俺の異能が中華ゲーだった ~34歳無職、ガチャで引いたキャラに変身して働きます~   作:パラレル・ゲーマー

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第56話 京都の守護者、この人一人でよくないですか?

 千鶴が、京都で《解く鍵》が使われたことを告げた直後。

 会議室の空気は、事前の情報共有という生ぬるいものから、完全な『実戦』のそれへと切り替わった。

 

 千鶴、エリーズ、霧島、そして白峰レイジの姿をとる直哉の四人は、即座に会議室を飛び出した。

 千鶴の付き人や、京都呪術協会の実務担当者たちは、すでに別の車両で現場への先行や周辺の調整に動いている。

 

 直哉たち四人が乗り込んだのは、協会が手配した黒塗りの大型車両だった。

 

 最初の《解く鍵》の『試し撃ち』が行われたと推測される現場。

 それは、京都市内にある、古く小さな社(やしろ)だという。

 現在では、重要度の極めて低い補助結界の節点の一つに過ぎない。中に何か凶悪な怪異を封印しているわけでもなく、仮にその節点が一つ壊れたところで、即座に京都の街に大惨事が起きるような場所ではない。

 

 だからこそ、犯人はそこを『実験場』に選んだのだろう。

 

 車内は、緊迫した空気に包まれていた。

 直哉は、レイジの落ち着いた声色で、隣に座る霧島へと丁寧に尋ねた。

 

「霧島さん。念のため、東京の施設にいる御影千里も、こちらの京都へ呼んでおいた方がよろしいでしょうか?」

 

 直哉の内心としては、(こういう目に見えない相手の捜索なら、千里の《天眼》の出番だろ)という、極めて自然なゲーマー的発想だった。

 

 しかし、霧島は少しだけ考えてから、首を横に振った。

 

「現時点では、彼女を招集する必要性はそれほど高くないかと思います」

 

 レイジが、少し意外そうに聞き返す。

「そうなのですか?」

 

「はい。京都市内に限定した観測と索敵であれば。現在、こちらの車内に『鏡宮千鶴様』がおられますので」

 

 霧島は、別にお世辞や京都側への忖度でそう言っているわけではなかった。

 能力の性質と現状の条件を天秤にかけた、極めて合理的な事実の提示だった。

 

 霧島が、小声でレイジにだけ補足する。

 千里の《天眼》と《広域索引》は、確かに地球規模という異常な射程を持っている。

 しかし、今回探さなければならない範囲は『京都』に限定されている。

 

 しかも、今必要なのは、単に空から人間を探す力ではない。

 京都の複雑な結界の構造。封印の繋がり。寺社の配置。旧家の位置。人外の領域。そして、目に見えない霊的な『接続の糸』についての、深い知識込みの観測なのだ。

 

 その点においては。

 京都という土地のシステムそのものへ直接接続している千鶴の方が、圧倒的に適任である。

 

 ましてや、現状。

 犯人の顔も、名前も、国籍すら分からないのだ。

 千里の《広域索引》へ入力するための、『強い検索キー』が一つも存在しない。

 

「御影さんをこの場に追加していただいたとしても、現時点では、事態の観測能力が大幅に改善するとは考えにくいでしょう」

 

 レイジは、静かに頷いた。

 

「……なるほど。承知いたしました」

 

 直哉の内心は。

(確かに。範囲が京都に限定されてて、顔写真もないなら。この千鶴って人が、ほぼ千里の完全上位互換みたいな状態になってるんだよな)

 と、深く納得していた。

 

 向かいの席に座っていた千鶴が、ふわりと少しだけ笑った。

 

「わたくし一人で、京都の何でも全てが分かる、というほど大層なものでもございませんよ」

 

 直哉は、内心で激しくツッコミを入れていた。

(いやいやいや!)

(京都中のあらゆる反射面から監視できて。結界網に常時接続してて。推定実効戦力Tier0.5相当で。過去何百年分もの歴代当主の記憶を持ってる二十歳が、何を言ってんだ!)

(十分すぎるほど大層だよ!!)

 

 ただ、レイジの口から出力される言葉は、極めて紳士的なものだった。

 

「状況が変化し、必要になれば、その時に改めて御影を呼ぶことにいたします」

 

 千鶴は、満足そうに頷いた。

「ええ。それがよろしおすな」

 

 車は、目的の古い小さな社へと到着した。

 

 そこは、観光客が訪れるような華やかな名所ではない。

 住宅地と、古い入り組んだ路地の一角に、ひっそりと取り残されたように存在している、薄暗い場所だった。

 

 しかし、現場はすでに物々しい空気に包まれていた。

 

 周辺には、京都府警の警察官たちが多数配置され、黄色い規制線を張っている。鑑識の腕章をつけた捜査員や、スーツ姿の京都呪術協会の職員たちが、慌ただしく動き回っていた。

 

 直哉は、車を降りて周囲を見回した。

(うわ。もう、表の警察まで本格的に動いてるのか)

 

 千鶴が、個人的に警察へ「あそこを調べろ」と命令を下しているわけではない。

 京都呪術協会と京都府警の間には、こうした超常案件が発生した際の、正式なホットラインと協定が存在しているのだ。

 

 千鶴が先ほどの会議中に異常を察知した直後、京都側の職員がすぐに府警へ連絡を入れた。

 その結果、すでに現場の保存と、周辺住民への聞き込み調査までが迅速に開始されていたのだ。

 

 千鶴が、現場の規制線をくぐって敷地内へと入る。

 

 現場の担当警察官と、京都側の職員が、小走りで彼女の元へと駆け寄り、深く頭を下げた。

 

 千鶴は、極めて穏やかな声で労った。

 

「皆様、朝早くからご苦労様でございます」

 

 二十歳の、まだあどけなさすら残る女性だ。

 しかし、京都側の職員も、そして五十代くらいのベテランの警察官でさえも、普通に彼女を『京都側の超常案件における最重要人物』として扱い、恭しく報告を上げている。

 

 直哉は、その光景を後ろから眺めながら。

(本当にこの人、京都の裏社会では、絶対的な別格の存在なんだな……)

 と、改めてその権力の強さを実感していた。

 

 府警の担当者が、これまでに集めた情報を手短に報告する。

 

 事件の発生時刻と推測される時間帯の前後。

 この小さな社の周辺の路地で、『普段は見かけない、複数人の男女の集団』を目撃したという証言が、近隣の住民から複数上がっているという。

 

 証言を統合すると。

 数人の、日本人と思われる者。

 そして、数人の、外国人と思われる者。

 彼らが一緒に固まって行動していたという証言もある。

 

 ただし、証言ごとに人数のバラつきがある。

 五人だった。いや、六人くらいだった。もっと奥に隠れていたかもしれない。

 その程度の、曖昧なものだ。

 

 エリーズが、鋭く質問した。

「その外国人というのは、観光客ではないのですか?」

 

 京都という土地柄、外国人の観光客が歩いていること自体は、全く珍しいことではない。

 

 担当警察官が首を振る。

「この社は、観光ルートからは完全に外れた裏道です。目撃者の一人も、『カメラを持った観光客っぽい雰囲気ではなかった』と証言しています」

 

 周囲の道を何度か確認し、警戒しているようだった。

 社の位置を最初から知っているように、迷わずに敷地内へと入っていった。

 日本人と外国人が、共通の言語で普通に会話を交わしていた。

 中には、大きめの鞄やケースを持っていた者がいた、という証言もある。

 

 だが。それが、教会から盗まれた《天国の双鍵》の特殊保管ケースだったと、完全に断定できるほどの鮮明な情報ではない。

 

 霧島が、最も重要なポイントを確認した。

 

「その集団の、顔や特徴を確認できる映像記録はありますか?」

 

 府警の担当者が、悔しそうに答える。

「現時点では、ありません」

 

 周辺の防犯カメラ。コインパーキングの車載カメラ。店舗のカメラ。

 映像自体はいくつか回収されている。

 しかし、全員が帽子を目深に被り、マスクをしている。カメラの角度も悪く、距離も遠い。

 

 顔の明確な特徴を割り出し、それを千里へ検索キーとして渡せるほど、鮮明な映像は一つも残っていなかった。

 

 直哉は、内心で舌打ちをした。

(ここで、顔がハッキリ写った写真が一枚でもあれば、即座に千里の出番なんだけどなぁ……。上手くいかないもんだ)

 相手も、カメラの位置くらいは計算して動いているプロだ。

 

 だが、この聞き込み調査によって。

 犯人グループの『大まかな輪郭』だけは、確実に見えてきた。

 

 しかも、日本人と外国人の混成グループ。

 

 エリーズの表情が、さらに硬くなった。

 教会から厳重な秘奥を盗み出し、ダミールートを使って日本へ運び、さらに京都の複雑な超常事情を理解した上で、ピンポイントで結界の節点を狙っている。

 

 一人の天才的な怪盗の仕業などではない。

 ある程度の規模を持った、高度に組織化された国際的な犯罪チームだ。

 

 ただし、彼らが何という組織なのか、その正体まではまだ分からない。

 

 千鶴が、社の奥へと進んでいく。

 直哉たちもそれに続く。

 

 一般の警察官には見えない、古い霊的な術式の痕跡。

 千鶴は、その空間をじっと見つめて、節点の状態を確認した。

 

 社の建物そのものに、物理的な破壊はない。

 術式自体も、ほぼ無傷のまま残っている。

 

 ただ。

 この社と、京都の巨大な結界網とを繋いでいた、『霊的な関係性の糸』だけが。完全に消え失せている。

 

 千鶴が、忌々しそうに言った。

 

「……やはり。見事に、綺麗に外されておりますなぁ」

 

 エリーズも、教会の専門家としての視点でその空間の痕跡を確認した。

「間違いありません。《解く鍵》が、ここで使用されています」

 

 レイジが周囲の気配の違和感に気がつき、千鶴へ尋ねた。

 

「鏡宮様。現在も、この社から周辺のエリアは、あなたの『観測網』で捉えることができているのでしょうか?」

 

 千鶴が、少しだけ目を細めて、レイジを見上げた。

 

「……いいえ」

 

 単に、結界の節点が一つ外されただけではないのだ。

 この節点を基点としていた、一定範囲の周辺地域ごと。鏡宮家の持つ京都のネットワークシステムから、完全に『切断』されてしまっている。

 

 つまり。

 この社の周辺に存在している、鏡。窓ガラス。水面。ありとあらゆる反射物。

 それらが物理的にそこに存在していても。

 今の千鶴の観測網には、全く繋がらないのだ。

 

 千鶴が、静かに言った。

 

「今、この場所は。物理的には京都の街の中にございますけれど」

 

「わたくしの目からは、完全に『外れて』おります」

 

 直哉は。

(……そんなこと、できるのか)

 と驚愕していた。

 

 昨夜、霧島から話を聞いた時は、「京都にいる限り、どこにいても千鶴から見られている」と思っていた。

 その完全無欠の京都のシステムに。

 初めて、明確な『死角の穴』が穿たれたのだ。

 

 霧島が、実務的な対応を問う。

 

「切断されたネットワークの、再接続は可能ですか?」

 

 千鶴は頷く。

「可能では、ございます」

 

 でも、今すぐ即座にポチッとボタンを押して直せるようなものではない。

 犯人が、何をどう解いたのか。

 《結ぶ鍵》を使って、何か別の厄介なものへと接続を切り替えられていないか。

 節点そのものに、未知の呪いの時限爆弾が細工されていないか。

 

 それら全てを、専門の術者が時間をかけて完全に安全確認しなければ、非常に危険なのだ。

 

 下手に強引に繋ぎ直せば。

 京都の本体のネットワークへ向けて、敵側の仕掛けたウイルスのようなものをダイレクトに流し込むことになりかねない。

 

 千鶴が言う。

「少々、時間をかけて調べてからになりますなぁ」

 

 しかし、直哉は。

 この時点では、まだそこまで強い危機感を抱いてはいなかった。

 

 現状、京都の中で『空白』になっているのは、この小さな社の周辺の一角だけだ。

 しかも、千鶴の目から見えなくなったとしても、こうして彼女本人が車で現場へやって来れば、普通に直接調査できるのだ。

 

 だから直哉は。

(まあ……遠隔カメラの電源が切られたなら、警備員が直接見回りに行けばいいだけか)

 程度に考えていた。

 まだ、千里の《天眼》を緊急で呼ぶほど事態が切迫しているとは思えなかった。

 

 社から、空白地帯の外側へと少しだけ移動した時のことだ。

 

 千鶴が、路地に停まっていた警察車両の窓ガラスを、スッと見た。

 

 ほんの一瞬。

 彼女の意識が、周辺の別方向にある無数の反射面へと飛び。

 現在の周囲の道路に、怪しい人物が残っていないかを、文字通り『一瞬』で確認した。

 

 数秒後。

 千鶴が、視線を戻して言った。

 

「もう、この辺りの外周には、それらしき方々はおられませんなぁ」

 

 直哉の内心。

(速っ……!)

 

 さらに、千鶴は言葉を続ける。

「主要な幹線道路。最寄りの駅。周辺の店舗。現在、わたくしの目が見える範囲には、怪しい一団の姿はありません」

 

 彼女の能力は、過去の録画映像を見る能力ではないので、彼らがどのルートで逃走したのかまでは分からない。

 それでも。一瞬でそこまでの広範囲をスクリーニングできる現在の観測範囲は、やはり異常だった。

 

 直哉は、心底、本気で思った。

 

 千鶴のスペック。

 京都全域の、常時監視網。

 現地の圧倒的な情報網と権力。

 結界の専門知識。

 推定実効戦力、Tier0.5相当の戦闘力。

 歴代当主の経験と知識のアーカイブ。

 

 直哉は、レイジの無表情の裏で。

 

(…………)

 

(これ、俺、いらなくない?)

 

 と、真顔で考えていた。

 

 さらに思考を進める。

(エリーズさんは、カトリックの双鍵の専門家として絶対に必要だ)

(霧島さんは、組織間のややこしい政治的調整のために絶対に必要だ)

(じゃあ、俺は……?)

 

 直哉は、一瞬考えた。

(戦闘要員、か?)

 

 千鶴の華奢な背中を見る。

(いや、でもこの人、Tier0.5なんだぞ。俺の手持ちでも最上位クラスだぞ)

 

(やっぱり、この人一人いれば、全部片付くんじゃないか!?)

 

 直哉も。

(まあ、本当に俺の手札が必要になったら、その時に動けばいいか)

 と、完全に納得してしまっていた。

 

 四人は、現場で引き続き、京都府警の集めた証言の精査を行っていた。

 

 エリーズも、目撃された外国人の特徴について、細かく質問を投げかけている。

 ヨーロッパ系か。アジア系か。言語は何語だったか。

 

 しかし、証言は曖昧だった。

「英語らしいものを話していた気がする」「日本語も聞こえた」

 その程度だ。

 ここから、犯人を特定するのは極めて難しい。

 

 そんな、膠着状態が続いていた最中だった。

 

 千鶴の表情が、突然、変わった。

 

 さっき、会議室で《解く鍵》の使用を察知した時と、全く同じ表情だった。

 

 でも、今度は、直哉たちにもすぐに分かった。

 千鶴の視線が、すぐ横に停まっていた警察車両の『窓ガラス』へと、釘付けになって止まっていたのだ。

 

「…………」

 

 霧島が、即座にその異変に反応した。

 

「鏡宮様?」

 

 千鶴が、ゆっくりと振り返った。

 

「……また、外れました」

 

 その一言で、現場の空気が、一瞬にして凍りついた。

 

 今度は、ただの使われていない補助節点などではないことは、彼女の顔を見れば明らかだった。

 

 エリーズが、鋭く問う。

「どこです!?」

 

 千鶴の表情が、かつてなく険しいものになった。

 

「今度の場所は……少々、よろしくございませんなぁ」

 

 レイジが、剣の柄に手を当てながら尋ねる。

「何がある場所なのでしょうか?」

 

 千鶴は、一拍、重い間を置いて答えた。

 

「――怪異の、封印です」

 

 全員の緊張感が、一気に爆発的に跳ね上がった。

 

 しかも。

 ただ「封印のある地域がネットワークから切断された」というだけではない。

 

 最初の場所は、ただネットワークの接続を《解く鍵》で外して、テストしただけだった。

 だが、今度は違う。

 

「封印」そのものの『結び』が、完全に外されてしまっている。

 中に閉じ込められていた危険な怪異が、いつでも外へと出られる状態になっているのだ。

 

 その直後、京都側の職員が持っていた専用端末に、緊急の通信が飛び込んできた。

 現地の周辺から、強い超常反応が確認されたという報告だ。

 

 つまり。

 封印は解かれ。怪異は、もう外へと出ている可能性が極めて高い。

 

 千鶴の態度が、さっきまでの柔らかい当主のそれから、一転した。

 完全な、戦時の指揮官の顔だった。

 

 背後にいる付き人たちへ、矢継ぎ早に指示を飛ばす。

 

「場所は――伏見区の、古い水路施設跡地です」

 

「すぐに、その周辺一帯へ一般の方を入れんように、完全な封鎖線を張ってください」

「府警にも連絡を。近隣住民の緊急避難をお願いして」

「京都の対応実働班も、全速力で向かわせてください!」

 

 次々に下される指示。そこに、一ミリの迷いもない。

 

 そして。

 千鶴が、前を向いて宣言した。

 

「わたくしが、先に参ります」

 

 霧島が、驚いて止める。

「お一人でですか!? 危険です!」

 

 千鶴は、当然のように言い放った。

 

「あんなものを放っておく方が、京都にとってよっぽど危のうございます」

 

 エリーズも、前に出る。

「私も、同行します――」

 

 千鶴が、手でそれを制した。

「皆様は、後からお車で安全にお越しください」

「現場への道案内は、うちの者に残しますので」

 

 彼女は、自分一人で、先に行くと言うのだ。

 

 千鶴が、すぐ横にある警察車両の窓ガラスへと歩み寄った。

 

『《鏡渡り・無界(むかい)》』

 

 千鶴が、その白く細い指先で、窓ガラスの表面に軽く触れる。

 

 すると。

 硬いはずのガラスの表面が。まるで水面のように、ゆらりと波打って揺れた。

 

 直哉は。

(え?)

 と目を丸くした。

 

 千鶴の指先が。

 そのまま、窓ガラスの中へとズブズブと沈み込んでいく。

 腕が。肩が。そして、身体全体が。

 

 まるで、鏡の向こう側に、全く別の空間が広がっているかのように。

 

 すうっ――。

 

 音もなく。一瞬にして、千鶴の姿がガラスの中へと吸い込まれて消えた。

 

 直哉の内心。

(うわ……。本当に、鏡の中に入って瞬間移動した……!)

 

 ただし、付き人の一人が、霧島たちに素早く説明した。

 

「当主様は、現場の『そのもの』へと直接飛んだわけではありません」

 

 《解く鍵》によって切断された地域は、鏡宮家のネットワークから丸ごと外れている。

 だから、その空白地帯の『内側』にある反射面は、《鏡渡り》の出口としても使用できないのだ。

 

 千鶴が飛んだのは、その空白地帯の最も近くにある、まだネットワークへ繋がっているギリギリ境界の反射面だ。

 そこから先は、彼女も自分の足で現場へと向かわなければならない。

 

 直哉は、納得した。

(なるほど。いくらチート能力でも、何でもかんでも好きなところへワープできるわけじゃないのか)

 千鶴の能力にも、明確な『制約』があるらしい。

 

 残された三人も、急行する。

 

 付き人が用意した猛スピードの車に。

 レイジ。エリーズ。霧島。三人が乗り込み、現場へと向かう。

 

 移動中、京都側の無線から次々と緊迫した情報が入ってくる。

 

『対象地域にて、大型の怪異らしきものを目撃!』

『一般人の避難、開始しています!』

『現在のところ、人的被害はまだ確認されていません!』

 

 レイジの手が、自然と腰の法剣の柄へと向かう。

 

 直哉の内心は。

(よし。ようやく俺の仕事の出番だな)

 と、少しだけホッとしていた。自分が必要とされる場面が来て、安心したのだ。

 

 車が、目的地周辺へと到着した。

 

 規制線を越え、空白地帯の外縁から、車は強引に敷地内へと進入する。

 

 現場に着いた。

 

 そこに、怪異がいた。

 数十年以上も封印されていた、明確に人間へ危害を加える、危険で巨大な怨念の塊のようなバケモノ。

 すでに、周辺の無人の古い建造物を薙ぎ倒し、破壊しながら暴れ狂っている。

 

 そして。

 その巨大な怪異の、真正面に。

 

 鏡宮千鶴が。

 たった一人で、静かに立っていた。

 

 怪異が、咆哮を上げて千鶴へと襲いかかる。

 

 巨大な泥のような爪。

 それとも、黒い呪いの塊か。

 超常の圧倒的な攻撃が、千鶴の華奢な身体へと直撃する――。

 

 ――しなかった。

 

 千鶴の目の前数メートルの空間で。

 怪異の攻撃の軌道そのものが。まるで、見えない巨大な『鏡面』にぶつかったかのように、不自然な角度でポキリと折れ曲がったのだ。

 

『《返照(へんしょう)・極(きわみ)》』

 

 攻撃が、そのままの威力で『返る』。

 怪異自身の身体へ。あるいは、被害の出ない安全な空の方向へと、完全に逸らされる。

 

 直哉は、レイジの視界でそれを見て。

(……は?)

 と、間抜けな声を漏らしそうになった。

 

 怪異が、怒り狂って別方向から連続で攻撃を仕掛ける。

 

 千鶴は、全く慌てていなかった。

 京都のネットワークから切り離された地域内であるため、広域観測や、直接の鏡渡りによる奇襲などの恩恵は失っているはずだ。

 

 それでも。

 千鶴本人の地力が、圧倒的なTier1の怪物なのだ。

 そして、彼女の『鏡』を操る能力そのものが使えなくなったわけではない。

 

 飛んでくる攻撃を、見えない鏡面で反射する。

 自分が受けるはずだった物理的なダメージの『位置』を、別の空間へと反射して逸らす。

 怪異の巨大な突進さえも、ベクトルを反射してあらぬ方向へと転倒させる。

 

 防戦ではない。

 ほぼ、一方的な蹂躙だった。

 

 レイジは、当然、千鶴を援護するために車から飛び出していた。

 

 腰の法剣を抜き放とうと、柄に手を掛ける。

 直哉の意識も、戦闘モードに切り替わる。

 

 でも。

 レイジは、そこから一歩も動けなかった。

 

(……あれ?)

 

 怪異の攻撃。

 千鶴が反射する。

 怪異が転倒する。

 千鶴が、隙を突いて追撃を叩き込む。

 

 直哉は。

(俺、入る場所……なくない?)

 と、剣の柄を握ったまま、完全に立ち尽くしていた。

 

 手出し無用。

 そんな言葉すら生ぬるい。レイジが下手に前に出れば、千鶴の完璧な反射の計算の邪魔になるだけだ。

 

 最後。

 

 千鶴は、怪異を力任せに粉砕して倒すのではなく。

 京都の管理者らしく、『再封印』することを選んだ。

 

 怪異の足元にある、大きく割れた窓ガラスの破片。

 そこに、陽光の反射が生まれる。

 

 千鶴が、冷酷なまでに美しい声で告げた。

 

「お帰りくださいませ」

 

『《鏡中封印(きょうちゅうふういん)》』

 

 怪異の巨大な身体が。

 まるでブラックホールに吸い込まれるように、その小さなガラスの破片の『鏡面』の中へと、ズブズブと強引に引き込まれていく。

 

 怪異が絶叫し、激しく抵抗する。

 だが、千鶴の圧倒的な力に完全に押し切られ。

 

 最後には。

 怪異の姿は、完全に現実の空間から消え去った。

 

 一時的に、鏡の中の空間《鏡中》へと隔離したのだ。

 本来の封印施設の修復が終わるまで、鏡宮家側でこのまま安全に保持するのだろう。

 

 戦闘が、終わった。

 完全な静寂が、現場に降りてきた。

 

 レイジは、法剣の柄に手を掛けたまま。

 結局、一度も剣を抜くことなく、ただ突っ立っていた。

 

 直哉の内心は。

「…………」

 

(この人、一人でいいじゃん!!)

 

 本気で、心の底からそう思った。

 

(広域の観測、できます)

(京都中を、《鏡渡り》で高速移動できます)

(推定戦力、Tier0.5です)

(怪異の攻撃、片っ端から反射します)

(巨大な怪異まで、自分一人でノーダメージで封印できます)

 

 直哉は、深い虚無感と共に自問自答した。

(……俺、マジで何しに京都まで呼ばれたんだ?)

 

 だが。

 そんなコメディのような直哉の内心を。

 エリーズの冷徹な声が、一瞬にして現実に引き戻した。

 

 エリーズが、歩み寄りながら千鶴に問う。

 

「鏡宮様。素晴らしい制圧でした」

「ですが……肝心の『犯人』は、どこに?」

 

 現場の空気が、再び重く冷たいものへと変わった。

 

 千鶴は。

「…………」

 少しの間、沈黙して。

 

「……分かりまへん」

 と、忌々しそうに答えた。

 

 直哉は、ハッとした。

(え?)

 

 千鶴が、悔しそうに周囲を見回す。

 

 割れた窓ガラス。水たまりの水面。車のボディ。

 反射面は、この現場にもいくらでもある。

 

 でも。

 

「ここは、もうわたくしの目が届く場所やございません」

 

 《解く鍵》によって、地域単位で鏡宮のネットワークから切断されている。

 千鶴には。

 封印が外された瞬間、「あ、あそこの節点が切れた」という場所の特定まではできた。

 

 でも、その瞬間以降。

 この切断された空白地帯の『内部』で、犯人がどう動き、どこへ逃げたのかは、千鶴の目には一切見えていなかったのだ。

 

 直哉は、犯人の動きの意図を理解した。

 

 まず、《解く鍵》を使って、地域をネットワークから切断する。

 ↓

 千鶴の観測の目から、完全に隠れる。

 ↓

 その見えなくなった内側で、本命の封印へと接触する。

 ↓

 怪異を解放し、混乱を起こす。

 ↓

 その間に、悠々と逃走する。

 

 つまり。

 犯人は、最初に『千鶴の目を潰してから』仕事をしているのだ。

 

 レイジが、低く言った。

「……我々の能力の仕様を理解した上での、意図的な手順なのでしょうか」

 

 千鶴が、重く頷く。

「おそらくは」

 

 犯人側は、カトリックの秘奥を持っているだけではない。鏡宮家の観測網の仕組みと、その弱点を把握している可能性が高い。

 単に「京都の地理に詳しい」というレベルの話ではない。

 

 これで。

 千鶴側の京都の観測網には。今朝まではほぼ完全だったシステムに。

 

 現在、二つの『空白地帯』が存在していることになる。

 

 一つ目。最初に試験に使われた、小さな社の周辺。

 二つ目。今いる、怪異の封印の周辺。

 

 千鶴が、タブレットで京都の地図を開く。

 その二箇所だけが、彼女の感覚上は、真っ黒な『穴』として空いているのだ。

 

 霧島が、現実的な対応を問う。

 

「先ほどの場所と同様、この場所のネットワークの再接続にも、時間がかかるのですね?」

 

「ええ。もちろんです」

 

 しかも、今回は怪異の封印まで直接触られている。

 《結ぶ鍵》が使われて、何か厄介なものと接続されていないという保証もない。

 下手に強引に繋ぎ直して、変な呪いのプログラムまで京都の本体の結界へと流し込むわけには絶対にいかない。

 

 専門家による、現地での精密な調査。修復。安全確認。

 それらが終わるまで、この空白の穴は、すぐには塞がらないのだ。

 

 直哉は、少しだけ、この戦いの見方が変わっていた。

 

 つい数分前まで。

(この人一人でいいじゃん。俺いらないじゃん)

 と思っていた。

 

 実際、正面からバカ正直に『戦闘』をするだけなら、その通りかもしれない。

 

 でも。

 犯人は、最初から千鶴本人と正面から戦うつもりなど、微塵もないのだ。

 千鶴の圧倒的な強さを完全に迂回して。京都という巨大なシステムそのものを、外側から少しずつ確実に削り取っている。

 

 直哉は、内心で舌を巻いた。

(……なるほど。そういうことか)

(このバケモノみたいな当主に、無理して勝つ必要なんかないんだ)

(こいつの目を潰して、その見えない穴の中でだけ、コソコソ動けばいいんだから)

 

 直哉の脳裏に、一瞬。

(今こそ、千里を呼んで上空から探せば……!)

 という考えが浮かんだ。

 

 しかし。まだ空白の穴は、京都の中にたったの二箇所。

 範囲も狭い。犯人の顔も服装も分からない。

 千鶴も、見えないなら現地へ直接足を運べば、戦闘での対処自体は完璧にできる。

 

 だから、直哉はまだ決断しなかった。

 

 霧島も、冷静に指示を出す。

「現時点では、まずこの二箇所の空白地帯の調査と、修復を最優先としましょう」

 

 だが。

 最後に。

 

 千鶴が、地図に空いた二つの空白の穴を見て。

 ポツリと、静かに言った。

 

「……これ以上、この穴が、増えへんとよろしいんですけれど」

 

 直哉の内心は。

(いや、フラグ立てるな! これ絶対、穴だらけに増えていくやつじゃん!)

 と、激しくツッコミを入れていたが、当然口には出さなかった。

 

 千鶴が、強大な怪異をたった一人で無傷で鎮圧した現場。

 それなのに、犯人の姿は影も形もない。

 

 京都最強の守護者がいても。

 犯人は、その彼女の目の届かない『闇』を、確実に作り始めている。

 

 直哉は。

 さっきまでの、(この人一人でいいじゃん)という呑気な感想を思い出し。

 

 そして、静かに修正した。

 

(……いや。違うな)

 

(この人が一人で何とかできる単純な事件なら。そもそも、わざわざ東京から、俺のチームを京都まで呼んだりしてないよな)

 

 直哉の視線の先。

 地図にできた、二つの空白。

 

(これ、もし京都中が穴だらけに増えていったら……かなり、まずいことにならないか?)

 

 直哉は、自分が京都に呼ばれた本当の理由と、この事件の真の厄介さに、ようやく気がつき始めていた。




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