切り、追いつくための時間を削り取っていくのだ。

 

 そして、さらに奇妙なこと。

 

(……追いつけないけど、絶対に見失いもしない)

 

 これだけ複雑なバックヤードを逃げ回っているのに、怪盗は決して完全に姿を消そうとはしない。

 角を曲がれば、必ずその先の直線の端に、あの黒いコートの裾がひらりと見えるのだ。

 

 追う側が絶対にルートを迷わない、ギリギリの距離感。

 

 まるで。

 

「私を、こちらへ追ってきてください」

 

 と、親切に案内されているかのような、演劇的で不自然な逃走劇。

 

 ノアは、獲物を追うことに集中しきっている。

 

「チッ……ちょこまかと逃げ回るのが上手い奴だな!」

 

 ノアが壁を蹴り、階段の手すりを飛び越えて一気に下の階へとダイブする。

 

 直哉も、その後を追いながら階段を駆け下りた。

 

(おかしい……。なんでこんなに綺麗に道が開けてるんだ?)

 

 違和感は膨らむばかりだが、ここで足を止めるわけにはいかない。

 もし見失えば、目玉商品の宝石は完全に奪われてしまう。

 

「ノア、もう少しです! 追い詰めますよ!」

 

「言われなくても分かってる!」

 

 薄暗い地下の資材搬入用通路へと、怪盗が飛び込んだ。

 そこは、一本道の長い廊下だった。途中に逃げ込めるような部屋や角はない。

 

 ノアが、ついに怪盗の背中を完全に視界に捉え、残忍な笑みを浮かべた。

 

「よし……! もう完全に射程に入っただろ!」

 

 彼の手のひらに、致命的な雷撃のスパークが収束していく。

 

 エレノアも、歩みを止めずに静かに答えた。

 

「ええ」

 

 直哉は、意識の奥底で《静刻歩》のスキルのトリガーに指をかけた。

 

(よし。ここで時間を止めて、一気に回り込んで取り押さえる!)

 

 怪盗ノクターン。

 その背中は、もう目と鼻の先に迫っていた。

 

 カチッ。

 

 直哉がトリガーを引いた瞬間。

 世界が完全に色を失い、静止した。

 

 ノアも、中空を舞う埃も、完全にピタリと止まる。

 

 そして、怪盗の姿も。

 走りかけた姿勢のまま、何の違和感もないほど自然に静止していた。

 

 直哉は、エレノアの姿で静止した世界を優雅に歩き出した。

 

 逃走する怪盗のすぐ横を通り過ぎる。

 

 その時。

 

(……ん?)

 

 ほんの僅かな違和感があった。

 

 地下の資材搬入用通路。

 床には、清掃しきれなかった薄い埃が残っている。

 

 これだけの速度で走ってきたはずなのに。

 怪盗の靴元には、足を蹴り出した時にできるはずの埃の乱れが、ほとんど見当たらなかった。

 

(……なんだ?)

 

 だが、今は考えている場合ではない。

 

 時間を再開すれば、怪盗は再び逃げる。

 直哉はその小さな違和感を頭の隅へ追いやり、そのまま怪盗の進行方向の完璧な先回りの位置へと立った。

 

 そして、直哉は《銀刻陣》のスキルを展開した。

 

 怪盗の左右、背後、そして天井方向の空間に至るまで。

 何十本もの銀色のナイフが音もなく出現し、完璧な包囲網を形成する。

 

 逃げ道は、もうどこにもない。

 

(これで終わりだ!)

 

 直哉は、時間を再開させた。

 

 時間が動き出した。

 

 全力で走っていた怪盗が、前方に出現したエレノアの姿に気づき、ピタリと足を止めた。

 

 前方には、メイド服のエレノア。

 後方には、追いついてきた暗殺者のノア。

 そして周囲には、自分を逃がさないように配置された無数の銀色のナイフ。

 

 完全なる包囲だった。

 

 だが。

 

 怪盗は、慌てて逃げ惑うような素振りは一切見せなかった。

 

 ゆっくりと、エレノアの方へと顔を向けた。

 シルクハットの陰で素顔は見えないが、その口元が、楽しそうに笑みの形に歪んだのが分かった。

 

 エレノアの口から、自動的に洗練された嫌味が紡ぎ出された。

 

「随分とお急ぎですね」

 

 怪盗が、ゆっくりと首を傾げる。

 

「ですが、出口はこちらではございませんよ?」

 

 怪盗は、芝居がかった手振りでシルクハットに軽く手を触れた。

 

「おや。それは困りました」

 

 その声は、年齢や性別を断定させない、不思議な響きを持っていた。

 

「では、有能なメイド長殿。どうか、正しい出口までご案内いただけますかな?」

 

 エレノアは、完璧な所作で一礼した。

 

「もちろんでございます」

 

 そして、冷ややかに微笑んだ。

 

「警察の方々がお待ちの出口でよろしければ、ですが」

 

 直哉の内心は、(俺、絶対こんな洒落た返し自力じゃ言えねえ……! このキャラの自動翻訳機能、強すぎるだろ!)と、完全に他力本願で感心していた。

 

 怪盗ノクターンは、肩をすくめた。

 

「それは困りました。今夜はまだ、皆様へお別れの挨拶を済ませておりませんので。そんな無作法な退場は、私の美学に反します」

 

 エレノアは涼しい顔で返した。

 

「ご心配なく。私から皆様へ、『少々早めにお帰りになった』と、丁重にお伝えしておきますから」

 

 ノクターンは、感心したように小さく拍手をした。

 

「完璧なメイドというものは、随分と融通が利くのですね」

 

 直哉は内心で、(この二人、いつまでこんな演劇みたいな会話続けるんだよ!)と呆れていた。

 

 怪盗は、視線をエレノアから、後方に立つノアへと移した。

 そして、再びエレノアを見て、面白そうに口元を歪めた。

 

「しかし……これは少々、予想外でした」

 

 ノクターンの言葉に、ノアが眉をひそめる。

 

「あのヴァレリウス家の末弟を退けた、奇妙な能力を持つメイドがいるとは耳にしておりましたが」

 

 直哉の心臓が跳ね上がった。

 

(!? なんで昨日の今日で、その情報を知ってんだよ!)

 

 ノクターンは続ける。

 

「まさか、その暗殺者本人まで揃って、仲良く私を追ってくるとは思いませんでした」

 

 エレノアが、僅かに目を細めた。

 

「随分と、耳が早いのですね」

 

 ノクターンは、楽しそうに笑った。

 

「怪盗ですから」

 

 そして、どこか誇らしげに言い切った。

 

「有形無形を問わず、『情報』もまた、私にとっては盗めるものなのですよ?」

 

 直哉は、(ここでその台詞が出てくるのかよ!)と、妙に感心してしまった。

 

 同時に、一つの疑問だけは消えなかった。

 

(……いや、それで結局、昨日の非公開情報をどこから盗んだんだよ)

 

 だが、今は問い詰めている場合ではない。

 

 ノアが、苛立ったように口を挟んだ。

 

「悪いね、怪盗さん」

 

 ノアの手のひらで、青白い雷がバチバチと弾ける。

 

「Tier2の能力者を二人まとめて相手にする羽目になったあんたには、ちょっとだけ同情するよ」

 

 ノクターンは、少しも動じなかった。

 

「これはこれは。泣く子も黙るヴァレリウスの暗殺者から同情を頂けるとは、光栄の極みですね」

 

 ノアが舌打ちをする。

 

「余裕だな。その口を塞がれたいらしい」

 

 エレノアが、静かに右手を上げた。

 

 周囲に配置された数十本のナイフが、怪盗の喉元や心臓といった急所を正確に捉え、ジリジリと距離を詰める。

 一歩でも動けば、その瞬間に全身を串刺しにされる完全な包囲網だ。

 

 エレノアが、最終勧告のようにおごそかに告げた。

 

「さて」

 

「これ以上の追いかけっこは、他のお客様の多大なご迷惑となります。そろそろ、お遊びは終わりにいたしましょう」

 

 怪盗は、周囲を取り囲むナイフの壁をぐるりと見渡した。

 

「なるほど」

 

「確かに、これは非常に困りました。絶体絶命のピンチというやつですね」

 

 言葉とは裏腹に、その口元にはまだ余裕の笑みが貼りついたままだ。

 

「では――」

 

 怪盗は、胸に手を当て、エレノアとノアに向かって深々と、優雅に一礼した。

 

「この程度の窮地から、華麗に抜け出してみせましょう」

 

 ノアが、嘲笑うように鼻を鳴らした。

 

「あ? やってみろよ」

 

 怪盗が、顔を上げた。

 

 そして。

 

『パチン』

 

 右手の指を、軽く鳴らした。

 

 その瞬間。

 

 直哉の目から。

 怪盗を取り囲み、完全な包囲網を形成していた数十本のナイフが。

 

 ふっと。

 

 まるでシャボン玉が弾けるように、一本残らず、完全に消滅した。

 

「…………は?」

 

 直哉の口から、間抜けな声が漏れた。

 

 エレノアの表情が、微かにこわばる。

 

「……?」

 

 直哉は慌てて指を鳴らし、再び《銀刻陣》を展開しようとした。

 

 だが。

 

 何も見えない。

 

 新たに現れるはずの銀色のナイフが、一本も視界に映らない。

 

(なんで!? 《銀刻陣》まで消された!?)

 

 怪盗は、相変わらず楽しそうに笑っていた。

 

 だが、その異常事態に、直哉よりも先に気づいたのはノアだった。

 

「待て」

 

 ノアの声が、一段階低くなった。

 

 エレノアが振り返る。

 

「どうされました?」

 

 ノアは、獲物を狙う鷹のような鋭い目で、数メートル先に立つ怪盗の姿をじっと睨みつけていた。

 

 暗殺者としての、研ぎ澄まされた極限の感覚。

 

 呼吸の微かなリズム。

 服が擦れる衣擦れの音。

 床を踏みしめる足音。

 重心の移動。

 

 ノアは、その全てが『おかしい』ことに気づいた。

 

「……こいつ」

 

 ノアが、絞り出すように言った。

 

「さっきから、変なんだよ」

 

 エレノアが問う。

 

「……?」

 

「呼吸がない」

 

 ノアの顔が、怒りで引きつった。

 

「足音も、重心移動も、気配も、何もねえ!」

 

 その瞬間。

 

 直哉の脳裏に、停止した世界で見た怪盗の足元が蘇った。

 

 薄く積もった埃。

 

 全力で走っていたはずなのに、ほとんど乱れていなかった床。

 

(あれ……!)

 

 そして、ノアは直哉に向かって大声で叫んだ。

 

「ナオ! こいつは幻術だ!!」

 

「気をしっかり持て! 視覚を疑え!」

 

 直哉の思考が、完全に停止した。

 

(幻術!?)

 

 八咫烏の分類でいえば、認識干渉系に近い類なのだろうか。

 

 だが、直哉がこれまで聞いてきたような、相手の精神そのものを強引に書き換える能力とは何かが違う。

 

 直哉は、もう一度消えたナイフの空間を見た。

 

(違う)

 

(消されたんじゃない)

 

(俺に、『見えなくなった』と思わせただけなのか!?)

 

 そもそも。

 

 目の前に立って、キザな台詞を並べている、この『怪盗』そのものが。

 

 本当に、そこにいるのか?

 

 怪盗ノクターンが。

 いや、ノクターンの姿をした『幻影』が。

 

 ぱちぱちと、ゆっくりと拍手をした。

 

「お見事」

 

 その声は、どこから聞こえているのか分からない。

 

「さすがは、ヴァレリウスの暗殺者。気付かれてしまいましたか」

 

 幻影は、変わらず優雅な笑顔を浮かべている。

 

 ノアの手に、怒りでバチバチと激しい雷が奔った。

 

「ふざけんな……! こんな安い幻術で、俺たちを騙しやがって……!」

 

 ノアが雷を纏った拳を振り抜く。

 だが、その拳は怪盗の幻影を空しくすり抜け、ただの空気を殴っただけだった。

 

 怪盗の幻影が、少し芝居がかった仕草で肩をすくめた。

 

「こんなもの、とは心外ですね」

 

「確かに、私の幻術そのものは、決して大したものではございません」

 

 少なくとも、今二人に使われている幻術は、Tier2のノアや直哉の精神を強制的に支配するようなものではなかった。

 記憶を改竄するわけでもない。

 現実の物理現象そのものを書き換えているわけでもない。

 

 ただ、そこにあるものを『別のように見せる』。

 存在しないものを『存在するように見せる』。

 

 そんな、極めて単純な錯覚。

 

 しかも停止世界でさえ、怪盗の像は走りかけた姿勢のまま自然に残っていた。

 

(ってことは……術者本人が、その場でリアルタイムに動かしてる幻じゃないのか?)

 

 疑問は残る。

 

 だが。

 

「幻というものは、ただ力が強ければ良いというものではありません」

 

 幻影が、静かに語る。

 

「本物そっくりに、一つだけ見せ」

 

「ほんの少しだけ、皆様の視線を逸らす」

 

 幻影が、ニコリと微笑んだ。

 

「それだけで。人というものは、いとも容易く、自分から騙されてくださるものです」

 

 そして、怪盗は決定的な一言を放った。

 

「弱い幻術でも、使い方次第では」

 

 エレノアを見る。

 ノアを見る。

 

「自分より格上のお二人を、こんな舞台裏の奥深くまでご案内する程度のことは、十分にできるのですよ?」

 

 直哉は、そのあまりにも『怪盗らしい』鮮やかな手口に、怒りよりも先に恐怖に似た感嘆を覚えていた。

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 ノアの顔色が一気に青ざめ、完全に事態を理解した。

 

「…………」

 

 エレノアが尋ねる。

 

「ノア?」

 

 ノアが、踵を返して全力で走り出した。

 

「戻るぞ!!」

 

 エレノアがその後を追う。

 

「どういうことでしょう?」

 

 ノアが叫んだ。

 

「最初からだ!!」

 

「最初に、ケースの中の宝石が消えたところから、全部幻術だったんだよ!!」

 

 直哉の脳天に、雷が落ちたような衝撃が走った。

 

(!?)

 

 ノアが走りながら解説する。

 

「あいつは、宝石を盗んだんじゃない!」

 

「ケースの中にまだある宝石を、俺たちに『消えたように見せた』だけだ!」

 

 だから、警備員も、客も、ノアも、直哉も、全員が「盗まれた!」と錯覚してしまった。

 

「そして、舞台裏に逃げたこいつも偽物の幻影だ!」

 

「あの警備員も、本当に幻を見せられただけだ! 嘘をついてたわけじゃねえ!」

 

 直哉の背筋が凍った。

 

 本物の警備員に偽物の怪盗を見せる。

 

 そうすれば、怪盗自身が大声で逃走先を宣言する必要すらない。

 職務に忠実な警備員が、自分から周囲へ正しいと思った情報を伝えてくれる。

 

 ノアが叫ぶ。

 

「それで俺らみたいな遊撃の強い奴を、会場から遠くへ引き剥がしたんだよ!」

 

 直哉の内心が、絶叫した。

 

(やられた!!)

 

 怪盗を追って、見事な追跡劇を演じていたつもりだった。

 

 だが実際は。

 

 ただの幻の影に誘導され、正式な追跡指示に従って、会場から遠く離れた舞台裏の奥深くまで連れ出されただけだったのだ。

 

(俺たちが命令を無視したわけじゃない)

 

(むしろ……警備員ならこう動くって分かった上で、全部仕組まれてたのか!?)

 

 ノアが、血を吐くような声で叫んだ。

 

「本物は!」

 

「今頃、あの混乱した会場で、本物の宝石を悠々と盗み出してるんだ!!」

 

 二人とも、全速力で来た道を引き返した。

 

 背後から。

 

 消えゆく怪盗の幻影が、優雅に一礼して最後の言葉を残した。

 

「では、お二人とも。どうぞ、良い夜を」

 

 幻影は、フッと霧のように消滅した。

 

 直哉は奥歯を噛み締めた。

 

(くそっ!!)

 

 《静刻歩》の時間停止も限界まで使い、最短ルートで会場へと帰還する。

 ノアも雷の全力移動で戻った。

 

 レセプション会場。

 展示ケースの周りには、大勢の警備員が集まっていた。

 

 インカムから、矢継ぎ早に報告が飛び込んでくる。

 

『警備本部より各班! 先ほどの照明停止について、照明制御設備に物理的な細工の痕跡を確認!』

 

 直哉の足が止まりかける。

 

(物理的な……細工?)

 

『能力による直接干渉ではありません! 事前に侵入し、数秒間だけ照明系統が落ちるよう仕込まれていた可能性が高い!』

 

 ノアが苦々しく舌打ちした。

 

「幻術で何でもやったわけじゃねえのかよ……!」

 

 さらに別の報告。

 

『舞台裏から対象を発見したと報告した警備員本人も確認済み! 本人は実際に通路を走る対象を視認したと証言しています。幻覚を見せられた可能性が高い!』

 

 弱い幻術。

 

 物理的な事前工作。

 

 人間がどう反応するかまで計算した誘導。

 

 それらを一つずつ組み合わせている。

 

 だが。

 

 直哉は、そこで違和感を覚えた。

 

 会場は確かに騒然としている。

 警備員たちは走り回っている。

 

 しかし。

 

 先ほどとは、騒ぎ方が何か違う。

 

 誰も、空になった展示ケースを見て青ざめてはいない。

 

 むしろ。

 

 司会者が、困惑した表情でケースの中を何度も確認している。

 

 直哉とノアは、ほとんど同時に壇上へ視線を向けた。

 

「…………」

 

「…………」

 

 ガラスケースの中。

 

 青白く。

 あるいは淡い金色に。

 

 拳ほどもある《祝福されし宝石》が。

 

 何事もなかったかのように、普通に鎮座していた。

 

 ノアの口が、ゆっくりと開いた。

 

「…………あるじゃん」

 

 エレノアも、数秒かけて現実を受け入れた。

 

「……ございますね」

 

「あるじゃん!!」

 

 ノアの絶叫が会場に響き渡った。

 

 直哉の内心も、まったく同じ声を上げていた。

 

(あるぅぅぅぅぅ!?)

 

 二人は壇上へ駆け寄った。

 

 ガラスケース。

 

 破損なし。

 

 鍵もそのまま。

 

 そして内部には、間違いなく《祝福されし宝石》がある。

 

 ノアがケースへ顔を近づける。

 

「いや、待て! これも幻とかじゃねえだろうな!?」

 

 近くにいた警備責任者が、険しい顔で首を横に振った。

 

「現在、複数系統で現物確認を行っています。重量センサー、ケース内部の接触センサー、封印状態、すべて正常です」

 

 ノアが振り返った。

 

「じゃあ、本当に最初から盗まれてなかったのかよ!?」

 

「その可能性が高い」

 

 直哉は呆然と宝石を見つめた。

 

 最初から。

 

 あった。

 

 停電の後も。

 

 自分たちが「消えた」と思い込んでいた時も。

 

 ずっと。

 

 ケースの中に。

 

(じゃあ……)

 

(俺たち、何のためにホテルの地下まで全力で追いかけてたんだ?)

 

 その時だった。

 

 エレノアの視線が、ガラスケースの端で止まった。

 

「……?」

 

 そこに。

 

 先ほどまではなかったはずの、一枚の黒いカードが置かれていた。

 

 黒を基調とした、上質な紙。

 

 銀色の流麗な文字。

 

 見覚えがある。

 

 怪盗ノクターンの予告状と、全く同じ意匠だった。

 

 エレノアが静かにカードを手に取った。

 

 ノアも横から覗き込む。

 

 一行目。

 

『お帰りなさいませ、メイド長殿。』

 

 二行目。

 

『そして、ヴァレリウスの若き暗殺者殿。』

 

 ノアの眉間に、深い皺が寄った。

 

「……こいつ」

 

 直哉も続きを読む。

 

『短い時間ではございましたが、実に楽しい追いかけっこでした。』

 

『ですが、どうやら一つ、誤解をさせてしまったようですね。』

 

 エレノアの目が細くなる。

 

 次の一文。

 

『私は、《祝福されし宝石》を頂戴するなどとは、一言も申し上げておりませんよ?』

 

「…………」

 

 ノアが固まった。

 

 直哉も固まった。

 

 予告状。

 

 昨夜見た、あの文章。

 

『今宵、皆様が大切にお守りになる一品を、頂戴にあがります。』

 

 確かに。

 

 《祝福されし宝石》とは。

 

 一言も。

 

 書いていなかった。

 

 直哉の内心。

 

(そういや言ってねえ!!)

 

 ノアが絶叫する。

 

「はぁぁぁぁぁぁ!?」

 

 周囲の警備員たちが驚いて振り返った。

 

「じゃあ何なんだよ! 目玉商品が出てきたから、普通あれだと思うだろ!!」

 

 カードは当然、返事をしない。

 

 だが。

 

 文章はまだ続いていた。

 

『もちろん、美しい宝石ではあります。』

 

『数百年の祈りを宿した、世界に二つとない逸品。』

 

『ですが残念ながら――』

 

『今夜の私が欲した宝物ではございません。』

 

 ノアが顔を引きつらせる。

 

「欲しくねえのかよ……!」

 

 エレノアは、そのまま静かに次の文章へ目を滑らせた。

 

 そして。

 

 手が止まった。

 

『今夜、私が最も興味を惹かれたもの。』

 

『それは――』

 

『昨日、あのヴァレリウス家の末弟を退けたという、謎多き能力者《ナオ》。』

 

 直哉の思考が止まった。

 

「…………」

 

 ノアも、隣で黙り込む。

 

 直哉の内心に、さっきまでとは全く違う冷たいものが走った。

 

(俺……?)

 

 カードには、続きがある。

 

『あなたが、何者なのか。』

 

『どのような力を持ち。』

 

『何を見て。』

 

『どのように考え。』

 

『どのように行動するのか。』

 

『今夜は、その一端を十分に拝見させていただきました。』

 

 直哉は、無意識にカードを握る指へ力を込めた。

 

 追跡。

 

 幻影。

 

 時間停止。

 

 《銀刻陣》。

 

 怪盗を追う判断。

 

 ノアとの連携。

 

 あれは。

 

 ただ、自分たちを会場から遠ざけるためだけではなかった。

 

 直哉に能力を使わせるための舞台でもあった。

 

(……俺の情報が欲しかったのか?)

 

 ノアも同じ結論へ辿り着いたらしい。

 

「おい、ナオ」

 

「はい」

 

「あいつ……宝石盗むんじゃなくて、最初からあんたを観察するために、俺らを追いかけさせたんじゃねえの?」

 

 エレノアは答えなかった。

 

 否定できなかった。

 

 あの幻影は、昨日の事件を知っていた。

 

 自分がノアを退けたことまで。

 

 そして、わざわざ能力の正体を本人へぶつけて反応を見た。

 

 《時間停止》。

 

 停止中の移動。

 

 ナイフの配置。

 

 どこまで見られていたのか。

 

 何を知られたのか。

 

 分からない。

 

 カードには、さらに一文。

 

『もっとも。』

 

『一つ秘密を知れば、二つ新しい謎が増える。』

 

『どうやら、あなたは私が想像していた以上に、不思議な方のようですね。』

 

 直哉の背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。

 

(……どこまで気づいた?)

 

 自分が変身能力者だと知っている?

 

 セナや伊織のことは?

 

 《因果集結クロニクル》は?

 

 ガチャは?

 

 三人編成は?

 

 何一つ分からない。

 

 ただ一つ確かなのは。

 

 怪盗ノクターンが。

 

 自分に興味を持った。

 

 それだけだった。

 

 次の文章。

 

『ですが、今夜はこれで十分です。』

 

『有望な能力者のお二人と、こうして知り合えたことだけでも、この夜会へ足を運んだ甲斐がございました。』

 

 ノア。

 

「……俺まで入ってんのかよ」

 

 最後。

 

『また、いずれどこかの夜会で。』

 

『次にお会いする時には、もう少しだけ。』

 

『あなたの秘密を、頂戴できれば幸いです。』

 

 ――《Nocturne》

 

 直哉は、カードを見つめたまま無言になった。

 

 内心。

 

(嫌だよ!!)

 

(勝手に俺の秘密を盗む予告すんな!!)

 

 隣で。

 

 ノアがプルプルと震え始めた。

 

「…………」

 

 その震えは。

 

 恐怖ではない。

 

 怒りだ。

 

「……あいつ」

 

 拳を握る。

 

「最初から」

 

 雷がバチバチと漏れ始める。

 

「最初からあの宝石盗む気なんかなかったのに」

 

 さらに震える。

 

「俺たち二人を」

 

 顔が真っ赤になる。

 

「ホテルの地下まで」

 

 そして。

 

「あんなクソ長い距離、全力で走らせやがったのかよぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 

 ノアの絶叫が、豪華なレセプション会場に響き渡った。

 

 周囲の参加者たちが一斉に振り返る。

 

 エレノアは、静かにカードを見つめたまま答えた。

 

「どうやら、そのようですね」

 

「くっそおおおおおおおお!!」

 

 ノアが頭を抱えた。

 

「あんな雑魚みたいな幻術に引っかかって! 何も盗まれてねえのに! 俺らだけ勝手に地下まで走って!」

 

 エレノアは少し考えた。

 

「良い運動にはなったのでは?」

 

「ぶっ殺すぞ!!」

 

 エレノアの冷たい視線がノアを射抜いた。

 

「先ほどのお約束を、もうお忘れですか?」

 

「言葉の綾だよ!!」

 

 直哉の内心は、少しだけ笑いそうになった。

 

 だが。

 

 笑えるのは、そこまでだった。

 

 直哉自身にも、強烈な悔しさは残っている。

 

 自分はTier2になった。

 

 時間停止がある。

 

 ノアまで隣にいる。

 

 怪盗が出てくれば、絶対に捕まえられる。

 

 そう思っていた。

 

 だが、相手は。

 

 最初から自分たちと戦うつもりなど、一切なかった。

 

 エレノアは静かに口を開いた。

 

「……慢心しておりましたね。お互いに」

 

 ノアが顔を上げる。

 

「でも、何も盗まれてねえだろ!」

 

「ええ」

 

「じゃあ負けてねえ!」

 

 エレノアは、黒いカードを僅かに持ち上げた。

 

「本当に?」

 

「…………」

 

「私どもは、あの方が用意した幻影を本物と思い込み」

 

「…………」

 

「望まれた通りに能力を使い」

 

「…………」

 

「望まれた通りの場所まで追いかけ」

 

「…………」

 

 そして。

 

「その間、好きなだけ観察されていたようですが」

 

 ノアの顔が、さらに赤くなった。

 

「言うな!!」

 

 エレノアは、少しだけ微笑んだ。

 

「完全に遊ばれていたのでは?」

 

「それ以上言うな!!」

 

 直哉の内心も、痛いほど同意していた。

 

(Tierが上なら勝てるわけじゃない)

 

 この数日、何度も教えられたことだ。

 

 分かっていた。

 

 頭では。

 

 それでも。

 

 今度は、戦闘にすらならなかった。

 

 その時。

 

 警備責任者が近づいてきた。

 

「ナオさん」

 

 エレノアは、すぐに仕事の表情へ戻る。

 

「はい」

 

 責任者は、《祝福されし宝石》を確認してから、小さく息を吐いた。

 

「現時点で、会場内の競売品に盗難は確認されていません」

 

 直哉の目が僅かに開く。

 

「では」

 

「少なくとも、警備任務としては商品を守り切ったことになります」

 

 直哉の内心。

 

(…………)

 

(あれ?)

 

 改めて考える。

 

 宝石。

 

 ある。

 

 他の商品。

 

 盗まれていない。

 

 客。

 

 無事。

 

 怪盗。

 

 逃げた。

 

 だが警備の第一目的は、怪盗の逮捕ではない。

 

 客を守り、盗難を防ぐこと。

 

 つまり。

 

(仕事としては……成功なのか?)

 

 直哉の中に、ほんの僅かな救いが生まれた。

 

 だが。

 

 隣のノアが即座に否定した。

 

「成功じゃねえ!!」

 

「……ノア?」

 

「こんなの絶対勝ってねえだろ!!」

 

 エレノアは少し首を傾げた。

 

「少なくとも、商品は守られましたが」

 

「そういう話してんじゃねえ!!」

 

 直哉の内心は、思わず苦笑した。

 

 警備員としては成功。

 

 ノクターンとの勝負としては。

 

 完全に、してやられた。

 

 そして。

 

 直哉はもう一度、手元の黒いカードへ目を落とした。

 

『次にお会いする時には、もう少しだけ。』

 

『あなたの秘密を、頂戴できれば幸いです。』

 

 ――《Nocturne》

 

 直哉の笑みが消える。

 

(……俺の秘密、か)

 

 《因果集結クロニクル》。

 

 キャラクター。

 

 変身。

 

 ガチャ。

 

 自分以外の誰にも見えない、あのシステム。

 

 怪盗ノクターンが、今どこまで近づいているのか。

 

 それは。

 

 まだ、直哉にも分からなかった。




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