俺の異能が中華ゲーだった ~34歳無職、ガチャで引いたキャラに変身して働きます~ 作:パラレル・ゲーマー
レセプション会場。
黒いカードが残された、《祝福されし宝石》のガラスケースの前。
エレノアの姿の直哉と、歯ぎしりをするノアが立ち尽くしているところへ、警備責任者が駆けつけてきた。
彼は、インカムから流れる各所の報告を険しい顔で聞いていたが、やがて小さく息を吐いて二人の前へと向き直った。
「ナオさん。先ほど、会場内の全ての展示ケースおよび別室の保管庫の最終確認が完了しました」
責任者は、直哉に向かってはっきりと告げた。
「現時点で、《祝福されし宝石》を含む全ての商品において、盗難の被害は一件も確認されていません」
直哉は、心底ホッと胸を撫で下ろした。
(……いや、あのキザな怪盗には完全にコケにされて遊ばれたけど)
(誰も怪我してないし、何も盗まれてないなら。俺の今日の仕事としては、大成功……なんだよな?)
だが、隣に立つノアは全く納得していなかった。
「成功じゃねえ!」
ノアが声を荒らげ、近くの柱を蹴りつけた。
エレノアは、完璧に穏やかな声でなだめた。
「ですが、商品は無事に守られておりますよ」
「そういう話じゃねえんだよ! あんな雑魚みたいな幻術で、俺たちの目を完全に欺いて逃げ切ったのがムカつくって言ってんだ!」
プロの暗殺者としてのプライドを粉々にされたノアの怒りは、そう簡単には収まらないらしい。
直哉は、展示台に残されていた黒いカードを手に取った。
証拠品として、勝手に持ち帰るわけにはいかない。仕事中である以上、速やかに警備責任者へと提出するのが筋だ。
「責任者。これ、怪盗ノクターンが残していったメッセージカードです」
「ありがとうございます」
責任者が手袋をした手でカードを受け取る。
直哉は少しだけ申し訳なさそうに付け加えた。
「その前に、念のため私のスマートフォンで文面を撮影しておいてもよろしいですか?」
「構いません。後ほど、警備本部側でも正式にスキャンした画像を共有いたします」
直哉は、カードに並んだ銀色の文章をスマホで撮影した。
『お帰りなさいませ、メイド長殿。』
そこから始まり、《祝福されし宝石》を狙っていたわけではないこと、今夜の目的が《ナオ》の情報だったことまで記された、あの長いメッセージだ。
そして最後には。
『次にお会いする時には、もう少しだけ。』
『あなたの秘密を、頂戴できれば幸いです。』
(……俺の秘密、か)
直哉の背筋に、微かな冷感が走った。
カードの文面を全て読み終えた警備責任者の顔色は、宝石が無事だったことへの安堵よりも、遥かに深刻なものに変わっていた。
彼は、カードを厳重な証拠品用の袋に入れながら、低い声で直哉を呼んだ。
「……ナオさん」
「はい」
「このカードの件は、本日の競売会警備の報告とは別件の『重要事案』として、至急八咫烏の上層部へ引き上げます」
直哉は少しだけ身構えた。
「私が個人的に狙われた、という件でしょうか?」
「それもあります」
責任者は、カードを指し示した。
「我々が最も問題視しているのは、怪盗ノクターンが『昨日、あなたがヴァレリウス家の末弟を退けた』という事実を、すでに正確に把握しているという点です」
直哉は、小さく息を呑んだ。
(やっぱり、そこか)
昨日の地下駐車場での襲撃。
ノアという暗殺者の存在。玲蘭への脅威。そして、エレノアという未知のTier2能力者の出現。
その全ては、八咫烏による厳重な情報統制下で事後処理が行われているはずだ。
わずか一日前の出来事。
一般の能力者社会へ、あからさまに公開されるような情報では絶対にない。
ところが、あの怪盗ノクターンはそれを知っていた。
知っていた上で、わざわざその言葉を使い、二人を舞台裏へと誘導したのだ。
責任者が顔をしかめる。
「情報漏洩の速度と精度が、あまりにも異常です」
ここで、今まで怒り狂っていたノアが、スッと真顔になって口を挟んできた。
「それ、俺もすげえ気になってんだよな」
さっきまでの「クソ怪盗!」と叫んでいたやんちゃな少年から一転、プロの暗殺者としての冷徹な顔に戻っている。
「うちの家から漏れた可能性もゼロじゃないけど。昨日の今日で、ここまで正確に現場の状況を拾って煽りに使ってくるのは、いくらなんでも手回しが早すぎる」
エレノアが、静かに問う。
「ヴァレリウス家の情報網でも、あの方の足取りを把握できないのですか?」
「帰ったら一応、親父たちに聞いてみる」
その言葉を聞く限り、ノアにも怪盗ノクターンを調べる理由はできたらしい。
直哉のためというより、自分を出し抜いた相手が気に食わないことと、自分の一族の情報経路が気になっているのだろう。
だが、直哉の内心の恐怖のベクトルは、もっと根本的なところへ向かっていた。
(俺の秘密って……)
直哉は、《因果集結クロニクル》という、自分が抱えている最大の秘密のことを思った。
ガチャというシステム。
セナや伊織、エレノアといった、自分とは全く異なる人物へ変身する能力。
さらに、エレノアのプロフィールに書かれていた『夜行館』なんていう、直哉自身すら聞いたこともない謎の組織の名前。
(あいつ、俺のことをどこまで調べられるんだ?)
少しだけ、背筋が寒くなる。
ただ、直哉は冷静に考えた。
(いや、まだ俺の核心の秘密を知っているわけじゃないはずだ)
(知らないからこそ、わざわざ興味を引くようなカードを残して、俺を試したんだろうけど)
そう考えて、少しだけ心を落ち着かせた。
警備責任者が、無線からの報告を片耳で聞きながら言った。
「ナオさん。この件に関するさらに詳しい聞き取りは、競売会が終了した後に警備本部で行います」
「承知いたしました」
そして、責任者が無線のマイクを握り直し、全体への指示を飛ばし始めた。
「会場内の全ての設備、全商品の状態、参加者の現在位置、照明および電源設備のルート。全てを今一度、完全に再点検しろ!」
レセプションの進行は、完全に一時停止状態となった。
参加者たちは、会場の壁際に集められたまま、不安そうに待機させられている。
当然、あちこちからざわざわと声が上がっていた。
「結局、今の騒ぎはノクターンだったのか?」
「何か盗まれたのか?」
「いや、宝石はずっとケースの中にあったらしいぞ」
直哉は、その光景を見ながらため息をついた。
(まあ、これで今日のオークションは中止だろうな)
数百人の世界的な富豪や能力者。
そこへ、誰も捕まえたことのない怪盗が侵入し、物理的な停電工作まで行い、幻術で警備員を翻弄したのだ。
普通に考えれば、これ以上イベントを続行するなどあり得ない。
ところが。
数十分後。
全ての警備と安全確認の再点検が終了した。
盗難、なし。負傷者、なし。危険物の設置、なし。
ノクターンの幻術らしき認識干渉も、現在は一切確認されていない。
その上で。
主催側の初老の司会者が、再び壇上へと進み出た。
直哉は思った。
(ああ、ついに中止の謝罪と説明だな)
司会者はマイクを握り、深々と一礼した。
「皆様、大変お待たせいたしました」
「会場内の安全確認が、完全に完了いたしましたので――」
司会者は、一拍置いてから、よく通る声で高らかに宣言した。
「本日の競売会を、予定を一部変更した上で、これより再開いたします!」
直哉の思考が、一瞬停止した。
(…………)
(続けるの!?)
直哉の驚きとは裏腹に。
会場の参加者たちからは、非難の声ではなく、むしろ安堵の拍手が湧き起こった。
「よかった。中止にならないのか」
「せっかくヨーロッパから飛行機で来たんだからな」
「目当ての品がまだあるんだ。早く始めてくれ」
彼らは、普通にオークションの再開を歓迎しているのだ。
直哉は、心底呆れ果てた。
(たくましすぎるだろ、この人たち!)
だが、よくよく考えてみれば合理的な話だ。
海外から時間と莫大な費用をかけてやってきたバイヤーたち。この日、この場所でしか売買できない希少品の数々。数億円、数十億円単位の商談が動く市場。
怪盗が出たからといって、ホイホイと簡単に中止にできるような規模のイベントではないのだ。
ノアが、直哉の顔を見てニヤリと笑った。
「何驚いてんの?」
エレノアが、静かに答える。
「いえ。てっきり、本日はこのまま中止になるものかと」
ノアが肩をすくめた。
「何も盗まれてないじゃん」
「怪盗の予告状が出ただけで毎回イベントを中止してたら、それこそノクターンに狙われたオークション、全部ただで潰せるだろ」
直哉は、深く納得した。
(……確かに)
予告するだけでイベントの開催そのものを破壊できるなら、それ自体が完璧な攻撃手段になってしまう。
安全が確保できたのなら、意地でも開催する。それがこの裏社会の経済のルールなのだ。
警備の配置が再編され、直哉は引き続き遊撃の警備担当として会場を回ることになった。
ノアは、「じゃあな」と手を振って、一般客のエリアへと戻っていった。
怪盗の再出現を警戒しつつも、ついに本物の競売(オークション)の幕が上がった。
直哉は、これまで「裏のオークション」と聞いていながら一度も競りの光景を見たことがなかったので、少し興味津々で壇上を見守った。
第一の商品。
『《群青晶(ぐんじょうしょう)》』
安定した極めて少数の異界領域でしか採掘されないという、半透明の美しい鉱石だ。
能力者の装備品や、特殊な研究素材として使われるらしい。
司会者がハンマーを掲げた。
「それでは、開始価格。三百万円から」
その直後だった。
会場のあちこちから、参加者の持つ札が次々と跳ね上がった。
「五百万」
「八百万」
「一千二百万」
直哉の内心が、悲鳴を上げた。
(早い早い早い!!)
たった数秒で、開始価格の三百万円が一千万をあっさりと超え、最終的に一千八百万円で海外のバイヤーに落札されていった。
直哉は、冷や汗を流した。
現在、直哉の能力者としての累計収入は、紅城院家からの追加報酬も合わせて一千万円を超えている。
少し前までの無職の自分なら、「一千万円!? 一生縁がない!」と叫んでいただろう。今は自分の銀行口座にも、現実にその大金がある。
でも。
(だからって、ただの光る石っころ一個に二千万なんて、絶対に出せねえよ!)
直哉の三十四歳の庶民的な金銭感覚は、大金を持ったからといって急にバグったりはしなかった。
もっとも、値段に驚いている間も警備を忘れたわけではない。
先ほどまでなら、目に映ったものをそのまま見ていた。
だが、今は違う。
スタッフが通れば、その足音まで確認する。展示台を見れば、周囲の警備員の視線も見る。視界の端で人影が動けば、本当に床へ影を落としているかまで無意識に追ってしまう。
(……完全に幻術がトラウマになってるな、俺)
第二の商品は、怪異由来の素材だった。
『《濡女の髪束》』
『《夜泣き石の欠片》』
直哉は、そのグロテスクな商品名を見て顔をしかめた。
だが、当然だが生きた怪異そのものがオークションにかけられているわけではない。適法な手続きを経て処理・採取され、必要な安全確認を受けた『素材』だ。
これらは、国の研究機関や、能力者向けの特殊装備メーカー、あるいは古くからの寺社関係者たちが、激しい競り合いの末に高額で落札していった。
直哉は、感心したように頷いた。
(素材扱いなんだな……。怪異を倒すだけじゃなくて、こうやって経済に還元されてるのか)
裏社会のエコシステムの一端を、垣間見た気がした。
第三の商品。
これは、直哉のゲーマー魂に深く刺さるものだった。
世界的に有名な防護系の能力者が製作したという、『致命的な攻撃のダメージを一度だけ大幅に軽減する護符』。
直哉の目が輝いた。
(これ、普通にめちゃくちゃ欲しいな)
回復薬や防御バフアイテムの現実版だ。これがあれば、ノアのような格上の相手と戦う時でも、一発で致命傷を負うリスクをかなり減らすことができる。
だが、司会者が告げた値段を聞いて、直哉は即座に諦めた。
「開始価格、八百万円」
落札価格は、あっという間に三千万円に達した。
直哉は遠い目をした。
(無理無理無理)
(ガチャはタダで引ける石があるけど、現実のレア装備ってこんなに高いのかよ!)
「三千万なら、まあそんなもんじゃね?」
いつの間にかエレノアの横に戻ってきて、ケーキの皿を持っていたノアが、呑気な声で言った。
エレノアは、呆れたように返した。
「……随分と、金銭感覚がお強いことで」
ノアが肩をすくめる。
「うちの家の暗殺の仕事、一件受けたらもっと桁が違うくらい高いし」
直哉の内心が、(さすが暗殺一家ぁ……)とドン引きしていた。
そして。
ある海外由来の特殊なアイテムが出品された時のことだ。
それは、重篤な怪異の呪いや毒を解呪するための、極めて希少な『治療用素材』だった。
直哉がぼんやり見ていると、横にいたノアが突然、スッと札を上げたのだ。
「五千万」
直哉は目を剥いた。
(!?)
別の客が応戦する。
「六千万」
ノアが、キャンディを舐めながら即座に返す。
「七千万」
直哉の内心がパニックになった。
(ちょっと待てクソガキ!! お前、何千万の買い物をコンビニ感覚でしてんだよ!!)
結局、その希少な治療素材は、ノアが八千五百万円で落札してしまった。
エレノアが、思わず尋ねた。
「随分と高価なお買い物ですね。ご自身のものですか?」
ノアは首を振った。
「俺のじゃないよ」
「では?」
「家から、『これが出品されたら絶対に買ってこい』って頼まれてたやつ。うちの専属の治療担当が、研究用にどうしても欲しいってうるさくてさ」
ここでようやく、直哉の中で全てのピースが繋がった。
ノアが今日、このオークション会場へやって来た『本当の理由』だ。
彼はただ遊びに来たわけではない。暗殺の依頼があったわけでもない。
ヴァレリウス家からのお使いとして、この品を競り落とすために、正式な招待客としてここへ来ていたのだ。
競売も終盤に差し掛かり。
ついに、あの目玉商品が再び壇上へと姿を現した。
司会者が、興奮気味に声を張り上げる。
「続きまして――先ほど、怪盗ノクターンの魔の手から見事に守り抜かれた、本日の最高峰の至宝! 《祝福されし宝石》でございます!」
会場の熱気が、最高潮に達する。
ノアは、その宝石を一瞥して、つまらなそうに言った。
「やっぱ、いらね」
エレノアは、完璧な微笑みで返した。
「先ほどから、一貫しておられますね」
「俺は、あっちのケーキの方がいい」
直哉の内心は、(怪盗と暗殺者で、あの国宝級の宝石の評価が完全に一致してんの、なんか腹立つな)と呆れていた。
当然ながら、その宝石は直哉が「家を買うどころの騒ぎじゃねえ!!」と叫びたくなるような、億単位の超高額で海外の富豪へと落札されていった。
楽しい競売の光景ではあったが、直哉は警備員としての職務を忘れてはいなかった。
客の動き。天井の影。スタッフの動線。舞台裏への扉。
そして、あの黒いカード。
(どこかに、まだあいつが隠れてるんじゃないか?)
直哉は目を凝らし続けた。
だが。
結局、競売会が全て終了するまで、何も起きなかった。
新たな幻術も、盗難も、怪盗の姿も。
ノクターンは、最初の宝石消失のイリュージョンを見せただけで、本当に目的を達成して帰ってしまったらしい。
それが逆に、直哉にとっては不気味で恐ろしかった。
夜遅く。
予定より少し遅れて、競売会は無事に終了した。
全商品の確認が終わり、盗難被害はゼロ。参加者の重大な負傷やパニックによる事故もゼロ。
怪盗ノクターンを確保することはできなかった。
だが、警備の契約上は。
警備責任者が、エレノアの前へ来て深く頭を下げた。
「ナオさん、長丁場お疲れ様でした」
エレノアも、優雅に一礼を返す。
「お疲れ様でございました」
責任者は、書類のタブレットにサインをしながら言った。
「本日の特別警備案件については、無事に『正常終了』として処理させていただきます」
直哉は、少しだけ戸惑って聞き返した。
「……よろしいのですか?」
「何がです?」
「あの怪盗を、取り逃がしておりますが」
責任者は、ブリーフィングでの説明をもう一度繰り返した。
「あなたの契約は、怪盗を逮捕することではありません」
「盗難を防ぎ、参加者を無事に守ることです」
商品は一つも盗まれていない。誰も怪我をしていない。
だから、これは完全な『成功』だ。
直哉は、その言葉に少しだけ救われた気がした。
(そっか)
警備というのは、敵を倒す仕事ではない。何も起きず、守るべきものが守られれば、それで成功なのだ。
今回は怪盗に手玉に取られ、完全に遊ばれた。
でも、客も商品も守り切った。だから仕事としては成功だ。
三十四歳の元社会人として、この割り切った職業観は、直哉の肌に非常に合っていた。
だが、帰り支度をしているノアは全く納得していなかった。
「……勝ってねえけどな」
エレノアが、呆れたように言う。
「まだ仰るのですか?」
「当たり前だろ! あんな屈辱的な負け方して、納得いくかよ!」
「私は、無事に警備の報酬をいただけますので、十分でございます」
ノアが吐き捨てる。
「くっそ、社会人みたいな顔しやがって」
直哉の内心が、(いや、俺は元から立派な社会人だったんだよ)と突っ込んだ。
ノアは、家から頼まれた高額な購入品の受け取り手続きがあるため、ここで別れることになった。
別れ際。
「じゃあな、ナオ」
エレノアが、静かに頷く。
「ええ。お気をつけて、ノア」
少しの間。
ノアが、ニヤリと笑って言った。
「次、あいつを見つけたら、絶対俺に連絡しろよ」
エレノアが首を傾げる。
「なぜ私が?」
「二人で捕まえるって、今日決めたばっかりだろ」
「本日限りの、一時的な協力関係だったはずですが」
「細けえな!」
ノアは、絶対に諦めていない暗殺者の目をして言った。
「次は、絶対騙されねえ」
エレノアは、少しだけ面白そうに微笑んだ。
「それは、あちらも重々承知しているでしょうね」
ノアが嫌そうな顔をする。
「…………」
「そういうこと、言うなよ」
二人は、そこで別れた。
敵から友達になったわけではない。ただの、奇妙な『知り合い』だ。
それくらいの距離感が、今はちょうどよかった。
直哉は、そのまま家に帰ることはできなかった。
エレノアの姿のまま、警備本部の別室で、ノクターンの事件についての正式な事後聞き取りが行われた。
時間停止の際に見たもの。
怪盗の足元にある埃が、全力で走っていたはずなのにほとんど乱れていなかったこと。
ナイフが突然、見えなくなったこと。
ノアが気づいた、呼吸や足音、重心移動のなさ。
そして、あのカードの内容。
直哉は、自分が覚えている範囲の事実を、正確に報告した。
警備本部側でも、まだノクターンの能力の完全な特定には至っていない。
「認識干渉系の幻術である可能性が高い」という、暫定的な分類だ。
記憶の改竄は確認されていない。
強制的な行動操作もなし。
視覚や聴覚に対する錯覚が中心。
空間へ事前に幻影を構築できる可能性。
停止した世界でも、像が残っていたこと。
全てが、まだ暫定だ。
だが、警備責任者が最も重く見ているのは、やはりあのカードだった。
「能力そのものよりも、このカードの件を最優先で上層部へ報告します」
昨日の襲撃事件の情報の漏洩。
そして、《ナオ》という一人の能力者への、怪盗からの明確な興味。
直哉の内心も、(やっぱ、そこだよな)と重く沈んでいた。
全ての業務が終わり、直哉はホテルの従業員用の控室でエレノアの変身を解除した。
元の三十四歳の男の姿に戻り、着替えてホッと息をついたところへ。
スマートフォンが震えた。
画面には、『霧島』の名前が表示されている。
直哉は、すぐに電話に出た。
「もしもし」
『夜遅くに申し訳ありません、森川さん。お疲れ様です』
直哉は苦笑した。
「報告、そちらにもう届いてるんですね。早いですね……」
『ええ。怪盗ノクターンが絡む事案ですから。警備本部から直接私へ連絡が入りました』
ここから、霧島の声が真面目なトーンに変わった。
『率直に申し上げます』
『《怪盗ノクターン》は、森川さん個人に対して、明確な興味を持ったと考えた方がいいでしょう』
直哉は小さく息を吐いた。
「……ですよね」
本人も、あのカードを見た時から分かっていた。
だが、霧島は必要以上に直哉を脅かすようなことはしなかった。
『ご安心ください。現時点での分析では、ノクターンが森川さんへ直接的な危害を加える意図は確認できません』
実際、これまでノクターンによる殺人は確認されていない。今回も、パニックは起きたが負傷者はゼロだ。
ただし。
『あなたの個人的な秘密を調べられることと、身の安全が保証されていることは、全く別の問題です』
直哉の心臓が、少しだけ跳ねた。
「昨日の俺の件、あいつ知ってましたよね」
『はい。それが最も問題なのです』
八咫烏側でも、急ピッチで調査を進めている。
だが、現時点では情報漏洩の元は全くの不明だ。
現場の警察。八咫烏の内部。紅城院側の警備班。ヴァレリウス家。
事件に関わった人間は多いが、どこから、どうやってたった一日で情報を拾い上げたのか、全く見当がつかない。
直哉は、怪盗の言葉を思い出した。
「本人は、『情報も盗める』って言ってましたけど」
霧島は、実務家らしく冷静に切り捨てた。
『それが、彼の能力の正確な説明だとは限りません』
ハッキング。盗聴。会場への潜入。協力者の存在。公開情報の巧みな組み合わせ。
あるいは、本当に未知の能力。
どれもあり得る。
『怪盗が自分で言った、いかにもそれらしいカッコいい台詞を、能力の仕様としてそのまま信用してはいけません』
直哉は、深く頷いた。
直哉は、少し迷ってから、一番恐れていることを口にした。
「……俺の、能力の正体のことも、あいつに調べられますかね?」
霧島は、一拍置いてから答えた。
『可能性はあります』
しかし。
『少なくとも、我々八咫烏が把握している森川さんの能力や個人情報に関するデータについては、本日から取り扱い区分をさらに上の機密レベルへ引き上げます』
ここで、八咫烏が強力な味方として動いてくれることを約束してくれた。
『ですが、相手は過去に複数国で国家レベルの機密情報の窃取を成功させている人物です。絶対に漏れないとは、私からは申し上げられません』
直哉は苦笑した。
「ですよね……。でも、ありがとうございます」
変に「絶対大丈夫です」と嘘をつかれない方が、直哉にとってはよほど誠実で信頼できた。
『ノクターンと思われる人物、予告状、新たなカード、その他の接触があった場合は、どんな些細なことでも可能な限り早くこちらへ報告してください』
『そして、絶対に一人で追いかけないでください』
直哉は内心で、(今日は警備の指示で追いかけたけど、仕事じゃない時に同じことをやるなってことだよな)と理解した。
『今日の件を問題にしているわけではありません。今後、個人的に接触した場合の話です』
「分かりました」
「ちなみに、あの暗殺者のノアも一緒になって追いかけてましたけど」
霧島の声に、深い疲労感が滲み出た。
『……警備の報告書にありました』
『なぜ、昨日あなたを殺そうとした襲撃者と、今日は仲良く共同で怪盗を追跡しているのでしょうか……』
直哉は笑うしかなかった。
「俺にも、なんでこんなことになってるのかよく分かりません」
ノアが正式な招待客として入場していたことも、霧島はすでに把握していた。その辺りはすでに関係機関の処理ラインに乗っているらしく、直哉が対応する必要はないとのことだった。
「分かりました」
怪盗の話は、ここで一区切りついた。
霧島が、少しだけホッとしたような声で言った。
『今日は色々とありすぎましたね。もうお家に帰って、ゆっくり休んでください』
「はい。ありがとうございます」
直哉が、通話終了のボタンを押そうとした、その時だった。
『ああ、森川さん』
「はい?」
『もう一件、重要な連絡がありました』
直哉の顔が、サァッと青ざめた。
(えっ、待って。まだ何かあるのかよ……)
今日一日。
怪盗の予告。幻術。ノアとの再会。オークション。そして情報漏洩。
もう、非日常のイベントはお腹いっぱいだ。
直哉は、恐る恐る尋ねた。
「何でしょう?」
霧島の声が、少しだけ明るくなった。
『先日お願いしていた、新しいキャラクターの取得の、一時的な保留についてです』
直哉の思考が、ピタリと止まった。
(……来た)
霧島は、事務的なトーンで説明した。
『エレノアさんに関するTier2登録の行政更新と、今日までに報告いただいた追加の能力記録……《万象再演》などのデータも含めて、必要な書類処理の目処が立ちました』
もちろん、これで能力の追加測定が完全に終了したわけではない。必要があれば、後日また追加の検証を行う。
だが。
直哉の『新しいキャラクターの取得』を、行政の都合で止め続ける必要はなくなったのだ。
『今後、新しいキャラクターを取得された場合は、ガチャを回した後にまずこちらへご連絡ください』
『内容を聞いた上で、八咫烏側で追加の測定が必要かどうかを判断します』
毎回、「ガチャ禁止→測定→許可」という面倒なプロセスを踏む必要はない。
「取得→事後報告→必要なら測定」。
これで運用していくという決定だ。
直哉の心臓が、早鐘のように打ち始めた。
「ということは……」
霧島は、ハッキリと告げた。
『はい。もう、新しいキャラクターを取得していただいて構いません』
直哉の頭の中から、怪盗のことも、暗殺者のことも、一瞬で彼方へと吹き飛んだ。
霧島が、少しだけ気遣うように言った。
『限定募集の期限があると、仰っていましたよね』
直哉は、思わず大きな声を出した。
「はい!」
『間に合いましたか?』
直哉は、スマートフォンを耳に当てたまま、視界の《因果集結クロニクル》のシステム画面を開いた。
限定キャラクターのバナー。
その開催期間は、すでに残り四日を切っている。
直哉の口元が、大きく緩んだ。
(間に合った……!!)
そして、天井までのカウント。
『★5キャラクター確定まで:30回以内』
『次回★5:ピックアップ対象確定』
現在の所持因果晶。
『12,800』
三十連を回すのに必要な石は、4,800だ。
余裕で足りる。
直哉は、電話口で即答した。
「大丈夫です! 完全に間に合いました!」
『それは良かったです』
「霧島さん、本当にありがとうございます!」
霧島は、少しだけ照れくさそうに返した。
『いえ。こちらから無理をお願いしたことですから。当然の処理をしたまでです』
事務的だが、親切で確実。
「限定の期限に間に合わせる」という約束を、彼女はきちんと守ってくれたのだ。
直哉は、かつて働いていたブラック企業の理不尽な上司たちを思い出し、深く感動していた。
(ちゃんと俺の都合を聞いて、ちゃんと優先して処理して、ちゃんと期限に間に合わせてくれた)
(……八咫烏、マジで最高のホワイトな職場だな!)
八咫烏は直哉の勤務先ではないのだが、彼の中での組織への信頼度はストップ高に達していた。
『では、お疲れ様でした。良い夜を』
「はい。お疲れ様です!」
電話が切れた。
控室に、数秒の静寂が訪れる。
直哉は、一人で小さくガッツポーズをした。
夜遅く。
直哉は実家へと帰り着き、シャワーを浴びてジャージに着替え、自室のベッドに寝転がった。
ようやく、本当に今日一日の全ての仕事が終了したのだ。
暗殺者との再会。一緒に怪盗を追跡し、見事に幻術で騙され、自分が本命だと知らされ、競売会の裏側を覗き、霧島から報告を受けた。
直哉は天井を見上げながら呟いた。
「濃すぎるだろ、今日……」
だが、彼の視線は天井ではなく、視界の右上に展開されたままのシステム画面へと釘付けになっていた。
《因果集結クロニクル》。
限定キャラクターバナー。
そこに描かれている、あの白髪の★5キャラクター。
現在の数字を、直哉はもう一度、一文字ずつ確認した。
『因果晶:12,800』
『★5キャラクター確定まで:30回以内』
『次回★5:ピックアップ対象確定』
直哉は、頭の中で素早く計算した。
三十連。160石 × 30回。消費は4,800石。
手持ちの12,800から4,800を引く。
残る石は、8,000。
つまり。
この限定★5を『確定で』手に入れた後も、まだ五十連分の石が手元に残るのだ。
直哉は、深く、深く息を吐き出した。
(美しい……完璧すぎる)
ゲーマーとしての、至高の安心感。
前回の緊急ガチャのトラウマはある。
四十連回して、セナ、セナ、伊織と重複し、最後に引いたエレノアはすり抜けだった。
でも、今回は違う。
『次回ピックアップ確定』という、絶対のシステム保証があるのだ。
(今度は、絶対に逃げない)
(三十連以内で、絶対にこいつが出る)
今日、エレノアがいなければ、ノクターンの幻術の起点にすら気づけなかったかもしれない。
時間停止、無数のナイフ、社交能力、語学力。全てが圧倒的に便利で強力だった。
(★5って、やっぱすげえわ)
そして次も、その★5が確定で来るのだ。期待が限界まで膨らみ上がる。
一瞬だけ。
あの黒いカードの文言が頭をよぎった。
『あなたの秘密を、頂戴できれば幸いです』
これからさらに新しいキャラクターが増え、能力が増えれば、直哉の秘密はより巨大で複雑なものになる。怪盗がまた現れるかもしれない。
少しだけ、不安がないわけではない。
(……まあ)
直哉は、すぐにその思考を振り払った。
(今考えても仕方ないだろ)
直哉の視界の中心に、黄金色に輝く『10回集結』のボタンがある。
因果晶1,600。
三回押せば、確定圏内だ。
直哉は、ゆっくりと指を上げた。
「……三十連」
画面の数字を、もう一度見る。
『★5キャラクター確定まで:30回以内』
『次回★5:ピックアップ対象確定』
直哉の口元が、ニヤリと上がった。
「今度こそ、ピックアップの目玉をもらうぞ」
直哉の指先が、光り輝く『10回集結』のボタンへと、静かに触れようとしていた。
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